勝占神社(かつらじんじゃ)は 古代この附近一帯は海で 出雲系海人の豪族が支配し その祖神 大己貴命を海に突き出た中山の東端の景勝地に祀ったのが発祥とされます 播磨風土記 宍禾郡 御方里の條 葦原志許乎命の黒葛(くろかつら)の伝承にも関連があるとも云う 延喜式内社 阿波國 勝浦郡 勝占神社(かつらの かみのやしろ)です
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
勝占神社(Katsura shrine)
【通称名(Common name)】
・杉尾大明神〈江戸時代の呼称〉
【鎮座地 (Location) 】
徳島県徳島市勝占町中山26
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》大己貴命(おほなむちのみこと)
《配》事代主命(ことしろぬしのみこと)
須勢理姫命(すせりびめのみこと)
少名彦命(すくなひこなのみこと)
玉櫛姫命(たまくしひめのみこと)〈別名 三嶋溝樴姫〉
大山祇命(おほやまづみのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
式内 勝占神社
当社は勝占町中山の中腹海抜六五米の高所に鎮座する古い社で今を去る千余年前(西歴九二七年)の延喜式神明帳にも載っている阿波国五十社の一つ。
古代この附近一帯は海であって出雲系海人の豪族が支配し その大祖神の大己貴命(おおなむちのみこと)(大国主命)を海に突き出た中山の東端、展望のよい景勝地の当地に祀った。これが勝占神社の発祥であると思われる。
爾来 中山をとりまく篠原郷篠原庄の氏神となり、古くは領主たる京都仁和寺より神田七町五反の寄進、源平時代には平家の重鎮 田口一族の尊信をあつめるかたわら、小松島に上陸した源義経が屋島にむかう途次 ここに参拝し「勝を占める」縁起を説いて士気を鼓舞したとの伝説、あるいは蒙古来襲の国難に当っては 当国 代官司の必勝祈願、降って戦国末期には 阿波国守護細川持隆の社殿建立、 江戸時代には蜂須賀家政ら三代の社参についで治昭の堂宇建立、等々国守級の人々からも篤い信仰が続き今日に至っている。
なお、本殿北の脇社であった金比羅祠は藩初 家政に懇請せられて城府鎮護のため二軒屋の勢見に遷宮せられたことは広く人の知るところである。
祭神の大己貴命は古来、農林漁業の神、勝負の神、医術の神として崇められている。
秋の例祭は十月十日
現地案内板より
【由 緒 (History)】
『阿波名勝誌』1916年(大正5年)に記される内容
【抜粋意訳】
勝占神社
勝占村西須賀にあり(小松烏驛を距るー里)(地藏橋驛を距る三丁)
祭神 大巳貴命 事代主 勢理姫命 玉櫛姫命にして 弘安四年正月 當國代官司 再建す
社傳に式内 勝占神社 正一位杉尾大明神と稱す 明治五年郷社 勝占神社と改稱す
元暦元年 源九郎判官 義経 平氏を讃岐に攻むるに當り 當山に登るや 一老翁に遇ひ 問ふに 讃岐屋島に至るの道を以てし 且つ地名に及ぶ 翁之に教ふるに間道を以てし 地名を勝占(かつら)と答へ終り 忽然として姿を失す 將士皆 奇異の思ひを為し 是ぞ正しく此神の出現ましませるなりと暑く敬拜し 武運を祈り 田地山林若干、鍬二箇、鼓胴一個、勝占石、勝占鏡を納めたり
今尚存すと峰須賀家 入國以來も本祠を尊信する事篤く 特に保議を加へたりき 此地 又 昔時勢見山鉢伏山と稱し 義經尼子浦に上陸し 爰處に登りて軍勢を見しによれるものにて 爾來 名勝古蹟のーとして 著名なり 峰須賀家 勝占神社の北側にありし 末社 金比羅神社を德島に遷すに當り 勢見山の名稱と共に移して 德島市眉山の南麓を呼ぶに至り 當處な鉢伏山と曰ふ 卽ち其形の似たるに取れると云ひ 又 義經の兜を脱し 其兵を観たるに由ると云ふ
【原文参照】
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・勝占神社 社殿〈本殿・幣殿・拝殿〉・松熊社〈左横の境内社〉
・拝殿
