春日神社(かすかじんじゃ)は 慶長年間 藩祖 蜂須賀家政公が 渭の津に築城の際 名西郡入田の里より神霊を奉遷され創建 境内社 豊玉比賣神社(とよたまひめじんじゃ)は もと徳島城(城山)にあった゛竜王祠゛で 城の取り壊し時〈明治8年(1875)〉眉山麓にある国瑞彦神社に合祀 その後 ここに遷座された 式内社 天石門別豊玉比賣神社の論社です
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
春日神社(Kasuga shrine)
【通称名(Common name)】
おかすがはん
【鎮座地 (Location) 】
徳島県徳島市眉山町大滝山1
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》武甕槌命(たけみかずちのみこと)
斎主命(いはいぬしのみこと)
天児屋根命(あめのこやねのみこと)
比賣命(ひめみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
〈境内社 豊玉比賣神社〉
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
春日神社御由緒
御祭神
武甕槌命(たけみかずちのみこと)
斎主命(いはいぬしのみこと)
天児屋根命(あめのこやねのみこと)
比賣命(ひめみこと)御由緒
眉山の麓、大滝山に鎮り坐す春日神社は、奈良に坐す春日大社の御分社であり御祭神も同じ四柱の神々である。慶長年間 藩祖 蜂須賀家政公が渭の津に築城の際 名西郡入田の里より神霊を奉遷、鎮祭し奉ってより 徳島城下町の総氏神として、歴代藩主を始め上下の崇敬篤く明治初年には県社に列せられた。
当時の社殿を始め主要建築物は、昭和二十年の戦火の為殆ど灰燼に帰したが、其後本殿は二十六年十月に拝殿は三十四年十月に手水舎は六十三年十月にそれぞれ再建され今日に至ったものである。祭日
月次祭 毎月一日 十五日
春祭さくらまつり 四月第一土曜日
例大祭 十月十七日現地案内板より
【由 緒 (History)】
由緒 春日神社
御祭神は 武甕槌命(タケミカズチノミコト)斎主命(イハイヌシノミコト)天児屋根命(アメノコヤネノミコト)比売神(ヒメカミ)の四柱で
奈良春日大社と同一の神々で 天孫降臨の砌大功を建てられた武甕槌命、斎主命は常陸国鹿島大社に祭られて居ります。叉 天児屋根命、比売神は天の岩戸開に功績の有った神で河内国牧岡大社に祀られております。
この神々を奈良に都が出来たときに 御蓋山の麓に御祀りしたのが 今の春日大社で 古くは藤原氏の氏神様であります。
この神々が 阿波国名東郡入田の里に春日祠として御垂迹され居りましたが 慶長年間 尾張の蜂須賀家政公が 播州竜野より藩主として阿波へ入国 渭の津に城を築きて 城府の守護神として 大滝山東麓 現在地 御迎え申し上げ御祀りし 田宮の里在った鹿苑寺勝福寺(叉は正福寺通称春日寺)を之に移し管理せしめて 祭祀料として毎歳玄米12石を寄進しました。
歴代藩主 藩民の崇敬浅からず降者 明治始改革により県社に列せられました。各歳10月17日の例祭日には 幣帛供進使が県より参向れられて地区の、内町新町の氏神として周辺眉山公園と共に四時杖を引く者絶へざる県下きっての名社でありましたが 昭和20年7月3日夜の戦災により社殿烏有に帰し 幾年間地区氏子の間に再建の議起こり 元の位置に本殿(昭和26年10月15日竣工)拝殿(昭和34年10月17日竣工)が完成を見るにいたりました。※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・春日神社 社殿
・境内社 豊玉比賣神社
〈式内社 天石門別豊玉比賣神社の論社〉
元は徳島城内に鎮座した゛龍王宮゛は 式内社 天石門別豊玉比賣神社の論社とされ 国瑞彦神社・忌部神社を経て 現在は 徳島城鎮護の社である春日神社の境内社として遷座
《主》豊玉比賣命(とよたまひめのみこと)
豊玉比賣神社の御祭神は天石門別豊玉比賣(アマノイワトワケトヨタマヒメ)であります。
