実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

河合神社(京都市左京区下鴨泉川町)〈下鴨神社 境内゛京都で美人祈願゛〉

河合神社(かわいじんじゃ)は  下鴨神社 境内゛糺森(ただすのもり)゛に囲まれて 古くから女性の女性の守護神・美麗の神様として知られる玉依姫命を祀ります 下鴨神社の第一摂社であり 延喜式内社 山城國 愛岩郡 鴨川合坐小社宅神社(名神大 月次 相嘗 新嘗)(かものかはひにます おこそへの かみのやしろ)とされる由緒ある古社です

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

河合神社(Kawai shrine

通称名(Common name)

【鎮座地 (Location) 

京都府京都市左京区下鴨泉川町59〈下鴨神社 境内〉

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》玉依姫命(たまよりひめのみこと)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

安産・育児・縁むすび・学業・延命長寿の守護神

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

河合神社

祭神 玉依姫命

祭神は 神武天皇の母神

例祭日 十一月十五日

神徳
 神武天皇の母神として 日本建国に貢献された内助の功績は、日本婦人の鑑と仰がれており、安産・育児・縁むすび・学業・延命長寿の守護神として広く知られている

由緒
 鎮座の年代は、不であるが、神武天皇の御代から余り遠くない時代と伝えられてい。『延喜式』に「鴨河合坐小社宅神社」とある。鴨河合」とは、古代からこの神社の鎮座地を云い、「小社宅」(こそべ)は日本書紀社戸まれ、それは本宮の祭神と同系統の神々との意である。延喜元年(九〇一)十二月二十八日の官符に「河合社、是御祖、別雷両神の苗裔神也。」とあ

 天案二年(八五八)名神大社に列し、寛仁元年(一〇一七)神階正二位。
 元暦二年(一一八五)正一位。明治一〇年(一八八七)賀茂御祖神社第一摂社に列せられ

社殿
 本宮の二十一年目ごとに行われた式年遷宮の度ごとに この神社もすべての社殿が造替されていたが、現在の社殿は延宝七年度(一六九九)式年遷宮により造替された古殿を修理建造したもので、平安時代の書院造りの形式をよくとどめている

例祭日
 貴船社  六月 一日 本宮摂社 高龗神
 任部社 十一月十五日 河合社末社 八咫烏神
 六 社 十一月十五日 河合社末社 諏訪神他五神
 三井社  九月 九日 河合社末社 賀茂建角命他二神

河合神社と鴨長明
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」という冒頭の文で始まる『方丈記』は多くの人に親しまれている。作者鴨長明は、本宮禰宜の家系であった。少より和歌にすぐれ、後鳥羽院に見だされ御和歌所の寄人となり、宮廷歌人として活躍したことで知られてい

-石川や瀬見の小川の清ければ、月も流れをたずねてぞすむ- 長明

現地案内板より

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【由  (History)】

河合神社 -かわいじんじゃ-

江戸時代造替

《ご祭神》

玉依姫命(ご祭神は神武天皇のご母神)

  • 例祭日 十一月十五日
ご神徳

神武天皇のご母神として日本建国に貢献されました。内助のご功績は、日本の婦人の鑑として仰がれています。また、すべての女性が一層美しくなりたいという願望と安産・育児・縁むすびなどをかなえてくださる神さまとして広く知られています。

由緒

ご鎮座の年代は詳しくは、わかりませんが、神武天皇の頃と伝えられています。『延喜式』に「鴨河合坐小社宅神社」とある神社です。「小社宅(こそべ)」は、「日本書紀」に社戸ともよまれ、それはご本宮の賀茂御祖神社(下鴨神社)のご祭神と同じ神々との意です。延喜元年(九〇一)十二月二十八日の官符に「河合社、是御祖、別雷両神の苗裔神也。」とあります。

天案二年(八五八)名神大社に列し、寛仁元年(一〇一七)神階正二位。

元暦二年(一一八五)正一位に列せられました。明治一〇年(一八八七)には、賀茂御祖神社(下鴨神社)の第一摂社となりました。

社殿

ご本殿の式年遷宮にああわせご造替がおこなわれてきました。現在のご社殿は、延宝七年度(一六九九)式年遷宮の古殿舎をご修造したものです。

美人の神さま

ご祭神・玉依姫さまの美麗により、ご自身のお顔を絵馬にたくして奉納し、ご祈願していただきます。

末社・任部社には、サッカーの神さま・八咫烏神がおまつりされています。
昭和六年、ヤタガラスの神が日本サッカー協会のシンボルマークとなりました。

河合神社と鴨長明

「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」という文で始まる『方丈記』の作者鴨長明は、当神社の祢宜(神職)の家系でした。年少より和歌にすぐれ、後鳥羽院に見いだされ御和歌所の寄人となり、宮廷歌人として活躍したことで知られています。

