賀茂山口神社(かもやまぐちじんじゃ)は 『本朝世紀』康治元年(1142)十二月の条に゛賀茂の社司が澤田明神の傍らの池に蛇が出ると言上したことを受けて 軒廊御卜(こんろうのみうら)を行じた゛と記録のある摂社゛澤田社゛です 明治時代になり 延喜式内社 山城國 愛宕郡 賀茂山口神社(かものやまくちの かみのやしろ)の社号をあてられました
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
賀茂山口神社(Kamoyamaguchi shrine)
【通称名(Common name)】
・澤田社(さわだしゃ)
【鎮座地 (Location) 】
京都府京都市北区上賀茂本山339(上賀茂神社境内)
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》御歳神(みとしのかみ)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・書倍繁盛・子供の成長を見守る神様
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
・ 上賀茂神社の摂社
【創 建 (Beginning of history)】
創建年代不詳
由緒不祥
式内社 賀茂山口神社は 近世には所在は不明となっていたとされ 明治時代に〈澤田社〉をあてて 奉斎されたとされます
【由 緒 (History)】
『賀茂注進雑記 第六 造営 釈注』〈賀茂県主同族会2001年〉より
上賀茂神社の摂社「澤田社」〈現 賀茂山口神社〉について記されています
【抜粋意訳】
4.攝末社 ホ 奈良社、澤田社、新宮
・澤田社
この社の名は 賀茂の社司が澤田明神の傍らの池に蛇が出ると言上したことを受けて 軒廊(こんろう)の御卜(みうら)を行じたとの記録にある(本朝世紀 康治元年(1142)十二月七日条)。
澤田は地名。当社を古社の賀茂山口神社に擬する説もある。
〔神社覈録〕は賀茂山口神社の社名を掲げ所在不詳とし、祭神を山口社の類社に準じて大山祇命かとする。
〔村誌〕は賀茂山口神社、祭神 保食神 別名 澤田社。
〔略記〕:別名 沢田社、祭神 大歳神とする。(「尊号諸家之説」は澤田社祭神を倉稲玉命、太玉命。經津主命、太玉命と変遷したと伝える)。【原文参照】
『賀茂注進雑記 第六 造営 釈注』〈賀茂県主同族会2001年〉より
http://www.kamoagatanushi.or.jp/Mitarashi/11/3.pdf
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される内容
上賀茂神社の摂社「澤田社」〈現 賀茂山口神社〉について記されています
【抜粋意訳】
山城國 附録 式外神
別雷社所摂 澤田社
祭神詳ならず
〇奈良社の辰に在す
雑事
本朝世紀、康治元年(1142)十二月七日、行ニ軒廊御卜事、是依ニ賀茂別雷社司言上、澤田明神 傍池 蛇出来事也、
【原文参照】
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・渉渓園について
庭園渉渓園について
この地は上賀茂神社境内奈良の小川の上流御手洗川の東岸摂社賀茂山口神社の前庭に位置し約五百坪の地で古くは神宮寺の小池が存在した所と伝える
昭和三十五年皇孫浩宮徳仁親王殿下御生誕の奉祝行事として嘗て当神社に於て催された曲水の宴を復活せんが為それにふさわしい庭園を造ろうとして当時の府文化財保護課技師 中根金作氏に委嘱され平安時代末期頃の庭園として設計され渉渓園と名付けられた
又この地は北縁の鶴岳の鬱蒼たる翠岳を負い東方には境内林の巨木を帯し南方は広闊なる境内芝生に連なる 園の中央部に南北に曲溝を穿ち御手洗川の分流沢田川より分水して緩流を通した その曲流を中心に桜楓樹を常盤木に配し躑躅馬酔木や灌木を添え所々に石組みを施して風趣にみちた頗る清楚な姿を現出した
