川會神社(かはあいじんじゃ)は 海の底の神〈底津綿津見命〉を祀り 遠い昔 ここ安曇野は山に囲まれた一面の湖だったと云う真実を 時を超えて 私達に伝えています 民話『泉小太郎』は 山を破り 湖の水を抜き あらわれた湖底が やがて里を潤う田となります 人々は遠い神代から 現在まで神に感謝を捧げています
ご紹介(Introduction)
【神社名】(shrine name)
川會神社(kahaai shrine)
かはあいじんじゃ
【通称名】(Common name)
川会神社 kawaai shrine
【鎮座地】(location)
長野県北安曇郡池田町会染12079
【地 図】(Google Map)
【延喜式神名帳】 「旧国名 郡 ・ 神社名」
(927年12月完成) The shrine record was completed in December 927 AD.
【engishiki jimmeicho】「old region name・shrine name」
信濃國 安曇郡 川會神社
shinano no kuni azumi gun kahaai no kaminoyashiro
【御祭神】(God's name to pray)
《主》 底津綿津見命(soko tsu watatsumi no mikoto)
【御神格】(God's great power)
・厄災除け Prayer at an age considered a milestone in life
・五穀豊穣 Pray for good harvest
・地域安全 Regional security
・等 etc
【格式】(Rules of dignity)
延喜式内社(engishiki naisha)
【創建】(Beginning of history)
社伝によれば 第12代景行天皇(keiko tenno)御代12年の 創建
【由緒】(history)
信濃寶鑑
長野縣信濃國北安曇郡會染村 字
十日市場 鎮座式内 村社 川會神社 来由書
祭神 底津綿津見命本社は 景行天皇12年の草創にして 延喜式内 名神小ノ社たり
始めは 高瀬川と木崎湖より出でたる農具川との落合に鎮座在りし を以って 川會神社と称し 後世 亦 島の宮大明神とも尊稱したり抑々この地に 底津綿津見命を奉齋せるは 其御子 穂高見命 南安曇郡 穂高神社式内 名神大の位なる
安曇宿袮が 祖先敬慕の念より出でたるものにして 郡中 僅に本社のみ延喜式内の神社たるを思ヘば 其 来由の深くして 且 旧社たるを知る可きなり殊に平城天皇の大同年中 坂上田村麿 東夷征伐の砌 この島の宮に陣して 中房の鬼賊を退治し 速に其効を奏せるを喜び 深く神徳を感銘して 社殿を改築したり
然るに 天永元年 高瀬川の激流 水層を増し社地流没せるを以って 永久3年9月社を 河東に遷して 崇敬渝る事なかしりが甲州の大守 武田信玄 兵を信濃ヘ入るるや 本村 亦 戦闘の巷となりて 爲に 社頭類 亡したりしすば旧記 什宝 悉く 灰燼に帰して 来由の詳細を欠くに至り
又 後再建ありしを 天明年度の洪水に社地 亦 欠流に及べるを以って 現地ヘ奉遷したりしが 今地字に古宮称あるは 其 旧蹟なりとす
然して本社は 高瀬川沿岸にありて老松翠理 千木高知りて 並木の間より 西有明山の奇勝を望む幽遠の境真に清々し社域に碑あり 香川景樹ノ高弟内山真弓ノ和歌を刻す志きしまの道ハ あまりにひろければ
「拝殿横 掲示板」から参照(原文カタカナをひらがな文体に変更)
道ともしらて 人や行くらん
【境内社】(Other deities within the precincts)
諏訪社・戸隠社・秋葉社・八幡社・天満宮・大神宮 等
【この神社の予備知識】(Preliminary knowledge of this shrine)
社伝によると 第12代景行天皇(keiko tenno)の御代12年の創建
社名の由来は 高瀬川と農具川(木崎湖より流れ出る)との合流するこの地に 鎮座するので「川會神社(kahaai shrine)」と称したと伝わり 江戸時代は「島の宮大明神」と呼ばれていた
第51代 平城天皇(heizei tenno)の御代 大同年中(806~810年) 坂上田村麻呂(sakanoe no tamuramaro)が東夷征伐した時 「島の宮」に陣して「中房の鬼賊を退治」できた神徳に感謝して 社殿を改築したと伝わります
その後
天永元年(1110)高瀬川が 氾濫して 社地が流水没
永久3年(1115)神社を高瀬川の東「字名で古宮という地」に遷座し
戦国時代に 甲斐の武田信玄が 信濃へ攻め入り 戦禍で社屋が焼失 社宝や古文書などの類をすべて失う 由緒の詳細はわからなくなった
その後 再建するが
天明年度(1781~1788年)洪水で社地がまたも流失 現在地に遷座する
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
鎮座地は かつて「中州の島」だった?
