滓上神社(かすかみじんじゃ)は 社伝に「垂仁天皇の皇子五十日帶彦命が越の国に下向あり、越前を圣て当地に幾星霜駐留あらせられ」とあり もと現在地の北方200mの平地に在ったが 明治十七年(1884)の大洪水で被害を受け 明治二十二年(1888)ここ森山の高台に遷座しました 発祥の地は ここから東南へ2km程の゛奥の宮゛とされ 延喜式内社 加賀国 能美郡 滓上神社(かすかみの かみのやしろ)の論社です
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
滓上神社(Kasukami shrine)
【通称名(Common name)】
・郷神様(さとがみさま)
【鎮座地 (Location) 】
石川県小松市中海町リ2
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
明治二十二年遷座の滓上神社(現在地の北方二百米の平地に鎮座)
《主》五十日足彦命(いかたらしひこのみこと)
明治二十二年遷座の八幡神社(寺家(じげ)に鎮座)
《配》応神天皇・神功皇后・比咩大神
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
中海町の神社の由来
延喜式内社 滓上神社の由緒
主祭神 垂仁天皇の皇子 五十日帯彦命
配祀神 誉田別命・息長帯姫・菊理媛命
当社は創始遼遠年紀未詳なるも、上古よりの旧社にして、旧由緒書きによれば、垂仁天皇の皇子 五十日帯彦命が越の国に下向あり、越前を経て当地に幾星霜駐留あらせられ、大いに教化を布き稼穡を勧め給いしにより、民庶靡然として王徳の高大に感じ、守護神として古から遠近より祈願する崇敬者多く、之を以て醍醐天皇の延長五年延喜式の神名帳に登載され、能美郡式内社八座の一となり、新年奉幣の儀あり、国司、国守の祈願あり、承保六年神階正四位を授けられ、昭和十七年社格郷社に列せられた。
なお当社はもと現在地の北方二百米の平地に在りしが、明治十七年の大洪水で被害を受け、同じく水害に遭った当町寺家(じげ)に鎮座の八幡神社(祭神 応神天皇、神功皇后、比咩大神)と共に明治二十二年二月に当森山の高台に遷座し奉ったのである。
一、他の合祀社について
神明宮 祭神 天照大御神
白山社 (元ハカン谷に鎮座)
祭神 伊弉諾尊、伊弉冉尊、菊理媛命八幡社 (元シン谷に鎮座)
右二社は明治四十年に遷座される。一、産土(うぶすな)の神のいわれ
私達日本民族の祖先は、自然界に神の遍在を信じ、一方産土の神や氏神は有縁の地域及び住民を特に守護し給う神さまとして奉祀して来たのが神社であると拜察し奉る。昭和六十一年九月吉日
現地石碑文より
【由 緒 (History)】
由緒
当社の創祀遼遠 大寶2年4月の創建で 上古よりの旧社にて、旧由緒書によれば垂仁天皇の皇子 五十日帯彦命が高志道越の国の中(現神地所在地)に下向あり、越前を経て当地に幾星霜駐留あらせられ、大いに教化を布き稼穡を勧め給いしにより、民庶靡然として王徳の高大に感じ、守護神として古から遠近より祈願する崇敬者多く、之を以て醍醐天皇の延長五年延喜式の神名帳に登載され能美郡式内社八座の一となり、新年奉幣の儀あり、国司国守の祈願あり、嘉祥三年正六位を授けられる、元慶元年幣帛に預り、永保6年正四位に進み、昭和17年社格郷社に列せられた。当地では昔より郷神様と申す通稱あるは高志道越の国の中の地域を輕海の郷と稱する地域で郷の守護神とも伺へる。
※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
〈社殿向かって左隣・神明社〉
《主》天照大御神
〈社殿向かって右隣・合祀社〉
明治四十年遷座合祀の白山社(元ハカン谷に鎮座)
《合》伊弉諾尊・伊弉冉尊・菊理媛命
明治四十年遷座合祀の八幡社(元シン谷に鎮座)
《合》八幡神
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・滓上神社奥社の参道入り口の石碑
式内滓上神社奥社由来
滓上神社の創始は詳にするを得ずが祭神 垂仁皇子五十日帯日子命 皇子五十日帯日子命越ノ国の此ノ地に在住の当時 午ノ方向「南方」約十五町北の奥の奥ノ宮と稱せる所に奥社を設け 其ノ北に神木と名稱せる希有の槙柏樹を植え日詣なしたと云ふ 今尚生存凡貮千年を経たると云ふので 當社の創始は大寶年間時代には創建有りし事は疑なし
本社の祭日には此の奥社に参詣して御祈念を行ひ また社傳には 古より本社並びに此の奥社の神木に詣り御祈念をする崇敬者は越前ノ國 能登ノ遠方より見えたると神徳極めて崇く越国「加賀」に在っては 名祠の一に数へられていると傳はる