然れども昭和三十五年に復活された曲水宴も再度中止のやむなきに至り園も荒廃するにまかせた 然るところ京都紫野ロータリークラブが平成五年度社会奉仕事業の一環として園の整備とその保存会結成に努められた
時恰も皇太子徳仁親王殿下御成婚の儀が斎行され、明けて平成六年平安建都一二〇〇年、当社第四十一回式年遷宮斎行の年であり、奉祝記念事業として曲水宴が復活されることになった
この庭園に展開される曲水宴は平安時代のそれを再現するもので詩歌の吟詠管弦の弾吹奏はさながら楽王の神遊びもかくやとばかりに真に一幅の活画であるといえよう。又御手洗川の流水を隔ててその西方に連なる苑林(朝鮮李朝の庭園を模したと伝える)と相並んで当神苑として永く保存されなければならぬ
平成六年三月 賀茂別雷神社現地案内板より
・賀茂山口神社〈澤田社〉〈上賀茂神社の摂社〉は 賀茂別雷神社(京都市北区上賀茂本山)の境内に鎮座します
・賀茂別雷神社〈上賀茂神社〉(京都市)
賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)は 京都最古の歴史を有する一社です 往古この地を支配した古代氏族゛賀茂氏゛の氏神を祀る・上賀茂神社(かみがもじんじゃ)と・賀茂御祖神社〈下鴨神社〉で 賀茂神社〈賀茂社〉と総称されます 平安京への遷都後は皇城の鎮護社として祀られてきた 山城國一之宮です
賀茂別雷神社〈上賀茂神社〉(京都市北区上賀茂本山)〈山城國一之宮〉
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
賀茂別雷神社〈上賀茂神社〉の境内・境外・摂社・末社についての詳細は
賀茂別雷神社〈上賀茂神社〉(京都市北区上賀茂本山)の摂社・末社について
賀茂別雷神社〈上賀茂神社〉(京都市北区上賀茂本山)は 御祭神を祀る「本殿(ほんでん)」と常設の仮殿である「権殿(ごんでん)」が国宝に指定されています 広大な境内には 多くの摂社・末社が鎮座しています 平成六年(1994)に境内全域がユネスコ世界文化遺産に登録されています 更に 境外にも摂社・末社が多数鎮座します
賀茂別雷神社〈上賀茂神社〉(京都市北区上賀茂本山)の境内・境外の摂社・末社について
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
『日本三代實録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
京畿七道諸神 総267社が 神階の奉授がなされ 山城國 鴨山口神 従五位下 と記されています
【抜粋意訳】
卷二 貞觀元年(八五九)正月廿七日甲申
○廿七日甲申
京畿七道諸神 進階及新叙 惣二百六十七社
奉授
淡路國 无品勳八等伊佐奈岐命一品
備中國 三品吉備都彦命二品神祇官 无位神産日神。高御産日神。玉積産日神。生産日神。足産日神並從一位。 无位生井神。福井神。綱長井神。波比祇神。阿須波神。櫛石窓神。豐石窓神。生嶋神。足嶋神並從四位上
宮内省 從三位園神。韓神並正三位。大膳職正四位下御食津神從三位。左京職從五位上太祝詞神。久慈眞智神並正五位下。大膳職從五位下火雷神。大炊寮從五位下 大八嶋竈神八前。齋火武主比命神。内膳司從五位下庭火皇神。造酒司從五位下大戸自神等 並從五位上。无位酒殿神從五位下。
山城國
正二位勳二等 松尾神從一位
葛野月讀神。平野 今木神並正二位
正四位下 稻荷神三前並正四位上
正四位下 大若子神。小若子神。酒解神。 酒解子神並正四位上
平野從四位下 久度古開神從四位上
正五位上 貴布禰神。正五位下乙 訓火雷神。從五位上水主神等並從四位下
正五位下 合殿比咩神正五位上
從五位下 樺井月讀神。木嶋天照御魂神。和攴神並正五位下
從五位下 祝園神。天野夫攴賣神。 岡田鴨神。岡田園神。樺井月神。棚倉孫神。許波多神。出雲井於神。片山神。 鴨川合神等並從五位上
正六位上 與度神。石作神。向神。簀原神。鴨山口神。小野神。久我神。高橋神。雙栗神。水度神。伊勢田神。无位小社神並從五位下。・・・