-石川や瀬見の小川の清ければ、月も流れをたずねてぞすむ- 長明

現地立札より

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神社の境内 (Precincts of the shrine)】

・拝所・本殿

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・貴布禰神社〈本殿向って左側(西側に鎮座する境内社〉

《主》高龗神

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貴布禰神社

御祭神 高龗神

応保元年(一一六一)収録の「神殿屋舎等之事」に、河合神社の御垣内にまつられていたことが収載されている神社で水の神として有名。

現地立札より

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・任部社〈貴布禰神社の向って左側(西側)〉

式内社「愛岩郡 鴨川合坐小社宅神社(名神大 月次 相嘗 新嘗)(かものかはひにます おこそへの かみのやしろ)」の論社

詳しくは 任部社の記事を見てください

・任部社(京都市左京区下鴨泉川町)
〈下鴨神社の 境内゛糺す森゛に鎮座する 河合神社の境内社〉 

一緒に読む
任部社〈古称゛専女(とうめ)社゛〉(京都市左京区下鴨泉川町) 〈河合神社の境内社〉

任部社(とうべのやしろ)は 河合神社の創祀の時より祀られる古社 延喜式内社 山城國 愛岩郡 鴨川合坐小社宅神社(名神大 月次 相嘗 新嘗)(かものかはひにます おこそへの かみのやしろ)の論社 古称は゛専女(とうめ)社゛〈稲女と同意 食物を司る神々〉『百練抄』安元元年(1157)の条に「小烏社」を合祀とあり祭神が変遷か

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・舞殿・拝殿

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・六社〈拝殿向って左側(西側)〉

六社の内 諏訪社は 式内社「愛岩郡 須波神社(すはの かみのやしろ)」の論社

詳しくは 六社の記事を見てください

・六社〈由木社・印社・竈神・稲荷社・衢社・諏訪社〉(京都市左京区下鴨泉川町)の内 諏訪社
〈下鴨神社の境内に鎮座する 河合神社の境内社 六社の内 諏訪社〉

一緒に読む
六社〈・諏訪社・衢社・稲荷社・竈神・印社・由木社〉(京都市左京区下鴨泉川町)

六社(むつのやしろ)は 元々は 河合神社の境内に別々に祀られていた 六つの社〈・諏訪社・衢社・稲荷社・竈神・印社・由木社〉が 江戸時代の式年遷宮の時 一棟に祀られて 六社の名称となり現在に至ります この内の 諏訪社(すはしゃ)は 延喜式内社 山城國 愛岩郡 須波神社(すはの かみのやしろ)の論社です

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・三井社〈神門の正面(南側)〉

式内社「愛宕郡 三井神社(名神大 月次 新嘗)(みゐの かみのやしろ)」の論社

詳しくは 三井社の記事を見てください

・三井社(三塚社)
〈下鴨神社の 境内に鎮座する 河合神社の境内社〉 

一緒に読む
三井社〈三塚社〉(京都市左京区下鴨泉川町)〈河合神社 境内社〉

三井社(みついしゃ)は 河合神社の神門前に鎮座します 元々は 蓼倉郷の総(祖)社として祀られていた社で 通称゛三塚社゛とも呼ばれます 『山城國風土記逸文』「鴨社」の条にある「蓼倉里三身社」であるとも 別の社とも両説がありますが 延喜式内社 山城國 愛宕郡 三井神社(名神大 月次 新嘗)(みゐの かみのやしろ)の論社です

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・鴨長明 方丈庵〈・舞殿・拝殿の向って右側(東側)〉

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鴨長明

久寿二年(一一五五)、下鴨神社禰宜長継の次男として泉の館(現在の京都大学北方一体)において生れた。応保元年(一一六一)、七歳のとき、下鴨神社の第六回式年遷宮が行われ、長明も神職の道につき、従五位下に叙せられた。幼少から学問に秀で、特に歌道に優れていた。安元元年(一一七五)(二十一歳)、高松女院歌合わせ和歌を献じ注目をあつめた。治承四年(一一八〇)六月、二十六歳のときには、福原へ都が遷され、宮中に奉仕する長明も新都へ赴いたが、八月、源頼朝の乱により平家は滅亡し、再び平安京へ遷都され帰洛した。正治二年(一二〇〇)四十六歳のとき、後鳥羽院から召されて院の歌会や催しに和歌を献じることになった。翌、建仁元年(一二〇一)和歌所の寄人に任せられた。また琵琶や笛、琴にもたけた演奏の記録が随所にみえる。しかし、元久元年(一二〇四)、五十歳の春、宮中の席を辞して出家し、洛北大原に隠とんする。元久二年三月、「新古今和歌集に」