この鎮座地辺りは「島の宮」or「島の宮大明神」とも呼ばれていたので 川の合流点にあった「中州の島」だったのでしょうか?
創建の様子を知る上で 地誌があり 次のように
『仁科濫觴記(nishina ranshoki)』には
※古代の仁科氏の歴史が「第10代 崇神天皇(すじんてんのう)の御代」~「弘仁(konin) 810年~824年」までのおよそ1000年間つづられている 著者は不明 制作年代(平安時代初期~江戸時代の完成)
川會神社の創建について
『 水が流れて 澤はやがて 川となり 檜から木を取り會となり
遠音太川に挟まれて この社は建てられ「川會神社」と後に 名付けられたという 』安曇の古代 : 仁科濫觴記考(仁科宗一郎 著)
「川會神社(kahaai shrine)」の御祭神について
ところで この「川會神社(kahaai shrine)」の御祭神は「底津綿津見命(soko tsu watatsumi no mikoto)」で あまり聞きなれないかもしれません
この神は 古代日本の創世記に 非常に重要な役割を果たした「阿曇氏(azumi uji・安曇氏)」が 祖神として 祀る神です
「阿曇氏(azumi uji・安曇氏)」は 対馬 福岡などの玄界灘を制海権として 大陸との交易などを支配し 古代日本の歴史の始まりを造ったとする 代表的な「海人族(watatsumi zoku・ama zok)・海人部(ama be)」でした 奴国の王族でもあったともされます
「安曇(azumi)」の語源は 「海(ama)に住(tsu)む人」の意味ともいわれ 「海人津見(ama tsu mi)」が転訛したと伝わります
九州北部で 古代の「安曇氏(azumi uji)」が 祀っていた神様は「三柱の綿津見神(watatsumi no kami)」です
九州北部と長野県の安曇野では 同じ神が祀られていいることになります
『古事記(kojiki)』に記載されている「三柱の綿津見神(watatsumi no kami)」について
【原文】
此三柱綿津見神者、阿曇連等之祖神以伊都久神也。伊以下三字以音、下效此。故、阿曇連等者、其綿津見神之子、宇都志日金拆命之子孫也。
意訳
『この三柱の綿津見神(watatsumi no kami)について
阿曇連(azumi no muraji)らは 綿津見神(watatsumi no kami)の子 宇都志日金拆命(utsushihi kanasaku no mikoto)の子孫なり 』 と記されています
「三柱の綿津見神(watatsumi no kami)」は
・底津綿津見神(sokotsu watatsumi no kami)/底津少童命(sokotsu watatsumi no mikoto)
・中津綿津見神(nakatsu watatsumi no kami)/中津少童命(nakatsu watatsumi no mikoto)
・表津綿津見神(uwatsu watatsumi no kami) /表津少童命(uwana katsumi no mikoto)
延喜式神名帳からの考察をすると
直ぐ近くに 名神大社の「穂高神社(hotaka shrine)」があります
御祭神は 阿曇連(azumi no muraji)の祖神とされる「穗高見命(hotakami no mikoto)=宇都志日金拆命(utsushihi kanasaku no mikoto)」を祀っています
「川會神社(kahaai shrine)」の御祭神は
「底津綿津見命(soko tsu watatsumi no mikoto)」ですので「穂高神社(hotaka shrine)」の御祭神の親神を祀っていることになります とても重要な神社であったとわかります
