官舎神社(かんしゃじんじゃ)は 大神宮司(だいじんぐうじ) (今の神宮司廳(じんぐうしちゃう)の如き役所)役所が設けられ 沢山の官舎(廳院(ちゃういん)と云い御厨(みくりや)調御倉(つきのみくら)宮司宿館(ぐうじのしゅくかん)等の建物)が立ち並んでいたので それらの官舎の守護の神を祀った神社であるため この名が起つたものとされます
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
官舎神社(Kansha shrine)
【通称名(Common name)】
離宮さん
【鎮座地 (Location) 】
三重県伊勢市小俣町本町 1446
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)
經津主神(ふつぬしのかみ)
天兒屋根命(あめのこやねのみこと)
《配》姫神(ひめがみ)
《合》天忍穂耳命,天之菩卑能命,天津日子根命,活津日子根命,熊野久須毘命,多紀理毘売命,市木島比売命,多岐都比売命,猿田毘古大神,建速須佐之男神,倉稲魂命,大己貴神,大田命,大宮女神,保食神,金刀比羅神,祭神不詳,
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
官舎(かんしゃ)神社
鎮座地 度会郡小俣本町一四四六番地
主祭神
建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)
經津主神(ふつぬしのかみ)
天兒屋根命(あめのこやねのみこと)
姫神(ひめがみ)大祭 祈年祭二月十一日(お頭神事)
例祭九月十五日 諸祷祭十一月二十三日社宝 藤堂和泉守寄進状(元和三年<一六一七>・小俣町文化財)ほか
延暦十六年(七五七)八月三日、離宮院が創設された時、神宮祭主大中臣朝臣諸魚らが中臣氏祖神・春日明神を大仏山東麓津島崎から離宮院西方に遷座。
平安・鎌倉時代は、延喜式内「官舎神社」と同じ神として、歴代大宮司により氏神祭が行われました。
十五世紀後半の離宮院廃絶に伴いこの社も廃れ、中世末から、近世にかけては社殿もないまま離宮の神としてまつられていました。寛文三年(一六六三)、大宮司中臣精長が、離宮の一角に中臣氏社を再興、離宮の神と一体のものとして明治に及びました。
明治十二年 村社官舎神社再興、同十四年八柱神社を合祀、昭和十九年県社に昇格しました。社名は、大宮司の庁院や斎内親王の離宮の「官舎」 に由来すると伝えられています。
「離宮さん」の愛称、「旅の宮」「大漁宮」とも呼ばれ、 航空・交通安全や漁業者の信仰を集めています。
現地案内板より
【由 緒 (History)】
『神宮摂末社巡拝』下〈昭和18年〉に記される内容
【抜粋意訳】
官舎神社(くわんしゃじんじゃ)
鎮座地は度會郡小俣(をばた)町大字離宮山(りきゅうやま)の地で、省線宮川(みやがは)の駅の直ぐ南に見える森が、それである。神社の入口は東からで、百数十基の鳥居をくヾって、二町程参道を進むと、御本殿のもとに達する。これら多数の鳥居は何れも伊勢志摩沿岸の漁夫から奉納されたもので、本社は昔から大漁安全の神としての信仰が厚い。又「旅の宮(たびのみや)」とも言はれ、旅立ちをするものは必ずこの宮に参り、道中の安全を祈つたものであるといはれてゐる。
本社は延喜式内社であるが、今は村社の格で、小俣町の産土神になってゐる。本社の御名を官舎神社(くわんしゃじんじゃ)と稱する譯は、こゝに大神宮司(だいじんぐうじ) (今の神宮司廳(じんぐうしちゃう)の如き役所の)役所が設けられ、澤山の官舎(これを廳院(ちゃういん)といひ、御厨(みくりや)、調御倉(つきのみくら)、宮司宿館(ぐうじのしゅくくわん)等の建物あり)が立ち並んでゐたもので、それらの官舎の守護の神を祀った神社であるために、この名が起つたものである。
大神宮司の役所は ,大神宮が御鎭座になつた當時は、明星(みょうじゃう)村 有爾(うに)の烏墓(とつか)にあって、これを神庤(かんたち)と稱した。孝徳天皇の御代に、山田の高河京(たかちほ) (月夜見宮の附近 )に移され、これを大神宮御厨(だいじんぐうのみくりや)と改称したが、水害のため、この役所を今の地に移すやうになつたのは、桓武天皇の延暦十六年のことで、今からーー五〇年程前のことである。
