御霊神社(ごりょうじんじゃ)〈上御霊神社〉は 平安時代 御霊の祟りを恐れ 貞観5年(863)御霊会が修せられたのが 両御霊神社の創祀と云う 元は愛宕郡出雲郷の出雲路にある出雲氏の氏寺・上出雲寺に祀られた鎮守社で 二つの式内社〈出雲井於神社(いつものゐのうへの かみのやしろ)・出雲髙野神社(いつものたかののかみのやしろ)〉の論社です
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
御霊神社(goryu shrine)
【通称名(Common name)】
上御霊神社(Kamigoryu shrine)
【鎮座地 (Location) 】
京都府京都市上京区上御霊前通烏丸東入上御霊竪町495
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
[本殿八座]《主》八所御霊
・崇道天皇(すどうてんのう)〈早良親王・光仁天皇第二皇子〉
・井上大皇后(いのうえのおほきさき)〈聖武天皇第一皇女・光仁天皇ノ皇后〉
・他戸親王(おさべしんのう)〈光仁天皇第四皇子〉
・藤原大夫人(ふじわらのたいふじん)〈藤原吉子命〉
・橘大夫(たちばなのたいぶ)〈橘逸勢命〉
・文大夫(ぶんのたいぶ)〈文屋宮田麿命〉
・火雷神(ほのいかづちのかみ)〈以上六所ノ荒魂〉
・吉備大臣(きびのおとと)〈吉備真備命〉
[相殿五座]
・三社明神(さんしゃみょうじん)四座〈小倉実起、小倉公連、中納言典待局(小倉実起の娘)、小倉季判〉
・和光明神(和光明神)一座〈菅原和子・若宮〉
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・厄除(厄払い、病気平癒、交通安全、旅行安全)
・こころしずめ・家内安全・家業繁栄・安産・学業成就・書道上達
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
御霊(ごりょう)神社(上御霊 かみごりょう 神社)
祭神として崇道(すどう)天皇(早良 さわら 親王)、吉備真備(きびのまび)、橘逸勢(たちばなのはやなり)をはじめ、十三柱の神霊を祀(まつ)る。
この地には、はじめ付近住民の氏寺として創建された上出雲寺(かみいずもでら)があったが、平安京遷都(七九四)に際し、桓武天皇の勅願により王城守護の神として、奈良時代・平安時代初期に不運のうちに亡くなった八柱(はちはしら)の神霊が祭られたといわれ、その後、明治天皇の御願(ごがん)により祭神五社が増祀(ぞうし)され、現在に至っている。
平安時代には、天変地異や疫病流行は怨霊(おんりょう)のたたりであるとする御霊(ごりょう)信仰が盛んで、怨霊をなだめるための御霊会(ごりょうえ)が度々行われ、疫病除(よ)けの霊社として名を広めた。朝廷から庶民に至るまで広く信仰を集めたが、特に御所の守護神として皇室の崇敬が厚く、神輿(みこし)や牛車(ぎっしゃ)等、皇室からの寄付品を多数蔵している。
本殿は、享保十八年(一七三三)に下賜された賢所(かしこどころ)御殿を復元したものといわれている。
また、境内は「御霊の杜(もり)」と呼ばれ、応仁元年(一四六七)正月十八日に畠山政長と義就(よしなり)の合戦が行なわれ、応仁の乱の発端となった場所としても知られている。
京都市
御霊神社 祭日
歳旦祭 一月一日
節分祭 節分の日
紀元祭 二月十一日
祈年祭 春分の日
御霊祭社頭之儀 五月一日
御霊祭渡御之儀 五月十八日
御内儀春季祭 五月二十日
大祓式 六月三十日
例 祭 八月十八日
七五三祝 十一月十五日
火焚祭 十一月十八日
新嘗祭 十一月二十三日
御内儀秋季祭 十一月二十八日
大祓式 十二月三十一日
月次祭 毎月一日 毎月十八日境内社
福壽稲荷社祭 二月初午日
御霊天満宮祭 三月二十五日
花御所八幡宮祭 九月十五日
神明社祭 十月十七日現地案内板より
【由 緒 (History)】
御霊神社 (上御霊神社 ) 由緒
京都市上京区上御霊竪町四九五番地鎮座
