神服神社(かむはとりじんじゃ)は 第19代 允恭天皇(インギョウテンノウ)〈在位412~453年頃〉の時代に服部氏の氏神として創建し「服部神(ハトリノカミ)」と称した古社です この地は服部連(ハトリノムラジ)の本拠地であったとされ『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に「神服神社(カムハトリノカミノヤシロ)」と所載されます
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
神服神社(Kamuhatori Shrine/ Shimpuku Shrine)
(かむはとりじんじゃ/しんぷくじんじゃ)
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (Location) 】
大阪府高槻市宮之川原元町2-25
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》熯之速日命(Hinohayahi no mikoto)〈服部連公の祖神〉
麻羅宿禰(Mara no sukune)〈熯之速日命の12世孫〉
素盞鳴命(Susanowo no mikoto)
《合》天照大神(Amaterasu okami)
豊受大神(Toyoke no okami)
服部連公(Hatorinomuraji no kimi)
天児屋根命(Amenokoyane no mikoto)
恵の神(Megumi no kami)
宇賀御魂神(Ukanomitama no kami)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
・初宮詣 Pray to God for the birth and growth of the newborn
・厄払祈願 Prayer at an age considered a milestone in life
・家内安全 Pray to God that the home is peaceful
・病気平癒 Pray to God to cure illness
・交通安全祈願 Pray for traffic safety
・合格祈願 Prayer for passing the exam
・安産祈願 Prayer for a healthy childbirth
・七五三詣 Dedicate your child's growth and thank God
・事業繁栄 Business prosperity
・必勝祈願 Victory prayer
・等 etc
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
神服神社
平安時代以来の延喜式内の古社
素盞鳴命(すさのうのみこと)・ 熯之速日命(ひのはやひのみこと)・麻羅宿禰(まらのすくね)の三神を祀る。この地 和名抄にいわゆる「服部郷(はとりのごう)」で諸国の織部(はとりべ)の部民を統括した服部連(はとりのむらじ)の居住地である。
伝承では允恭天皇の時 麻羅宿禰が織部司(おりべのつかさ)に任せられたというから8・9世紀のころ服部氏の 氏の神を勧請しあわせて 民族の始祖をその本貫の地に祀ったのが創祀である。
当時は「服部神」と呼ばれのち、醍醐天皇の延喜年間(10世紀初頭)神服神社と定められ現在に至っている。
維新以前、神仏混交の時代には安岡寺の社僧が執務したが、明治初年これを廃し同5年には郷社に列した。また近世には農耕・養蚕の神として村民の信仰厚く、社前の鳥居は延宝6年(1678)雨乞いの祈願成就の折建立されたもの
祭礼は毎年5月5日古くは棒振りの神事があり、神輿は阿久刀神社までお渡りがあった。
氏地は広く、塚脇、宮の川原、浦堂、大蔵司、西の川原を含む 旧 服部村 一円にわたっている。境内案内板より
【由 緒 (history)】
神服神社 由緒略記
神服神社は 延喜式内の古社で、19代允恭天皇(大和時代の西暦443年頃。仁徳天皇の第4皇子)の御世に、この付近一帯に機織りが盛んであったところから地名を服部(はとり)と呼んでおりました。
服部はもともと「機織部=はとりべ」からきたもので、機織りを職とする部族の名前でした。
服部連は 允恭天皇から機織部司に任命され、国々の織部を総領したことにより「連」姓を賜り服部連と称しておりました。その服部連の勧請により建立されたもので「服部神」と称しておりましたが、醍醐天皇(887年~930年)の延喜年間に「神服神社」(カムハトリカミノヤシロ)と改めました。いつの頃からか「しんぷくじんじゃ」と音読みされるようになりました。