石河や 瀬見の小川の 清ければ
 月も流れを たずねてすむ

をはじめ十首が採録された。「瀬見の小川」とは、この河合神社の東を今も流れる川のことである。建暦二年(一二一二)三月、「方丈記」ついで「無名抄」を著した。建保四年(一二一六)閏六月八日、六十二歳で歿した。

長明の方丈

  長明は、五十歳のときすべての公職から身をひき大原に隠とんした。その後、世の無常と人生のはかなさを随筆として著したのが「方丈記」である。大原からほうぼう転々として、承元二年(一二〇八)、五十八歳のこと(現在 京都市伏見区日野町)に落ち着いた。各地を移動しているあいだに「栖(すみか)」として仕上げたのが、この「方丈」である。移動に便利なようにすべて組立式となっている。

 広さは、一丈(約三メートル)四方。約二・七三坪、畳、約五帖半程度。間口、奥行とも一丈四方というところから「方丈」の名がある。さらにもう一つの特徴は、土台状のものが置かれ、その上に柱が建てられていることである。下鴨神社の本殿もまた土居桁の構造である。

 この構造は、建物の移動ということを念頭に柱が構築されるからである。下鴨神社は、式年遷宮により二十一年ごとに社殿が造替される自在な建築様式にヒントを得たものといわれている。

現地立札より

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・神門

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・社頭の鳥居〈西側〉

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・社頭の鳥居〈東側〉

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

河合神社(京都市左京区下鴨泉川町)は 下鴨神社 境内 糺森(たたすのもり)の中に鎮座します

下鴨神社の記事を参照してください

・賀茂御祖神社〈下鴨神社〉(京都市左京区下鴨泉川町)

一緒に読む
賀茂御祖神社〈下鴨神社〉(京都市左京区下鴨泉川町)〈山城國一之宮〉

賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)は 本殿は東西二棟からなり 西本殿には 賀茂別雷神社の〈祖父神〉賀茂建角身命〈古代の京都をひらかれた神〉 東本殿には〈母神〉玉依媛命を祀り 賀茂別雷神社〈上賀茂神社〉とともに賀茂縣主の氏神を祀り 平安京遷都以降は国家鎮護の神社として 皇室や朝廷からも篤い崇敬を受ける 山城國一之宮です

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています

『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称

『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)

河合神社〈下鴨神社 境内〉は 二つの式内社〈①須波神社 鴨川合坐小社宅神社(名神大 月次 相嘗 新嘗)〉の論社となっています

式内社 鴨川合坐小社宅神社は 名神大 月次 相嘗 新嘗に預っています

『延喜式Engishiki)』巻1 四時祭上 六月祭十二月准 月次

月次祭つきなみのまつり)『広辞苑』(1983)
「古代から毎年陰暦六月・十二月の十一日に神祇官で行われた年中行事。伊勢神宮を初め〇四座の祭神に幣帛を奉り、天皇の福祉と国家の静謐とを祈請した」

大社の神304座に幣帛を奉り 場所は198ヶ所と記しています

【抜粋意訳】

月次祭つきなみのまつり

奉(たてまつる)幣(みてぐら)を案上に 三百四座 並大社 一百九十八所

座別に絁五尺、五色の薄絁各一尺、倭文一尺、木綿二両、麻五両、倭文纏刀形(まきかたなかた)、絁の纏刀形、布の纏刀形各一口、四座置一束、八座置一束、弓一張、靫(ゆき)一口、楯一枚、槍鋒(ほこのさき)一竿、鹿角一隻、鍬一口、庸布一丈四尺、酒四升、鰒、堅魚各五両、腊二升、海藻、滑海藻、雑の海菜各六両、堅塩一升、酒坩(かめ)一口、裹葉薦五尺、祝詞(のとこと)座料短畳一枚、