当神社は延暦十三年 (七九四 )平安京遷都にあたり桓武天皇の勅願により、崇道天皇 (早良親王)の御神霊を現在の社地に祀り、京都の守護神とせられたのがその始めであります。その後仁明天皇 ,清和天皇両朝に至り井上大皇后、他戸親王、藤原大夫人、橘大夫、丈大夫の神霊が合祀され、貞観五年 (八六三)五月神泉苑に六所の神座を設け悪疫退散の御霊会を勅修せられた事は史上明らかであり、のち更に火雷神と吉備大臣を併祭されるに至り、世に八所御霊、又は八所御霊大明神と称え奉り、国家守護、,禁裏土神 (きんりうぶすながみ)、都民擁護の神社として長久に鎮座せられるのであります。貞観御霊会は御霊祭の起源であり、以来その伝統は一千百余年連綿として継承され、現在祭礼当日渡御される神與は後陽成天皇、後水尾天皇、牛車は後陽成天皇より寄進せられ、氏子町中より供奉される指鉾も歴朝の寄進多くいずれも往時を偲ぶ由緒深き貴重なる丈化財であります。
又、往古境内は御霊の森と云い 現在の約二倍あり、文正二年 (一四六 七 )室町幕府管領 畠山政長がこの森にたてこもり (東陣)西軍山名方と一戰交えたのが応仁の乱の幕開けとなったことは史上有名であります。
御靈祭 五月十八日
神社配布紙より
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
【抜粋意訳】
◎京都府 府社之部
〇京都府 山城國 京都市上京區上御靈堅町
府社 御霊(ゴリヤウ)神社
祭神
崇道(スドウ)天皇
他戸(タヘ)親王
井上大皇后(ヰノウへノオホキサキ)
火雷(ホノイカヅチノ)神
藤原大夫(フジハラノタイフ)神
文屋宮田麿(フミヤノミヤタマロ)
橘逸勢(タチバナノハヤナリ)
吉備(キビノ)大臣相殿
小倉實起(ヲグラサキオキ)
小倉公連(キンツラ)
中納言典待局(テンジノツボネ)
小倉季判(スエトモ)
若宮(ワカミヤ)
菅原利子(スガハラノトシコ)本社所在地は 上出雲 又は小山とも称す、
社記及出雲寺記を按ずるに、延暦十三年五月の勧請にて、崇道天皇及び井上内親王の、霊を祀り、御霊社と称す、後伊豫親王及び大夫人藤原吉子の霊廟を建て、下御霊と称するを以て、此祠は上と称す、後又橘逸勢、文屋宮田麿を合祀し、上下両社供に六座となる、
三代實録貞観五年、神泉苑に六座の神位を設けて、勅修霊曾ありしは是なり、蓋是等の諸霊は皆罪なくして憤死し、亡霊怨むる所ありて種々の災害を為すを畏るゝがためなり、又 上出雲寺を建て、其修法に與らしむ。後更に藤原廣嗣、菅原道真をも配し八座の御霊と曰ふ、舊説八座は井上内親王なく吉備真備を加ふ、其故如何を知らず、
今再考するに、三代實録 貞観元年 出雲井上神 授位の事あり、延喜式出雲井於神社あり、
名勝志に 之を下鴨社内に在りと爲し、神祇志料は其格を本社に充てたり、恐らくは失當ならん、出雲は郷名なれば、彼地蓼倉郷に在る理なし、畢竟するに上御霊の舊名にて、井上内親王を祭ればなり。舊説或は 井上内親王の名なし、蓋崇道天皇と同体と見倣したる歟、社記に「初鎭大和國内山」とあるは 宇智郡の霊安寺御霊社なり、井上内親王の山陵此に在り、
吉備真備を加ふるは 後世のしわざなるべし、倭訓栞に、「八所御霊の其一なる吉備の聖霊をば、舊説 吉備大臣真備とするは非也、文武帝の皇女二品吉備内親王也、火雷天神は 舊説 菅原朝臣道真とするも非也、霊安寺縁起に若宮雷とありて、井上内親王宇智郡へ押籠めたて奉りし時、御懐妊にて、彼地に誕生ありし皇子なり」と記せり、
神祇志料に「御霊祠、其一は上京鞍馬口南寺町の西にありて上御霊と云ひ、其一は寺町通丸太町にありて下御霊と云〔式社考証〕
並に 光仁天皇皇子崇道天皇、桓武天皇皇子伊豫親王、及御母藤原朝臣吉子、橘朝臣逸勢、文室朝臣宮田麿を祀る〔三代実録〕
蓋皆罪なくして死たる を深く憤り怨みつる神魂鬱結て、自ら種々の災害起りしを以て、朝廷又甚之を恐たりき〔類聚国史、日本紀略、続日本紀大意〕
清和天皇 貞観五年五月壬午、是より先疾疫多に起り、百姓多く死るは崇道天皇等五人の霊也と世に称ふるを以て、天下諸國夏秋二時に御霊会を修む、今春疾疫又起りしかば朝廷にも祈り給ひ、此に至て左近衛中將藤原朝臣基経等に勅して、神泉苑に霊座六前を設け、花菓を陳ね、近侍児童良家子弟に歌舞せしめて御霊曾を行ふ、其事極めて盛なりき、
七年六月癸亥勅して、御霊曾に託て徒衆を聚め、馬を馳せ、弓を射る事を禁めしむ〔三代実録〕
後世 吉備朝臣眞吉備。藤原朝臣廣嗣、菅原朝臣道真を配せ祭て八所御霊と云ふ〔諸社根元記、諸神記」〕とあり、
