堅眞音神社(かたまおとじんじゃ)は 延喜式内社 紀伊國 名草郡 堅眞神社(かたまの かみのやしろ)とされる由緒ある古社です 天正の兵乱に荒廃して廃絶し 慶安三年(1650)石祠を建て再建 明治6年(1873)村社列格 明治40年(1907)鳴神社境内に遷座〔堅真音神社と合祀〕しましたが 近年この地にも再興されたものです
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
堅眞音神社(Katamaoto shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
和歌山県和歌山市神前253
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》木花咲耶媛命(このはなさくやひめのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
近年 逆松社からの分祀として神霊を頂き祀り 創建
【由 緒 (History)】
『紀伊國名所圖會』に記される内容
【抜粋意訳】
紀伊名所圖會 四之巻下 鳴神村
堅眞音神社(かたまおとじんじゃ)
〔鳴神村 鳴神社の東北三町ばかり、有馬村(ありまむら)の山のふもとにあり 其(その)ほとりに御手洗池(みてあらひいけ)あり また三本松(さんぼんまつ)といへる古松もあり〕
祭る神 神吾田鹿葦津姫命
〔〇延喜式神名帳(えんぎしきしんめいてう)に曰く 堅眞音神音(かたまえとのかむおと)大神社〕
〔〇本国神名帳(ほんこくしんめいてう)に曰く 正一位有眞音大神〕
〔〇三代実録に曰く 貞観元年五月二十六日辛巳 授く紀伊国正六位上 堅眞神 従五位上〕
〔〇又曰く 詔以紀伊国上竪眞神 列に於官社〕
〔〇又曰く 貞観八年閏三月丙丁朔十三日戊午 紀伊国従五位上 堅眞神 授に従四位下〕
〔〇堅眞音の社号及びまつるところの神の御名 すべて考ふるところなし〕
〔南紀神社録に曰く 堅眞は有眞の誤歟 今考ふるに 祀る神 武内宿禰の子に小鞆宿禰なるべし 武内宿禰は本国の人なるゆゑに 邦内武内の族類の神祠間間あり 蓋有馬は土地の名にして 香は小鞆の伝誤なる歟といへり〕
これをもつてさらに考ふるに
〔延喜式神名 及 三代実録は 堅眞音といひ 一は堅眞とのみいへれば 昔の字にはふかき義理もなきにや または此地に音浦山・音うらがはあれば 此音によれるか いかにぞや〕
〔本国神名帳 有眞音とあるは 和名沙 に此地を有眞と出せれば これをとれるならん さてその堅眞・有眞をおもふに いづれ一つはあやまりなるべし 有の字肩の字に形よくも似たれば 古あるひは堅は肩とも書きしを 有と誤りたるか あるひは有の字を肩とあやまり書きたるを やがて堅の字に為らためしか 其ほどは今しるべきやうもなし〕
〔また堅眞にもあれ 有眞にも此御神の座すによりて 地に名けしや この地名あるによりて やがて御社にかうむらせしや これよたしるべきやうなし しかるを加多奈と訓めるは 眞を奈に訓み誤りきたれるにこそ〕〔さて 祭神の神吾田鹿葦津姫といへるをおもふに 日本書紀 天津彦火瓊瓊杵尊 既に天降りまして 吾田長屋笠狭之崎(今薩摩国阿多郡阿多といへるあり これなり)いにいたらまししとき 鹿葦津姫 またの御名は神吾田津姫 または木花開耶姫とも申すを め娶して婚ひたまひ、火闌降悸命・彦火火出見尊・火照命、すべて三柱の皇子を生みたまふこと見えたり また此神 吾田鹿葦津姫命の姉神を 磐長姫と申せり 容色いと醜くくましましければ これをば めさずして ひとり妹の国色(かほよ)かりしを見感じて 目合したまへる處女にしあればこれによりて 尚さらに堅眞音といへるを考ふるに 堅は片にて 姉妹両人のうちを片々といへる義にとりなし 片眞具波比の美人の約れるにや またはその片々を求めて婚し給へれば 片求處女の意歟 または眞は美称たるにて 片々の眞處女といへることにもやあらん さるにても此御神および建甕槌命の この地にしづまりますことは いかなるゆゑによれるにや 尚考ふべし 此御やしろも前にいへる鳴武神社・香都知神社と同じく廃して 今石 祠のみ立てり