・〈境内向かって右手の境内社〉・金比羅宮・袋振宮・秋葉神社・地神社《主》地神五柱神・地神社
・拝殿前の狛犬
・拝殿前の石段・石灯籠
・山裾の鳥居
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
〇『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
〇『風土記(ふどき)』
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)南海道 163座…大29(うち預月次新嘗10・さらにこのうち預相嘗4)・小134[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)阿波國 50座(大3座・小47座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)勝浦郡 8座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 勝占神社
[ふ り が な ](かつらの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Katsura no kaminoyashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
類社として 式内社で「かつらのかみのやしろ」の音を持つ神社について
延喜式内社 河内國 若江郡 加津良神社(かつらの かみのやしろ)
「縵氏」が祖神を祀ったと云われます
「縵氏」には 百済の渡来系の「縵連」と 物部系の「縵連」の二つがあります
当地付近は 物部氏の拠点であったとされています
・加津良神社(八尾市萱振町)
加津良神社(かつらじんじゃ)は 延喜式内社 河内國 若江郡 加津良神社(かつらの かみのやしろ)で 古よりこの地に鎮座しており〈明治期に旧 栗栖神社に合祀されたが 戦後 旧地に復活〉鎮座地名の萱振(かやふり)の名について゛祭事に神前にて松明(たいまつ)を振て神をいさむるなり 故に萱振の名あり゛と云う
加津良神社(八尾市萱振町)〈『日本三代実録』加津良神・『延喜式』加津良神社〉
延喜式内社 播磨國 多可郡 加都良乃命神社(かつらのみことの かみのやしろ)の論社
類社として 播磨國 多可郡の式内社「加都良乃命神社」について
・加都良神社(多可町中区間子)
加都良神社(かつらじんじゃ)は 創建は聖武天皇 天平元年(729)大和国の袖振山から「勝手神社」(奈良県吉野町吉野山)の神を勧請したと伝わり 江戸時代には「勝手大明神」と呼ばれました 延喜式内社 播磨國 多可郡 加都良乃命神社(かつらのみことの かみのやしろ)は 所在不明でしたが 明治以降 式内論社となっています
加都良神社(多可郡多可町中区間子)〈延喜式内社 論社〉
・加都良神社(多可町中区岸上)〈御旅所〉
加都良神社(かつらじんじゃ)は 加都良神社(多可町中区間子)が創建の時 大和国の袖振山から「勝手神社」(奈良県吉野町吉野山)の神を勧請したと伝わり ゛その時 御駐泊ありし所なり゛とし 往古 祭日には 加都良神社(多可町中区間子)から この所まで神幸があり 御旅所として年々御遷幸の祭事を執行していた所と伝わります
加都良神社(多可郡多可町中区岸上)〈御遷幸の祭事を執行した御旅所〉
・加都良神社(多可町中区天田)
加都良神社(かつらじんじゃ)は 創建年代は明らかではなく 隣接する高寺山量光寺は 推古天皇(593〜628)の御願所として創建されたと伝えます 又 一説に天保4年(1833)間子の加都良神社の祭礼の席次順のことより 不和を生じて 氏子が分離し 霊代を隣接する高寺山量光寺 本堂に鎮座し 仮殿上棟と遷座が行われたとも伝わります
加都良神社(多可郡多可町中区天田)〈延喜式内社の参考論社〉
延喜式内社 阿波國 勝浦郡 勝占神社(かつらの かみのやしろ)の論社
・勝占神社(勝占町中山)
