葛城一言主神社(かつらぎひとことぬしじんじゃ)は 「葛城之一言主大神」を祀ります 境内には 推定樹齢1,200年の大イチョウがあり 古社であることが見事にわかります 里人は どの様な願い事でも 一言の願いならば叶う「一言さん(いちごんさん)」と信仰し続けています 『記紀神話』の伝承によれぱ 一言主神は 第21代雄略天皇の条に 雄略天皇と葛城山で狩りを競われた神として記され 大和朝廷の中心で大王家と対等ともされた最大の古代豪族「葛城氏」が 一極集中に向かう大王家(雄略天皇)との対立構図のように描かれているとも窺えます 『続日本紀』天平宝字8年( 764年)条では 雄略天皇と狩りを競った「高鴨神」が土佐国に流されていたが 天平宝字8年に元の地に祀ったとあります
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(shrine name)】
葛城一言主神社(katsuragi hitokotonushi shrine)
(かつらぎひとことぬしじんじゃ)
[通称名(Common name)]
一言さん(ichigon san)
【鎮座地 (location) 】
奈良県御所市大字森脇432
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》葛城之一言主大神(katsuragi no hitokotonushi no okami)
《配》幼武尊(waka takeru no mikoto) 第21代雄略天皇
【御神格 (God's great power)】
・縁結び
・一言だけ願いを叶えてくれる「いちごんさん」
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』所載社 名神大社
【創 建 (Beginning of history)】
創建は不詳 社伝では 現鎮座地は一言主神が顕現した地
本社に鎮まります一言主大神は、第二十一代雄略天皇(幼武尊)が葛城山に狩をされた時に、顕現されました。
一言主大神は天皇と同じ姿で葛城山に顕現され、雄略天皇はそれが大神であることを知り、大御刀・弓矢・百官どもの衣服を奉献したと伝えられています。天皇はこの一言主大神を深く崇敬され、大いに御神徳を得られたのであります。この大神が顕現された「神降(かみたち)」と伝える地に、一言主大神と幼武尊(雄略天皇)をお祀りするのが当神社であります。
そして、『古事記』が伝えるところによると、一言主大神は自ら「吾(あ)は悪事(まがごと)も一言、善事(よごと)も一言、言離(ことさか)の神、葛城の一言主の大神なり」と、その神としての神力をお示しになられております。そのためか、この神様を「一言(いちごん)さん」という親愛の情を込めた呼び方でお呼び申し、一言の願いであれば何ごとでもお聴き下さる神様として、里びとはもちろんのこと、古く全国各地からの信仰を集めております。
当社は全国各地の一言主神を奉斎する神社の総本社であり、全国各地には当社に参拝するための講があり、現代にも篤い信仰を集めています。
葛城一言主神社パンフレット「いちごんさん」より
【由 緒 (history)】
本社は 雄略天皇が葛城山で狩りをされたとき、はじめて顕現された神を奉斎するものであります。
その次第が『日本書記』に次のように記されています。
天皇、葛城山にかりしたもう。たちまちにタケタカサヒトを見る。
来りてタニカイに望めり。かおすがた天皇にあいにれり。天皇これ神なりと知しめせども、なおコトサラに問いてのたまわく、いずこのキミぞ。タケタカサヒトこたえてもうさく、アラヒトの神ぞ、まずキミのミナをなのれ、しかるのちに言わん。
天皇答えてのたまわく、あれはこれ幼武尊なり。
タケタカサヒトつぎになのりてもうさく、ヤツガレはこれ一事主神なりと。ついにともにかりたのしむ。一鹿をはしりおいて、あいゆずりてやをはなち、クツワをならべて馳はす。
コトバいやいやしくつつしみ、ヒジリのごとくあり。
ここに日くれてかりやみぬ。
神、天皇をおくりたまいて、クメのカワに至る。このように、天皇と同じお姿で顕現され、鹿狩りをともに楽しまれた神であります。
『古事記』も内容は同じでありますが、「あはマガゴトも一言、ヨゴトも一言にいいはなつ神、葛城の一言主の大神なり」と答えておられる。そのためか里びとは俗に「いちごんさん」とお呼び申し、
一言の願いであれば何ことでもお聞きとどけ下される神として古くから親しまれ、「無言まいり」の神として広く信仰されています。御鎮座のこの高宮丘は、第二代綏靖天皇の宮址のあったところで、本社から少し北の丘辺に宮址の碑が立っています。