【原文参照】
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
鳴神社の境内社 香都知(かづち)神社 (俗称逆松さん)
・堅眞音神社〈鳴神社 境内社〉(和歌山市鳴神)
鳴神社(なるじんじゃ)は 古代 紀伊湊を開拓した紀伊忌部氏により創建された 延喜式内社 紀伊國 名草郡 鳴神社(名神大月次相嘗新嘗)(なるの かみのやしろ)とされます 又 境内には 二つの式内社〈香都知神社(かつちの かみのやしろ)・堅眞神社(かたまの かみのやしろ)〉の論社が境内社として祀られています
鳴神社(和歌山市鳴神)〈『三代実録』鳴神『延喜式』鳴神社〉
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
〇『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
〇『風土記(ふどき)』
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
『日本三代實録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
堅真音神社について 堅眞音神と表記して 神階 從五位上を奉授
【抜粋意訳】
卷二 貞觀元年(八五九)五月廿六日辛巳
○廿六日辛巳
攝津國 從五位下 伴馬立天照神 伴酒着神に 並に授正五位下
伊勢國 從五位下 員辨大神に 正五位下
紀伊國 正六位上 堅眞音神に 從五位上
【原文参照】
堅真音神社について 堅眞神(かたまのかみ)と表記して 官社に列した事が記されています
【抜粋意訳】
卷十 貞觀七年(八六五)五月十七日丁酉
○十七日丁酉
詔以て 紀伊國 從五位上 堅眞神(かたまのかみ)を 列に於官社に
上野國言 加擧權任國司公廨料稻七萬束 從之
【原文参照】
堅真音神社について 堅眞神(かたまのかみ)と表記して 神位 從四位下を奉授
【抜粋意訳】
卷十二 貞觀八年(八六六)閏三月十三日戊午
○十三日戊午
伊勢國 正五位下 員辨神(いなべのかみ)
紀伊國 從五位上 堅眞音神(かたまのかみ)に 並に授に從四位下
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)南海道 163座…大29(うち預月次新嘗10・さらにこのうち預相嘗4)・小134[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)紀伊國 31座(大13座・小18座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)名草郡 19座(大9座・小10座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 堅眞神社
[ふ り が な ](かたまの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Katama no kaminoyashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『紀伊続風土記』に記される内容
鳴神社には 延喜式内社 紀伊國 名草郡 鳴神社(名神大月次相嘗新嘗)(なるの かみのやしろ)です 境内には 同じく式内社の論社が二つ〈香都知神社(かつちの かみのやしろ)・堅眞神社(かたまの かみのやしろ)〉が祀られています
【抜粋意訳】
紀伊續風土記 巻之十二 名草郡 神宮郷 鳴神村
○鳴ノ神ノ(なるのかみの)社
境 内 東西四十八間 南北六十四間 禁殺生
本殿兩殿 各 表五尺 妻四尺五寸 兩拝所 各九尺 七尺
廳 御供所 瑞籬
鳥 居 二基 清浄池末社九社
夢神社 四尺 三尺 天照大神宮 春日社
延春明神社 住吉社 稲荷社
風神社 八幡宮延喜式神名帳鳴神社 名神大 月次 新甞 相甞
本國神名帳正一位鳴大神
