河俣神社(かわまたじんじゃ)は 『出雲国造神賀詞』に「事代主命(ことしろぬしのみこと)の御魂を宇奈提(うなて)に坐(ましま)す」と記され《式内社》髙市御県坐鴨事代主神社 大月次新嘗(たかいちの みあかたにます かものことしろぬしの かみのやしろ)に比定されます また《式内社》川俣神社三座 並大月次新嘗(かわまたの かみのやしろ)の論社でもあります
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
河俣神社(Kawamata shrine)
[通称名(Common name)]
装束の宮(しょうぞくのみや)
【鎮座地 (Location) 】
奈良県橿原市雲梯町689
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》鴨八重事代主命(かものやえことしろぬしのみこと)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
祭神 創始
出雲国造神賀詞〈延喜式 巻8〉に 大己貴命 国土を天孫に譲り 出雲に避けんとせらるるに臨み、子女の分魂を大和に留め 帝室の守護たらしめんと誓はれし語を述べて「事代主命(ことしろぬしのみこと)の御魂を宇奈提〈河俣神社〉に坐(ましま)す 賀夜奈流美命の御魂を飛鳥の社〈飛鳥坐神社〉に坐(ましま)す」とあり、これ即ち当社の創始にして事 既に紀元前にあり。
そのこれを 髙市御県坐鴨事代主社と称するは、雲梯の地 即ち高市縣の域内なりしを以ってなり。『大和志料(Yamato shiryo)』〈大正3年(1914)〉より
【由 緒 (History)】
『日本書紀〈養老4年(720)編纂〉』に 天武天皇元年(673)壬申の乱の時 三神の神託が記されます
高市社(たけちのやしろ)事代主神(ことしろぬしのかみ)〈現 河俣神社(橿原市雲梯町)〉と身狭社(むさのやしろ)生霊神(いくみたまのかみ)が 縣主にのりうつり神託
村屋神(むらやのかみ)が 神官にのりうつり神託 を下した
これにより 見事勝利された天武天皇は その三神の功績を讃え 神社として初めて位階を皇室から賜ったことが記されています
【境内社 (Other deities within the precincts)】
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式(Engishiki)』巻1 四時祭上 六月祭十二月准 月次祭
月次祭(つきなみのまつり)『広辞苑』(1983)
「古代から毎年陰暦六月・十二月の十一日に神祇官で行われた年中行事。伊勢神宮を初め三〇四座の祭神に幣帛を奉り、天皇の福祉と国家の静謐とを祈請した」
大社の神304座に幣帛を奉り 場所は198ヶ所と記しています
月次祭(つきなみのまつり)
奉(たてまつる)幣(みてぐら)を案上に 神三百四座 並 大社 一百九十八所
坐別に絹5尺 五色の薄絹 各1尺 倭文1尺 木綿2両 麻5両・・・・云々
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻2 四時祭下 新嘗祭
新嘗祭(にいなめのまつり)は
「新」は新穀を「嘗」はお召し上がりいただくを意味する 収穫された新穀を神に奉り その恵みに感謝し 国家安泰 国民の繁栄を祈る祭り
大社の神304座で 月次祭(つきなみのまつり)に准じて行われる
春には祈年祭で豊作を祈り 秋には新嘗祭で収穫に感謝する
【抜粋意訳】
新嘗祭(にいなめのまつり)
奉(たてまつる)幣(みてぐら)を案上に 神三百四座 並 大社 一百九十八所
座別に 絹5尺 五色の薄絹 各1尺 倭文1尺 木綿2両 麻5両四座置1束 八座(やくら)置1束 盾(たて)1枚 槍鉾(やりほこ)1竿
社別に庸布1丈4尺 裏葉薦(つつむはこも)5尺前一百六座
座別に 幣物准社の法に伹 除く 庸布を
右中 卯の日に於いて この官(つかさ)の斎院に官人 行事を諸司不に供奉る
伹 頒幣 及 造 供神物を料度 中臣祝詞(なかとみののりと)は 准に月次祭(つきなみのまつり)に