そして大臣を歴任した巨勢・平群・蘇我各氏の祖にあたる葛城氏の本宗の邸宅もこの地にあり、仁徳天皇の后で履中・反正・允恭三代の天皇の母后となられた磐の媛の生育された地でもあります。
その高宮丘の一角にある御鎮座の地を、古くカミタチといいましたが、それは神が降り立ったことからの地名であります。『延喜式』では名神大社に列し、月次・相嘗・新嘗には官幣に預かってきましたが、伝教大師も入唐にあたって本社を祈られたほどの霊験高き御祭神が顕現されたところであり各地の「一言主神社」の総本社でもあります。
宮司謹白
「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・一言稲荷神社《主》倉稲魂神
・祓戸社
・祓戸社《主》瀬織津比売命
・市杵島社《主》市杵嶋姫命
・天満社 《主》菅原道真公
・住吉社 《主》住吉三神
・八幡社・神功皇后社の合殿
《主》神功皇后・誉田別尊
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています
【延喜式神名帳】(engishiki jimmeicho)The shrine record was completed in December 927 AD.
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)大和国 286座(大128座(並月次新嘗・就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣))
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)葛上郡 17座(大12座・小5座)[名神大 大 小] 式内 名神大社
[旧 神社名 ] 葛木坐一言主神社(名神大 月次相嘗 新嘗)
[ふ り が な ](かつらぎにいます ひとことぬしの かみのやしろ)
[How to read ](katsuragi ni imasu hitokotonushi no kamino yashiro)
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
葛城 円(katsuragi no tsubura)について
古代豪族の葛城氏の本宗家の出身で 大臣(ohomi)と呼ばれていたと『記紀神話』には記されています
※円大臣(つぶらのおおおみ) - 『日本書紀』雄略天皇元年の条
葛城 襲津彦(sotsu hiko)の孫で葛城玉田宿禰(sukune)の子です
履中天皇2年(401年)国政に参加し政務をとったと伝わります
安康天皇3年(456年)眉輪王(mayowa no okimi)が安康天皇を殺害した時 眉輪王(mayowa no okimi)と疑いをかけられた坂合黒彦皇子(sakaai no kurohiko no miko)を邸内にかくまいます
『日本書紀(nihon shoki)』では
第21代 雄略天皇(yuryaku tenno)に屋敷を包囲され 娘の韓媛(kara hime)と葛城の屯倉(miyake)7ヶ所を差出して許しを乞いましたが 認められず焼き殺されます
『古事記(kojiki)』では
坂合黒彦皇子(sakaai no kurohiko no miko)は 邸宅に逃げこむ前に討たれていて 差出した屯倉(miyake)は5ヶ所です また 雄略天皇(yuryaku tenno)に焼き殺された訳ではなく 邸内で 戦い抜いた末に 眉輪王(mayowa no okimi)の意志に従い 眉輪王(mayowa no okimi)を刺し殺した上で 自らも首を切って命を絶ちます
古代大和王朝を支えた葛城氏の衰退
このように『記紀神話』の第21代 雄略天皇(yuryaku tenno)の条には 大和朝廷を支え続けた古代豪族「葛城氏」が 徐々に衰退する様子が 記されています
葛城氏は 大王家(のちの「天皇」)が 確立された後では 葛城「臣」となりますが かつては大王家と対等ともされた最大の豪族で あるいはもう一つの「大王家」であったとも伝わっています
「葛城之一言主大神(katsuragi no hitokotonushi no okami)」が『記紀神話』の中で登場するのは この一件の後になりますが その際も天皇と対等の神として描かれています
故に後世(797年)『続日本紀(shoku nihongi)』には 雄略天皇と狩りを競った「高鴨神」が 天皇の怒りをかって 土佐国に流されていたが 天平宝字8年に元の地に祀ったともあります
境内からは 葛城の里が見渡せます