村中にあり 一村の氏神なり 當社 本國式内相甞四社の一にし最尊し 三代實録に貞観元(859)年正月二十七日授紀伊ノ國従五位下鳴ノ神社従四位下ヲとあり 後 階を加えて正一位にのほり給ふ 鎮座の時代詳ならす 日前宮の舊記に中世國造家より神領若干を寄附し 大禰宣を補任し 祭祀等は神官の内行事を代官とす 是を鳴神行事といふ 其の後天正(1573)前後の事考ふへき事なし 慶長(1596)の頃より社僧の如き者 兩部習合の祭をなし來れるに 享保(1716)年中官命ありて 兩部を一洗して古典に復し 本殿雑舎に至るまで悉く修造せられ 神領五石を寄附し 新に神職を命せられる これより日前 国懸 伊太祁曽神と相列りて いと尊き御神なること再ひ世に知られたり
祀神 古傳を失へり 按するに國造家ノ舊記に鳴神村は 舊忌部郷の内とし 康富記 紀州鳴神社氏人楯桙を造進の事あり 本国に上古より忌部氏あり事 古語拾遺に詳なり 此等に因るに忌部氏の祖神 太玉命を忌部郷中嶋といふ地に祀りて氏人奉仕し 朝廷にも殊に尊ひ給ひて相嘗祭に預らせ給ひ祀れる 地の名をもて鳴ノ神社と稱し來れるなるへし 猶其詳なる事は神社考定の部に辨せり 且祭祀雑事等古文書に載するもの下に列す神主 武川 右近
令集觧の文中 日前云々 鳴上神己主等の文あれは 上世は別に當社の神主あり 其後 國造家に属せるに 天正兵乱の後 其家衰微し 慶長の頃より社僧祭祀を恣にせしに 享保年中 官命ありて社僧佛堂等を境外に移し 新に社殿造営の時 村中にて神職の筋目の者を擇ひて 當家を神主と定め給へり 其後 代々神主職たり
祭祀奉幣等
神祇令云 仲冬上ノ卯相嘗祭〔集觧云 大倭社 中略 紀伊ノ国坐日前国懸 須 伊太祁曽鳴巳上神主等請受官幣帛祭〕
國造家舊記云 十一月上卯月 鳴神社御祭惣官在職之間一度参詣行事一人代官也〔暦應四(1341)年並應永六(1399)年の記に見えたり〕
同記曰 十月調庸ノ祭〔下旬撰吉日〕次御捧物者 土師申御先御捧物者
兩宮中言二社 伊太祁曽 佐須妻大屋鳴神等分也〔瀬藤注 佐須は千田の須佐の意か〕
同記曰 二月六日以布為幣〔有四手〕彼布一端内半分進に伊太祁曽 鳴神社
同記曰 正月七日白馬次第云々 三匹獻 鳴ノ神社 権ノ内人大案主ノ間一人為使〔以上應永六年の記に見えたり〕
同古記曰 大神宮恒例テウヨウ「調庸」ノ御祭調へ物の事鳴神の宮絹三匹コトノヲイト「琴緒糸」一絢
雑事
中原康記 永享大嘗會ノ條に云 兵庫寮神楯桙立之件ノ楯桙 紀州鳴ノ神社氏人等 相論之經御沙汰之後 祝與氏人相合楯一帖充造進
日前宮 應永六年神事記曰 有に鳴神田南人母多年知行上臈〔白冠不詳〕中臈案主中仁飯酒を以て一年一度饗応之 而近年一向關如之仍彼田地二段〔小宅郷内〕惣衆中出之〔自に正平十二(1357)年出に此地畢面 又 自に正平十五(1360)年重入久請取此地出に代銭一貫文〕
此外 國造舊記 永仁三(1295)年検田取帳に小宅郷忌部郷等に當社の田畠若干ありし事を載たり
○鳴武神
境内周九十二間 禁殺生
御祓池〔周二十八間〕鳴武流〔長三十間 幅一間半〕
社地 鳴神社の境内未ノ方に接きて別に區域をなす 社今廃し石を建て 鳴武神慶安庚寅の七字を刻めり 國造家寛永記に 土人壷ノ御前といふとあり
麗氣記曰 鳴武神大明神ハ百済国耆闇大王ノ四女也 日前宮為に摂社 神祭霊す九月二十六日天降り給ふ也 酒壷七飛て共に以降る 今仁田中鳴神社前に臥居る長一丈 或七尺乍 七在千今人多見之とあり 按するに麗氣記の言怪誕といへとも 其中亦 古の事実を伝ふる者あり 土人今に至りて 此神を壷ノ御前といふときは麗氣記 酒壷の説ありけに聞ゆ 然れは女神とする説も 亦 或は古の伝へならんか 今村の北の山足に岸根の岩を圓に鑿て壷を埋めたる如き所 四五箇所あり 何れも口の径三尺許深四五尺許人功を以て作る物の如くなれとも 何の為なるを知る物なし 土人或はいふ 古 此地より温泉出しならん 其湯壷なるにやとうけかたし 今おもふに是或は麗氣記の酒壷といへる物ならんか猶考ふへし○香都知(カグツチ)ノ神
境内周六十六間 禁殺生
延喜式神名帳 香都知神社