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
二つの式内社の比定社と論社となっています
⑴髙市御県坐鴨事代主神社(大月次新嘗)の比定社
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)大和国 286座(大128座(並月次新嘗・就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣))
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)髙市郡 54座(大33座・小21座)
[名神大 大 小] 式内大社
[旧 神社 名称 ] 髙市御県坐鴨事代主神社(大月次新嘗)
[ふ り が な ](たかいちの みあかたにます かものことしろぬしの かみのやしろ)(だい つきなみ にいなめ)
[Old Shrine name](Takaichino Miagatanimasu Kamonokotoshironushi no kamino yashiro)(Dai Tsukunami Niiname)
【原文参照】
⑵川俣神社三座(並大月次新嘗)の論社
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)大和国 286座(大128座(並月次新嘗・就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣))
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)髙市郡 54座(大33座・小21座)
[名神大 大 小] 式内大社
[旧 神社 名称 ] 川俣神社三座(並大月次新嘗)
[ふ り が な ](かわまたの かみのやしろ さんざ)(ならびにだい つきなみ にいなめ)
[Old Shrine name](Kawamata no kamino yashiro sanza)(Dai Tsukunami Niiname)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『延喜式』〈延長5年(927)〉巻八『出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)』に記される伝承
【抜粋意訳】
延喜式 巻8 神祇 祝詞 出雲国造神賀詞
「その時 大穴持命は 御自分の和魂を 倭の大物主なる櫛厳玉命と御名を唱え 大御和の社〈大神神社〉に坐(ましま)す
御自分の御子 阿遅須伎高孫根命(あぢしきたかひこねのみこと)の御魂を葛木の鴨の社〈高鴨神社〉に坐(ましま)す
事代主命(ことしろぬしのみこと)の御魂を宇奈提〈河俣神社〉に坐(ましま)す
賀夜奈流美命の御魂を飛鳥の社〈飛鳥坐神社〉に坐(ましま)す
〈御自分の和魂と三柱の御子神を〉皇御孫命〈天皇〉の守護神として置かれた
〈御自分は〉杵築宮〈出雲大社〉に坐(ましま)す」と記されます
【原文参照】
『出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)』に記される
大穴持命が〈御自分の和魂と三柱の御子神を〉皇御孫命〈天皇〉の守護神として置かれた4つの神社と御自分の鎮まる出雲大社について
⑴御自分の和魂祀る 大御和の社〈大神神社〉に坐(ましま)す
〈延喜式内社〉大和國 城上郡 大神大物主神社 名神大 月次相嘗新嘗
・大神神社(桜井市三輪)
大神神社(おおみわじんじゃ)は 『記紀神話』に創建に関わる伝承が記されており 『延喜式』には名神大社と所載される 大和国一之宮です 古来から本殿は設けず 拝殿の奥にある三ッ鳥居を通し 三輪山〈御神体〉に祈りを捧げる原初の神祀りで 我が国最古の神社と呼ばれています 神社の社殿が成立する以前の祭祀の姿を今に伝えています
大神神社(桜井市三輪)〈三輪山を〈御神体〉とする大和國一之宮〉
⑵御自分の御子 阿遅須伎高孫根命(あぢしきたかひこねのみこと)の御魂を葛木の鴨の社〈高鴨神社〉に坐(ましま)す
〈延喜式内社〉大和國 葛上郡 高鴨阿治須岐託彦根命神社四座 並名神大 月次相嘗新嘗