御祭神は熯之速日命、麻羅宿禰、素戔嗚命(牛頭天王)をお祀りしておりましたが、
明治41年11月宮之川原の春日神社(天児屋根命)稲荷神社(宇賀御魂大神)を、また塚脇の上ノ宮神社(服部連公)浦堂の若宮神社(天児屋根命)大蔵司の神明神社(天照大神、豊受大神)を合祀し、お祀りするようになりました。当初 氏地は広く、清水村、芥川村、如是村大字津之江、同 西五百住、阿武野村大字氷室、同 岡本、同 苛川(いずれも旧称)に至りましたが、
現在は 宮之川原を中心に周辺の集落であった、塚脇、西之川原、大蔵司、浦堂のほか安岡寺、松が丘、真上、寺谷の一円になっています。境内地は1280坪あり、周りが市街地化されて行く中で、木々も繁り季節によっては小鳥の囀る声も聞こえ、氏子崇敬者、参拝者の心癒される場になっています。
神服神社公式HPよりhttp://www7b.biglobe.ne.jp/~kamuhatori/yuisyo.htm
【境内社 (Other deities within the precincts)】
本殿御門向かって右横脇の祠
・大明神舎(Daimyojin sha)《主》天児屋根命
〈明治41年 宮之川原の春日神社 浦堂の若宮神社 境内に遷座〉
境内北西の奥・稲荷社(inari sha)
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています
【延喜式神名帳】(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座 大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)摂津国 75座
(大26座(並月次新嘗・就中15座相嘗祭)・小49座(並官幣))
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)島上郡 3座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 神服神社
[ふ り が な ](かむはとりの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Kamuhatori no kamino yashiro)
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
服部(ハトリベ)について
神服神社と服部
神服(しんぷく)神社は、摂津峡につらなる帯仕山(おびしやま)のすそ野にある服部盆地の最奥に鎮座しています。
この帯仕山の山すそから山頂にかけての塚脇地区一帯には、約50基もの古墳が群集する塚脇古墳群(古墳時代)が、また、神社の南側には、大蔵司遺跡(弥生時代~鎌倉時代)がひろがり、このあたり一帯は古くから人々が生活を営んできた地域でもありました。また、江戸時代には、神社の近くを通る道は神峯山寺へと参るために利用されており、神服神社へ立ち寄る人も多かったのではないでしょうか。
神服神社は、927年に編纂された『延喜式』に記載されている律令時代の神社で、ヒノハヤヒノミコト、マラノスクネ、スサノオノミコトが祀られています。この地は、奈良時代、摂津国島上郡服部郷にあたり、服部連(はっとりのむらじ)の本拠地であったとされています。
第19代允恭天皇(いんぎょうてんのう)の時代(5世紀前半)に、機織りの織部が各地に多数設置されることとなり、朝廷は管理者をおきました。管理者はやがて「服部(はとりべ)」と呼ばれ、諸国の織部の総領として「服部連」の姓を賜りました。この神服神社のある地域一帯を服部というのは、織部がこの地に設置されたことによります。
さて神社の名前ですが、服部連は祖先を勧請し、「服部神」と称していましたが、延喜年間に「神服神社」と改称しました。明治時代には、宮之川原の春日神社や稲荷神社、塚脇の上宮神社、浦堂の若宮神社、大蔵司の神明神社を合祀し、現在に至っています。塚脇の上宮神社は、かつて連塚(むらじづか)とよばれる古墳の上にあって、祭神が服部連となっていることから、この塚は同連の墳墓であろうという伝承として息づいています。