雑談治要に「八所の御霊と申すは。昔謀叛を起して其志を遂げず、或は何事にても恨を含める人の霊を祭られたる社也」と見えたり、
本社は 代々の天皇崇敬殊に厚く、神殿は内侍所の假殿拝領の上造営せりと、天正十三年の造営には都鄙勧化の綸旨を下し賜ひ、各御所よりは、例年正月元日歯固の御初穂寄進あり、
宝永七年九月十二日、霊元天皇の皇子 岑宮御誕生あり、翌日御胞衣を当社内神樂所前に納め給ふ、
寛政十三年正月二十三日、光格天皇 皇子御誕生あり、翌二十四日 御胞衣を稻荷社前に納め給ふ。天保八年正月二十六日、仁孝天皇の皇女恭宮御誕生あり、
翌二十七日 御胞衣を社内長宮の前に納め給ふ、安政五年六月十二日、孝明天皇皇女 富貴宮御誕生ありて、御胞衣を本社前に納め給ふ、凡て若君御誕生の時は、皇子皇女に拘らす、百二十日の後 御社参あり、霊元天皇は 御在位中に両度行幸せられ、御製を奉進ありき、後陽成天皇 御水尾天皇 御鳳輦を寄進せられ、之を神輿に造り替へ、今に祭典に用ゐらる、
明治六年四月郷社と決定、
同は十年二月十日宮内省より金千圓御寄進あり、
同十四年六月府社に列す、相殿小倉氏の三神霊はもと三社明神と称し、松木保丸氏の京都の邸内に在りしを、又典侍局若宮及菅原利子の三神霊は、和光明神と称して、勧修寺顕允氏の京都の邸内に在りしを、明治十四年十月当社に合祀せり、
社殿は、本殿、幣殿、拝殿、絵馬含、假殿、神樂所、神輿庫、社務所等を備ふ、境内二千二百三坪(二千百よん十二坪、官有地第一種、六十一坪、民有地第一種)あり。
【原文参照】
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・本殿・拝所
・神楽殿
・絵馬所
・清明心の像
・四脚門(南門)
・楼門(西門)
・楼門前の狛犬
・社頭
・応仁の乱 発端 御霊合戦旧跡 碑
応仁の乱 勃発の地
文正(ぶんしょう)二年(一四六七)正月十八日朝、この付近すなわち御霊(ごりょう)の森(上御霊 かみごりょう 神社境内)での合戦から「応仁の乱」は始まった。前日の十七日深夜、畠山政長(はたけやままさなが)は自ら屋敷を焼いて、一族郎党や奈良筒井氏の成身院光宣(じょうしんいんこうせん)らと兵約二千を率いてここに布陣した。
翌十八日早朝、畠山政長と畠山家の家督を激しく争っていた畠山義就(はたけやまよしなり)が兵三千余で攻撃をしかけ、十八日は終日激しい戦いが続いた。義就方には朝倉孝景(あさくらたかかげ)、ついで山名持豊(やまなもちとよ)(宗全 そうぜん)の命を受けた山名政豊が加勢した。しかし政長方には頼みの細川勝元がこの時点ではまだ動かず、まる一日の合戦の結果、政長方は持ちこたえられず退去した。これが「応仁の乱」の最初の合戦である。
その年の三月、年号は「文正」から「応仁」と改まり、細川氏・山名氏の両陣営はそれぞれに味方を集めて戦時体制をかため、五月から上京を中心に、将軍・足利義政の後継者争いも絡み合う、東西両軍の全面的な戦に入った。この戦は京の都を疲弊させ、室町幕府の権威を失墜させたが、厭戦の風潮の中、細川・山名両氏の間に和睦が成立し、文明九年(一四七七)、十一年間に渡る大乱はようやく収束をみた。
なお、宗全の墓は南禅寺の真乗院にある。
京都市
現地立札より
〈境内社〉
・神明神社《主》天照大御神
・稲荷神社《主》稲荷神
・厳島神社《主》宗像三女神
・花御所八幡宮《主》八幡神〈足利義満の花の御所の鎮守社であった〉
・大舞神社《主》
・天満宮社《主》菅原道真公
・多度神社《主》天津彦根命
・貴船神社《主》高龗神
・粟島神社《主》淡島神
・白髪神社《主》
・長宮三十社
〈春原社、荒神社、稲葉神社、今宮神社、熊野神社、愛宕神社、熱田神社、多賀神社、厳嶋神社、猿田彦神社、貴布禰社、丹生神社、梅宮神社、八坂神社、廣田神社、吉田神社、日吉神社、住吉神社、龍田神社、廣瀬神社、大和神社、石上神社、大神社、大原神社、平野神社、春日神社、松尾神社、八幡神社、賀茂神社、鴨神社〉
・社号標〈神社の東側 寺町通にある 時計の埋め込まれた変わった社号標〉
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
上御霊神社と下御霊神社は 両御霊社と称されます
・下御靈神社(京都市中京区寺町通丸太町下ル下御霊前町)