しかも「延喜式内社(engishiki naisha)」の分布をみると
信濃國 安曇郡(shinano no kuni azumi gun)には この2社があるのみです 安曇の地は「安曇氏(azumi uji)」が治めていた地域で その最も大切な氏神を祀っていたという事がわかります
しかし 当社では 「三柱の綿津見神(watatsumi no kami)」の内「底津綿津見命(soko tsu watatsumi no mikoto)」の1柱だけが祀られている??? 謎が残ります [これは後述]
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1442211/160画像より
国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 : 校訂. 上巻(昭和4至7)
信濃國と阿曇族について
酒井春人氏の研究に詳しいので ご紹介します
〔酒井春人 1949年 長野市生まれ 早稲田大学第一文学部卒 1993 年龍鳳書房を設立現在代表取締役〕2015年7月
知られざる日本古代史②『海人族安曇族と古代日本列島』安曇族研究会会員 酒井春人 より抜粋
【抜粋意訳】
安曇族の祖神は綿津見神
前号で福岡県の志賀海神社の祭神が、綿津見三神 (表津•仲津・底津 )の海神であることをご紹介した。安曇族はこの綿津見神を祖神とすると言われている。
・・・
・・・全国に刻された安曇族の足跡
安曇族の痕跡は、日本全国に三十数か所あると言われている。今のところ、地名あるいは綿津見系の神社の鎮座地、苗字、地域の伝説などからその関係地を割り出す作業が行われている。
・・・
・・・
その成果を紹介すると、安曇族の本拠地は福岡県の玄界灘を望む志賀島。前号で紹介したように、中国春秋時代の呉国の人々が、紀元前五世紀後半に越との戦争に負けて、海に逃亡し、北部九州、あるいは対馬、毫岐、さらには朝鮮半島の南部にたどり着いたと考えられる。この時、大海を渡る操船の技術を持つ海人族である呉の人々 (安曇族)は、呉の農民や各種技術者を古代日本列島に入植させ、生活の面倒をみたと前述した。
安曇族は、巧みな操船の技術を駆使して、日本海側を北上、日本各地にその痕跡をとどめる。前記米子市の上下安曇、石川県羽咋郡志賀町安津見、滋賀県高島市安曇川町、新潟県岩船郡関川村安角、山形県鶴岡市温海などがその関係地ではないかと考えられる。いずれもこれら関係地には、近くに大きな河川があり、日本海に注いでいる。
長野県の安曇族
こうした全国の安曇族関係地の中でも長野県は、本拠地福岡を凌ぐ第二の安曇族の故郷ではないかと言われているほど、その痕跡が色濃いところである。
まず、穂高神社のある安曇野市は多くの人が知るところだが、以外と知られていないのが、川中島平と佐久平。・・・
すると、安曇族はどのルートを使って、信州に入ってきたのだろうか。考えられるのは信濃川ルー卜である。信濃川から千曲川を経由して入り込むことは、そうむずかしいことではない。・・・
・・・【原文参照】詳しくは原文をお読みください
『千曲川地域の人と文化 2015年7月』より抜粋
https://ueda.zuku.jp/journal/2015.7.pdf
『小学国史教授用郷土史年表並解説』〈昭和12年(1937)〉に記される「阿曇氏の祖 早くより信濃に入る」より
信濃國に入った阿曇氏が 祀つた神社について記されています
【抜粋意訳】
阿曇氏の祖早くより信濃に入る。
阿曇氏は元來海部の頭梁であるから海岸にばかり榮えたやうに思はれるにも拘はらず、この信濃のやうな山國にも住したことが部名以外、地方神社名に依って想像することが出來る。