神服神社の例祭の神輿渡御式は、「服部棒振祭」とも「チョーハ祭」とも呼ばれ、昭和初期まで盛大に執り行われてきました。神輿は、笠森神社、阿久刀神社を巡り、総勢100名をこえる行列は周囲を圧倒するものがあったといいます。神輿渡御は一時期中断していましたが、平成21年から復活し、毎年5月5日に行われています。
高槻市役所公式HP インターネット歴史館より
http://www.city.takatsuki.osaka.jp/kakuka/machi/bunkazai/gyomuannai/rekishikan/daionokuni/40.html
摂津国で「服部連(ハトリノムラジ)」の本拠地を名乗る 2つの神社
『新撰姓氏録(Shinsen Shoji roku)』には 服織連(ハトリノムラジ)については 神別(シンベツ)〈天津神・国津神の子孫〉の条に
大和国(ヤマトノクニ)と 摂津国(セッツノクニ)の 2流が それぞれが記されています
摂津国〈大阪府北中部の大半と兵庫県南東部〉では
「允恭天皇(インギョウテンノウ)〈在位412~453年頃〉の御代に摂津国に住む「麻羅宿禰(Mara no sukune)」〈服部連(ハトリノムラジ)〉が織部司(オリベノツカサ)に任じられた」とあります
摂津国の地に「服部連(ハトリノムラジ)」本拠地を名乗る 2つの神社〈①神服神社(高槻市)➁服部天神宮(豊中市)〉があります
各々の神社について
①神服神社(高槻市)〈当社〉
『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載の古社として
摂津国の服部連(ハトリノムラジ)として「麻羅宿禰(Mara no sukune)」の伝承を持ちます
神服神社(高槻市)の記事をご覧ください
神服神社(かむはとりじんじゃ)は 第19代 允恭天皇(インギョウテンノウ)〈在位412~453年頃〉の時代に服部氏の氏神として創建し「服部神(ハトリノカミ)」と称した古社です この地は服部連(ハトリノムラジ)の本拠地であったとされ『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に「神服神社(カムハトリノカミノヤシロ)」と所載されます
神服神社(高槻市宮之川原元町)
➁服部天神宮(豊中市)
社伝 由緒によれば
渡来人の集団「秦氏」が 允恭天皇の御世(412年 - 453年)に織部司に任じられ、当地を服部連の本拠とした際、外来神の少彦名命(医薬・病気平癒・健康の神様)を小さな祠にお祀りしたことが服部天神宮の始まりです。
とあります
但し 服部天神宮(豊中市)には
秦氏(ハタウジ)の伝承はありますが 摂津国の服部連(ハトリノムラジ)として「麻羅宿禰(Mara no sukune)」の伝承はありません
『新撰姓氏録(Shinsen Shoji roku)』の大和国の服部連(ハトリノムラジ)を見てみると
祖神を秦氏(ハタウジ)に関係が深い 天御鉾命(アメノミホコノミコト)としています
「服部天神宮(Hattori tenjingu)」は 摂津国に鎮座しますが
後に 大和国から移住した服部連(ハトリノムラジ)が本拠として住んだ地とするならば 秦氏が 祖神(オヤガミ)の如く信仰する「少彦名命(スクナヒコナノミコト)」を祭神としていて 社伝のように「服部連(ハトリノムラジ)の本拠」と言い伝える筋は通ることになります
服部天神宮(豊中市)の記事をご覧ください
服部天神宮は 服部(ハトリ)と云う地名の通り 秦氏(ハタウジ)が集団で居住し 社伝によれば かつて服部連(ハトリノムラジ)の本拠とした場所に医薬の神「少彦名命」を祀る祠があった〈これが服部天神宮の前身〉その後 延喜元年(901)菅原道真公が 大宰府への左遷途中で 持病の脚気に襲われて身動きが取れなくなったが 一心にその平癒を祈願されたところ脚気はたちどころに治った伝承地になります ゆえに「足の神様」として有名です
服部天神宮(豊中市服部元町)
同じく秦氏にゆかりのある 摂津国の池田に鎮座 呉服神社(池田市)
第15代 応神天皇の御代に 呉の国〈中国(China)〉より渡来し 織物 染色の技術を我が国に伝えたとされている呉服(くれはとり)をお祀りします
呉服神社(池田市)の記事をご覧ください
呉服(クレハ)神社は 「呉服(ゴフク)」〈絹布類〉の語源の地です『日本書紀(nihon shoki)』第15代応神天皇の条に記される「呉服(クレハトリ)・穴織(アヤハトリ)」という姉妹が 我が国(日本)に伝えた 機織(ハタオリ)・栽縫(サイホウ)の技術は この地から発祥したとされています その由来から 機織・染色・裁縫の上達・衣服の神として 服飾関係者の信仰も集めています