下御靈神社(しもごりょうじんじゃ)は 平安時代 御霊の祟りを恐れ 貞観5年(863)御霊会が修せられたのが 両御霊神社の創祀と云う 元は愛宕郡出雲郷の出雲路にある出雲氏の氏寺・下出雲寺の御霊堂に祀られた鎮守社で 社家は代々出雲路家が司り 延喜式内社 愛岩郡 出雲井於神社(いつものゐのうへの かみのやしろ)ともされます
下御靈神社(京都市中京区寺町通丸太町下ル下御霊前町)
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
『日本三代實録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
京畿七道の諸神267社に 神階の奉授が記されています
出雲井於神は 從五位下から從五位上へ と記されます
【抜粋意訳】
卷二 貞觀元年(八五九)正月廿七日甲申
○廿七日甲申
京畿七道の諸神に 進む 階(くらい)及ひ 新に叙つ 惣て二百六十七社あまり
奉授に
淡路國 无品勳八等 伊佐奈岐命一品
備中國 三品 吉備都彦命二品神祇官
无位 神産日神。高御産日神。玉積産日神。生産日神。足産日神 並從一位。
无位 生井神。福井神。綱長井神。波比祇神。阿須波神。櫛石窓神。豐石窓神。生嶋神。足 嶋神 並從四位上。宮内省
從三位 園神。韓神 並正三位。
大膳職正四位下 御食津神 從三位。
左京職從五位上 太祝詞神。久慈眞智神 並正五位下。
大膳職從五位下 火雷神。大炊寮從五位下 大八嶋竈神八前。齋火武主比命神。内膳司從五位下庭火皇神。造酒司從五位下大戸自神 等並從五位上。
无位 酒殿神 從五位下。山城國
正二位勳二等 松尾神從一位。葛野月讀神。平野 今木神 並正二位。
正四位下 稻荷神三前 並正四位上。
正四位下 大若子神。小若子神。酒解神。酒解子神 並正四位上。
平野從四位下 久度古開神 從四位上。
正五位上 貴布禰神。正五位下乙訓火雷神。從五位上水主神等 並從四位下。
正五位下 合殿比咩神 正五位上。
從五位下 樺井月讀神。木嶋天照御魂神。和攴神 並正五位下。
從五位下 祝園神。天野夫攴賣神。 岡田鴨神。岡田園神。樺井月神。棚倉孫神。許波多神。出雲井於神。片山神。 鴨川合神 等並從五位上。
正六位上 與度神。石作神。向神。簀原神。鴨山口神。小野神。久我神。高橋神。雙栗神。水度神。伊勢田神。无位小社神 並從五位下。
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻1 四時祭上 六月祭十二月准 月次祭
月次祭(つきなみのまつり)『広辞苑』(1983)
「古代から毎年陰暦六月・十二月の十一日に神祇官で行われた年中行事。伊勢神宮を初め三〇四座の祭神に幣帛を奉り、天皇の福祉と国家の静謐とを祈請した」
大社の神304座に幣帛を奉り 場所は198ヶ所と記しています
【抜粋意訳】
月次祭(つきなみのまつり)
奉(たてまつる)幣(みてぐら)を案上に 神三百四座 並大社 一百九十八所
座別に絁五尺、五色の薄絁各一尺、倭文一尺、木綿二両、麻五両、倭文纏刀形(まきかたなかた)、絁の纏刀形、布の纏刀形各一口、四座置一束、八座置一束、弓一張、靫(ゆき)一口、楯一枚、槍鋒(ほこのさき)一竿、鹿角一隻、鍬一口、庸布一丈四尺、酒四升、鰒、堅魚各五両、腊二升、海藻、滑海藻、雑の海菜各六両、堅塩一升、酒坩(かめ)一口、裹葉薦五尺、祝詞(のとこと)座料短畳一枚、
前一百六座
座別絁五尺、五色薄絁各一尺、倭文一尺、木綿二両、麻五両、四座置一束、八座置一束、楯一枚、槍鋒一口、裹葉薦五尺、
右所祭之神、並同祈年、其太神宮(かむのみや)、度会宮(わたらひのみや)、高御魂神(たかむすひのかみ)、大宮女神(おほみやめのかみ)には各加ふ馬一疋、〈但太神宮、度会宮各加籠(おもつを)頭料庸布一段、〉
前祭五日、充忌部九人、木工一人を、令造供神調度を、〈其監造并潔衣食料、各准祈年、〉祭畢即中臣の官一人率て宮主及卜部等を、向て宮内省に、卜の定供奉神今食に之小斎人(みのひと)を、
供神今食料