卽ちこの氏又は此の氏の率ゐし海部 若しくは其部曲である阿曇部の住したことは、安曇郡の明神大社、穂高神社が安曇氏の祖神として仰がれる穂高見神を祀つてゐること、同じく式内社である川會神社が亦海神を祀ってゐることに依っても明である。本郡内の式内社 氷鉋斗賣神社は阿曇氏の祖 宇都志日金拆命を祀ってゐる。これ又 阿曇氏の住したことを證するものであらう。又地名にも氷飽、斗賣二郷がある。これは二郷に住した阿曇族が其の奉齋神の名稱を二分して地名としたのであらう。本郡の隣 埴科都には阿曇氏の女・神武天皇の御母である玉依比賣命を祀ってゐる處の玉依比賣神社が東條村にある。小縣郡には海部郷がある。兎に角 阿曇氏の族は早くから阿曇・更級・埴科・小縣に分布したのであろう。(更科郡誌、)
【原文参照】
延喜式内社 信濃國 安曇郡 穗髙神社(名神大)(ほたかの かみのやしろ)
安曇氏の祖神として仰がれる穗高見命(ほたかみのみこと)(別名 宇都志日金拆命 うつしひかなさくのみこと)が 祀られます
・穗髙神社(安曇野市穂高)
穂高神社(ほたかじんじゃ)は 太古 安曇族は 海神系の宗族として遠く北九州に栄え 信濃の干拓に功をたて 安曇野の中心 穂高の里に祖神を奉斎したのが 当神社の創始とされます 延喜式内社 信濃國 安曇郡 穗髙神社(名神大)(ほたかの かみのやしろ)の本宮です 上高地には奥宮 奥穂高岳の山頂には嶺宮が鎮座しています
穗髙神社(安曇野市穂高)〈延喜式内社 名神大社〉
・穗髙神社 奥宮(松本市安曇上高地)
穗高神社 奥宮(ほたかじんじゃ おくのみや)は 上高地 明神池のほとりに祀られています 上高地明神付近は古くから〈神合地 神垣内 神河内〉(上高地)とも呼ばれ 神々を祀るにふさわしい神聖な場所とされてきました 嶺宮は 安曇族の神・穂高大明神が降臨されたと云う 穂高連峰の最高点・奥穂高岳の頂上に祀られています
穗髙神社 奥宮(松本市安曇上高地)〈上高地の聖地 明神池のほとりに鎮座〉
延喜式内社 信濃國 安曇郡 川會神社(かはあひの かみのやしろ)
海神として 海の底の神〈底津綿津見命〉を祀られています
・川会神社(北安曇郡池田町)
川會神社(かはあいじんじゃ)は 海の底の神〈底津綿津見命〉を祀り 遠い昔 ここ安曇野は山に囲まれた一面の湖だったと云う真実を 時を超えて 私達に伝えています 民話『泉小太郎』は 山を破り 湖の水を抜き あらわれた湖底が やがて里を潤う田となります 人々は遠い神代から 現在まで神に感謝を捧げています
川會神社(北安曇郡池田町会染)〈民話『泉 小太郎』ゆかりの里〉
延喜式内社 信濃國 更級郡 氷鉋斗賣神社〈氷銫斗賣神社〉(ひかなとめの かみのやしろ)
安曇氏の祖神として仰がれる 宇都志日金拆命(うつしひかなさくのみこと)が 祀られます
・氷鉇斗賣神社(長野市稲里町下氷鉋)
氷鉋斗賣神社(ひがのとめじんしゃ)は 延喜式内社 信濃國 更級郡 氷鉋斗賣神社〈氷銫斗賣神社〉(ひかなとめの かみのやしろ)で 鎮座地の氷鉋村は かつて上中下の三村に分れ各々氏神を祀り 上中の両村は 共に諏方社と称し 下氷鉋村は 氷銫斗賣神社と称し 本宮であろうとされます 鉋の文字は 材木の表面を削る「かんな」の意です
氷鉋斗賣神社(長野市稲里町大字下氷鉋)〈阿曇族の祀る延喜式内社〉
・更級斗女神社(長野市川中島町御厨)
更級斗女神社(さらしなとめじんじゃ)は 口碑には゛建御名方命が 境内に広い行宮(社務所)を建て 隋従の八人の乙女を配し滞在鎮座の地【八名祗の内】と称した゛と伝わり 斗女郷の中心地とされます 延喜式内社 信濃國 更級郡 氷鉋斗賣神社〈氷銫斗賣神社〉(ひかなとめの かみのやしろ)の論社でもあります
更級斗女神社(長野市川中島町大字御厨)〈斗女郷の冨部氏の氏神として創建〉
〈参考論社〉・氷鉋諏訪神社(長野市稲里町下氷鉋)