呉服神社(池田市室町)
大和国の服部連(ハトリノムラジ)の祀る氏神としては
『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載の古社として
大和國城下郡 服部神社二座 鍬靫 があります
服部神社(はとりじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される古社です 社記によれば 旧鎮座地は 現在地より西2kmばかりの所に 大安寺村 字 神来森(カキノモリ)という土地があり そこに鎮座して波登里(ハトリ)村・阿刀(アト)村の氏神であったが 天正中(1573年~1591年)社殿兵火に罹り後 村屋坐社の本殿横の瑞垣の中に遷座して現在に至ります
服部神社(村屋坐彌冨都比賣神社 境内摂社)
「秦氏(Hata uji)」の「養蚕に因む地名」と「太陽祭祀の信仰」
静岡県静岡市には 「静岡浅間神社(Shizuokasengen Shrine)」があり
その発祥は 秦氏の祖神を「賤機山(Shizuhata yama)」に祀ったのが始まりとあります
秦氏(Hata uji)の氏寺とれる「建穂寺(Takyo ji)」も 式内社「駿河国 安倍郡 建穂神社(Takyo Shrine)」も現在の住所は「建穂(Takyo)」ですが かつては 静岡市西部の服織(ハトリ)(現 静岡市葵区羽鳥)に境内を構えていたとされていて 機織(ハタオリ)の秦氏(Hata uji)が開拓した地域です
秦氏と当神社「神服神社(Kamuhatori Shrine/ Shimpuku Shrine)」の関連性を無視することはできません
さて
「秦氏(Hata uji)」の本拠地である京都の太秦(ウズマサ)には 機織(ハタオリ)に欠かせない養蚕を守る「養蚕の社(カイコノヤシ)」があります
正式名称「木嶋坐天照御魂神社(コノシマニマスアマテルミタマジンジャ)」といい その名の通り「天照御魂(アマテルミタマ)」とあって 太陽祭祀に関わる神社と捉えることが出来ます
『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)には「〇〇坐天照御魂神社」がいくつかありますが いずれも太陽祭祀に関わりがありそうです
木嶋坐天照御魂神社の記事をご覧ください
木島坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)〈蚕の社〉は 京都市内最古の神社の一つと云われます 境内にある「元糺(モトタダス)の池」には「三柱鳥居(ミハシラノトリイ)」と呼ばれる正三角形に柱を組んだ鳥居があり その正三角形の中心点には円錐形に小石を組みあげた神座が座して御幣が依代として立てられています 「秦氏(はたうじ)」の祭祀に深く関わる神社とされています
木嶋坐天照御魂神社(蚕の社)
大和国(奈良県)
(大和國城下郡 鏡作坐天照御魂神社 大)
(大和國城上郡 他田坐天照御魂神社 大)
この2つの神社は 辰巳の方角には 三輪山があり 冬至に三輪山から昇る太陽を遥拝したのであろうと云われています
摂津国(大阪府)当社(攝津國嶋上郡 神服神社)(カムハトリカミノヤシロ)のすぐ傍には
(攝津國嶋下郡 新屋坐天照御魂神社 三座 並名神大)の社があります
各々記事をご覧ください
・新屋坐天照御魂神社(西福井)
新屋坐天照御魂神社(にいやにます あまてるみたまじんじゃ)は 第10代 崇神天皇〈推定在位 BC97~BC30年〉が 伊香色雄命(いかがしこをのみこと)に命じ 天照御魂大神(あまてるみたまのおほかみ)を奉祀とあり 亦名を 天照国照彦天火明櫛玉饒速日命(アマテル クニテルヒコ アメノホアカリクシダマ ニギハヤヒノミコト)と云い 神武天皇即位前に大和国を治められていた尊い神であるとされます 創建から2100余年の長い歴史と高い社格を誇る延喜式内名神大社です(西福井)(宿久庄)(西河原)に3社の論社があり その中で中心的な存在が 一般に当神社(西福井)です
新屋坐天照御魂神社(西福井)
・新屋坐天照御魂神社(宿久庄)
新屋坐天照御魂神社は 3社(西福井)(宿久庄)(西河原)があり その中で中心的な地位を占めるのが(西福井)で背後にある「日降丘」に神が降臨したのが創建とされ その後 神功皇后が荒魂を当地(宿久庄)に勧請したと伝えられています
新屋坐天照御魂神社(宿久庄)
・新屋坐天照御魂神社(西河原)