・高鴨神社(御所市鴨神)
高鴨神社(たかかもじんじゃ)は 阿遅志貴高日子根命(あじすきたかひこねのみこと)別名 迦毛之大御神〈かものおほみかみ〉を祀ります 記紀神話に 大御神と名のつく神は 天照大御神 伊邪那岐大御神と同神の三神のみ 死した神々をも甦えらせる御神力の強き神で『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の大和國 葛上郡 高鴨阿治須岐託彦根命神社四座 並名神大 月次相嘗新嘗とされます
高鴨神社(御所市鴨神)
⑶事代主命(ことしろぬしのみこと)の御魂を宇奈提〈河俣神社〉に坐(ましま)す
〈延喜式内社〉大和國 高市郡 高市御縣坐鴨事代主神社 大
・河俣神社(橿原市雲梯町)
河俣神社(かわまたじんじゃ)は 『出雲国造神賀詞』に「事代主命(ことしろぬしのみこと)の御魂を宇奈提(うなて)に坐(ましま)す」と記され《式内社》髙市御県坐鴨事代主神社 大月次新嘗(たかいちの みあかたにます かものことしろぬしの かみのやしろ)に比定されます また《式内社》川俣神社三座 並大月次新嘗(かわまたの かみのやしろ)の論社でもあります
河俣神社(橿原市雲梯町)
⑷賀夜奈流美命の御魂を飛鳥の社〈飛鳥坐神社〉に坐(ましま)す
〈延喜式内社〉大和國 高市郡 飛鳥坐神社四座 並名神大 月次相嘗新嘗
・飛鳥坐神社(明日香村飛鳥)
飛鳥坐神社(あすかにいますじんじゃ)は 『延喜式927 AD.』巻八『出雲国造神賀詞』に「大穴持命が 賀夜奈留美命を飛鳥の神奈備に坐せて 皇孫命の近き守り神にした」とある伝承の社で『延喜式神名帳』所載の大和國 高市郡 飛鳥坐神社 四座(並名神大 月次 相嘗 新嘗)(あすかにます かみのやしろ しくら)とされます
飛鳥坐神社(明日香村飛鳥)
・酒船石(明日香村岡)〈飛鳥坐神社 旧鎮座地〉
一緒に読む
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酒船石(明日香村岡)〈飛鳥坐神社 旧酒殿跡〉
酒船石(さかふねいし)は 長さ約5.5m 幅約2.3m、厚さ約1mの大きさで 上面に丸いくぼみ それにつながる溝が直線で刻まれています 飛鳥坐神社の旧酒殿跡とも御旅所跡とも 飛鳥山口坐神社の旧鎮座地とも云われます 第37代 斉明天皇が 豊穣の祈願などさまざまな祭祀をここで行ったともされますが 用途は不明です
⑸〈御自分は〉杵築宮〈出雲大社〉に坐(ましま)す
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酒船石(明日香村岡)〈飛鳥坐神社 旧酒殿跡〉
酒船石(さかふねいし)は 長さ約5.5m 幅約2.3m、厚さ約1mの大きさで 上面に丸いくぼみ それにつながる溝が直線で刻まれています 飛鳥坐神社の旧酒殿跡とも御旅所跡とも 飛鳥山口坐神社の旧鎮座地とも云われます 第37代 斉明天皇が 豊穣の祈願などさまざまな祭祀をここで行ったともされますが 用途は不明です
〈延喜式内社〉出雲國 出雲郡 杵築神社 名神大
・出雲大社(出雲市)
出雲大社(いずも おおやしろ)は ”遠き神代に 国を譲られた”「大国主大神(おほくにぬしのおほかみ)」の偉業と その誠に感謝なさって 「天神(あまつかみ)」が 天日隅宮(あめのひすみのみや)を献上されたことに始まるとされています
出雲大社(出雲市)【前編】
詳しくは
出雲國造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)について
出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷に於いて 出雲国造が 新たにその任に就いた時や 遷都など国家の慶事にあたって 朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています
出雲國造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)について
壬申(じんしん)の乱(673年)について
大海人皇子(おおあまのみこ)
