加佐登神社(かさどじんじゃ)は 日本武尊の御陵とされる白鳥塚古墳の傍に尊が死の間際まで持っておられた笠と杖を御神体としてお祭りしたのが始まりで「御笠殿社」と呼ばれていました 明治41年(1908)高宮内の17神社を合祀した中に延喜式内社 伊勢國 鈴鹿郡 倭文神社(しとりの かみのやしろ)も含まれています
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1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
加佐登神社(Kasado shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
三重県鈴鹿市加佐登町2010番地
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》日本武尊(やまとたけるのみこと)
《合》天照大御神,豊受大神,火之迦具土神,気吹土主神,速玉之男命,天羽槌雄神(式内社 倭文神社),大国主命,伊邪那美神,伊邪那岐神,大雀命,建速須佐之男命,菅原道眞公,品田和気命,予母都事解之男神,息長帯比売命,大山津見神,
※明治41年(1908)高宮内の17神社を合祀し 今の「加佐登神社」となりました
合祀した神社の中には 延喜式内社「倭文(しどり)神社」も含まれています
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
加佐登神社 由来記
(祭神)
日本武尊(やまとたけるのみこと)
天照大御神(あまてらすおおみかみ)(他十四神 明治四十一年合祀)(由来)
古事記・日本書紀によると、日本武尊は第十二代 景行天皇の皇子でした。生れつき武勇にすぐれた尊は若くして九州の熊襲、出雲を平定し、つづいて東国の蝦夷征討へと旅立ちます。尊は、各地で戦い勝利を続けましたが、伊吹山の戦いで傷つき病におかされ動かぬ身体を引きずってこの能褒野に辿りつき、遥かに大和を望んて短い生涯を終えたと伝えられています。大和は国のまほろば たたなずく青垣
山こもれる大和しうるわし本殿北の白鳥塚は県下最大の円墳で、古くから日本武尊の御陵とされ本居宣長、平田篤胤らによって延喜の諸陵式の能褒野墓と考えられました。
この白鳥塚のそばに尊が死の間際まで持っておられた笠と杖を御神体としてお祭りしたのが、加佐登神社の始まりです。明治以前は卸笠殿社と称され、諸病平癒の霊験あらたかで、人々の篤い信仰を受けてきました。
大祭は、日本武尊の命日と伝わる、四月八日。
古代、この地は景行天皇が行在所を置かれたことから高宮の里とも呼ばれ、附近には綺宮跡や、奉冠塚・奉装塚など多くの古い塚が残っており、神苑は県下有数のつつじの名所として知られています。(祭日)
大祭 四月八日・初八日大祭 一月八日・月次祭 毎月八日
例祭 十月八日・春祭 二月二十一日・秋祭 十一月三十日現地案内板より
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由緒『御笠殿社由来記』
伊勢国鈴鹿郡荘野駅より10町ばかり北なる高宮村という所に、御笠殿とて、日本武尊の御社あり、こは尊の御笠を蔵めし所と語りつぎ、また其よりやや離れて、白鳥塚とて同じ尊の御陵あり、この辺おし並て、いにしへ能煩野といひし所にて、かの王の崩御ませる地なる故に御陵あるなり。延喜の諸陵式に能褒野墓日本武尊在伊勢国鈴鹿郡とあるはこれなり。なを其あたりに奉冠塚奉装塚など云ふもあるは皆かの王の御遺物を納めし所といふは信に然るべし。
抑かの王の御よはひいと若くまして倭童男王と申ししほどに、筑紫国なる熊襲たけると云ひし荒えびす討とり玉ひて、倭健男命と御名におひ巫せる御いさをしは更にも申さず、其後に吾妻の国々なる悪き神また射向ひまつる夷どもをみな征伐け給ひて、大倭のみやこに帰り坐せるに近江国の伊吹山なる荒ふる悪神をも取給はむと、其山に登り給ふ、ここに某神あしき気吹を起せるに、尊その悪気にあたり坐て、御足こひ腫たりしより悩み給ひて、遂にここにて崩御まししかば、即この所に御陵をつくりて、葬め奉れるに、白鳥となりて飛出給へれば、その御陵をひらき見るに、ただ御衣のみ在れる故にこを白鳥の陵とまうすこと、古事記日本書紀、熱田古縁起などに見えて、我師本居爺の故事伝は更なり、余が古史伝にもくはしく考へ記せるが如し。
斯くこの御笠を蔵めし丘はも、いと古く御社たてて、彼の王の御霊を祝ひまつりて、御笠殿とも、御笠社とも申し来り、其里にます熊野神司の神主鈴本氏なむ、往昔より持いつき奉り来ぬるを、御陵威いち速くおはし坐すは、この御笠はも小縁の物にあらねば、殊に御霊のとどまり坐せる故にや有らむ、然るは古くかくと云ひしは、世の常の笠はさる物にて、軍の時に用ふる兜をもしか言ひしこと、我ふみどもに考へ明せる如くなれば、比御笠申とせるもかならず王の御軍に出給ふごとに冠たまへる御兜ならむと思はるればなり、さて此を御笠社とまうすより、人の躰にいづる腫物、また瘡といふ病をなをし給ふと世にいひ伝へて、其なやみ有る徒から、近き辺の国は更なり、遠き国々よりもまゐで来て、そのよし願まをすに、いと速なる験ありとぞ。