神社にお詣り(Pray at the shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
御所駅から 県道213号と県道30号経由 4.6km 車10分程度
県道30号から左側道を降りて 県道の下をくぐるように右折すると「二の鳥居」が建ちます 鳥居の左横に蜘蛛塚があります ここに駐車場があります
葛城一言主神社(katsuragi hitokotonushi shrine)に到着
参道石畳の右手に社号標「式内大社 葛城一言主神社」とあります
石段下には祓戸社があります 罪穢れを祓ってお詣りです
石段を昇るとすぐに とても立派な拝殿があります
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
境内社や境内の御神木などにお詣りです
拝殿の前には 御神木「乳銀杏」があります
枝の付け根付近から気根が垂れ下がっていて お乳の出が良くなると伝えられています
御神木(乳銀杏)
樹齢約1,200年の老大木であり、宿り木とも呼ばれ 健康な子供が授かり お乳が良く出る。
古くから 子供を思う親の願いがこめられ、地元の人々の信仰を集めています葛城一言主神社
案内板より
万葉歌碑
「葛城の襲津彦真弓 荒木にも 頼めや君が名告りけむ」
葛城氏の祖と仰がれて 4世紀末前後の英雄であったと伝わる「葛城 襲津彦(sotsu hiko)」の名を詠み込んだ 万葉歌が伝えられています
一陽来復(いちようらいふく)難転魔滅(なんてんまめつ)お守り
一陽来復とは 陰極まって陽が復ってくること、即ち運が向いて来る。
良くない事が続いてもやがて幸運が巡って来るの意案内板より抜粋
蜘蛛塚(tsuchigumo zuka)
『日本書紀(nihon shoki)』神武天皇即位前紀には 当地の古地名「高尾張邑(takaohari no mura)」に土蜘蛛(tsuchigumo)がいて 皇軍は「葛(katsura)の網」を作って覆い捕らえて これを殺しので 邑を改めて葛城(katsuragi)としたと伝えています
境内には この「土蜘蛛(tsuchigumo)」の頭と胴と足を三つに分けて埋めたという塚が三か所伝えられています
①二の鳥居の左横に蜘蛛塚
➁境内の蜘蛛塚
➂拝殿の奥 御垣の中 本殿横の庭に蜘蛛塚(大祭の時だけ参拝可能)
※蜘蛛塚(tsuchigumo zuka)は 高天彦神社の近くにもあります
高天彦神社の記事もご覧ください
高天彦神社(たかまひこじんじゃ)は 高天(たかま)は鎮座地の地名ですが 日本神話に登場する高天原(たかまがはら)であったとの伝説が残ります 古代の大和朝廷に敬われ延喜の制では最高の名神大社となった古社です 古代豪族の葛城氏が祖神を祀り ここに坐ます
高天彦神社(御所市北窪)〈延喜式内社「高天三座」の一つ〉
境内を後にします
神社の伝承(Old tales handed down to shrines)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『記紀神話』には
第21代雄略天皇が 葛城山で狩猟をした折 山中で天皇と同じ姿の 葛城之一言主大神(katsuragi no hitokotonushi no okami)が現れて 天皇と狩猟を競ったと伝えています
『古事記(kojiki)』第21代雄略天皇 葛城之一言主大神の条 に記される伝承
意訳
「 また或る時 天皇が 葛城山に登っておいでになられる時に 百官の人々は ことごとく紅い紐をつけた青摺(aozuri)の衣を給わって着ておりましたその時に向うの山の尾根づたいに登る人があります
ちようど天皇の御行列にそっくりで その裝束の様もまた人たちもよく似て同じようでした
そこで天皇が御覽遊ばされて お尋ねになられるには「この倭國(yamato no kuni)に わたしを除いては君主はないのであるが 今 誰が かような形で行くのか」と問わしめされましたので 答え申す様子もまた天皇の仰せと同じ様でありましたそこで天皇が非常にお怒りになつて弓に矢をつがえますと 百官の人々も悉く矢を番えました
その向うの人たちも皆矢を番えましたそこで天皇がまたお尋ねになるには「それなら名をなのれ おのおの名をなのって矢を放とう」と仰せられました
そこでお答え申しますには「わたしが先に問われたから先に名のりをしょう
わたしは惡い事も一言 よい事も一言 言い分ける神である葛城之一言主大神(katsuragi no hitokotonushi no okami)だ」と仰せられましたそこで天皇が畏かしこまって仰せられるには