前一百六座
座別絁五尺、五色薄絁各一尺、倭文一尺、木綿二両、麻五両、四座置一束、八座置一束、楯一枚、槍鋒一口、裹葉薦五尺、
 右所祭之神、並同祈年、其太神宮(かむのみや)、度会宮(わたらひのみや)、高御魂神(たかむすひのかみ)、大宮女神(おほみやめのかみ)には各加ふ馬一疋、〈但太神宮、度会宮各加籠(おもつを)頭料庸布一段、〉
前祭五日、充忌部九人、木工一人を、令造供神調度を、〈其監造并潔衣食料、各准祈年、〉祭畢即中臣の官一人率て宮主及卜部等を、向て宮内省に、卜の定供奉神今食に之小斎人(みのひと)を、
供神今食料
 紵一丈二尺、〈御巾料、〉絹二丈二尺、〈篩(ふるい)の料、〉絲四両、〈縫篩等料、〉布三端一丈、〈膳部巾料、〉曝布一丈二尺、〈覆水甕料、〉細布三丈二尺、〈戸座襅(へさたまき)并褠料、〉木綿一斤五両、〈結ふ御食(みけ)料、〉刻柄(きさたるつか)の刀子二枚、長刀子十枚、短刀子十枚、筥六合、麁(あら)筥二合、明櫃三合、御飯、粥料米各二斗、粟二斗、陶瓼(すえのさかけ)[如硯瓶以上作之]瓶【瓦+并】(かめ)各五口、都婆波、匜(はふさ)、酒垂各四口、洗盤、短女杯(さらけ)各六口、高盤廿口、多志良加[似尼瓶]四口、陶鉢八口、叩盆四口、臼二口、土片椀(もひ)廿口、水椀八口、筥代盤(しろのさら)八口、手洗二口、盤八口、土の手湯盆(ほん)[似叩戸采女洗]二口、盆(ほとき)四口、堝十口、火爐二口、案(つくえ)十脚、切机二脚、槌二枚、砧二枚、槲四俵、匏廿柄、蚡鰭(えひのはた)槽[供御手水所]二隻、油三升、橡の帛三丈、〈戸の座服の料、冬絁一疋、綿六屯、履一両、〉
右供御の雑物は、各付内膳主水等の司に、神祇官の官人率神部等を、夕暁(よひあかつき)両般参入内裏に、供奉其の事に、所供雑物、祭訖て即給中臣忌部宮主等に、一同し大甞会の例に、

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

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『延喜式Engishiki)』巻2四時祭下中の相嘗祭神七十一座

【抜粋意訳】

巻2 神祇2 四時祭下 十一月祭
相嘗祭神(あひむへのまつりのかみ)七十一座

鴨川合(かもみたらしの)社一座

絹二疋、絲一絇一両、綿三屯、調布三端四尺、庸布一段一丈三尺、木綿十三両、鮑十両、堅魚二斤、腊四斤、塩一升、筥一合、海藻、凝海藻各二斤四両、瓼、缶、水瓫、山都婆波、小都婆波、筥瓶、酒垂、匜、等呂須伎、高盤、片盤、短女坏、小坏、筥坏、陶臼各二口、酒稲五十束〈神税〉

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

『延喜式Engishiki)』巻2 四時祭下 新嘗祭

嘗祭(にいなめのまつり)は
「新」は新穀を「嘗」はお召し上がりいただくを意味する 収穫された新穀を神に奉り その恵みに感謝し 国家安泰 国民の繁栄を祈る祭り

式内大社の神304座で 月次祭(つきなみのまつり)に准じて行われ 春には祈年祭で豊作を祈り 秋には新嘗祭で収穫に感謝する

【抜粋意訳】

新嘗祭(にいなめのまつり)

奉(たてまつる)幣(みてぐら)を案上に 神三百四座 並 大社 一百九十八所

座別に 絹5尺 五色の薄絹 各1尺 倭文1尺 木綿2両 麻5両四座置1束 八座(やくら)置1束 盾(たて)1枚 槍鉾(やりほこ)1竿
社別に庸布1丈4尺 裏葉薦(つつむはこも)5尺

前一百六座
座別に 幣物准社の法に伹 除く 庸布を
右中 卯の日に於いて この官(つかさ)の斎院に官人 行事を諸司不に供奉る
伹 頒幣 及 造 供神物を料度 中臣祝詞(なかとみののりと)は 准に月次祭(つきなみのまつり)に

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

『延喜式Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭Meijin sai)」の条 285座

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂

延喜式巻第3は『臨時祭〈・遷宮天皇の即位や行幸国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で名神祭Meijin sai)』の条に 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています

名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています

【抜粋意訳】

巻3神祇3 臨時祭 名神祭 二百八十五座

園神社一座 韓神社二座〈已上坐宮内省、〉

賀茂別雷神社一座 賀茂御祖神社二座 松尾神社二座 稲荷神社三座 貴布祢神社一座 鴨川合神社一座 御井神社一座 葛野月読神社一座 木嶋坐天照御魂神社一座 平野神社四座 梅宮神社四座 乙訓神社一座 酒解神社一座〈亦号山崎、〉已上山城國〉
・・・
・・・