御祭神は、大神宮司が代々中臣氏を以て任ずる関係上、中臣氏の祖神である春日(かすが)四柱の神 (天兒屋根命(あめのこやねのみこと)・姫神(ひめがみ)・建御雷神(たけみかづちのかみ)・經津主神(ふつぬしのかみ))を御祭り申し上げてゐる。
【原文参照】
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢國 253座(大18座・小235座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)度會郡 58座(大14座・小34座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 官舎神社
[ふ り が な ](みやけの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Miyake no kaminoyashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
大神宮司の役所〈官舎(かんしゃ)〉の変遷
大神宮司の役所は ,大神宮が御鎭座になつた當時は、明星(みょうじゃう)村 有爾(うに)の烏墓(とつか)にあって、これを神庤(かんたち)と稱した。孝徳天皇の御代に、山田の高河京(たかちほ) (月夜見宮の附近 )に移され、これを大神宮御厨(だいじんぐうのみくりや)と改称したが、水害のため、この役所を今の地に移すやうになつたのは、桓武天皇の延暦十六年のことで、今からーー五〇年程前のことである。
『神宮摂末社巡拝』下〈昭和18年〉より抜粋
大神宮司の役所の変遷について①~③の変遷を記しています
①大神宮が御鎭座になつた當時は、明星(みょうじゃう)村 有爾(うに)の烏墓(とつか)にあって、これを神庤(かんたち)と稱した
式内社 伊勢國 多氣郡 國生神社(くなりの かみのやしろ)
・鳥墓神社(明和町簑村字鳥墓 )
②孝徳天皇の御代に、山田の高河京(たかちほ) (月夜見宮の附近 )に移され、これを大神宮御厨(だいじんぐうのみくりや)と改称した
式内社 伊勢國 度會郡 川原坐國生神社(かわはらのます くなりの かみのやしろ)
・高河原神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉
高河原神社(たかがわらじんじゃ) は 豊受大神宮(外宮)の摂社です 『延喜式神名帳927 AD.』所載 伊勢國 度會郡 川原坐國生神社(かわはらのます くなりの かみのやしろ)とされます その後 応永26年(1419)に焼失し 近世には社地不明となりましたが 寛文3年(1663)現社地(月夜見宮 域内)に再興されました
高河原神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉(月夜見宮 域内)
①②に祀られている゛國生神(くなりのかみ)゛について
『延喜式』には「國生(くなり)」を号する式内社が五社(・狭田国生神社・坂手国生神社・川原坐国生神社・大間国生神社・国生神社)あります
何れも 伊勢國の式内社で 神宮と深く関わっています
しかし 御祭神は 神社ごとに別々で 特定の御神名ではありませんので 各々の地域の地主神に対する美称であろうと考えられています
すなわち 國生神(くなりのかみ)とは ゛国土に生まれでた神゛゛国を生む神゛の意で ゛國魂神(くにたまのかみ)゛の如く そこを支配し國土の生育を司っている神が 國生神(くなりのかみ)であろう とされます
③水害のため、この役所を今の地に移すやうになつたのは、桓武天皇の延暦十六年のことで、今からーー五〇年程前のことである
式内社 伊勢國 度會郡 官舎神社(みやけの かみのやしろ)
・官舎神社(伊勢市小俣町本町)
官舎神社(かんしゃじんじゃ)は 大神宮司(だいじんぐうじ) (今の神宮司廳(じんぐうしちゃう)の如き役所)役所が設けられ 沢山の官舎(廳院(ちゃういん)と云い御厨(みくりや)調御倉(つきのみくら)宮司宿館(ぐうじのしゅくかん)等の建物)が立ち並んでいたので それらの官舎の守護の神を祀った神社であるため この名が起つたものとされます
官舎神社(伊勢市小俣町本町)