氷鉋諏訪神社(ひがのすわじんしゃ)は 下氷鉋に鎮座する諏訪神社です 鎮座地の氷鉋村は かつて一つでしたが 上中下の三村に分れ各々氏神を祀ったとあり 上中の両村は 共に諏方社と称し 下氷鉋村は 氷銫斗賣神社or諏方社と称したとあり 式内社 氷鉋斗賣神社〈氷銫斗賣神社〉(ひかなとめの かみのやしろ)に関係があるのでしょう
氷鉋諏訪神社(長野市稲里町大字下氷鉋字入村)
〈参考論社〉・川中島斗賣神社(長野市川中島町上氷鉋)
川中嶋斗賣神社(かわなかじまとめじんじゃ)は 上氷鉋に鎮座した諏訪明神社です 鎮座地の氷鉋村は かつて一つでしたが 上中下の三村に分れ各々氏神を祀ったとあり 上中の両村は 共に諏方社と称し 下氷鉋村は 氷銫斗賣神社と称したとあります 式内社 氷鉋斗賣神社〈氷銫斗賣神社〉(ひかなとめの かみのやしろ)の分祀と考えられます
川中島斗賣神社(長野市川中島町大字上氷鉋)〈元 上氷鉋村の諏訪明神社〉
〈参考論社〉・氷鉋神社(長野市稲里町中央)
氷鉋神社(ひがのじんじゃ)は 中氷鉋に鎮座した諏訪社です 鎮座地の氷鉋村は かつて一つでしたが 上中下の三村に分れ各々氏神を祀ったとあり 上中の両村は 共に諏方社と称し 下氷鉋村は 氷銫斗賣神社と称したとあります 式内社 氷鉋斗賣神社〈氷銫斗賣神社〉(ひかなとめの かみのやしろ)の分祀と考えられます
氷鉋神社(長野市稲里町中央)〈式内社 氷鉋斗賣神社〈氷銫斗賣神社〉の分祀〉
延喜式内社 信濃國 埴科郡 玉依比賣命神社(たまよりひめのみこと かみのやしろ)
阿曇氏の女・神武天皇の御母である玉依比賣命が 祀られています
・玉依比賣命神社(長野市松代町東条)
玉依比賣命神社(たまよりひめのみことじんじゃ)は 勧請は 上世で年曆悠遠 その時代を詳かには出来ないが 社記及び地方古記録 村老等の旧聞によれば゛崇神天皇の御宇 科野國造の祖、武五百建命の創祭せし所なりと云ふ゛太古に阿曇氏が祀った 延喜式内社 信濃國 埴科郡 玉依比賣命神社(たまよりひめのみこと かみのやしろ)です
玉依比賣命神社(長野市松代町東条字内田)〈阿曇氏が祀った延喜式内社〉
【神社にお詣り】(Pray at the shrine)
古代から 安曇氏(azumi uji)が 大切に祀り続けた「川會神社(kahaai shrine)」へ向かいます
JR東日本「穂高駅」の直ぐ傍 名神大社の「穂高神社(hotaka shrine)」から6km程度で到着します
国道147号を北上し右折 高瀬川にかかる高瀬橋を渡り その先を左折すると 目の前に鎮守の森が見えてきます
200m程の直線の参道を進むと 鳥居が建ちます
「川會神社(kahaai shrine)」に到着
お詣りです
案内板が右手にあり「香川景樹 内山真弓 歌碑」??? どうやら 天明6年(1786年)に地元の十日市場で生まれた 有名な歌人らしいとわかる
隣には 車馬を乗り入れぬことなどを記した「定(sadame)」案内板があり
続いて「泉小太郎ゆかりの里」の石碑があります(後程詳しくご説明します)
目の前の鳥居には「延喜式内 川會神社」と扁額が掲げられていますので 目的地に間違いなし 一礼して鳥居をくぐります
境内は平地で広く 鎮守の森に囲まれていて 足を踏み入れると下界とは 一線を画す古社独特の御神威を感じます
参道の正面には おそらく神楽殿と想われる 丸石を縁石にした建屋があり その左手には児童公園のような「滑り台」が設置してあります 境内は その真後ろにも続いていて 拝殿があります
お詣りは 真夏7月の午前中でしたが 高原で 霧雨上がりというか 霞が晴れてきたような感じで 侘しさもあり 結構 幻想的でした
拝殿には 前述した「来由書」と書かれた由緒書きの案内が掲示されていて ひとしきり読みまして 成程 と感心していました
お賽銭をおさめ お祈りです