新屋坐天照御魂神社(にいやにますあまてるみたまじんじゃ)は 3社(・西福井・宿久庄・西河原)があり その中で中心的とされるのが(西福井)です 異説では『倭名類聚抄』にある「新屋郷」は 当地(西河原)の事であり元社とする説 又 享保14年(1729~1734)編纂『五畿内志(ごきないし)』や『摂津名所図会(せっつめいしょずえ)』〈寛政8年(1796)-寛政10年(1798)刊行〉でも 当地(西河原)を 3社の中心地としています
新屋坐天照御魂神社(西河原)
関連する神社
静岡浅間神社(静岡市)の記事をご覧ください
静岡浅間神社(しずおかせんげんじんじゃ)は 神部神社・淺間神社・大歳御祖神社の3つの本社と4つの境内社を総称して 静岡浅間神社(通称 おせんげんさま)と言い 古くから駿河国総社として崇敬を受けています 徳川家康公(幼名 竹千代)が 元服式を行ったので 幕府の崇敬が厚く 現在の社殿は 江戸時代に60年の歳月をかけて再建され 総漆塗り極彩色の豪壮華麗な建築群で 大拝殿の高さは25mの大建築物です 社殿26棟の全てが国の重要文化財に指定されています
静岡浅間神社(静岡市)
建穂神社(Takyo Shrine)の記事をご覧ください
建穂神社(たきょうじんじゃ)は かつて隣村の服織(はとり)〈現 静岡市葵区羽鳥(はとり)〉の「木枯森(コガラシノモリ)」の辺りに 境内を構えていたとされます この羽鳥(ハトリ)の地名は 機織(ハトリorハタオリ)の秦氏(ハタ ウジ)から発祥しています 駿府の「秦氏(Hata uji)」の拠点であったところです
建穂神社(静岡市葵区建穂)〈延喜式内社 建穂神社の論社〉
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR高槻駅 北口から府道6号経由 北西に約2.8km 車10分程度
境内の南面には 高槻市立清水小学校があります
この小学校の方向に向いて
境内正面の延長6年(1678年)に建てられた大鳥居は 南向きに建っています
神服神社(Kamuhatori Shrine/ Shimpuku Shrine)に参着
鳥居の扁額には「神服神社」とあり 一礼をしてくぐります
右手には社号標「郷社 式内 神服神社」と刻まれています
そのすぐ後ろには 手水舎があり 清めます
コンクリート製の参道が直線に延びていて 拝殿 本殿御門 本殿と続いています
参道が一段高くなっている ところの左手には
御神木 山桃(ヤマモモ)の木〈環境省巨樹巨木林DB幹周/3.70m樹高/9m〉
(高槻の古木指定)があります
拝殿にすすみますが 賽銭箱は ありませんので
お詣りはさらに奥の
本殿御門(ホンデンゴモン)にて
賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
境内社にお詣りをして 授与所にてお札など受領いたします
こちらから社殿を眺めます
鳥居をくぐり 振り返り社殿に一礼をします
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『新撰姓氏録(Shinsen Shoji roku)』815年(弘仁6年)に記される伝承
服織連(ハトリノムラジ)については 神別(シンベツ)〈天津神・国津神の子孫〉の条に
大和国(ヤマトノクニ)と 摂津国(セッツノクニ)の 2流が それぞれが記されています
摂津国(セッツノクニ)の神別(シンベツ)〈天津神の子孫〉では
服織氏の祖神は 麻羅宿禰(Mara no sukune)で
織部司(オリベノツカサ)に任ぜられ 諸国の織部(オリベ)を統領したとあります
大和国(ヤマトノクニ)の神別(シンベツ)〈天津神の子孫〉では
服織氏の祖神は 天御鉾命(アメノミホコノミコト)とあります
意訳
摂津国(セツツノクニ)神別(シンベツ)の条
服部連(ハトリノムラジ)
熯之速日命(Hinohayahi no mikoto)12世孫 麻羅宿禰(Mara no sukune)之(ノ)後(スエ)也(ナリ)
允恭天皇(インギョウテンノウ)〈在位412~453年頃〉の御代
織部司(オリベノツカサ)に任ぜられ 諸国の織部(オリベ)を統領し司(ツカサド)る よって 服部連(ハトリノムラジ)と号す
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ 『新撰姓氏録』選者:万多親王/校訂者:橋本稲彦[書誌事項]刊本(後印) ,文化04年[旧蔵者]教部省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000038380&ID=M2017051017170432508&TYPE=&NO=画像利用