紵一丈二尺、〈御巾料、〉絹二丈二尺、〈篩(ふるい)の料、〉絲四両、〈縫篩等料、〉布三端一丈、〈膳部巾料、〉曝布一丈二尺、〈覆水甕料、〉細布三丈二尺、〈戸座襅(へさたまき)并褠料、〉木綿一斤五両、〈結ふ御食(みけ)料、〉刻柄(きさたるつか)の刀子二枚、長刀子十枚、短刀子十枚、筥六合、麁(あら)筥二合、明櫃三合、御飯、粥料米各二斗、粟二斗、陶瓼(すえのさかけ)[如硯瓶以上作之]瓶【瓦+并】(かめ)各五口、都婆波、匜(はふさ)、酒垂各四口、洗盤、短女杯(さらけ)各六口、高盤廿口、多志良加[似尼瓶]四口、陶鉢八口、叩盆四口、臼二口、土片椀(もひ)廿口、水椀八口、筥代盤(しろのさら)八口、手洗二口、盤八口、土の手湯盆(ほん)[似叩戸采女洗]二口、盆(ほとき)四口、堝十口、火爐二口、案(つくえ)十脚、切机二脚、槌二枚、砧二枚、槲四俵、匏廿柄、蚡鰭(えひのはた)槽[供御手水所]二隻、油三升、橡の帛三丈、〈戸の座服の料、冬絁一疋、綿六屯、履一両、〉
右供御の雑物は、各付内膳主水等の司に、神祇官の官人率神部等を、夕暁(よひあかつき)両般参入内裏に、供奉其の事に、所供雑物、祭訖て即給中臣忌部宮主等に、一同し大甞会の例に、
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻2「四時祭下」中の「相嘗祭神七十一座」
【抜粋意訳】
巻2 神祇2 四時祭下 十一月祭
相嘗祭神(あひむへのまつりのかみ)七十一座出雲ノ井上ノ社一座
絹二疋、絲一絇一両、綿三屯、調布三端四丈、庸布一段一丈三尺、木綿一斤十両、堅魚二斤十両、鮑十両、海藻二斤、凝海藻三斤、腊四斤、塩一升、筥一合、瓼、缶、水瓫、山都婆波、小都婆波、筥瓶、酒垂、匜、等呂須伎、高盤、片盤、短女坏、小坏、筥坏、陶臼各二口、酒稲五十束、〈神税、〉
【原文参照】
『延喜式(Englishmen)』巻2 四時祭下 新嘗祭
新嘗祭(にいなめのまつり)は
「新」は新穀を「嘗」はお召し上がりいただくを意味する 収穫された新穀を神に奉り その恵みに感謝し 国家安泰 国民の繁栄を祈る祭り
式内大社の神304座で 月次祭(つきなみのまつり)に准じて行われ
春には祈年祭で豊作を祈り 秋には新嘗祭で収穫に感謝する
【抜粋意訳】
新嘗祭(にいなめのまつり)
奉(たてまつる)幣(みてぐら)を案上に 神三百四座 並 大社 一百九十八所
座別に 絹5尺 五色の薄絹 各1尺 倭文1尺 木綿2両 麻5両四座置1束 八座(やくら)置1束 盾(たて)1枚 槍鉾(やりほこ)1竿
社別に庸布1丈4尺 裏葉薦(つつむはこも)5尺前一百六座
座別に 幣物准社の法に伹 除く 庸布を
右中 卯の日に於いて この官(つかさ)の斎院に官人 行事を諸司不に供奉る
伹 頒幣 及 造 供神物を料度 中臣祝詞(なかとみののりと)は 准に月次祭(つきなみのまつり)に
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
上御霊神社は 二つの式内社〈① 出雲井於神社(大月次相嘗新嘗)②出雲髙野神社〉の論社です
① 出雲井於神社(大月次相嘗新嘗)
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)山城國 122座(大53座(並月次新嘗・就中11座預相嘗祭)・小69座(並官幣))
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)愛宕郡 21座(大8座・小13座)
[名神大 大 小] 式内大社
[旧 神社 名称 ] 出雲井於神社(大月次相嘗新嘗)
[ふ り が な ](いつものゐのうへの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Itsumo no ino uheno kaminoyashiro)
②出雲髙野神社
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)山城國 122座(大53座(並月次新嘗・就中11座預相嘗祭)・小69座(並官幣))
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)愛宕郡 21座(大8座・小13座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 出雲髙野神社