座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩

嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合

加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1絇を 布1端に代える

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『延喜式 巻3-4』臨時祭 名神祭 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブス『延喜式 巻3-4』臨時祭 名神祭 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブス『延喜式 巻3-4』臨時祭 名神祭 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

河合神社〈下鴨神社 境内〉は 二つの式内社〈①須波神社 鴨川合坐小社宅神社(名神大 月次 相嘗 新嘗)〉の論社となっています

①式内社 須波神社について

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)山城國 122座(大53座(並月次新嘗・就中11座預相嘗祭)・小69座(並官幣))

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)愛宕郡 21座(大8座・小13座)

[名神大 大 小] 式内

[旧 神社 名称 ] 須波神社
[ふ り が な ]すはの かみのやしろ
[Old Shrine name]Suha no kaminoyashiro

 式内社 鴨川合坐小社宅神社(名神大 月次 相嘗 新嘗)について

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)山城國 122座(大53座(並月次新嘗・就中11座預相嘗祭)・小69座(並官幣))

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)愛宕郡 21座(大8座・小13座)

[名神大 大 小] 式内

[旧 神社 名称 ] 鴨川合坐小社宅神社(名神大 月次 相嘗 新嘗)
[ふ り が な ](かものかはひにます おこそへの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Suha no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】This is the point that Otaku conveys.

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

延喜式内社 山城國 愛岩郡 須波神社(すはの かみのやしろ)の論社について

・須波神社(京都市北区上賀茂本山)
〈上賀茂神社の境内に鎮座〉

一緒に読む
須波神社(京都市北区上賀茂本山)〈上賀茂神社の摂社〉

須波神社(京都市北区上賀茂本山)は 賀茂別雷神社の摂社で 本社楼門のまえを流れる御物忌川の対岸 片山御子神社のすぐ南 片岡山の麓に鎮座します 江戸時代は゛諏訪社゛と呼ばれましたが 明治以降゛須波神社゛と改称しています 延喜式内社 山城國 愛岩郡 須波神社(すはの かみのやしろ)の論社とされます

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・六社〈由木社・印社・竈神・稲荷社・衢社・諏訪社〉(京都市左京区下鴨泉川町)の諏訪社
〈下鴨神社の境内に鎮座する 河合神社の境内社 六社〉

一緒に読む
六社〈・諏訪社・衢社・稲荷社・竈神・印社・由木社〉(京都市左京区下鴨泉川町)

六社(むつのやしろ)は 元々は 河合神社の境内に別々に祀られていた 六つの社〈・諏訪社・衢社・稲荷社・竈神・印社・由木社〉が 江戸時代の式年遷宮の時 一棟に祀られて 六社の名称となり現在に至ります この内の 諏訪社(すはしゃ)は 延喜式内社 山城國 愛岩郡 須波神社(すはの かみのやしろ)の論社です

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・諏訪社(京都市左京区下鴨泉川町)
〈下鴨神社の境内に鎮座する 三井神社の境内社 諏訪社〉

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諏訪社(京都市左京区下鴨松ノ木町)〈下鴨神社 本殿左側 三井神社の境内社〉

諏訪社(すわしゃ)は 下鴨神社の本殿左隣に鎮座する境内摂社 三井神社の三つ並んで祀られている本殿の向かって左手〈西側〉に 三つの境内社〈・諏訪社・小杜社・白鬚社〉が 並んで鎮座しています その内 一番奥〈北側〉のしゃが諏訪社です 延喜式内社 山城國 愛岩郡 須波神社(すはの かみのやしろ)の論社となっています

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・静原神社(京都市左京区静市静原町)

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静原神社&静原御旅天皇社(京都市左京区静市静原町)

静原神社(しずはらじんじゃ)は 壬申の乱の際 大海人皇子〈天武天皇〉が逆賊に襲われ難を避けて 鞍馬から薬王坂を越えて静原に留まられた時 玉体安らかに御心も静かにあそばされたので それまで賤原もしくは志津原と呼ばれた地名を 静原と称するようになった所 延喜式内社 山城國 愛岩郡 須波神社(すはの かみのやしろ)の論社です

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・河合神社(京都市左京区下鴨泉川町)
〈下鴨神社の境内゛糺の森゛に鎮座〉

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河合神社(京都市左京区下鴨泉川町)〈下鴨神社 境内゛京都で美人祈願゛〉