此の神は「古事記」神代記物語中、実に多くの頁を費やし、種々の寓話を述べられている大女王です。それにまた神武天皇の出生に連る山彦、海彦をも記しています。わが国天皇家生の歴史はこの海人族の大女王を無視しては成立しません。山幸彦は倭城(現・脇町)の住人です。隠国といわれ、倭は言挙げせぬ国などと称され、発言を封じられていた阿波国ですが事実の前にはさからえなかったのでしょう。醍醐天皇の御代に定められた延喜式神名帳では、日本国内で阿波一国にのみ拳祀せられています。日孁命と同様、天石門別豊玉比賣が豊日孁命の殯宮、同じく式内社 綿津見豊玉比賣神社が「古事紀」海幸彦、山幸彦の物語中に出てくる籠王宮の宮殿跡を社地として祀られています。
わが国の国始めの基礎を不動のものとしたこの大女王の神名の上に天石門別と延喜式で記されています。はるか太古、神々の物語時代(高天ヶ原時代)から天石門の外界に現われたの意味で、この神より後人皇の歴史となってきます。倭国天皇の皇統に君臨するのが日孁命、豊日孁命であることが歴然としています。
現地案内板より
〈本殿向かって右(北側)の2社〉
・秋葉神社〈右側〉
《主》大巳貴命
・若宮神社〈左側〉
《主》天忍雲根命
・地神社
《主》地神五柱神〈天照大御神・埴安姫神・保食神・大巳貴命・少彦名命〉
・手水舎
・注連柱
・社頭
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・龍王祠〈廃社〉
徳島市の徳島中央公園(城山)にあった竜王祠は 徳島城の取り壊し時〈明治8年(1875)〉眉山麓にある国瑞彦神社に合祀 現在は 春日神社境内に遷座
・竜王さんのクス(もと徳島城城山に鎮座した竜王祠〈廃社〉の付近)
竜王さんのクス
「龍王さんのクス」は、城山で最大のクスノキの古木で、樹齢推定600年くらい。昭和9年(1934)の室戸台風で倒れた。この大クスから西へ100メートル、低い石垣の上の小平地に竜王神社があったことから「竜王さんのクス」と呼ばれている。龍王神社は、明治8年(1875)の徳島城取り壊しのとき、眉山の麓にある伊賀町1丁目の国瑞彦神社に合祀された。
現地案内板より
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
〈式内社 天石門別豊玉比賣神社の論社〉境内社 豊玉比賣神社
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)南海道 163座…大29(うち預月次新嘗10・さらにこのうち預相嘗4)・小134[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)阿波國 50座(大3座・小47座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)名方郡 9座(大1座・小8座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 天石門別豊玉比賣神社
[ふ り が な ](あまのいはとわけ とよたまひめの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Amano Ihatowake toyotamahime no kaminoyashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
天石門別豊玉比賣神社(あまのいはとわけ とよたまひめの かみのやしろ)
・雨降神社(徳島市不動西町)
雨降神社(あまたらしじんじゃ)は 創建年代は不祥です 『延喜式神名帳(927 AD.)』に所載の 二つの式内社〈①天石門別豊玉比賣神社(あめのいはとわけ とよたまひめの かみのやしろ)②和多都美豊玉比賣神社(わたつみとよたまひめの かみのやしろ)〉の論社です 近世では゛雨降大明神゛と称し 雨乞の霊験が伝わります
雨降神社(徳島市不動西町)〈延喜式神名帳所載 論社〉
・龍王祠〈廃社〉
徳島市の徳島中央公園(城山)〉にあった竜王祠は 徳島城の取り壊し時〈明治8年(1875)〉眉山麓にある国瑞彦神社に合祀