勝占神社(かつらじんじゃ)は 古代この附近一帯は海で 出雲系海人の豪族が支配し その祖神 大己貴命を海に突き出た中山の東端の景勝地に祀ったのが発祥とされます 播磨風土記 宍禾郡 御方里の條 葦原志許乎命の黒葛(くろかつら)の伝承にも関連があるとも云う 延喜式内社 阿波國 勝浦郡 勝占神社(かつらの かみのやしろ)です
勝占神社(徳島市勝占町中山)〈延喜式内社・旧 郷社〉
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR牟岐線 地蔵橋駅から 約1.5km程 線路沿いに南下します 車3分程度
牟岐線の踏切を渡ると社頭になります
到着した時間には 年末の17時頃でしたので 辺りはすかっり暗くなっていて 山なのでどうしようかと想いながらも 参拝をしました
勝占神社(徳島市勝占町中山)に参着
古代この附近一帯は 海であって出雲系海人の豪族が支配したと伝わり 社殿は 中山の中腹にあり 海抜65mの高所に鎮座します
山の麓の鳥居の辺りは 太古は半島の先端で波打ち際であったのでしょう
鳥居に一礼をして 参道を登り始めます
参道は 山の木々の中を進みますが わずかな隙間からは 小松島湾が覗けます
さらに参道を上がります
すると 石燈籠に挟まれて 一直線に上がる石段があり その先に社殿の屋根が覗き見えています
石段を上がると 拝殿の前に出ます
石垣の上に狛犬 その先に拝殿が建ちます
拝殿にすすみます
既に辺りは 真っ暗で 拝殿内には電球が灯されています
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社殿は 拝殿 幣殿 本殿が一体となっています
とにかく 辺りは暗く よく写真が撮れたという感じです
境内右手にも 境内社があるようですが足元が暗く お祈りは断念して 境内に一礼をして参道石段を戻ります
下りの参道では 電球が照らされていて とても助かりました
無かったら真っ暗です
【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 勝占神社について 所在は゛西塚村に在す゛〈現 勝占神社(徳島市勝占町中山)〉と記しています
類社の式内社として゛河内國 若江郡 加津良神社゛を挙げています
【抜粋意訳】
勝占神社
勝占は 加都良と訓べし、郡名に同じ、
〇祭神 詳ならず
〇西塚村に在す、〔検録書入〕
類社
河内國 若江郡 加津良神社の條見合すべし
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 勝占神社について 所在は゛今 西須賀村 神路山に在り、杉尾明神といふ、゛〈現 勝占神社(徳島市勝占町中山)〉と記しています
祭神を゛大己貴神を祭る、゛葛 かつら゛の類似の伝承として ゛播磨風土記、宍禾郡 御方里の條に、葦原志許乎命の黒葛一條゛を挙げています
【抜粋意訳】
勝占(カツラノ)神社
今 西須賀村 神路山に在り、杉尾明神といふ、〔神名帳考、阿波志、阿府志、〕
〔〇按 一説 勝浦村にありとす、今 阿波國圖を閲るに、勝浦西塚相隣れり、〕盖 大己貴神を祭る、〔参取播磨風土記、本社傳説〕
〔〇按 播磨風土記、宍禾郡 御方里の條に、葦原志許乎命、天日槍命と各黒葛三條を足に着て投給ふ時に、葦原志許乎命の黒葛(くろかつら)一條は但馬氣多郡、一條は夜夫郡 一條は此の村に落きと云も由あり、之に因て考ふるに この郡名も神名に起れる事著し、〕凡 十月七日を以て祭を行ふ、〔阿波式社考証〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 勝占神社について 所在は゛西須賀村 (勝浦郡勝占村大字西須賀)゛〈現 勝占神社(徳島市勝占町中山)〉と記しています
祭神を゛大己貴神を祭る、゛葛 かつら゛の類似の伝承として ゛播磨風土記、宍禾郡 御方里の條に、葦原志許乎命の黒葛一條゛を挙げて 同じ音を持つ式内社゛播磨多可郡 加都良乃命神社も同神なる事著し゛としています
【抜粋意訳】
勝占神社
祭神 大己貴神