本国神名帳 従四位上香都知神
鳴神社の東二町許にあり 社今廃して石を建て香都知神慶安庚寅の八字を彫む 社地域は御船の芝といへり 北の方一町許御供ノ井あり
○堅眞音(カタマオト)ノ神
境内周九十間 禁殺生
延喜式神名帳 堅眞(カタマ)ノ神社
本国神名帳 正一位有馬音(アリマオト)ノ大神
鳴神山の麓村の丑ノ方七町許にあり 社今廃す 碑を建て堅眞音ノ神享保甲辰の八字を彫む
三代実録に貞観元年(859)五月二十六日授紀伊ノ国正八位上堅眞音ノ神従五位上 同七年春正月十七日丁酉 紀伊ノ国従五位上堅真音ノ神ヲ列於官社 同八年閏三月十三日戊午 紀伊ノ国従五位上堅真音ノ神ニ授従四位下となり此後階を進めて正一位を加へられしなり
當社延喜式に堅眞音神とし 三代実録に堅眞音神とし 本国神名帳に有馬音大神とす 又 国造舊記に音明神とあり 其稱を考るに有馬は地名にして 此地は古の有馬郷の地なり 音も亦地名なり 音の地は今 有馬村に音浦といへる田地の字にのこれり 延喜式並三代実録の堅眞とあるは其義詳ならす○鳴武神 香都知 堅眞音 三神
国命を以て碑を立て遺跡を標し 鳴神社の神主をして主祭せしむ
【原文参照】
鳴神社には 延喜式内社 紀伊國 名草郡 鳴神社(名神大月次相嘗新嘗)(なるの かみのやしろ)です 境内には 同じく式内社の論社が二つ〈香都知神社(かつちの かみのやしろ)・堅眞神社(かたまの かみのやしろ)〉が祀られています
延喜式内社 紀伊國 名草郡 鳴神社(名神大月次相嘗新嘗)(なるの かみのやしろ)
・鳴神社(和歌山市鳴神)
鳴神社(なるじんじゃ)は 古代 紀伊湊を開拓した紀伊忌部氏により創建された 延喜式内社 紀伊國 名草郡 鳴神社(名神大月次相嘗新嘗)(なるの かみのやしろ)とされます 又 境内には 二つの式内社〈香都知神社(かつちの かみのやしろ)・堅眞神社(かたまの かみのやしろ)〉の論社が境内社として祀られています
鳴神社(和歌山市鳴神)〈『三代実録』鳴神『延喜式』鳴神社〉
延喜式内社 紀伊國 名草郡 香都知神社(かつちの かみのやしろ)
・香都知神社〈鳴神社 境内社〉(和歌山市鳴神)
鳴神社(なるじんじゃ)は 古代 紀伊湊を開拓した紀伊忌部氏により創建された 延喜式内社 紀伊國 名草郡 鳴神社(名神大月次相嘗新嘗)(なるの かみのやしろ)とされます 又 境内には 二つの式内社〈香都知神社(かつちの かみのやしろ)・堅眞神社(かたまの かみのやしろ)〉の論社が境内社として祀られています
鳴神社(和歌山市鳴神)〈『三代実録』鳴神『延喜式』鳴神社〉
・逆松社(和歌山市鳴神)
逆松社(さかさまつのやしろ)は 延喜式内社 紀伊國 名草郡 香都知神社(かつちの かみのやしろ)の旧鎮座地で 坂松明神と呼ばれていました 天正の兵乱に荒廃して廃絶しましたが 慶安三年(1650)石祠を建て 明治6年(1873)村社列格し 明治40年(1907)鳴神社境内に遷座〔堅真音神社と合祀〕されて現在に至ります
逆松社(和歌山市鳴神)〈延喜式内社 香都智神社の旧鎮座地〉
延喜式内社 紀伊國 名草郡 堅眞神社(かたまの かみのやしろ)
・堅眞音神社〈鳴神社 境内社〉(和歌山市鳴神)
鳴神社(なるじんじゃ)は 古代 紀伊湊を開拓した紀伊忌部氏により創建された 延喜式内社 紀伊國 名草郡 鳴神社(名神大月次相嘗新嘗)(なるの かみのやしろ)とされます 又 境内には 二つの式内社〈香都知神社(かつちの かみのやしろ)・堅眞神社(かたまの かみのやしろ)〉の論社が境内社として祀られています
鳴神社(和歌山市鳴神)〈『三代実録』鳴神『延喜式』鳴神社〉
・堅眞音神社(和歌山市神前)
堅眞音神社(かたまおとじんじゃ)は 延喜式内社 紀伊國 名草郡 堅眞神社(かたまの かみのやしろ)とされる由緒ある古社です 天正の兵乱に荒廃して廃絶し 慶安三年(1650)石祠を建て再建 明治6年(1873)村社列格 明治40年(1907)鳴神社境内に遷座〔堅真音神社と合祀〕しましたが 近年この地にも再興されたものです
堅眞音神社(和歌山市神前)〈『三代實録』堅眞神『延喜式』堅眞神社〉