この大神のさる病どもを直し給ふと云うこと、心得がたく思ふも有めれど、是なむ尊き神の御恵みにてかの吉野山に鎮座す、水分神とまをすは、雨を掌たもふ神に坐すを、いつの頃よりか唱へ訛りてみこもり明神と申すにつきて、子なき者いのり申せば、孕らしめ給ふ神ぞと世にいひつぎて祈り申すに、必ず其験ある如く、笠をはれ物のことに云ふなして、人の真心に祈り白すによりて、その御使い神などの、大神の幸御霊の御稜威をし賜はりて癒し給ふことと思はる。最も奇霊なる御わざなりかし。まして御足を損ひ給ひし御古事のあれは更なり斯ていにし文政6年8月のころ、己みやこりに上れる時しも、その御陵にまいり、御笠社にもまゐでて拝み奉れるに、その辺りの老人どもの言に、多病にても、腫れものの又は瘡など名けて、ねぎまをする人おほかるに、悉くその験ありといふに、畏けれど己があり経るやまひをし腫物ならねど其病ひになぞらへて願まをし、此病ども癒なむ後は、人づてにても賽し奉らむと、ねもごろに祈り申して帰れるに其病どもみな癒えたればいかで人伝にても奉賽し奉らむと常に心にかかる物から、よき伝なくて過しぬるを、今年その社に仕へまつる鈴本信房ぬしなも大江戸に来て、わが教へ子にさへなりて、此の御社の由よし書てと請はるるに、己としごろ信じ奉れる由緒もあれば、かへり白しの御初穂そなへ、なを行末の事の祈りをも頼み、打いさみつつ筆とりて、誰もよく読み、よく聞ゆべく、有のまにまに御由来をかく書しるせるは時は、文政12年といふ年の9月 平田篤胤※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
【由 緒 (History)】
〈明治41年〉合祀された延喜式内社「倭文(しどり)神社」について
明治41年 高宮内の17神社を合祀し 今の「加佐登神社」となりました
合祀した神社の中には 延喜式内社「倭文(しどり)神社」も含まれています
富岡鉄斎が記した巻物の巻頭部分に記されている、明治時代の高宮付近の様子です。(当社蔵)
日本武尊の父君景行天皇(第12代)が、尊が亡くなられた後、この地に仮の宮〜行在所(あんざいしょ)を置かれたことから、昭和の初めまでこの地は「高宮」と呼ばれておりました。
まだこの頃は、村内の各神社が合祀されておらず、「熊野神社」が椎山の下方にあり、現在の加佐登神社は「御笠殿社」と呼ばれていました。熊野神社の後方に延喜式内社「倭文神社」がありました。
加佐登神社公式HPより抜粋
https://www.kasado-jinja.com/%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6/%E7%99%BD%E9%B3%A5%E5%A1%9A/
『大神宮叢書』第3 後篇,昭和10~15年に記される内容
式内社 倭文(シトリ)神社について 考証しています
【抜粋意訳】
伊勢式内神社撿錄 鈴鹿郡神社十八處〔十九座 並小〕撿錄
○倭文(シトリ)神社。
此の社號は地名にあらざるを以て 其の在地を考索する由なし。延經の神名帳考證に、倭文井尻村 井與志(ヰトトシ)横音通す、といへり。遺響に これを解駁して云く、倭文は日本紀旁注に、倭文神、此に云に斯圖梨俄未、とあれば シトリと訓へし、圖と都通音にして、或は シツリとも訓へけれども、井尻の自と圖も都も各音通じ難し、然れば此言井尻に坐すと云妄なり、と論せしは宜なり。又 徴古錄に鷲山ならむかと注せるも浮妄なり。
又 案内記、俚諺、宮地記等には 高宮村に坐すと云へり。
遺響にも、高宮村にあり、正面鳥居本社、左傍に熊野権現祠、右傍に若宮八幡、高宮明神並び坐せり、今 憶ふに一郷の婦女 紡織を業として 或 縞文の類を織出す、高宮縞と稱す、倭文は靑布に文ありと注すれども、文采は織難し、縞にして今俗シタラ嶋と稱するはシトリ嶋の訛にして倭文なるべし、猶 倭文の事實に據て此神社の坐す處 奇と謂へし、と載たれど 考據の助とはなりがたし。
抑 高宮村の産神は熊野神を勧請する祠にて ,其右傍に在る小祠を高宮明神とす。本社に配するは其 高宮明神なるへし。倭名鈔に、高宮〔多加美也〕の郷を載す。高宮村は其郷名の據て出る所なるへければ、高宮明神 卽郷社にて、式内社たるべきなれども、縦に長四尺五寸径五尺二寸の小祠にて、しかも熊野社の摂社なりと謂へり。社地も高宮と稱すべき景狀にあらず。亦 舊風もなし。正しく本社に塡つべき證據あらざれば判決しがたき社なりかし。然るに菰野藩明細帳に、東菰野村 倭文神社〔式外〕、宮社〔七尺八寸五分、二尺五寸〕社地〔惣郭四百三十間、〕附元祿四年今の境內の南傍山峯に遷座、其後 享保八卯年 舊地江遷坐、今の地に御坐候、と載す。其祠 從來 倭文と稱し來るならば、式外とあれど本社の遺存ならむも測がたし。
猶 確証を探索して決定すべきにこそ。
然して諸書に日本紀の故加に遣 倭文神 建葉槌命を者則服とあると、奮事紀の復令に倭文遠祖 天羽槌雄神 織に文布をとあるを引て、本社の祭神の事を論すれど、姓氏錄に、委文宿禰、出自に神魂命之後 大味宿禰也、委文連、角凝魂男 伊佐布魂命之後也、とある委文氏の祖神を祀る所なるを以て、倭文神社と號すと謂はむか。
【原文参照】
神宮司庁 編『大神宮叢書』第3 後篇,西濃印刷岐阜支店,昭和10至15. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1239755
神宮司庁 編『大神宮叢書』第3 後篇,西濃印刷岐阜支店,昭和10至15. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1239755