『日本書紀』によるプロフィール
・ のちの天武天皇
・ 生まれながらに容姿端麗(ようしたんれい)、武術に優れていた
・ 『日本書紀』と『古事記』の編纂(へんさん)を命じた
・ 律令制の礎(いしずえ)を築いた「白村江(はくすきのえ)の戦い」の後、都は近江(おうみ)へ。中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は天智天皇として即位し絶大な権力を持ちました。しかし、その後、病に倒れてしまい皇位継承者として有力だった弟・大海人皇子と子・大友皇子の間で跡継ぎ争いが起こりました。これが古代最大の内乱と言われる「壬申の乱」です。
大海人皇子は容姿端麗で、武術にも優れていたため、天智天皇も大海人皇子に自分の跡を継ぐように伝えていました。しかし、大友皇子を次の天皇にしようという動きがあることを知った大海人皇子は、天智天皇の言葉を疑い、病気を理由に辞退します。そして、皇位を引き継ぐ意志がないことを示すため、出家して吉野へと向かいました。天智天皇の崩御後、政権を手にした大友皇子は天智天皇の陵(みささぎ)(お墓)を造ると言いながら、農民に武器を持たせ、吉野への道のあちこちに監視を置きました。
この動きを知った大海人皇子は立ち向かうことを決意します。吉野を出て地方の豪族を味方につけながら兵力を強化し、各地で大友皇子との戦いを繰り広げました。戦いは現在の岐阜県にまで及びましたが、近江の瀬田川(せたがわ)での決戦を制して大海人皇子が勝利し、飛鳥の都(飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや))で天武天皇として即位します。
奈良県庁広報広聴課公式HP https://www.pref.nara.jp/49040.htm
{県民だより奈良 平成30年1月号「歴史体感日本書紀」}より
天武天皇 元年(673)壬申の乱の時 三神の神託について
『日本書紀〈養老4年(720)編纂〉』に記される
天武天皇元年(673)壬申の乱の時 三神の神託は
①高市社(たけちのやしろ)事代主神(ことしろぬしのかみ)
➁身狭社(むさのやしろ)生霊神(いくみたまのかみ)が 縣主にのりうつり神託
➂村屋神(むらやのかみ)が 神官にのりうつり神託 を下した
これにより 見事勝利された天武天皇は その三神の功績を讃え 神社として初めて位階を皇室から賜ったことが記されています
“三神の神託”の現在の論社について
①高市社(たけちのやしろ)事代主神(ことしろぬしのかみ)
《式内社》大和國高市郡 高市御縣坐鴨事代主神社(大月次新嘗)
論社 河俣神社(かわまたじんじゃ)
・河俣神社(橿原市雲梯町)
河俣神社(かわまたじんじゃ)は 『出雲国造神賀詞』に「事代主命(ことしろぬしのみこと)の御魂を宇奈提(うなて)に坐(ましま)す」と記され《式内社》髙市御県坐鴨事代主神社 大月次新嘗(たかいちの みあかたにます かものことしろぬしの かみのやしろ)に比定されます また《式内社》川俣神社三座 並大月次新嘗(かわまたの かみのやしろ)の論社でもあります
河俣神社(橿原市雲梯町)
➁身狭社(むさのやしろ)生霊神(いくみたまのかみ)
《式内社》大和國高市郡 牟佐坐神社(大月次新嘗)
論社 牟佐坐神社(むさにますじんじゃ)
論社 生國魂神社(いくくにたまじんじゃ)
・牟佐坐神社(橿原市見瀬町)
牟佐坐神社(むさにますじんじゃ)は 中世の『五郡神社記』旧記によると 第20代 安康天皇の御代 霊夢を受けた 牟佐村主青(ムサノスグリアオ)が「生雷神」を祀り創祀し 子孫を祝部としたと記しています 『延喜式神名帳(927年編纂)』所載 大和国 髙市郡 牟佐坐神社(大月次新嘗)(むさにます かみのやしろ)とされます
牟佐坐神社(橿原市見瀬町)
・生國魂神社(橿原市大久保町)
生国魂神社(いくくにたまじんじゃ)は 旧鎮座地《丸山宮址》は 畝傍山の北麓に近い中腹〈こちらが本来の神武天皇陵であるかもとの説あり〉に鎮座されていたが 大正9年(1920)現在地に遷座『延喜式神名帳(927年編纂)』に所載 大和国 髙市郡 牟佐坐神社(大月次新嘗)(むさにます かみのやしろ)の論社とされます