・竜王さんのクス(もと徳島城城山に鎮座した竜王祠〈廃社〉の付近)
・国瑞彦神社(徳島市伊賀町)
※式内社(阿波國名方郡 天石門別豊玉比賣神社)の論社二つ鎮座
①境内社゛龍王神社゛〈現在は 廃社 本殿に合祀されている〉
※国瑞彦神社の境内社゛龍王神社゛は 式内社 天石門別豊玉比賣神社の論社とされていた
②竜王宮(もと徳島城城山に鎮座していた竜王宮)〈国瑞彦神社に合祀されていた時期あり〉
※元は徳島城内に鎮座した゛龍王宮゛は 式内論社の天石門別豊玉比賣神社とされ 国瑞彦神社・忌部神社を経て 現在は 徳島城鎮護の社である春日神社の境内社として遷座
国瑞彦神社(くにたまひこじんじゃ)は 文化3年(1806)藩祖 家政公を偲び゛国瑞彦゛の神号を受け この地に奉祀 式内論社の境内社 龍王神社〈現在 廃社 本殿に合祀〉と゛もと徳島城城山に鎮座の竜王祠゛を合祀した時期もあり 式内社 天石門別豊玉比賣神社(あまのいはとわけ とよたまひめの かみのやしろ)の論社とされます
國瑞彦神社(徳島市伊賀町)〈式内社 天石門別豊玉比賣神社の論社〉
・豊玉比賣神社〈春日神社境内〉(徳島市眉山町)
竜王宮(もと徳島城城山に鎮座していた竜王宮)〈国瑞彦神社に合祀されていた時期あり〉
※元は徳島城内に鎮座した゛龍王宮゛は 式内論社の天石門別豊玉賣売神社とされ 国瑞彦神社・忌部神社を経て 現在は 徳島城鎮護の社である春日神社の境内社として遷座
春日神社は 慶長年間 藩祖 蜂須賀家政公が 渭の津に築城の際 名西郡入田の里より神霊を奉遷され創建 境内社 豊玉比賣神社(とよたまひめじんじゃ)は もと徳島城(城山)にあった゛竜王祠゛城の取り壊し時〈明治8年(1875)〉眉山麓にある国瑞彦神社に合祀 その後 ここに遷座された 式内社 天石門別豊玉比賣神社の論社です
春日神社& 境内社 豊玉比賣神社(徳島市眉山町)
・天石門別八倉比賣神社(徳島市国府町)
天石門別八倉比賣神社(あまのいわとわけやくらひめじんじゃ)は 杉尾山(標高120m)の上に鎮座し 杉尾大明神と呼称されていました 明治3年(1870)に現号に改称していますが 地元では今でも「杉尾さん」と呼ばれて親しまれています 阿波一之宮とされる式内社「天石門別八倉比賣神社(大 月次 新嘗)」の論社でもあります
天石門別八倉比賣神社(徳島市国府町)〈阿波国一之宮〉
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR徳島駅から西へ約1km 車5分程度
寺町で東光寺と還国寺の間の道を進むと 眉山のふもとの湧き水 ゛錦竜水(きんりょうすい)゛があります
錦竜水
この眉山のふもとの湧き水を錦竜水(きんりょうすい)と言います。
徳島には、この錦竜水のほか、東山手町の瑞巌寺の鳳翔水(ほうしょうすい)、西富田の八幡神社の八幡水などの湧き水があります。
江戸時代の徳島城下の人々は、これらの眉山の湧き水を買って飲み水としていました。特に歴代の阿波藩主は、この錦竜水を愛用し、水番所を置いて保護しました、今も、錦竜水は、歴史的名水として多くの市民に親しまれています。
現地案内板より
春日神社には有料駐車場があります その先に社頭があります
春日神社(徳島市眉山町大滝山)& 境内社 豊玉比賣神社に参着
一礼をして鳥居をくぐり 手水舎で清めます
すぐ隣に鳥居が立っています
この鳥居は 扁額には゛豊玉比賣神社゛と刻されています
この境内社は 式内社 天石門別豊玉比賣神社の論社です
参道に戻り 石段を上がり
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
干支の絵馬が掲げられています
社殿に一礼ををして 境内社にお参りします
石段を下り参道を戻ります
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『阿波志(awashi)』〈文化12年(1815)全12巻〉に記される伝承
もと徳島城城山に鎮座した゛竜王祠゛について記しています
【抜粋意訳】
阿波志 巻之二 城府 祠廟 ゛龍祠゛
