笠原神社(かさはらじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の式内社です 元々は現在地より東北300mほどの字天神前に鎮座していたが 寛文11年(1671)湯交川〈夜間瀬川〉の大洪水によって社殿を流失 その後 祭祀を委ねた若宮八幡宮が笠原神社の額を掲げたが 江戸寺社奉行の決裁で笠原村の勝訴となり 文化12年(1815)現在地に再建
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
笠原神社(Kasahara Shrine)
(かさはらじんじゃ)
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (Location) 】
長野県中野市大字笠原字下河原408
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》少彦名神(Sukunahikona no kami)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
創建の年代は不詳
【由 緒 (History)】
延喜式内 笠原神社 由緒
祭神 少彦名神
延喜式神名帳所載の神社にして 本村の産土神たり 旧時は字天神前に鎮座の処 中古流失につき当地に移転す
又 別当天台宗本誓寺あり 水災後 越後国 頸城郡 高田へ移転の趣 口碑に伝うと云う
文政五年 吉田家へ願い社号額字申受く
明治六年四月 県第四十六区の郷社に列せらる
明治四十年四月 神饌幣帛料供進神社に指定さる笠原神社の歴史
年不詳 笠原牧の牧官、笠原氏が 京都五条天神から 国作りの神 少彦名命を勧請して 字天神前に創建した。天つ神を祀るところから笠原の天神さんといわれ崇敬されてきた
927 延長5年 延喜式に笠原神社、笠原牧記載される。以後盛大な官祭が行われたといい今も火打田、的場等の字地が残る
1180 治承4年 笠原の住人 笠原平五頼直、源平の戦いで平家方の領袖として宇治川、市原で戦い翌年 横田河原戦で敗れ出羽国へ落る 同族の笠原行連は 後 源頼朝の御家人となり所領安堵される
1405 応永12年 下総国 本誓寺七世 性順、笠原氏を頼り 笠原字散法院に移住し寺号を笠原本誓寺と称す。後に笠原神社神宮寺となる
1449 宝徳 元年 八世 性善の代、本願寺蓮如上人逗留し直筆の本誓寺の額をあたえる
1550 天文19年 甲、越の戦火をさけ本誓寺十世 超賢 笠原神社を笠原村に託し寺宝を携え加賀小山御坊へ移る
1552 天文21年 超賢、上杉謙信の懇請を受け加賀、越前の一向一揆を諭し 上洛の通路を開らかしめ 翌年 謙信によって越後高田に笠原本誓寺再建される。蓮如上人直筆の本誓寺の額、今も寺宝として現存する
1671 寛文11年 度重なる夜間瀬川の大洪水により笠原神社、村落耕地流失する。神社流失後は祭祀を若宮八幡宮神官に託す
1750 寛延3年 若宮八幡宮、京都吉田家に出願し 八幡宮に笠原神社の額を掲げる。笠原村これを江戸寺社奉行所に出訴する
1752 宝暦2年 江戸寺社奉行 三井下總守の決裁で笠原村の勝訴となる
1815 文化12年 流失後 百四十四年、笠原神社本殿 現在地に再建される 六年後の文政四年、拝殿も再建される
1822 文政5年 当郡神社神官連署の證書をもって 京都吉田家に式内社の出願をする。翌文政六年吉田家より祝詞、神宣状、及び 式内社の額下付される
1848 嘉永 元年 六年前の天保十三年本殿の雨覆い再建され、この年 祝詞殿 再建される
1873 明治6年 本県第四十六区、近郷九ケ村の郷社に列される社頭の石板より
【境内社 (Other deities within the precincts)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)信濃国 48座(大7座・小41座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)高井郡 6座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 笠原神社
[ふ り が な ](かさはらの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Kasahara no kamino yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
祭神を笠原氏の祖神として 笠原眞人命を祀るとする説
新撰姓氏録に記されている笠原氏の祖神として 笠原眞人(カサハラノマヒト)は 天武天皇の皇子である磯城王(シキノミコ)の末裔と記されています
『新撰姓氏録(Shinsen Shoji roku)』〈815年(弘仁6年)〉に記される伝承
【意訳】
第一帙 左京皇室別の条
笠原眞人(カサハラノマヒト)
三園眞人(ミクニノマヒト)同祖(オナジキオヤ)
磯城王(シキノミコ)の後(スエ)なり
【原文参照】
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
信州中野駅から県道414号を北上 約4.6km 車10分程度
夜間瀬川の南岸に 南方を向いて鎮座します
社頭に朱色の両部鳥居が建ち 社号標「郷社 延喜式内 笠原神社」
立派な由緒書き石碑が立っています
笠原神社(Kasahara Shrine)に参着
一礼をして 朱色の鳥居をくぐります 鳥居の扁額は 白木に墨書き「延喜式内 笠原神社」
のんびりとした空気の漂う先に 茶色の拝殿が建っていて 石畳みの参道が続いています