摂津国(セッツノクニ)の神別(シンベツ)の条 服織連(ハトリノムラジ)
大和国(ヤマトノクニ)の神別(シンベツ)の条 服織連(ハトリノムラジ)
『摂津名所図会(Settsu meisho zue)』〈寛政8年(1796)-寛政10年(1798)刊行〉に記される伝承
上の図絵では 寛政年頃の様子が窺えます 社殿の建つ様は「鳥居~参道~拝殿~本殿御門~本殿」と現在とほぼ同じです
意訳
神服神社(かむはとりのじんじゃ)
服部(はとりの)村にあり
『延喜式』に出る
この所の生土神(うぶすなのかみ)とす例祭 4月8日
『姓氏録』に云ふ
服部連(はとりのむらじ)は 速日命(ハはやひりみこと)12世 麻羅宿禰(マラノスクネ)の後(スエ)なり
允恭帝(インギョウテイ)の御時 織部(オリベノ)司に任じ
諸国 織部(オリベ)を惣領す
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス『攝津名所圖會』選者:秋里籬島/画家:竹原春朝斎 12冊 [書誌事項]刊本 ,寛政08年 ~ 刊本 ,寛政10年
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000003086&ID=M2018050709193628387&TYPE=&NO=
『神名帳考証土代(jimmyocho kosho dodai)』(文化10年(1813年)成稿)に記される伝承
意訳
神服(カムハトリノ)神社
〇今去(イマヲサルコト)〈現在から遡る〉 芥川の2里 許(バカリ) 服部村(ハトリムラ)に有り
今は 池田に在る 呉羽綾羽宮〈呉服神社(クレハジンジャ)〉を欣(ヨシ)〈関連するので喜び閲覧すると〉
『日本書紀(nihon shoki)養老4年(720)』の応神天皇37年の条阿知使主(アチノオミ)都加使主(ツカノオミ)を呉(ゴ)に遣わし 縫工女を求めさせた
兄媛(エヒメ)弟媛(オトヒメ)呉織(クレハトリ)穴織(アナハトリ)の
四夫女(ヨタリヲムナラ)〈4人の婦人〉とある『新撰姓氏録(Shinsen Shoji roku)』には
摂津国(セツツノクニ)神別(シンベツ)の条に 服部連(ハトリノムラジ)~允恭天皇(インギョウテンノウ)〈在位412~453年頃〉の御代
織部司(オリベノツカサ)に任ぜられ 諸国の織部(オリベ)を統領し司(ツカサド)る よって 服部連(ハトリノムラジ)と号す〇服織部村に在り
和抄『和名類聚抄』には 服部は 波止利(ハトリ)
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用
『特選神名牒(Tokusen shimmyo cho)』明治9年(1876年)に記される内容
祭神を 熯之速日命(ヒノハヤヒノミコト)としています
意訳
神服(カムハトリノ)神社
祭神 熯之速日命(ヒノハヤヒノミコト)
今按〈今考えるに〉
姓氏録『新撰姓氏録(Shinsen Shoji roku)』815年には摂津国(セツツノクニ)神別(シンベツ)に
服部連(ハトリノムラジ)
熯之速日命(Hinohayahi no mikoto)12世孫 麻羅宿禰(Mara no sukune)之(ノ)後(スエ)也(ナリ)允恭天皇(インギョウテンノウ)〈在位412~453年頃〉の御代
織部司(オリベノツカサ)に任ぜられ 諸国の織部(オリベ)を統領し司(ツカサド)る よって 服部連(ハトリノムラジ)と号すとある すなわち これなり
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』出版 大正14年(1925年)磯部甲陽堂
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155『特選神名牒』
『明治神社誌料(meiji jinjashiryo)』明治45年(1912)に記される伝承
20世紀初頭の明治時代の境内の様子が記されています
神仏習合時代に牛頭天王として祀られていた祭神「素戔嗚尊(スサノヲノミコト)」は 今は祭神中になし とされています
又 参拝者が たいへん多く 人出で賑わっている様子が伝わります
「踵を接して(キビスヲセッシテ)〈前後の人のかかとが接するほど 次から次へと人が続く〉詣り その繁盛(ハンジョウ)は 僻地(ヘキチ)には 稀(マレ)に見る所なり」
意訳
郷社 神服(カムハトリノ)神社