河合神社(かわいじんじゃ)は  下鴨神社 境内゛糺森(ただすのもり)゛に囲まれて 女性の女性の守護神・美麗の神様として知られる玉依姫命を祀ります 下鴨神社の第一摂社であり 延喜式内社 山城國 愛岩郡 鴨川合坐小社宅神社(名神大 月次 相嘗 新嘗)(かものかはひにます おこそへの かみのやしろ)とされる由緒ある古社です

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延喜式内社 山城國 愛岩郡 鴨川合坐小社宅神社(名神大 月次 相嘗 新嘗)(かものかはひにます おこそへの かみのやしろ)の論社について

・河合神社(京都市左京区下鴨泉川町)
〈下鴨神社の境内゛糺の森゛に鎮座〉

一緒に読む
河合神社(京都市左京区下鴨泉川町)〈下鴨神社 境内゛京都で美人祈願゛〉

河合神社(かわいじんじゃ)は  下鴨神社 境内゛糺森(ただすのもり)゛に囲まれて 女性の女性の守護神・美麗の神様として知られる玉依姫命を祀ります 下鴨神社の第一摂社であり 延喜式内社 山城國 愛岩郡 鴨川合坐小社宅神社(名神大 月次 相嘗 新嘗)(かものかはひにます おこそへの かみのやしろ)とされる由緒ある古社です

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・任部社(京都市左京区下鴨泉川町)
〈下鴨神社の 境内に鎮座する 河合神社の境内社〉 

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任部社〈古称゛専女(とうめ)社゛〉(京都市左京区下鴨泉川町) 〈河合神社の境内社〉

任部社(とうべのやしろ)は 河合神社の創祀の時より祀られる古社 延喜式内社 山城國 愛岩郡 鴨川合坐小社宅神社(名神大 月次 相嘗 新嘗)(かものかはひにます おこそへの かみのやしろ)の論社 古称は゛専女(とうめ)社゛〈稲女と同意 食物を司る神々〉『百練抄』安元元年(1157)の条に「小烏社」を合祀とあり祭神が変遷か

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【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

河合神社は 下鴨神社の境内゛糺す森゛に鎮座しています
下鴨神社の参拝に先立って 河合神社をお参りするとも云われます

下鴨神社の参拝については 下鴨神社記事を参照してください

・賀茂御祖神社〈下鴨神社〉(京都市左京区下鴨泉川町)

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賀茂御祖神社〈下鴨神社〉(京都市左京区下鴨泉川町)〈山城國一之宮〉

賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)は 本殿は東西二棟からなり 西本殿には 賀茂別雷神社の〈祖父神〉賀茂建角身命〈古代の京都をひらかれた神〉 東本殿には〈母神〉玉依媛命を祀り 賀茂別雷神社〈上賀茂神社〉とともに賀茂縣主の氏神を祀り 平安京遷都以降は国家鎮護の神社として 皇室や朝廷からも篤い崇敬を受ける 山城國一之宮です

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河合神社(京都市左京区下鴨泉川町)は 賀茂御祖神社〈下鴨神社〉から 楼門 二の鳥居 表参道を約500m程下った所辺り 下鴨神社 境内 糺森(たたすのもり)の中に鎮座します

西側の社頭には 朱色の鳥居が建ち 一礼をしてから境内に進みます

河合神社(京都市左京区下鴨泉川町)に参着

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東側の社頭には 下鴨神社の表参道が 境内 糺森(たたすのもり)を抜けていて「河合神社」の案内板が出されています

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案内には
゛女性守護 日本第一美麗の神゛とあり 女性守護としての信仰を集めるお社なので 授与品にも゛手鏡型の絵馬「鏡絵馬」゛とあり

 神社の公式HPには「手鏡の形をした絵馬(顔を表す模様が入った)にご自身の普段使用されている化粧品でメイクをしていただきます。このお顔はご自身の理想の姿を描きます。裏に願意を記入し、絵馬に願いを託すことにより、外見だけでなく内面も磨いて美しくなっていただくと言う絵馬となります」とあり

女性が絶え間なく参拝をしています

東側から見える境内は 糺森(たたすのもり)の中に白壁に囲まれているような佇まいです

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東側にも鳥居があり くぐり抜けると 社頭には東西に 鳥居が建っています

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西側の鳥居をくぐり抜けると すぐに手水舎があり 清めてから参道を進みます

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東西の鳥居の中間には 神門が構えていて ここが社頭となっています

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一礼をしてから 神門をくぐり抜けます

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拝殿にすすみます

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 須波神社について 所在は゛今別雷社楼門外に在す、諏訪社是歟゛〈現 須波神社〈上賀茂神社の摂社〉〉と記しています