生國魂神社(橿原市大久保町)
➂村屋神(むらやのかみ)
《式内社》大和國城下郡 村屋坐弥富都比賣神社(大月次相嘗新嘗)
論社 村屋坐彌冨都比賣神社(むらやにますみふつひめじんじゃ)
・村屋坐彌冨都比賣神社(田原本町蔵堂)
村屋坐彌冨都比賣神社(むらやにますみふつひめじんじゃ)は 祭神は大物主命の妻神 三穂津姫命で 大神神社の別宮とされます 壬申の乱(673)の時には 村屋神が 天武天皇を勝利に導く神託を下し 神社として初めて位階を皇室から賜りました《式内社》大和國 城下郡 屋坐彌冨都比賣神社(大月次相嘗新嘗)(むらやにます みふつひめの かみのやしろ)です
村屋坐彌冨都比賣神社(田原本町蔵堂)
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
神武天皇陵のある畝傍山の西には 高取川と曽我川の二流があり その合流地点から 曽我川の堤を1km程南下した所に 曽我川に架かる戒智橋があり その東岸に社頭があります
向かって右手には 曽我川が流れ 社頭の左手には大きな社号標「河俣神社」
河俣神社(橿原市雲梯町)に参着
一礼をして鳥居をくぐります
参道を進むと 玉垣に囲われた境内があり 二の鳥居が建ちます
境内は 緑多く木々に包まれ 参道の左手に手水舎があり 清めます
参道の木漏れ日の先に社殿があり 瓦屋根の拝殿が建ちます
拝殿にすすみます
拝殿の扉を開き
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿内から奥を見ると 瑞垣の内に本殿が祀られています
拝殿内の中央の絵馬は 〈右〉不明〈中央〉神功皇后と〈左〉武内宿祢命だろうか この神社に 八幡信仰があったのだろうか
社殿に一礼をして 参道を戻ります
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『万葉集(Manyo shu)〈7世紀前半~759年頃〉』に詠まれる歌
河俣神社は 古代には 雲梯の杜(うなてのもり)と称された
歌には「真鳥住む雲梯の杜〈鷲が住む雲梯(うなて)の神社〉」と「菅(すげ)」の表現があり 鷲〈真鳥〉が棲むような大木が鬱蒼とした森の中に 菅(すげ)草の生える水路や川堤があったのであろうと想われます
境内の案内板では〈真鳥〉を鷺(さぎ)と記しています
【抜粋意訳】
巻第7 1344番歌 寄草 作者不詳
訓読 真鳥住む雲梯の杜の菅の根を衣にかき付け着せむ子もがも
かな まとりすむ うなてのもりの すがのねを きぬにかきつけ きせむこもがも
意訳 鷲が住む雲梯(うなて)の杜〈神社〉 その菅(すげ)の根を衣に摺り付け着せるやさしい子がいたらなあ
【抜粋意訳】
巻第12 3100番歌 寄物陳思 作者不詳
訓読 思はぬを思ふと言はば真鳥住む雲梯の杜の神し知らさむ
かな おもはぬを おもふといはば まとりすむ うなてのもりの かみししらさむ
意訳 〈あなたを本心からお慕いしていないのに〉思ってもいないのに思っていると言えば 鷲が住む雲梯(うなて)の杜〈神社〉の神様が 見通して神罰をくだされることでしょう
【抜粋意訳】
巻第12 3087番歌 寄物陳思 作者不詳
訓読 ま菅よし宗我の川原に鳴く千鳥間なし我が背子我が恋ふらくは
かな ますげよし そがのかはらに なくちどり まなしわがせこ あがこふらくは
意訳 菅(すが)が多く生えている曽我(そが)の川原 その川原で私はあなたへ恋い焦がれる やむこともなく 鳴く千鳥のように
【原文参照】
『古事記(Kojiki)〈和銅5年(712)編纂〉』 に記される伝承
【抜粋意訳】
大国主神(おおくにぬしのかみ)系譜の段
大国主神(おおくにぬしのかみ)が
胸形(むなかた)〈宗像〉の奥津宮(おきつみや)に坐(ましま)す 多紀理毘売命(たきりびめのみこと)を娶り産んだ子は
阿遅鋤高日子根神(あぢしきたかひこねのかみ)
次に妹の高比売命(たかひめのみこと) 亦名(またのな)は 下光比売命(したてるひめのみこと)
阿遅鋤高日子根神(あぢしきたかひこねのかみ)は 今は 迦毛大御神(かものおほみかみ)と申す神なり大国主神(おおくにぬしのかみ)が