参道入り口の石碑文より
※この参道を進んでいくと 途中 深い森の入り口で 車両は通行止め
奥宮は 更にいった所にあるようですが 雨模様で ぬかるんでいて イノシシやクマにも用心が必要な場所らしく 未参拝
赤穂谷(あこうだに)のビャクシン
中海町の赤穂谷には、延喜式内社である滓上(かすかみ)神社の奥の宮があり、このビャクシンはその社地の中に神木として立っている。滓上神社の毎年春の例祭では、注連縄を取り替える儀式が行われており、多くの氏子が参列して神木を拝することが恒例となっている。
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)北陸道 352座…大14(うち預月次新嘗1)・小338
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)加賀国 42座(並小)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)能美郡 8座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 滓上神社
[ふ り が な ](かすかみの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Kasukami no kamino yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『富山県神社祭神御事歴』〈大正13年(1924)〉に記される゛御祭神 五十日足彦命(いかたらしひこのみこと)゛の伝承について
御祭神 五十日足彦命〈第11代 垂仁天皇の御子〉について 詳細に記され 布施爪村社 布施神社に奉祀す と記されています
【抜粋意訳】
卷七 富山縣神社祭神御事歴 第十篇 皇親の神靈
五十日足彦命
名號
(日本書紀 六)五十日足彦命(イカタラシヒコノミコト)
(古事記 中)五十日帯日子王(イカタラシヒコノキミ)
(新選姓氏録 摂津 皇別)垂仁天皇皇子 五十日足彦命御系統
日本書紀 巻六に、垂仁天皇三十四年、先是、娶山背苅幡戸邊、生三男、第一曰祖別命、第二曰五十日足彦命、第三曰膽武別命。五十日足彦命、是子石田君之始祖也とあり、垂仁天皇の皇子にまします。
〈これより先に山背苅幡戸邊(ヤマシロノカリハタトベ)を娶り 三人の男の子を生み 第一は祖別命(オオジワケノミコト)といい 第二は五十日足彦命(イカタラシヒコノミコト)といい 第三は膽武別命(イタケルワケノミコト)といい 五十日足彦命(イカタラシヒコノミコト)は この子は石田君の始祖です〉御事蹟
此の命は、春日山君、春日部君、石田君等の祖にまします、古事記、日本書紀奉仕の神社
此の命は、下新川郡西布施村 布施爪村社 布施神社に奉祀す、
【原文参照】
五十日帶彦命が 越の国に下向にあたり 駐留されたとの伝承を持つ式内社
社伝に「垂仁天皇の皇子五十日帶彦命が越の国に下向あり、越前を圣て当地に幾星霜駐留あらせられ」とあり 越國への赴任の際の駐留先が祀られています
式内社 加賀國 能美郡 滓上神社(かすかみの かみのやしろ)
・滓上神社(小松市中海町)
滓上神社(かすかみじんじゃ)は 社伝に「垂仁天皇の皇子五十日帶彦命が越の国に下向あり、越前を圣て当地に幾星霜駐留あらせられ」とあり もと現在地の北方200mの平地に在ったが 明治十七年(1884)の大洪水で被害を受け 明治二十二年(1888)ここ森山の高台に遷座しました 発祥の地は ここから東南へ2km程の゛奥の宮゛とされ 延喜式内社 加賀国 能美郡 滓上神社(かすかみの かみのやしろ)の論社です
滓上神社(小松市中海町)
式内社 布勢神社(魚津市布施爪)の由緒に記される゛五十日足彦命゛の伝承について
祭神・五十日足彦命(イカタラシヒコノミコト)
五十日は 厳の義なるべし 十一代 垂仁天皇の皇子なり 越の國の君となり給ひ 匠を従へて穀物農具を持たしめ給ひ 民を率ひて開墾に従事し 民に業を授け後 今の魚沼郡に移りて開拓の業を与へ また漁網を教へ國造りの大功を奉し給ふ
と社伝にあり
・布勢神社(魚津市布施爪)
布勢神社(ふせじんじゃ)は 社伝に 創立は第26代 継体天皇(507~531)の時とあります 鎮座地の布施川流域は 阿古屋野古墳群などの遺跡が多数あり 古代 北陸道の布勢驛があった 新川東部では最も早く拓けた地域とされます 延喜式内社 北陸道 越中国 新川郡 布勢神社(ふせの かみのやしろ)とされます