その他の説として゛静原村平松山、稱ニ静原大明神゛〈現 静原神社(京都市左京区静市静原町)〉紹介していますが この説の根拠を知らないとしています

【抜粋意訳】

須波神社

須波は假字也

○祭神 健御名方命比保古○考証に、阿須波神と云り、今從は

○今別雷社楼門外に在す、考証」名跡志諏訪社是歟

○別雷社末社也

山城志云、在静原村平松山、稱ニ静原大明神、云々、其を志らず、

式内社 川合坐小社宅神社名神大 月次相嘗新嘗)について 所在は゛御祖社南に在す゛〈現 河合神社〈下鴨神社 境内〉〉と記しています

【抜粋意訳】

川合坐小社宅神社 名神大月次相嘗新嘗

鴨は賀茂と同訓也、」川合は加波比と読り、小社宅は哀古曽夜氣と訓べし、

○祭神 御祖別雷両神苗裔神年中行事秘抄

○御祖社南に在す山城志

○式二、四時祭下相嘗祭神七十一座、〔中略〕鴨川合社一座、」
 同三、臨時祭名神祭二百八十五座、〔中略〕山城国鴨川合神社一座、

連胤按るに、小社宅神社は小社氏の宅神にて、ヲコソノヤカカミと訓にやあらん、考ふべし、さはいへ姓氏録に見えず、氏人も考へ得ねばいぶかし、

大社
 年中行事秘抄云、天安日預大社、

神位 名神
 文徳録、天安月丁未、在山城從五位上作下鴨川合神預名神、
 三代録、貞観元年正月二十七日甲申、奉授山城從五位下鴨川合神從五位上、
 同十一二十五日己丑、授山城國従五位上鵬川合坐小祖宅神當作社〕正五位下、
 百練抄、寛仁元年十二月朔旧乙丑、授河合神正二位、依行幸之賞也、
野府記、寛仁元年十一二十五日已未、幸賀茂、十二日丁卯、河合片間貴布禰被奉増正二位、社司注進本位従二位、仍所被奉増位、昨日御位記、

祭祀
 年中行事秘抄云、川合神、伴神社、立始祭始之由無ニ所見、但依ニ天安二年八月七日太政官符、預ニ大社・・・・・

修埋 焼亡
 中右記、天永二十九日、河合社廻廊等焼了、十一日、行軒廊御卜、川合社欲被修造之処往古之寸法與今度増寸注何吉哉、令ニ官寮卜申者、又件旨被下本社解也、往古件社幣殿中門狭少也、而前社司季長時作成広大葺檜皮之間、季長卒去、又巳焼亡、仍過差之條神慮不叶歟、又以狭少寸法被作者有恐、可随勅定之由進社解也、仍有此御ト也、

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 須波神社について 社号のみが記されています

【抜粋意訳】

須波(スハノ)神社

式内社 鴨川合坐小社宅神社名神大 月次相嘗新嘗)について 所在は゛今 下鴨の南 糺森にあり、゛〈現 河合神社〈下鴨神社 境内〉〉と記しています

式内社 川合坐小社宅神社名神大 月次相嘗新嘗)について 所在は゛今 下鴨の南 糺森にあり゛〈現 河合神社〈下鴨神社 境内〉〉と記しています

【抜粋意訳】

鴨川合坐小社宅(カモノカハヒニマスヲコソヤケノ)神社

今 下鴨の南 糺森にあり、〔諸神記、山城志、〕
因て 又 只洲社といふ〔色葉字類鈔、拾芥鈔〕
盖 多々須玉依比賣命を祭る、〔御祖神社注進状、参取本月朝令、年中行事秘鈔、〕
之を賀茂大神の苗裔とす、〔本月朝令、年中行事秘鈔、〕〔〇按 苗裔神は子孫の事を云ふにあらず、大社に管摂せらるるの稱也、姑附て考に備ふ、〕

文徳天皇 天安二年八月丁未、從五位下 鴨川合神を名神大社に列奉り、四度官幣に預らしめ、〔文徳録、大社巳下據本朝月令、年中行事秘鈔、〕〔〇按 從五位下 本書に上とあるは誤れり、今 三代実録 貞観元年の文に據て之を訂す、
清和天皇 貞観元年正月甲申、從五位下より從五位上に叙され、十一月辛卯、祭を行ふ、〔三代実録〕
醍醐天皇 延喜元年十二月丙午、神祇官奏さく、川合神霊驗甚顯れ 貴も賤も皆 崇敬(イツキマイ)り、且幣帛を大神に奉る者、先づ比神に奉るを例とす、と申しき、故勅して相嘗祭に預らしむ、〔本月朝令、年中行事秘鈔引太政官符、〕〔〇按 延喜制、又本社を以て 名神大月次相嘗新嘗 及 祈年案上官幣の社とす、盖 天安以來の舊に從ふ也〕