[ふ り が な ](いつものたかのの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Itsumo no takao no kaminoyashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
上御霊神社は 二つの式内社〈① 出雲井於神社(大月次相嘗新嘗)②出雲髙野神社〉の論社です
延喜式内社 山城國 愛岩郡 出雲井於神社(大 月次 相嘗 新嘗)(いつものゐのうへの かみのやしろ)の論社について
・出雲井於神社(京都市左京区下鴨泉川町)〈賀茂御祖神社 境内〉
出雲井於神社(いずもいのへのじんじゃ)は 式内社 山城國 愛岩郡 出雲井於神社(いつものゐのうへの かみのやしろ)であり 出雲郷の総社が「井於〈川=鴨川の辺〉」に鎮座する意味があります 又 厄年の御祈願で神社の周りに御献木すると ことごとく柊の葉の様にギザギザになり お願い事が叶うと云い 比良木社(柊社)とも呼ばれます
出雲井於神社〈比良木大明神〉(京都市左京区下鴨泉川町)〈賀茂御祖神社 境内〉
・井上社(京都市左京区下鴨泉川町)〈賀茂御祖神社 境内〉
井上社(いのうえのやしろ)は 賀茂斎院の御禊や解斎 関白賀茂詣の解除に参拝された御手洗社(みたらしのやしろ)で 旧鎮座地は 高野川と鴨川の合流地東岸〈文明二年(1470)焼亡〉文禄年間(1592~96)ここに再興〈井戸の井筒の上に祀られ井上社と呼ぶ〉式内社 出雲井於神社(いつものゐのうへの かみのやしろ)の論社です
井上社〈御手洗社〉(京都市左京区下鴨泉川町)〈下鴨神社 境内社〉
・上御霊神社(京都市上京区上御霊竪町)
上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)は 平安時代 御霊の祟りを恐れ 貞観5年(863)御霊会が修せられたのが 両御霊神社の創祀と云う 元は愛宕郡出雲郷の出雲路にある出雲氏の氏寺・上出雲寺に祀られた鎮守社 二つの式内社〈出雲井於神社(いつものゐのうへの かみのやしろ)出雲髙野神社(いつものたかののかみのやしろ)〉の論社です
上御靈神社(京都市上京区上御霊前通烏丸東入上御霊竪町)
・下御靈神社(京都市中京区寺町通丸太町下ル下御霊前町)
下御靈神社(しもごりょうじんじゃ)は 平安時代 御霊の祟りを恐れ 貞観5年(863)御霊会が修せられたのが 両御霊神社の創祀と云う 元は愛宕郡出雲郷の出雲路にある出雲氏の氏寺・下出雲寺の御霊堂に祀られた鎮守社で 社家は代々出雲路家が司り 延喜式内社 愛岩郡 出雲井於神社(いつものゐのうへの かみのやしろ)ともされます
下御靈神社(京都市中京区寺町通丸太町下ル下御霊前町)
延喜式内社 山城國 愛岩郡 出雲髙野神社(いつもの たかのの かみのやしろ)の論社について
・出雲高野神社(京都市左京区上高野西明寺山)〈崇道神社 境内社〉
・御蔭神社(京都市左京区上高野東山)
御蔭神社(みかげじんじゃ)は 太古 賀茂の大神が降臨された所〈御生山(みあれやま)〉と所伝があり 現在でも 葵祭に先立って 祭神を降臨地である御蔭山から賀茂社へ迎える御生(みあれ)神事が行われています 綏靖天皇の御代(BC581)に創建起源とされ 二つの式内社〈①出雲髙野神社②小野神社二座 鍬靫〉の論社でもあります
御蔭神社(京都府京都市左京区上高野東山)〈下鴨神社 境外摂社〉
・上御霊神社(京都市上京区上御霊竪町)
上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)は 平安時代 御霊の祟りを恐れ 貞観5年(863)御霊会が修せられたのが 両御霊神社の創祀と云う 元は愛宕郡出雲郷の出雲路にある出雲氏の氏寺・上出雲寺に祀られた鎮守社 二つの式内社〈出雲井於神社(いつものゐのうへの かみのやしろ)出雲髙野神社(いつものたかののかみのやしろ)〉の論社です
上御靈神社(京都市上京区上御霊前通烏丸東入上御霊竪町)
・猿田彦神社(京都市上京区上御霊前町)
猿田彦神社(さるたひこじんじゃ)は 桓武天皇が この神の託宣により平安遷都を決意され 延暦12年(793)勅願によって社殿を造営と伝えます かつての広大な境内も 応仁の乱以後 度々火災に遭い悉く焼失 寛政5年(1793)現在地に遷座 延喜式内社 山城國 愛岩郡 出雲髙野神社(いつもの たかのの かみのやしろ)の論社です