神屋楯比売命(かむやたてひめのみこと)を娶り産んだ子は 事代主神(ことしろぬしのかみ)
【原文参照】
『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』に記される伝承
天武天皇元年(673)壬申の乱の時 三神の神託が記されます
高市社(たけちのやしろ)事代主神(ことしろぬしのかみ)と身狭社(むさのやしろ)生霊神(いくみたまのかみ)が 縣主にのりうつり神託
村屋神(むらやのかみ)が 神官にのりうつり神託 を下した
これにより 見事勝利された天武天皇は その三神の功績を讃え 神社として初めて位階を皇室から賜ったことが記されています
【抜粋意訳】
第二十八巻 天武天皇 上 元年(673)七月 神の神託 の段
事代主神(ことしろぬしのかみ)生霊神(いくたまのかみ)村屋神(むらやのかみ)これより先に 金綱井(かなづなのい)に軍を集結した時 高市郡大領(たけちのこおりのこおのみやつこ)の高市県主許梅(たけちのあがたぬしこめ)は にわかに ロをつぐんで 言うことが出来なくなった。
三日の後 神著(かみがかり)になって言うには
「吾は高市社(たけちのやしろ)〈河俣神社〉に居る 名は事代主神(ことしろぬしのかみ)
又 身狭社(むさのやしろ)〈牟佐坐神社〉〈生國魂神社〉に居る 名は生霊神(いくみたまのかみ)なり」と言うと 顕(あらこと)〈神意を明らかとする〉をいう
「神日本磐余彦天皇(かむやまといわれびこのすめらみこと)〈神武天皇〉の陵(みささぎ)〈陵墓〉に 馬と種々の兵器を奉れ」と言ったまた言われるには
「吾は 皇御孫命(すめみまのみこと)〈天皇〉の前後(みさきしり)に立ち 不破(ふわ)に送り奉り帰った 今もまた 官軍の中に立って 守護している」
また
「西道(にしのみち)から軍衆(いくさびとども)〈兵隊〉が到る 慎重にせよ」
言い終わると 目が醒めたそこで すぐに許梅(こめ)を遣わし 御陵(みささぎ)〈陵墓〉を祭り拝ませ 馬と兵器を奉った
また幣(みてぐら)を捧げ 高市(たけち)身狭(むさ)の二社(ふたやしろ)の神に礼祭(れいさい)をしたそうして後 壱岐史韓国(いきのふびとからくに)が 大坂(おほさか)から来襲した
時の人々は言う
「二社(ふたやしろ)の神が 教えたる所の辞(ことば) 適(まこと)にこれのことなり」又 村屋神(むらやのかみ)〈村屋坐弥冨都比売神社〉も 祝(はふり)〈神官〉に神憑(かみがか)り
「今 吾社(わがやしろ)の中道(なかのみち)より 軍衆(いくさびとども)〈兵隊〉が到る 社(やしろ)の中道(なかのみち)を塞げ」と言われた何日かで 廬井造鯨(いおいのみやつこくじら)の軍が 中道(なかのみち)から襲来した
時の人々は言う
「すなわち 神の教えられた言葉は これであった」
軍(ぐん)の政(まつりごと)が 既に終わったのち 将軍たちは この三神の教えられたことを天皇に奏上したところ すぐに三神の品〈神階〉を登進(あげて)勅(みことのり)されて 祠を祀られた
【原文参照】
『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
京畿七道の諸神267社が記され その名で大和国の上位の神々と共に 神階の奉授が記されています
【意訳】
貞観元年正月27日甲申の条
京畿七道の諸神に進む階(くらいを)及び 新たに叙(のべる)惣(すべ)て267社なり
奉授
大和国(やまとのくに)
従一位 大己貴神(おほあなむちのかみ)に 正一位正二位 葛木御歳神(かつらきのみとしのかみ)
従二位勲八等 鴨阿治須岐宅比古尼神(かもあじすきたかひこねのかみ)
従二位 高市御縣鴨八重事代主神(たかいちみあがたのやえことしろぬしのかみ)
従二位勲二等 大神大物主神(おおみわのおおものぬしのかみ)
従二位勲三等 大和大国魂神(おほやまとおほくにたまのかみ)
正三位勲六等 石上神(いそのかみのかみ)
正三位 高鴨神(たかかものかみ) に並びに 従一位・・・
【原文参照】
『大和名所図会(Yamato Meisho Zue)』〈寛政3年(1791年)刊〉に記される伝承