後一條天皇 寬仁元年十二月丁卯 賀茂行幸に依て、從二位より正二位を授給ひき、〔小右記、左経記、日本紀略、〕〔〇按 日本紀略乙丑とあり、下條貴布禰片岡も又同じ〕

順徳天皇 建保四年四月乙卯、本院賀茂行幸の時、先此社に詣給へり、〔後鳥羽院宸記〕
凡四月中酉日を以て祭を行ふ、此日勅使を遣し給ふ、〔年中行事秘鈔、〕
神社禰宜祝みな鴨縣主を用ふ、〔鴨縣主系図〕凡賀茂社司御祖社に詣つる者必先づ此社を拜奉ると云ふ、〔雍州府志〕

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第1巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815490

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 須波神社について 所在には諸説がある
゛別雷神楼門外に在す諏訪社゛〈現 須波神社〈上賀茂神社の摂社〉
゛御祖社 攝社河合社゛〈現 河合神社(下鴨神社の境内に鎮座)〉
゛三井の末社に各諏訪社゛〈現 下鴨神社の境内 三井神社の境内社 諏訪社〉
゛静原明神゛〈現 静原神社(京都市左京区静市静原町)

しかし 何れも確証がないが 諏訪社と云うものがあるので 廃絶したとは言い難いので 尚考証をしてもらいたいと記しています

【抜粋意訳】

須波(スハノ)神社

祭神
祭日
社格

所在

今按 京都府式内考證に 當社考證  名跡志等に別雷神楼門外に在す諏訪社也と云ひ 今別雷神の説も又 稱すれども 頗る小祠にして 證するに足るものなし 御祖社 攝社河合社 及 三井の末社に各諏訪社あれども 亦徴すべからず 志云 静原明神なるもの是尤舊社にして 平庸の村社に非ず 今只據を知らざるを確信すべからずと云れど 諏訪社と稱するものあれば 廃社とは云難し 猶よく考べし

式内社 鴨川合坐小社宅神社名神大 月次相嘗新嘗)について 所在は゛賀茂御祖 摂社 御祖社 南三町゛〈現 河合神社〈下鴨神社 境内〉〉と記しています

【抜粋意訳】

鴨川合坐小社宅(カモノカハヒニマスヲコソヤケノ)神社 名神大 月次相嘗新嘗

祭神 小社宅

今按 この神の神系詳ならねど年中行事秘抄に川合神社ヲ立テ始メ祭ヲ始ル之由無ニ所見 但依ニ天安二年八月 太政官符預ニ大社 又 延喜元年十二月二十八日 太政官符弥ク得ニ神祇官解ヲ弥ケ件ノ川合ノ神 是御祖別雷両神ノ苗裔ノ神也
加之(シカノミナラズ)此神霊驗顕然而貴賤帰依奉ニ大神ニ幣帛之時先奉此神云々とあるによらば 苗裔神なり されど奉ニ大神ニ幣帛之時先奉此神とみえたるを以て 考るに御祖神社の注進狀に祭神 多々須玉依日賣命とあるは由ありげなり 尚よく考べし

神位
文徳天皇 天安二年八月七日預ニ四度官幣〔八月以下年中行事秘鈔〕八月丁未在ニ山城國 從五位上〔按 下文によるに上は下に作るべし〕鴨川合神預ニ名神
清和天皇 貞観元年正月二十七日甲申 奉授ニ山城國 從五位下 鴨川合神 從五位上 鴨川合ニ坐ス小社宅神〔按社本書に祖とあるは誤れり故今之を訂す〕姓五位下
後一條天皇 寬仁元年十二月朔日乙丑 詔授ニ河合神正二位 依ニ行幸之賞也〔後一條巳下日本紀略〕

祭日 十一月上子日
社格 賀茂御祖 摂社

所在 御祖社 南三町

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,大正14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/971155

河合神社(京都市左京区下鴨泉川町) (hai)」(90度のお辞儀)

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山城国 122座(大53座(並月次新嘗 就中11座預相嘗祭)・小69座(並官幣)

一緒に読む
山城國 122座(大53座(並月次新嘗 就中11座預相嘗祭)・小69座(並官幣)

山城国(やましろのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 山城国 の122座(大53座(並月次新嘗 就中11座預相嘗祭)・小69座(並官幣)の神社のことです

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