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
わかやま電鉄 貴志川線 神前駅から西へ約270m 徒歩4分程度
住宅街の中に小さくたたずみます
堅眞音神社(和歌山市神前)に参着
住宅街の路地には゛堅真音(かたまおと)神社゛の幟旗
御祭神゛木花咲耶媛命(このはなさくやひめのみこと)゛の幟旗
鳥居をくぐり
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 堅眞音神社について 所在は゛鳴神社東北 町許、有馬村山麓に在す、゛〈現 逆松社(和歌山市鳴神)から分霊 後継社 堅眞音神社(和歌山市神前)〉
【抜粋意訳】
堅眞音神社
堅眞音は 訓がたし、和名鈔、〔郷名部〕有眞、〔今按るに、三代実録 堅眞に作る、本國神名帳、有眞音に作る、熟れとべきか、然ては和泉國 和泉郡有眞香と同じ名にやあらん、是も誤字ありと見ゆれば、互に通はして後勘の一助に申し試み置也、猶 和泉國和泉郡 阿理莫神社の條考へ合すべし、〕
〇祭神 詳ならず
〇鳴神社東北 町許、有馬村山麓に在す、今無に實殿建に石碑、〔神社録、名所圖會〕
神位 官社
三代實錄、貞観元年五月廿六日辛巳、紀伊國正六位上 堅眞音神授に從五位上、
同七年五月十七日丁酉、詔以に紀伊國 從五位上 堅眞音神列に於官社、
同八年閏三月十三日或午、紀伊國 從五位上 堅眞音神 授に從四位下、
本國神名帳、正一位有眞音大神、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 堅眞音神社について 所在は゛今 神宮上郷、有馬村、鳴神山の麓に在り、゛〈現 逆松社(和歌山市鳴神)から分霊 後継社 堅眞音神社(和歌山市神前)〉
【抜粋意訳】
堅眞音(カタマノオトノ)神社
〔〇按 本書、音字を脱せり、今 本書異本、三代實錄、紀伊國神名帳に據て之を補ふ、又按 紀伊國神名帳、堅を有に作り、倭名鈔 又有馬郷みえ、神社今有馬村に在る時は、堅は有の訛歟、恐らくは有肩の宇體相似て、肩堅音訓相通ふを以て、此謬誤ある歟、然れども三代實錄みな堅と作る時は、悉く改難し、姑附て考に備ふ、〕
今 神宮上郷、有馬村、鳴神山の麓に在り、〔陽國名跡志、紀伊神社略記、紀伊名所圖會、〕
〔〇按 本村に神社の御手洗也あり、其知に昔 浦山、音浦川あり、盖 堅眞音の音は、是に由て起こるに似り 姑附て考に備ふ、〕
音明神と云ふ、〔國造舊記〕
清和天皇 貞観元年五月辛巳、正六位上 堅眞音神に從五位上を賜ひ、
七年五月丁酉、詔しで官社に列しめ、八年閏三月戊午、從四位下を授く、〔三代實錄〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 堅眞音神社について 所在は゛鳴神村山麓(海草郡鳴神村大字 鳴神社に合併゛〈現 逆松社(和歌山市鳴神)から 堅眞音神社〈鳴神社 境内社〉(和歌山市鳴神)〉と記しています
【抜粋意訳】
堅眞音神社
祭神
今按 堅眞音は訓かたし
三代實錄にも延喜式に同し 國内神名帳に有眞音大神とあり
神社覈録に本社の事を有馬村山麓にますとみえ
式社考に有馬山の中腹にありと云ひ
和名抄に有眞とあるを思ふに有馬音神ならん歎 今決めかたし 祭神も考へ得す神位
清和天皇 貞観元年五月廿六日辛巳 紀伊國正六位上 野眞音神 授從 五位上
七年五月十七日丁酉 詔以 紀伊國從五位上 野眞神列於官社は年閏三月十三日戊午 紀伊國從五位上 野眞神授從四位下祭日
社格 村社所在 鳴神村山麓(海草郡鳴神村大字 鳴神社に合併)
【原文参照】
堅眞音神社(和歌山市神前)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
紀伊国 式内社 31座(大13座・小18座)について に戻る
紀伊国(きいのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 紀伊国 31座(大13座・小18座)の神社です
紀伊国 式内社 31座(大13座・小18座)について