猿田彦神社(京都市上京区上御霊前通烏丸東入上御霊前町)〈平安京遷都を託宣せる神〉
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
地下鉄 烏丸線 鞍馬口駅駅から東方向へ約200m程 徒歩5分程度
上御霊神社(京都市上京区上御霊前通烏丸東入上御霊竪町)に参着
一礼をして鳥居・楼門をくぐり抜けて参道を進みます
芭蕉の句碑がありました
神楽殿の脇をぬけて 拝所に進みます
絵馬殿もあります
拝所にて
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
中門が拝所となっていて 本殿を囲うように透塀が廻されています
本殿の後方には たくさんの境内社が祀られていますので 一つづつお参りをして 社殿に一礼をして 南側の四脚門の神門へと向かいます
こちら南側の手水鉢には 御神紋が刻まれています
【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 出雲井於神社(大月次相嘗新嘗)について 所在は゛下鴨村 御祖社東井ノ上に在す゛〈現 井上社〈御手洗社〉(京都市左京区下鴨泉川町)〈下鴨神社 境内社〉〉と記しています
又 別の説として ゛橘経亮云、今の柊(ヒラキ)社也、古は別處に在しを、後に今の處に移したる也゛〈現 出雲井於神社(京都市左京区下鴨泉川町)〈賀茂御祖神社 境内〉〉を挙げるが 間違っているであろうと記しています
【抜粋意訳】
出雲井於神社 大月次相嘗新嘗
出雲は以都毛と訓べし、和名鈔、〔郷名部〕出雲、〔假字上の如し〕」井於は井乃倍と訓べし、和名鈔、〔郷名部〕河内國 志紀郡 井於、〔假字上の如し〕
○祭神 御井神歟
○下鴨村 御祖社東井ノ上に在す〔山城志〕
○式二、〔四時祭下〕相嘗祭神七十一座、〔中略〕出雲井上社一座、
○御祖社の末社也
類社
摂津國 島下郡 井於神社、
〔鍬靫〕和泉國 和泉郡 泉井上神社、
但馬國 養父郡 井上神社、〔連胤〕按るに、各國 御井神を、祭れるや否、今考ふに便なし、
神位
三代實録、貞観元年正月二十七日甲申、奉授ニ山城國從五位下 出雲井於神 從五位上、
橘経亮云、今の柊(ヒラキ)社也、古は別處に在しを、後に今の處に移したる也、祭神は素盞嗚尊也、云々、
伴信友云、丹波國 桑田郡 出雲神社と同神なるべし、云々、
一宮記に、出雲井於神社 大巳貴命妻 三穂姫也、といへるも由ありてきこゆと云る、共に信用がたし、柊社は 今 御祖社の内坤方に坐し、井於神社は 同東方に坐す事現に知られたり、また素盞嗚尊を祭るといふも、出雲の名によれるなるべし、
また一宮紀に、云々、三穗津姫といへるは、丹波國一宮 出雲神社の下にあるにて、爰の井於神社の事にあらず、もとより此井於神社当國一宮ならねば、一宮紀に戴すべきにあらず、皆杜撰の臆断也、
【原文参照】
式内社 出雲高野神社について 祭神や所在は゛等詳ならず゛〈良くわからない〉と記しています
所在について 諸説を挙げています
゛山城志に 在ニ高野村稱ニ御霊、と云るは信用がたし゛〈現 上御霊神社説は信用的できない〉
゛神祇拾遺に、八所御霊内 崇道天皇、山城國高野御霊と見え、出雲寺流記に、・・・当社を出雲高野神社とは差定めがたくや゛〈現 出雲高野神社(京都市左京区上高野西明寺山)〈崇道神社 境内社〉を定めきれない〉
もしかすると゛出雲郷に坐す高野神にて 別社なるか、廃亡せしにもやあらん゛〈出雲郷に鎮座していた高野神は 別神社であるか 廃絶しているのではないだろうか〉
と記しています
【抜粋意訳】
出雲高野神社
出雲は前に同じ、」高野は多加乃と訓べし、
○祭神 在所等詳ならず
○姓氏録、〔右京諸蕃下〕高野造、百濟國人佐平余自信之後也、
〔連胤〕按るに、
山城志に 在ニ高野村稱ニ御霊、と云るは信用がたし、こは神祇拾遺に、八所御霊内 崇道天皇、山城國高野御霊と見え、出雲寺流記に、延暦年中 遷都之時、崇道天皇之御崇依不止、此後永代無ニ遷都、末代鎮守云々、とあれば、当社を出雲高野神社とは差定めがたくや、されど当郡に高野と云地名、今の高野村の邊にも及びたるや、其徴いまだ知らず、
恐らくは出雲郷に坐す高野神にて 別社なるか、廃亡せしにもやあらん、類社
近江國栗太郡、同国伊香郡、因幡國巨濃郡、美作國苫東郡 高野神社(各一座)