「畏れ多い事です わが大神よ かように現実の形(現身)をお持ちになろうとは思いませんでした」と申されて 御大刀また弓矢を始めとして 百官の人どもの着ていた衣服を脱がせて 拜んで献上されましたそこで その一言主大神(hitokotonushi no okami)も手を打って その贈物を受けられました
かくて天皇のお還りになる時に その大神は 山の末に集まって 長谷山口までお送り申し上げました
この一言主大神(hitokotonushi no okami)はその時に御出現になったのです 」
【原文参照】『古事記』刊本 ,明治03年選者:太安万侶/校訂者:長瀬真幸 国立公文書館デジタルアーカイブ
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『日本書紀(nihon shoki)』第21代雄略天皇 葛城山の条 に記される伝承
意訳
「 即位4年春2月 天皇は葛城山に狩りにお出でになられました
突然 背の高い人が出現しました その人が来て 谷間のところで行き合いましたその人の顔や姿は 天皇とよく似ていました
天皇は これは神であると思われたのですが あえてお尋ねになられて「どちらの公きみでいらっしゃいますか ?」と問われました
背の高い人は答えて言いました
「現人神(arahito gami)である まず 王(あなた)の名を名乗りなさい そしたら 後で 私も名をなのろう」と言われ天皇は答えて言われるには
「朕(私)は 幼武尊(waka takeru no mikoto)である」すると背の高い人は名乗って言いました
「私は一言主神(hitokotonushi no kami)である」そして 一緒に狩りを楽しんで ひとつの鹿を追いつめても 矢を放つことを互いに譲り合い 馬くつわを並べて 馳せ合われました
言葉も恭しくて 仙人に逢ったかのようでありました
日も暮れて狩りも終り
神は天皇を見送りされて 来目川までお越しになられましたこのとき 世の人々は 誰もが「天皇は徳のあるお方である」といいました 」
【原文参照】『日本書紀』 刊本 文政13年選者 舎人親王[旧蔵者]内務省 国立公文書館デジタルアーカイブ
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『続日本紀(shoku nihongi)』天平宝字8年(764年)条に記される伝承
『続日本紀』天平宝字8年( 764年)条では 雄略天皇と狩りを競った「高鴨神」が土佐国に流されていたが 天平宝字8年に元の地に祀ったとあります
意訳
「 大和葛城山で 大伯瀬天皇「第21代 雄略天皇(yuryaku tenno)」と出会った「老天」が 天皇と猟を争いました
天皇が怒り そのために土佐に流された
しかし 賀茂氏の先祖神であったので 天平宝字8年に大和国葛上郡の本処にある一言主神社に戻し祀られた 」
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『続日本紀』』延暦16年(797年)選者:菅野真道 写本 慶長19年[旧蔵者]紅葉山文庫
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「葛城之一言主大神」を祀ります 里人には どの様な願い事でも一言の願いならばかなえてくれる「一言さん(いちごんさん)」と信じられています
葛城一言主神社(katsuragi hitokotonushi shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
土佐国一之宮「土佐神社」の記事もご覧ください
土佐神社(しなねさま)は 土佐国一之宮として高い格式を持ちます 古代より 神が宿る自然石「磐座(iwakura)」をお祀りしていて「礫石(tsubute ishi)」と呼ばれるこの石が この地に落ちて止まった処に社を建てて祀られたのが始まりとしていて 創祀は古代に遡ると云われます
土佐神社(高知市一宮)〈延喜式内大社・土佐國一之宮〉
大和国 式内社 286座(大128座(並月次新嘗 就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)について に戻る
大和国(やまとのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 大和國の286座(大128座(並月次新嘗 就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)の神社のことです
大和国 286座(大128座(並月次新嘗就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)