拝殿にすすむと 自然木の額には「延喜式内 笠原神社」と文字が彫られています
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には本殿があり 覆い屋で覆われています
境内には古木が社殿を囲むように生えています 社殿の背後の山は 高社山 別名「高井富士」
参道を戻り 朱色の鳥居を抜けて 振り返り一礼をします
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
笠原真人を祭神と捉えて 天武天皇の皇子磯城親王の末裔と記しています
【意訳】
笠原(カサハラノ)神社
姓氏 笠原真人 天武皇子磯城親王之後也
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)』〈明治3年(1870年)〉に記される伝承
祭神を笠原氏の祖神として 笠原眞人命を祀ると記しています
【意訳】
笠原神社
笠原は加佐波良と訓ずべし
〇祭神 笠原眞人祖歟
〇姓氏録 左京皇室別 笠原眞人 三園眞人同祖 磯城王の後なり
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015『神社覈録』
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)』〈明治9年(1876)完成〉に記される内容
所在は 上下笠原両村 境界の地である 論社に田上村の豊国神社との説もあるがそれはあり得ないと記しています
【意訳】
笠原神社
祭神 少昆古名命
祭日 9月10日
社格 郷社
所在 上下笠原両村 境界の地(下高井郡平岡村大字笠原)
今按〈今考えるに〉
本社旧趾は 上笠原の東北字天神前と云うにあり その東方に接して 宜禰畑的場火打田等の字あり 旧趾の南に散法院と字する畑地あり これ旧 神宮寺の古跡にして 笠原山本誓寺と云えりとみえたる証とすべし
又 今の地に遷りしは 寛文11年 洪水によりてのことなる由みえ 今現に地名を笠原と称し 文政中 当郡 神官一同 故障あらざるの調印もあれば本社と確定すべき事云うまでもなし
しかるに同郡 田上村に於いて氏神 豊国神社を以って笠原神社に充てるの説あり 同県考按に 今 田上村の神社を詳密考索するに 笠原神社は笠原牧の旧趾を測ること20町余り西北にありて その地接続せざれば 笠原神社と云うもの信じ難しと云えるに従う
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155『特選神名牒』
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)』〈明治45年(1912)〉に記される伝承
寛文11年(1671)洪水で社殿が流失後 祭祀を委ねていた若宮八幡宮が 笠原神社の額を掲げたので 笠原村が これを江戸寺社奉行所に出訴し 江戸寺社奉行 三井下總守の決裁で笠原村の勝訴となる下りが記されています
【意訳】
長野縣 信濃國 下高井郡 平岡村 大字 笠原
郷社 笠原(カサハラノ)神社
祭神 少彦名(スクナヒコナノ)命
創建の年代を詳らかにせず 往昔 字天神前 現社地の東北約3丁に鎮座せしを 中古 数度の洪水にて社殿流失せしかば 今の地に遷座せりと云う
延喜式 高井郡 笠原神社とあるは これなり
神名帳考証 磯城王「継体紀云う 武蔵国造 笠原直使主 姓氏録云う 笠原真人 天武皇子磯城親王之後也」神社覈録「笠原は加佐波良と訓ずべし 〇祭神 笠原眞人祖歟 云々」
大日本史 神祇志「笠原神社〇今在 笠原村 社南有り神宮寺旧趾 号 笠原山」本社は 往古 笠原牧を置かれたる時は 官祭にも興り 典礼も厳重にて 近郷17ヶ村の崇敬社なりきと云う
旧社地の付近に 宜禰畑的場火打田等の字あり 又 散法院と唱える字あり 口碑に云う「該地は別当 神宮寺 井上本誓寺の趾にして 洪水の為 越後国に移りし者と云う」神祇志料「笠原神社 今 笠原村にあり 按 本社の南に旧神宮寺の古跡あり笠原山本誓寺と云う 又証とすべし」と
今 越後国 中頸城郡 高田州高井郡井上城主 源満寶の息 光盛 法名 教念の開基にして 同寺7世僧 性順 応永12年関東兵乱の為足を止める地なし 依って 伝来の宝物を守護して笠原に一寺を建て 井上本誓寺と称す 云々」
寛文11年 湯交川 大洪水に当り社殿流失せしかば 後 再建す
寛延3年 同郡 若宮八幡社に本社々号の額を掲げたれば 支配代官所 及び江戸奉行所へ出訴し 宝暦2年 奉行 三井下総守 遠藤伊勢守 立会裁許ありて 本社の勝訴に帰せり
文政6年正月 京都神祇管領より 笠原神社の神宣状 並びに 祝詞 及び 社号の額字を受く
従来 社領として高2石8斗2升1合を附せられしを 明治4年上地す 同6年6月郷社に列す社殿は 本殿 拝殿 祝詞殿 祭器所 同雨覆 鳥居等を具備し 境内地250坪あり
【原文参照】国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用『明治神社誌料』
笠原神社(Kasahara Shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
信濃国 48座(大7座・小41座) に戻る
信濃国(しなののくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 信濃国(しなののくに)には 48座(大7座・小41座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
信濃國 式内社 48座(大7座・小41座)について