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・加佐登神社 本殿・日本武尊像
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・加佐登神社 拝殿
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〈境内社〉5社合殿
・稲荷神社《主》建速須佐之男神,宇迦之御魂神,大市比賣之神
・日代神社《主》景行天皇
・多度神社《主》天津日子根命,天目一箇命
・金刀比羅神社《主》大物主命,少毘古名神
・内内神社《主》建稲種命,美夜受比賣命
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・社務所
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・境内 鳥居
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・手水舎
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・境内
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・境内案内図
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・社頭
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【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・白鳥塚古墳(しらとりづかこふん)
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三重県指定史跡 白鳥塚古墳
昭和12年11月10日指定
平成18年3月17日追加指定この古墳は古くから日本武尊 (倭建命)の墓と言い伝えられ、尊が死後に 白鳥となって飛び立ったという伝説にちなみ白鳥塚と呼ばれています。
以前は東西78m、南北59mの県内最大の円墳とされていましたが、 平成16・17年(2004-2005) に実施した発掘調査の結果、墳形は 東側に造出をもつ墳長78mの帆立貝式の前方後円墳であることが判明 しました。
墳丘には河原石が葺かれ、埴輪がめぐらされています。
その埴輪から5世紀前半代に築造されたとみられ、鈴鹿川流域を支配した 有力な首長の墳墓と考えられています。現地案内板より
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『風土記(ふどき)』和銅6年(713)
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています
『風土記(ふどき)』和銅6年(713)の特徴について
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本です
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史の総称
・『日本書紀』養老4年(720)完成
・『續日本紀』延暦16年(797)完成
・『日本後紀』承和7年(840)完成
・『續日本後紀』貞観11年(869)完成
・『日本文徳天皇実録』元慶3年(879)完成
・『日本三代實録』延喜元年(901)完成
〇『延喜式(えんぎしき)』延長5年(927)完成
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)全50巻 約3300条からなる
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢國 253座(大18座・小235座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)鈴鹿郡 19座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 倭文神社
[ふ り が な ](しとりの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Shitori no kaminoyashiro)
【原文参照】
国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
古代氏族 倭文氏に祀られた『延喜式神名帳』(927年編纂)所載社について
全国各地に祀られている「倭文(しとり しずり しどり しとおり)」を社名に持つ式内社は 建葉槌命を祖神とする倭文氏によって祀られたとされています
祭神については
機織の神 建葉槌命(たけはつちのみこと)別名を〈天羽雷命・天羽槌雄・武羽槌雄など〉を祀ります
詳しくは
・古代氏族 倭文氏に祀られた『延喜式神名帳』(927年編纂)所載社について