所在を 高殿(たかとの)村〈現 藤原宮跡地内 鴨公神社跡か?〉と記しています
【意訳】
鴨事代主神社(かものことしろぬしのじんじゃ)
高殿(たかとの)村にあり 今 大宮と称し 鴨公森
天武天皇元年 高市郡大領 高市縣主許梅に神託あり・・・
【原文参照】
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
所在は 雲堤村 と記しています
【抜粋意訳】
髙市御県坐鴨事代主神社(大月次新嘗)
(たかいちの みあかたにます かものことしろぬしの かみのやしろ)
三実 貞観元年正月二十七日 従二位 高市御縣鴨八重事代主神 従一位
旧事紀 都味歯八重事代主神 坐に倭國 高市郡 高市社 亦曰 甘南備 飛鳥社
出雲國造神賀 事代主命 能 御魂 乎 宇奈堤に坐
和抄 雲梯 宇奈堤
万葉 真鳥住 卯名牛之神社
〇今在 雲堤村
〇高殿村にあり 今称すに大宮 又名 鴨公森
書記 天武紀元年 神託 高市郡大領 高市縣主許梅 言云々 可参考
古事記伝 十一 六十五ワ 神南備神社これなり
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
所在は 高殿村〈現 藤原宮跡地内 鴨公神社跡か?〉と記し 日本書紀・天武天皇元年(673)壬申の乱の時 三神の神託が記されます ています
【抜粋意訳】
髙市御県坐鴨事代主神社(大月次新嘗)
高市は郡名に同じ、御懸は美阿賀多、鴨事代主は加茂古止之呂奴志と訓べし、
〇祭神明か也
○高殿村に在す、今大宮と称す、又名鴨公森、大和志、同名所図会、
〇旧事紀、地神本紀 都味歯八重事代主神、坐ニ 倭国 高市郡 高市社、亦云 甘南備飛鳥社、」
日本紀、天武天皇元年七月庚寅朔壬子、先是、軍ニ金綱井之時、高市郡大領 高市縣主許梅、篠忽口閇而不能言也、三日之後、方著神以言、吾者高市社所居、名事代主神也、又捧幣而礼祭高市身狭二社之神、然後、壹伎史韓國自大坂來、故時人曰、二社神所教之辞適是也、軍政既訖、將軍等挙是三神 三神は高市、身狭、村屋をいふ也、 教言而奏之、即勅登進三神之品以祠焉
神位
三代實録、貞観元年正月二十七日甲申、奉授 大和國 從二位 高市御縣鴨八重事代主神 從一位、
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
『神社覈録』に所在が 高殿村〈現 藤原宮跡地内 鴨公神社跡か?〉と記されているが 高殿村が何処にあるのか不明と記しています
【抜粋意訳】
髙市御県坐鴨事代主神社(大月次新嘗)
(たかいちの みあかたにます かものことしろぬしの かみのやしろ)祭神 鴨八重事代主命(かものやえことしろぬしのみこと)
今按〈今考えるに〉
旧事紀 都味歯八重事代主神 坐ニ 倭国 高市郡 高市社 また
出雲国造神賀詞に 事代主命 能 御魂 乎 宇奈堤に坐 とふるは即ち この神社を云るなり神位
清和天皇 貞観元年正月二十七日甲申 奉授 大和國 從二位 高市御縣鴨八重事代主神 從一位祭日 九月三日
所在 雲梯村 字宮脇
(覈録には高殿村とあり 明細帳には雲梯村字宮脇には 河俣神社あり 川俣神社は下に所見あり 同村なれども字異なりて突合せす 高殿村は明細帳に無格 春日神社とあるも見えず 十四年 郡区町村一覧にも大和國中に見えず とにかく本社の所在 探れ得ず 高市郡に法花寺 高殿村別所村と次第して記載せり)
【原文参照】
『大和志料(Yamato shiryo)』〈大正3年(1914)〉に記される伝承
高殿村〈現 藤原宮跡地内 鴨公神社跡か?〉を所在とする書物もあるが 正しい所在は 雲梯村である と記しています
【抜粋意訳】
髙市御県坐鴨事代主(たけち みあがたにます かものことしろぬし)神社
延喜式神名帳に見ゆ。
大和志に「在に 高殿村 今称に大宮 又の名に鴨公森(かもくのもり)」とあれども、神名帳考証に「今在に雲梯村」とあるを以って正となすべし。説下に詳なり。
金橋村大字雲梯 宮脇に川俣王子と称する社あり。川俣の称呼に因り これを式内 川俣神社となし、現に村社たりと雖(いえど)も、式内 川俣の社名に飛鳥川と細谷川との交会にありしより起こり、この川俣王子は重坂川と檜前川 即ち土佐川 との交会の所なるに由れる名称にして彼ここの処を異にせり。