この地を開拓された安曇氏(azumi uji)の祖神として 本殿に鎮まる御祭神「底津綿津見命(soko tsu watatsumi no mikoto)」を畏れ敬い かん高い柏手を打ち ご神威に添い給うよう この地に立つ感謝を込めて 両手を合わせ 祈ります
本殿はどのようなと 拝殿の左横に回ると 拝殿の後ろから 神域を御垣塀が取り囲んで近寄れません
塀の横には 境内社の祠が 諏訪社・戸隠社・秋葉社・八幡社・天満宮・大神宮 等6社ばかりあり すべてにお詣りします
境内の森は 下草が刈られていて とても手入れが行き届いていましたので ちょっとした霊気を浴びて 気持ちよく 参道を戻り 鳥居をくぐり 振り返り一礼
お詣りをすませ 境内を出ると 目の前に広がる水田越しに 穂高の山並みから 安曇野に雲が掛かり なんとも美しい
【神社の伝承】(Old tales handed down to shrines)
「川會神社(kahaai shrine)」の御祭神は「三柱の綿津見神(watatsumi no kami)」の 3柱の内「底津綿津見命(soko tsu watatsumi no mikoto)」の1柱だけが祀られています この謎解きを始めます
「諏訪神社誌. 第1巻」太田亮 著 (大正15) 出版 『官幣大社諏訪神社附属諏訪明神講社』 に記される伝承
国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983470/16画像
ここに記されている「川會神社(kahaai shrine)」の社伝を
意訳すると
『海神・綿津見神(watatsumi no kami)を祀る 建御名方命の妃は 海神の娘なり太古は 海水(湖水)が国中に氾濫していた
建御名方命(takeminakata no mikoto)とその妃 八坂刀賣神(yasakatome no kami)は
治水のために 水内山を破って水を流し 越海へ注いだので 始めて平地を得た「神胤(mitane)=貴き子孫」は「畜殖=畜産農業」をして暮らしている 因って ここに祀る 』
と書かれていて
諏訪の神「建御名方命(takeminakata no mikoto)」の妃である「八坂刀賣神(yasakatome no kami)が 綿津見神(watatsumi no kami)の娘であるとの社伝を残し
神代に 諏訪の夫婦神は「かつてあった巨大な湖を干拓します 水内山を破って水を流し越海へ注いだので 始めて安曇野に平地を得た」と記されています
なるほど
この地は 安曇氏(azumi uji)と諏訪氏(suwa uji)が婚姻の関係を有して 開拓していった その礎の記憶を残す とても古い神社の痕跡かもしれません
龍神の両親を持つ子供「泉小太郎(izumi kotaro)」母親が「犀竜(sai ryu)」父親が「白竜王(haku ryuo)」
人間たちに育てられ立派に成長した小太郎は 自分が「龍神の子」だと知った 人間たちが「田んぼができればいいなぁ」と悩んでいたことを 母「犀竜(sai ryu)」に願うため 逢いに行きます
息子を育ててくれた人間たちに恩返しと想い 母「犀竜(sai ryu)」は 願いを聞き入れ 山・岩を切り開き 水を流し 緑豊かな土地を作り出したという伝説
児童文学『龍の子太郎(tatsu no ko taro)』著 松谷みよ子 は この話をモデルにしています
「泉 小太郎(izumi kotaro)ゆかりの里」の石碑(鳥居の横にあり)
まだ山も川も海も固まらない時代のことです
信州安曇郡の有明の池は大きな湖でした泉小太郎は 有明の竜神犀竜を母とし 高梨の竜神白竜王を父として 鉢伏山で生まれ 放光寺で成長しました
小太郎は快活ですばしっこく 山を渡り岩を登り 水に泳ぎ 水を潜り 健康そのもので また人情にも厚い少年でした離れて暮らしていた母と再会したときのことです