・・・
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)山城國 122座(大53座(並月次新嘗・就中11座預相嘗祭)・小69座(並官幣))
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)愛宕郡 21座(大8座・小13座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 賀茂山口神社
[ふ り が な ](かもやまくちの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Kamo yamakuchi no kaminoyashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
延喜式内社 山城國 愛宕郡 賀茂山口神社(かものやまくちの かみのやしろ)の論社について
式内社 賀茂山口神社は 近世には所在は不明となっていたとされます
・賀茂山口神社〈澤田社〉(京都市北区上賀茂本山)〈上賀茂神社 境内摂社〉
現在の賀茂山口神社は 明治時代に〈澤田社〉をあてて 奉斎された
賀茂山口神社(かもやまぐちじんじゃ)は 『本朝世紀』康治元年(1142)の条に゛賀茂の社司が澤田明神の傍らの池に蛇が出ると言上したことを受けて 軒廊御卜(こんろうのみうら)を行じた゛と記録のある摂社゛澤田社゛で 明治時代になり 延喜式内社 山城國 愛宕郡 賀茂山口神社(かものやまくちの かみのやしろ)とされました
賀茂山口神社〈澤田社〉(京都市北区上賀茂本山)〈上賀茂神社の摂社〉
・山森神社(京都市北区上賀茂本山)〈上賀茂神社 境内末社〉
現在の山森神社は 明治時代までは 現在地の北西1kmほどの西賀茂山ノ森町に鎮座していた
山森神社(やまもりじんじゃ)は 注進略記に「かつては 浮田森在ニ上賀茂乾(北西)六七町(763m程)、賀茂川西也、祭神三座、號ニ山守社、一年、洪水社流」とあり 神社明細帳(明治16年調)に「現在地から約1.1キロ離れた西賀茂山ノ森に鎮座。鎮座地一帯が賀茂別雷神社の社領となり、上賀茂神社の境内に遷座された」とある
山森神社(京都市北区上賀茂山本町)〈上賀茂神社 境内末社〉
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
賀茂別雷神社〈上賀茂神社〉の境内 楼門から 片岡橋を渡り 片山御子神社の右側(南側)へと゛ならの小川゛を下るように進むと゛末社 岩本神社゛があり゛渉渓園゛の中に鎮座します
・賀茂別雷神社〈上賀茂神社〉(京都市)
賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)は 京都最古の歴史を有する一社です 往古この地を支配した古代氏族゛賀茂氏゛の氏神を祀る・上賀茂神社(かみがもじんじゃ)と・賀茂御祖神社〈下鴨神社〉で 賀茂神社〈賀茂社〉と総称されます 平安京への遷都後は皇城の鎮護社として祀られてきた 山城國一之宮です
賀茂別雷神社〈上賀茂神社〉(京都市北区上賀茂本山)〈山城國一之宮〉
賀茂山口神社(京都市北区上賀茂本山)に参着
゛渉渓園゛は かつて本社で行われていた゛曲水宴゛を復活させるために昭和三十五年(1960)に整備された庭園ですが 往古は゛龍の住む池゛があった地であるとされています
゛願い石or陰陽石゛と呼ばれる石が その゛龍の住む池゛の底から出土したとされて 注連縄を掛けて祀られています
「願い石」(陰陽石 おんみょうせき)
この渉渓園は、古く龍の住む池があったと言われ、池の底より出土した「陰陽石」は陰と陽が極まり融合した(実った)姿を現しています。両手で同時に手を触れ、そのお力を頂いてから賀茂山口神社にお参り下さい。
現地立札より
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 賀茂山口神社について 所在は゛在所詳ならず゛〈所在不明である〉と記し 祭神は゛必ず大山祇神を祭るならん゛とも記しています