川俣王子は 古木像を神体となし、衣冠の制 頗(すこぶ)る古し。これ即ち事代主神の影像にして 高市御縣社なるべし。雲梯は出雲国造神賀詞に「事代主命 能 御魂 乎 宇奈堤に坐(ことしろぬしの みたま うなてに ませ)」と言へる処にして、神地を宇奈堤社(うなてのやしろ)と称し名勝たり。宇奈堤・雲梯共に溝(うなて)の假字にして 即ち 社辺の川を言う。故に 古歌に眞鳥住(まとりすむ)と詠ぜり。
万葉集
おもはぬを想ふといはば眞鳥住む 卯名手杜(うなてのもり)の神し知らさむ祭神 創始
出雲国造神賀詞に 大己貴命 国土を天孫に譲り 出雲に避けんとせらるるに臨み、子女の分魂を大和に留め 帝室の守護たらしめんと誓はれし語を述べて「事代主命(ことしろぬしのみこと)の御魂を宇奈提〈河俣神社〉に坐(ましま)す 賀夜奈流美命の御魂を飛鳥の社〈飛鳥坐神社〉に坐(ましま)す」とあり、これ即ち当社の創始にして事 既に紀元前にあり。
そのこれを 髙市御県坐鴨事代主社と称するは、雲梯の地 即ち高市縣の域内なりしを以ってなり。
五郡神社記に 雲梯神社、神名帳云。大和國 高市郡 髙市御県坐鴨事代主神社。在に雲梯村神森。社家者 長柄首 曰。旧記曰。神代 積葉八重事代主命 依に経津主神の教えに化為り水鳥昇る上雲天に於いて是を得たり 鴨事代主命之号。〈事代主命は 高皇産霊尊から 八万四千の邪鬼を統率する大将軍となり 皇孫を守護せよと命をうけ 雲梯(くものかけはし)を降り 高市県に至り そこを雲梯(うなて)と呼び 後 そこに祭祀場を立てた〉・・・・・・・」と見ゆ。
その「化為り水鳥」といひ。宇奈提を雲梯の字に依り 久毛乃加介波志(くものかけはし)と訓じ、これに歩降して高市縣に至ると云うが如きは例の巫祝者流の付会に係り、固より信ずるに足らずといえども、その雲梯社の高市御縣坐社にして 即ち神賀詞に所謂 宇奈提乃神奈備なるべき確かむるの証佐となすに余りありと言うべし。
大神分身類社鈔には 当社の事を「高市御縣坐神社一座 大和國高市縣 亦曰 甘南備近飛鳥社 大月次新嘗」と記せり。
これに依れば 古、甘南備近飛鳥社(かむなび ちかつ あすかのやしろ)とも称せしなり。甘南備は宇奈提の神奈備に取り、近飛鳥は鳥形山の飛鳥社を遠飛鳥社とも称するものなり。以上 遠ぶる所によれば、髙市御県坐鴨事代主社は 即ち宇奈提の神奈備にして、古これを雲梯神社とも甘南備近飛鳥社とも称せしこと 昭昭として復た号を容るべからず。
然るに本居宣長氏の出雲神賀詞を解するや、神名帳に賀夜奈流美命社見ゆるも雲梯神社と称するものを載せざるにより 疑を神賀詞に容れ、終に その文句を顛倒し「事代主命の御魂を飛鳥の神奈備に坐す賀夜奈流美命の御魂を宇奈提に坐す」の錆簡ならんと云へり。
神社覈録 亦これによられたれども太だ謬れり。五郡神社記を案ずるに賀夜奈流美命は既に飛鳥に祭られ、事代主命は神賀詞原文の如く雲梯にあるも、但つ延喜式に載する各種の祝詞中会て錯簡あるを見ず、獨神賀詞のみ 之ありとするは僻見と言うべし、必覚するに五郡神社記を読まざるに坐するのみ。神階
日本書紀曰 天武天皇元年秋七月〈三神の神託〉・・・」と。
神社に位階を授くるの国史に見ゆるもの 実に之を以って始めとなす。
【原文参照】
河俣神社(橿原市雲梯町)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
大和国 式内社 286座(大128座(並月次新嘗 就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)について に戻る
大和国(やまとのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 大和國の286座(大128座(並月次新嘗 就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)の神社のことです
大和国 286座(大128座(並月次新嘗就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)