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR参宮線 宮川駅の南側 離宮公園の南西に位置します
官舎神社(伊勢市小俣町本町)に参着
社号標の横の立札
一礼をして鳥居をくぐると 年間の祭典と神事が掲示されています
稲荷神社のように多くの鳥居〈稲荷は朱色の鳥居・こちらは白色の神明鳥居〉が奉納されている中を進みます
手水舎で清めます
拝殿にすすみ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
二十四節気の説明や神道の死後観 などが説明されている案内板があり 興味を惹かれて読み込みました
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 官舎神社について 所在は 離宮院西に在す、今中臣氏社、或春日社と称す〈現 官舎神社(伊勢市小俣町本町)〉と記し
寛文三年に精長朝臣が再興とも記しています
【抜粋意訳】
官舎神社
官舎は音読也
〇祭神 春日四坐
〇離宮院西に在す、今中臣氏社、或春日社と称す、〔神名略記〕
〇神宮雑例集云、右大臣清麻呂奉遷に春日社於摂津國島下郡、須久神社是也、宮司津島小松亦奉遷に度會郡津島崎、延暦十六年立に離宮院於湯田郷之曰、亦奉遷に彼院西方、
神名略記云、四月十一月上申日祭之、
神名帳云、官舎神社蓋此乎、寛文三年精長朝臣再興、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 官舎神社について 所在は 小俣村にあり〈現 官舎神社(伊勢市小俣町本町)〉と記しています
【抜粋意訳】
官舎(ミヤケノ)神社、延喜式
又 中臣氏社と云〔神宮雑例集〕
今 小俣村にあり、〔神鏡紀談、〕
中臣氏の祖 春日神を祭る、孝謙天皇 勝寶八歳位三月甲子、津島朝臣子松請奏しく、始て之を津島神に祭鎮奉り、桓武天皇延暦十六年八月丙辰、龍宮院を移建るの時、津島崎〔〇按 園太暦、筒岡に作る〕より湯田郷字羽西村離宮院西方に移さる、〔園太暦、神宮雑例集〕凡大神宮司は皆大中臣氏なるを以て、春秋氏神祭を此船に行ふ、〔伊勢國式内社検録〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 官舎神社について 所在は 三重縣小俣村離宮院舊域内西地〈現 官舎神社(伊勢市小俣町本町)〉と記しています
【抜粋意訳】
官舎神社
祭神 建御雷命,経津主命,天兒屋根命,比賣神
祭日
社格 村社所在 三重縣小俣村離宮院舊域内西地 (度會郡小俣村 )
今按 儉錄に園大暦云 離宮院依に延暦十六年八月三日宣旨移に立彼宇羽西村同時 中臣氏神社白筒岡奉遷に鎭 彼院ノ坤方也神宮雑例集云 中臣氏神社 鹿島神宮 香取神宮 平岡大神相殿姫神 天平勝寶八年三月 春日御社奉祭鎮 於伊勢國度會郡津島崎也 是宮司津島朝臣小松所申請也 延暦十六年八月三日 官符移立離宮院於度會郡湯田郷之時 件社自津島崎奉遷鎮彼院西方也 長德檢錄文云 湯田宇羽西津社〔在宇、御館羽ノ西〕類聚三代格弘仁八年十二月官符に度會郡官舎十一宇これ離宮院國域の司廳雜舎を云ふなり 然れば離宮官舎の西方にある中臣氏ノ神社 一名は湯田宇羽西ノ御社を官舎神社と稱するなるべしと云へり
【原文参照】
官舎神社(伊勢市小俣町本町)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
お伊勢さん125社について
゛伊勢神宮〈お伊勢さん〉゛ その正式名称は 二文字゛神宮゛(かみのみや or じんぐう)で 125のお社の総称とされます〈内訳は゛正宮〈内宮・外宮〉2所・別宮(わけみや)14社・摂社(せっしゃ)109社・末社(まっしゃ)24社・所管社(しょかんしゃ)34社・別宮所管社8社゛〉
お伊勢さん125社について〈神宮は正式名称 伊勢神宮125社の総称〉
伊勢国 式内社 253座(大18座・小235座)についてに戻る
伊勢国(いせのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 伊勢国の 253座(大18座・小235座)の神社のことです 伊勢国(いせのくに)の式内社 253座は 一つの国としては 日本全国で最多数です
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