【抜粋意訳】
賀茂山口神社
賀茂は前に同じ、』山口は也来久知と訓べし、
○祭神 大山祇命歟
○在所詳ならず
山口神と申すは、必大山祇神を祭るならん、大和國に数多祭り、祈年祭祝詞にも、天照大御神に続き、御縣坐神水分坐神等に列ねて殊更なるは、故ある事なるべし、なほ所々の山口神考へ合すべし、
○山城志云、山口波爾久我末刀神社、混ニ雑下賀茂小祠、今不可考、
類社
大和國添上郡夜支布、同國平群郡伊古麻、同國葛上郡巨勢、鴨、同國葛下郡當麻、大坂、同國吉野郡吉野、同國十市郡石寸、耳成、同國山辺郡都祁、山口神社、(各一座並大月次新嘗)神位
三代實録、貞観元年正月二十七日甲申、奉授ニ山城國正六位上鴨山口神從五位下、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 賀茂山口神社について 所在などは記されていません
三代実録の神階 奉授が記されています
【抜粋意訳】
賀茂山口神社
清和天皇 貞観元年甲申、正六位上 鴨山口神に従五位下を授く、〔三代実録〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 賀茂山口神社について 所在は゛別雷社境内 片岡山麓 賀茂別雷攝社゛〈現 賀茂山口神社(京都市北区上賀茂本山)〉と記しています
【抜粋意訳】
賀茂ノ山口(ヤマクチノ)神社 稱 澤田神社
祭神 御年神(コトシノカミ)
神階 清和天皇 貞観元年二十七日甲申、奉授ニ 山城國正六位上 鴨ノ山口神 従五位下
祭日 四月田植祭
社格 賀茂別雷攝社所在 別雷社境内 片岡山麓
今按 御祖神社 大宮司 岡本經春云 別富神社從來四月某日に植祭(ウエマツリ)と稱し 神官等 澤田社の前にて稲實を檢しで御戸代(ミトシロ)田に行向て 早苗(サナエ)を植る式ありて 五穀豊穣を祈るの神事あり 且片岡山の南麓に鎮座て地景 尤も山口神社と稱へれと云る由ありて聞ゆれば 之に従ふ
【原文参照】
賀茂山口神社(京都市北区上賀茂本山)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
・賀茂山口神社〈上賀茂神社の摂社〉は 賀茂別雷神社(京都市北区上賀茂本山)の境内に鎮座します
・賀茂別雷神社〈上賀茂神社〉(京都市)
賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)は 京都最古の歴史を有する一社です 往古この地を支配した古代氏族゛賀茂氏゛の氏神を祀る・上賀茂神社(かみがもじんじゃ)と・賀茂御祖神社〈下鴨神社〉で 賀茂神社〈賀茂社〉と総称されます 平安京への遷都後は皇城の鎮護社として祀られてきた 山城國一之宮です
賀茂別雷神社〈上賀茂神社〉(京都市北区上賀茂本山)〈山城國一之宮〉
賀茂別雷神社〈上賀茂神社〉の境内・境外・摂社・末社についての詳細は
賀茂別雷神社〈上賀茂神社〉(京都市北区上賀茂本山)の摂社・末社について
賀茂別雷神社〈上賀茂神社〉(京都市北区上賀茂本山)は 御祭神を祀る「本殿(ほんでん)」と常設の仮殿である「権殿(ごんでん)」が国宝に指定されています 広大な境内には 多くの摂社・末社が鎮座しています 平成六年(1994)に境内全域がユネスコ世界文化遺産に登録されています 更に 境外にも摂社・末社が多数鎮座します
賀茂別雷神社〈上賀茂神社〉(京都市北区上賀茂本山)の境内・境外の摂社・末社について
山城国 122座(大53座(並月次新嘗 就中11座預相嘗祭)・小69座(並官幣)
山城国(やましろのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 山城国 の122座(大53座(並月次新嘗 就中11座預相嘗祭)・小69座(並官幣)の神社のことです
山城國 122座(大53座(並月次新嘗 就中11座預相嘗祭)・小69座(並官幣)