祭神 熯之速日命(ヒノハヤヒノミコト)
相殿 麻羅宿禰(マウラノスクネ)祭神は 服部連(ハトリノムラジ)の祖神(オヤガミ)なり
姓氏録『新撰姓氏録(Shinsen Shoji roku)』815年に
摂津国(セツツノクニ)神別(シンベツ)に「服部連(ハトリノムラジ)
熯之速日命(Hinohayahi no mikoto)12世孫 麻羅宿禰(Mara no sukune)之(ノ)後(スエ)也(ナリ)允恭天皇(インギョウテンノウ)〈在位412~453年頃〉の御代
織部司(オリベノツカサ)に任ぜられ 諸国の織部(オリベ)を統領し司(ツカサド)る よって 服部連(ハトリノムラジ)と号す」とあるによって知るべし神社の創祀は
社記に 允恭天皇(インギョウテンノウ)〈在位412~453年頃〉の御代 服部連(ハトリノムラジ)の創立にして 当社の西北1000歩あまりの地に古墳あり 服部氏の墓と伝わる 左傍に御女塚と称する古墳があり この地を塚傍村(ツカソバノムラ)と唱(トナ)えるとあり允恭天皇(インギョウテンノウ)〈在位412~453年頃〉の時に已(スデ)に
服部連(ハトリノムラジ)が 諸国に住せしは明らかなれども 果たして 当時の創始なるやは なお研究を要すされど
この地は服部連(ハトリノムラジ)の住地にて その神を祀りて氏神となせしものなる事は推測して知り得るべし醍醐天皇(ダイゴテンノウ)の延喜の制(『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂))では
小社に列せられ 摂津国(セッツノクニ)島上郡(シマウエノコオリ)三座の一つに加えられる後世 舊稱(キュウショウ)〈かつて称えていた〉を 失(ナク)し
牛頭天王(コズテンノウ)と称して 崇敬 浅からざりしが〈崇敬も篤かった〉
それは当時 素戔嗚尊(スサノヲノミコト)をも 祀りたりしよりの称号なり熯之速日命(ヒノハヤヒノミコト)は
素戔嗚尊(スサノヲノミコト)の子たる関係より 合祀せしなりと伝われど〈社記の説を参取す〉今は 素戔嗚尊(スサノヲノミコト)は祭神中になし
舊稱(キュウショウ)〈かつて称えていた〉に復した折 自ら 省(ハブ)かれしにや〈自ら除外したのであろう〉今俗に 服部天神と称して 近郷の崇敬 最も厚し
社殿は 本殿 拝殿を備え
境内 1280坪(官有地第一種)森林は鬱蒼(ウッソウ)として社殿を囲み
賽者(サイジャ)〈神社に参詣する人〉は 踵を接して(キビスヲセッシテ)〈前後の人のかかとが接するほど 次から次へと人が続く〉詣り その繁盛(ハンジョウ)は 僻地(ヘキチ)には 稀(マレ)に見る所なり
【原文参照】国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用『明治神社誌料』
神服神社(Kamuhatori Shrine/ Shimpuku Shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
服部天神宮(豊中市)の記事をご覧ください
服部天神宮は 服部(ハトリ)と云う地名の通り 秦氏(ハタウジ)が集団で居住し 社伝によれば かつて服部連(ハトリノムラジ)の本拠とした場所に医薬の神「少彦名命」を祀る祠があった〈これが服部天神宮の前身〉その後 延喜元年(901)菅原道真公が 大宰府への左遷途中で 持病の脚気に襲われて身動きが取れなくなったが 一心にその平癒を祈願されたところ脚気はたちどころに治った伝承地になります ゆえに「足の神様」として有名です
服部天神宮(豊中市服部元町)
呉服神社(池田市)の記事をご覧ください
呉服(クレハ)神社は 「呉服(ゴフク)」〈絹布類〉の語源の地です『日本書紀(nihon shoki)』第15代応神天皇の条に記される「呉服(クレハトリ)・穴織(アヤハトリ)」という姉妹が 我が国(日本)に伝えた 機織(ハタオリ)・栽縫(サイホウ)の技術は この地から発祥したとされています その由来から 機織・染色・裁縫の上達・衣服の神として 服飾関係者の信仰も集めています
呉服神社(池田市室町)
摂津国 式内社 75座(大26座(並月次新嘗・就中15座相嘗祭)・小49座(並官幣)について に戻る
攝津國(せっつのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 摂津国の 75座(大26座(並月次新嘗・就中15座相嘗祭)・小49座(並官幣)の神社のことです
摂津国 75座(大26座(並月次新嘗・就中15座相嘗祭)・小49座(並官幣)