布勢神社(魚津市布施爪)
由緒書きに 越後國に移ったと記されます 五十日足彦命を祀る越後國の式内社について
式内社 越後國 頸城郡 五十君神社(いそきみ かみのやしろ)
・五十君神社(上越市三和区所山田)
五十君神社(いぎみじんじゃ)は 社伝には祭神 五十日帶日子命(いかたらしひこのみこと)は大賀・不盡の二臣を従へて越後国に下り 池溝開発にあたり 頸城郡高志八岐村(所山田)で崩御された 大賀・不盡の二臣はこの地に留まり 命の神霊を奉祀 第12代景行天皇の御勅により五十王神社として奉り 神亀三年(726)五十君神社と改めた 式内社 越後國 頸城郡 五十君神社(いそきみかみのやしろ)とされます
五十君神社(上越市三和区所山田)
式内社 越後國 蒲原郡 伊加良志神社(いからしのかみのやしろ)
・五十嵐館跡(三条市飯田)
〈五十嵐神社 旧鎮座地〉
・五十嵐神社(三条市飯田)
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR小松駅から R360号経由で東方向へ約7km 車15分程度
梯川と支流 滓上川の合流する中海町に鎮座します
二つの川の合流地点のなので 水害が多発する地点とのこと
当社はもと現在地の北方200mの平地に在ったが 明治十七年(1884)の大洪水で被害を受け 同じく水害に遭った当町寺家(じげ)に鎮座の八幡神社(祭神 応神天皇、神功皇后、比咩大神)と共に明治二十二年(1888)二月に ここ森山の高台に遷座し奉ったとの事です
参道入口はわかり難いですが 社号標゛式内 滓上神社゛が建っています
滓上神社(小松市中海町)に参着
一礼をして鳥居をくぐり 森山の高台にむけて 参道の石段を上ります
石段は結構長くきついので 考え事でもしようと思い
社号の滓上(カスカミ)神社とは 滓(かす)は『滓(おり)』とも読めて 日本酒のできる時(醸造の時)゛酒かす゛の事を云うなと想い
もしかすると 酒の醸造にかかわっていた神なのか?
などと勝手な想像をしていたら
石段の中段迄上っていました
石段の上 二の鳥居の扁額にも゛式内 滓上神社゛と浮き彫り文字
こちらも 一礼をして くぐります
北北東を向いている社殿に対して 正中を進まないように 参道は少し斜めに社殿に向かっています
社殿の両脇には境内社が祀られています
冬場の積雪や寒風から社殿を守るためガラスの覆いがある拝殿にすすみます
ガラス扉を開くと 奉納の提灯と扁額゛滓上神社゛が掛けられています
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
ガラスで壁面を覆われた拝殿の奥には 幣殿 本殿が祀られています
社殿に一礼をして 境内社にお参りをして 境内を歩くと 確かに洪水から非難した高台であることがわかります
参道を戻り 石段を下ります
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 滓上神社について 社号のみ 読みとして加須加美(かすかみ)と記しています
【抜粋意訳】
滓上神社
滓上は 加須加美と讀り
祭神
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 滓上神社について 社号のみ 読みとして(カスカミノ)と記しています
【抜粋意訳】
滓上(カスカミノ)神社
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 滓上神社について 社号のみ記し 中村の社〈現 滓上神社(小松市中海町)〉とする言い伝えがあるが 決め手がない と記しています
【抜粋意訳】
滓上神社
祭神
祭日
社格
所在今按〈今考えるに〉
注進状に中村の社を従来 本社なる由 云傳ふれど 舊記 棟札等もなく 古き社號帳にも載らず社地のさま狭少にて式社の體にあらずと云へば決めがたし
【原文参照】
滓上神社(小松市中海町)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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加賀国(かがのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 加賀国には 42座(並小)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
加賀國(かがのくに)の 式内社 42座(並小)について