古代氏族 倭文氏(しとりうじ)は 「天羽雷命(あめはいかづちのみこと)〈建葉槌命(たけはつちのみこと)〉」を祖神とします 全国各地に祀られた式内社は 「倭文(しとり しずり しどり しとおり)」を社名に持ち 倭文氏の祖神を祀る式内社とされ 各国に13社が記されています それぞれの現在の論社も紹介します
古代氏族 倭文氏に祀られた『延喜式神名帳』(927年編纂)所載社について
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR関西本線 加佐登駅から約1.1km北上 徒歩での所要時間は17~20分程度 加佐登神社 一の鳥居に着きます
県道637号の加佐登駐在所前の交差点を北へ300m程進むと二又路があり
案内板に右⇒加佐登神社とあります 右手に椎山川に朱色の白鳥橋が懸かっています
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白鳥橋を渡るとすぐに駐車場があり 社頭となっています
加佐登神社(鈴鹿市加佐登町)に参着
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社頭の鳥居をくぐると 長い石段が続いています
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石段を上がり切ると 境内の入口に石鳥居が建ち くぐり抜けて境内へと進みます
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境内の中程で 参道が折れていますが その辺りに白木のとりいが建てられています
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拝殿にすすみます
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拝殿の向かって右には〈境内社〉5社合殿が祀られています
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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
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拝殿の横には日本武尊の石像があり 拝殿の奥には 檜皮葺の本殿があります
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社殿に一礼をして 境内参道を戻ります
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【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 倭文神社について 所在は゛高宮村に在す、゛〈現 加佐登神社(鈴鹿市加佐登町)に合祀された旧鎮座地〉と記しています
【抜粋意訳】
倭文神社
倭文は志図利と訓べし
○祭神 天羽槌雄神
○高宮村に在す、〔俚諺〕
〇日本紀、〔神代巻下〕一云、故加遺ニ 倭文神 建葉槌命 者則服、」
舊事紀、〔神祇本紀〕令ニ 倭文遠祖 天羽槌雄神 織ニ 文布 者、類社
駿河國富士郡、伊豆國田方郡、甲斐国巨摩郡、上野國那波郡、丹後國加佐郡、同國與謝郡、但馬國朝來郡、因幡国高草郡、伯耆國河村郡、同國久米郡 倭文神社、〔各一座〕近江國滋賀郡 倭神社、
【原文参照】
鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 倭文神社について 所在は 無記入で記されていません
【抜粋意訳】
倭文(シトリノ)神社、
蓋 倭文神 建葉槌命を祭る、〔日本書紀、古語拾遺、〕
【原文参照】
栗田寛 著『神祇志料』第10,11巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815495
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 倭文神社について 所在は 無記入で記されていません
゛高宮村 熊野神社社の左傍に在る小祠゛〈現 加佐登神社(鈴鹿市加佐登町)に合祀された旧鎮座地〉やその他の説は 共に確証がない と記しています
【抜粋意訳】
倭文神社
祭神
祭日
社格
所在今按るに 高宮村 熊野神社社の左傍に在る小祠を本社に配すれと 案内記の臆斷より出たる説にて確証なし 其餘 考證に井尻村 徴古録に鷲山村等の説もあれど 共に明據ある事なし
【原文参照】
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加佐登神社(鈴鹿市加佐登町)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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伊勢国(いせのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 伊勢国の 253座(大18座・小235座)の神社のことです 伊勢国(いせのくに)の式内社 253座は 一つの国としては 日本全国で最多数です
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