今按 阿波志編轉料舊記のうち 寬政五年本社申立帳に神靈之儀は四座の明神 勝占彦〔大己貴命 事代主命〕勝占姫〔須勢理姫命 玉櫛姫命〕と往昔より奉祝來るとあり 明細帳にも同じさまに記せり
さて大己貴命を勝占神と稱へ奉りし故を考るに 播磨風土記宍禾郡御方里の條に 葦原志許乎命與天日槍命到故 墨志爾嵩 各(おのおの)黑葛(くろかつら)三條著足投之禰時 葦原志許乎命之 黑葛一條落但馬氣多郡 一條落夜夫郡 一條落此村故曰 三條とある黑葛を投げ玉へる故事によりて 勝占彦(かつら ひこ)神とも申つるものとみえたり かかれば播磨多可郡 加都良乃命神社も同神なる事著し祭日 十月七日
社格 郷社
所在 西須賀村 (勝浦郡勝占村大字西須賀)
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
勝占神社(徳島市勝占町中山)について 明治五年八月に郷社に列しています
祭神 大己貴神について ゛葛 かつら゛の類似の伝承として ゛播磨風土記、宍禾郡 御方里の條に、葦原志許乎命の黒葛一條゛を挙げ
又 筑前國宗像神社との関連性も記しています
【抜粋意訳】
〇徳島縣 阿波國 勝浦郡勝浦村大字西須賀
郷社 勝占神社
祭神
大己貴命(おほなむちのみこと)
事代主命(ことしろぬしのみこと)
須勢理姫命(すせりびめのみこと)
玉櫛姫命(たまくしひめのみこと)
本社祭神に関して
神祇志料に説あり、曰く「播磨風土記を案ずるに、宍禾郡 御方里の條に、葦原志許乎命、天日槍命と、各黒葛三條を足に着て投給ふ、時に葦原志許乎命の黒葛(くろかつら)一條は但馬氣多郡、一條は夜夫郡、一條は此の村に落きと云も由あり、之に因て考ふるに この郡名も神名に起れる事著し」と、猶 度會延經の神名帳考證には、素戔嗚命と祀るとす、是れ天照大神との誓約に勝ちて ,我心清明なり、故に我れ手弱女を得つ、されば我勝てるなりと宜ひしによれりとせり、
創建年代詳ならずと難も、其古社たるは諭なし、醍醐天皇 延喜の制小社に列す (延喜式)降って後鳥羽天皇 元暦元年一月十一日、源義經武器を献納す、後村 上天皇 弘安四年正月 當國代官 社殿と造営す、後奈良天皇 天文十九年正月 細川讃岐守持隆、光格天皇 享和二年十二月松平阿波守治照、並に社殿を建立せり、
社號は往古 勝占神社 (占、後浦に作る)と稱しなりしが、中頃 松尾大明神と改め ,明治五年八月更に本號に復し、次いで郷社に列す。社殿は本殿、幣殿、拜殿あり、境内四千五十三坪 (民有地第二種 )を有す、
因に云ふ、本社ーに勝の宮と稱し、参考本盛衰記に、「是より三十四丁まかり候うて、櫻間介良遠と申すものこそ城に陣取りて候へ云々、今三十丁まかりて勝の宮といふ社あり、成能が子息 田口成直が餘勢等も候ふらん、判官打てやと勝の宮に押し寄せ、散々に就散し打つ程に、新八幡宮の實前をば下馬して再拜し、讃岐の八島に打通りけり云々」と、
一説、當郡小松島浦 辨財天女宮と勝占神社に擬したり、
式社略考に、「小松島浦ひ 辨財天女宮あり、そは是欺、然云ふよしは、古事記に、速須佐之男命白に于天照大神 我心清明故我所生之子得手弱女因此言者自我勝云云とあり、斯くて此の三女神は、筑前國宗像神社に祭るよし古書に見えたり、さて其宗像に勝占と云ふ所ある由、延經が考記に見えたり、天照大神素戔嗚命の御誓、いはは右の如し、其誓に勝ち給ふ故に云々、是を以て、三女神を祭りて勝占神社と名づけしを、愚俗の習に女神なれば辨財天と申し誤りしならん云々』といへり。
【原文参照】
勝占神社(徳島市勝占町中山)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
阿波国 式内社 50座(大3座・小47座)について に戻る
阿波国(あわのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 阿波国 50座(大3座・小47座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
阿波国 式内社 50座(大3座・小47座)について