「私は諏訪大明神の化身です 氏子の繁栄を願っています お前は私の背中に乗りなさい そしてこの湖水を乗り割って水を涸らして陸地にしなさい そうすれば人々は栄えるでありましよう」小太郎は 母の言葉に従って その背中に跨り 満々と湛える水を押し退けて 山清路の滝を一気に乗りわたりました
水の勢いに乗り 下流の水内の久米路の岩山をも破って 千曲川筋を越後まで開きましたそれ以来 落合までを「犀川」と呼ぶようになりました
満々と碧い水を湛えた大海原の水も次第に引いて ついには広い陸地が生まれたのです
これが今の安曇平です
その後 母神は父神を訪ね、二神は榊の横穴という岩穴にお隠れになりました 小太郎は有明の里・川合の地十日市場に来て館を建て そこに住み富み栄えました
年月を経て小太郎は「私は千手観音の生まれ変わりである この里が繁盛するよう護りましょう」と言って 一族の者に別れを告げ 仏持の岩穴へ隠れました
その後十日市場の人々はお宮を建立し 泉小太郎を祭神として祀りましたこれが川會神社です
泉小太郎の伝承は安曇平各地に残っていますが 中でも十日市場は縁の深い地として 後世まで伝えられていくでしょう
民話「泉小太郎」
「底津綿津見命(soko tsu watatsumi no mikoto)」の1柱だけが祀られている理由
「川會神社(kahaai shrine)」の社伝とほぼ同じ伝承です
古代日本の創世記の主役だった「海洋の民・安曇氏(azumi uji)」は 現在は 海のない長野県安曇野に祖神の「海神・綿津見神(watatsumi no kami)」を祀っています
しかし かつて 古代には巨大な湖があり「三柱の綿津見神(watatsumi no kami)」を祀ったのです
底津綿津見神(sokotsu watatsumi no kami)
中津綿津見神(nakatsu watatsumi no kami
表津綿津見神(uwatsu watatsumi no kami)
この3柱の内
「底津綿津見命(soko tsu watatsumi no mikoto)」「海の底の神」1柱だけが 祀られている理由は
巨大な水海(湖)が干拓され かつての「海(湖)の底」にあたる残された大地が安曇野だとすると
「川會神社(kahaai shrine)」に「海の底の神」が 祀られている訳を わかった気がします
想像のまま 泉小太郎が蹴破る安曇野と湖を 勝手に作ってみました
平安時代の後期 歴史の表舞台から 姿を消した「阿曇氏(azumi uji・安曇氏)は どのような痕跡をのこしているのか?
安曇野に伝わる「蹴破り伝説」については また いつか書きたいと思います
太古に安曇野は「巨大な水海の底」にあった 海洋の民・安曇氏(azumi uji)は 海神(watatsumi no kami)を祀り 諏訪氏(suwa uji)の神とともに 山を蹴破った 壮大な干拓を今日に知らせている
今「巨大な水海の底」は豊かな土地となり 多くの民が平和に暮らしています
「底津綿津見命(soko tsu watatsumi no mikoto)」を祀る「川會神社(kahaai shrine)」に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
信濃国 48座(大7座・小41座) に戻る
信濃国(しなののくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 信濃国(しなののくに)には 48座(大7座・小41座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
信濃國 式内社 48座(大7座・小41座)について