在猪山西南舊爲瀕海之地〈猪山の西南麓に在り 旧は 海に面していた地〉
又北麓有鹽竃祠〈又は 北麓に有る 鹽竈祠か〉
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 天石門別豊玉比賣神社について 所在については確定しないと記し
當國神社帳には゛天岩戸別神社(佐那河内村上)゛天石門別八倉比賣神社(徳島市国府町矢野)゛と見ているが如何か?と記しています
【抜粋意訳】
天石門別豊玉比賣神社
天石門別は前に同じ〈阿米乃伊波止和氣〉、豊玉は登與多麻と訓べし、比賣は假字也、
〇祭神 明か也
〇在所 慥(たしか)ならず、〔當國神社帳、名東郡住那河内村 天磐戸別社と云り、前なる八倉比賣社も同じく見ゆ如何、〕
比保古云、天明玉命也、櫛明玉 天明玉 豊玉 比賣神者、同神異名而作玉神也、」
奧田吉從云、神代上一書、天照大神磐戸隠ノコトヲ傳ヘタル中ニ、玉作部遠祖豊玉者造玉トアリ、此神ヲ祭レルナルベシ、石門アケ給へル時ノ物ヲ作レル神ナレバ、石門別卜云ベシ、連胤按るに、日本紀神代卷上、〔寶鏡開始段〕一書に、玉作部遠祖 豊玉者造玉、また一書に、眞坂木の中枝には懸ニ以 玉作遠祖 伊弊諾尊兒 天明玉、所作八坂瓊之曲玉云云、とあるより考へ出たる、爲起宿禰吉從等の説なれど、打任せても随ひがたくやあらん、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 天石門別豊玉比賣神社について 所在については゛舊 徳島城内にある龍王宮゛〈現 春日神社(徳島市眉山町)の 境内社 豊玉比売神社(合祀 竜王宮)〉と記しています
【抜粋意訳】
天石門別豊玉比賣神社
今 名東郡佐那河内村に在り、天磐門別社と云ふ、〔阿波神社帳〕
天石門別豊玉比賣神を祀る、〔延喜式〕
〔按 日本紀一書、天石戸の段に玉作部祖 豊玉神 玉を造るとあるは、同神にて、其天石屋に功あるを以て、天石門別の稱ある乎、されど豊玉神 果して女神りや詳かならず、或は豊玉神の姫神ならむ、神名秘書に櫛明玉命を高皇産 霊神の女とあれど、此書偏るに信がたし、此に天石門別と云るは、下條にも豊玉比賣神社ありて 同神の如く聞ゆる故に、同神に非る事を別ん爲にかくは記せるなるへし、姑附て考に備ふ、
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 天石門別豊玉比賣神社について 所在については
゛阿府志共に 德島城内の龍王なりと云へる゛〈現 春日神社(徳島市眉山町)の 境内社 豊玉比売神社(合祀 竜王宮)〉であるとも
゛今 名東郡和田村の王子権現なりとの説もあれど゛〈現 王子和田津美神社(徳島市国府町和田宮ノ元)〉とも
゛或は名西郡矢野村の杉尾明神 今云 八倉比賣社ならんとの説もあり゛〈現 天石門別八倉比賣神社(徳島市国府町矢野)〉と記しています
【抜粋意訳】
天石門別豊玉比賣神社
祭神
祭日
社格所在
今按 本社所在 阿波志 阿府志共に 德島城内の龍王なりと云へるを 式社略考には 今の城郭たまはざる以前より在し社ならば 此所ならんか 恐くは國初の御時 勧請せさせ玉ひしには あらぬかと云ヘども この龍王に明應中の金口もあれは 天正以來の社ならざる事は著し 一説に龍王といへば 和多都美豊玉比賣神社ならん
但し 其社は今 名東郡和田村の王子権現なりとの説もあれど こは和多と和田との同音より附會せしならんといへり
又 或は 名西郡矢野村の杉尾明神 今云 八倉比賣社ならんとの説もありとぞ 尚能く尋ぬべし
【原文参照】
春日神社(徳島市眉山町大滝山)& 境内社 豊玉比賣神社に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
阿波国 式内社 50座(大3座・小47座)について に戻る
阿波国(あわのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 阿波国 50座(大3座・小47座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
阿波国 式内社 50座(大3座・小47座)について