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 出雲井於神社(大月次相嘗新嘗)について 所在は゛今 出雲郷 下鴨社の楼門内 西傍 柊木社 即是也゛〈現 出雲井於神社(京都市左京区下鴨泉川町)〈賀茂御祖神社 境内〉〉と記しています
【抜粋意訳】
出雲井於神社
今 出雲郷 下鴨社の楼門内 西傍 柊木社 即是也、〔神名帳考、式社考証、〕
柊木社、又 地主明神 或は氏神社といふ、〔長秋記、帝王編年記、〕
盖 素戔嗚命を祀る、〔御祖社傳説〕清和天皇 貞観元年正月甲申、従五位下より従五位上を授く、〔三代實録〕
醍醐天皇 延喜の制、大社に列り、月次相嘗雑嘗祈年案上の幣に預る、〔延喜式〕
鳥羽天皇 元永二年十一月壬申朔、御祖神体を地主明神に移し置奉る、即是也、〔帝王編年記〕
順徳天皇 健保四年四月乙卯、上皇賀茂行幸の時、此社に詣給ひき、〔後鳥羽院宸記〕凡 本社神官、禰宜あり、みな鴨縣主を以て之を補さる、〔鴨縣主系圖、賀茂注進雑記、〕
凡 毎年四月十一月上申日、賀茂神官等此社に來て幣を奉り、氏神祭を行ふ、〔賀茂年中行事次第、〕
式内社 出雲高野神社について 所在は゛今 出雲郷高野村にあり、御霊といふ、゛〈現 出雲高野神社(京都市左京区上高野西明寺山)〈崇道神社 境内社〉゛と記しています
又 一説として゛上京御霊前町出雲路、猿田彦神社あり、・・・当社疑らくは出雲高野神社ならむと云り、゛〈現 猿田彦神社(京都市上京区上御霊前町)〉の可能性も考慮すべきとも記しています
【抜粋意訳】
出雲高野(イズモノタカノノ)神社
今 出雲郷高野村にあり、御霊といふ、三月五日祭を行ふ、〔山城志、神名帳考、〕
〔〇按 一説云、上京御霊前町出雲路、猿田彦神社あり、其所蔵文書云、寄進出雲路神社、山城國高野村地頭職之事、右爲同國小野村地頭職替、所寄附之状如件、康永四年六月六日、正二位源朝臣とあるに據るに、当社疑らくは出雲高野神社ならむと云り、姑附て考に備ふ〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 出雲井於神社(大月次相嘗新嘗)について 所在は゛御祖神社楼門内西傍(下鴨)〇稱 比良木社゛〈現 出雲井於神社(京都市左京区下鴨泉川町)〈賀茂御祖神社 境内〉〉と記しています
別の説として゛御祖神社の東側の井幹の上の社これなりと云るは甚しき誤なり゛と記し〈現 井上社〈御手洗社〉(京都市左京区下鴨泉川町)〈下鴨神社 境内社〉〉とするのは誤りであると記しています
【抜粋意訳】
出雲井於(イヅモノヰノウヘノ)神社(大月次相嘗新嘗)
〇稱 比良木社
祭神
今按 木社祭神 素戔嗚尊とあれど 帝王編年記 元永二年十一月一日鴨ノ御祖ノ社 焼亡の條に 御體云々 奉移ニ地主明神ノ神殿〔號ニ 比良木明神〕とみえ
長秋記に賀茂下社 氏神社〔件ノ社 本社外廻廊 西南也〕とあるによるときは 賀茂縣主の氏神 建角身命を祭れるにや神位
清和天皇 貞観元年正月二十七日甲申 奉レ授ニ山城國 從五位下 出雲井於神 從五位上祭日 十月二十三日
社格 賀茂御祖神社摂社所在 御祖神社楼門内西傍(下鴨)
今按 御祖神社註進状に 地名の出雲は祭神に由緒ある名にて 昔時の上出雲郷と云邊にて今も此社の西北の大路を出雲大路と云ひ 又 比良木社より二十間許東北にいと大なる井ありて 四時共に美泉涌出るが故に 出雲井於神社とは云るなり
さるを瀬見小河に 出雲井於神社は 御祖神社の東側の井幹の上の社これなりと云るは甚しき誤なり 其證に 今 井幹の上に小社ありて 井上社と云は 文祿叫年祝秀延が建たる趣社記に明なるが 上に今泉亭俊彦が家に所藏の社頭古圖には 只井のみ有て 社また井幹杯も見えず 又 鴨脚秀文が家に所藏の古圖には 只井のみ有て社なし 然れば此社は 此社頭の圖を作れるより後 文祿四年に祝秀延が建たること諭なきを 今 井上社と唱來れるは 後人の附會なることいといと明也と云り 故今之に從ふ
式内社 出雲高野神社について 祭神や所在は゛等詳ならず゛〈良くわからない〉と記しています
所在について 諸説を挙げています
゛山城志に 在ニ高野村稱ニ御霊、と云るは信用がたし゛〈現 上御霊神社説は信用的できない〉
゛神祇拾遺に、八所御霊内 崇道天皇、山城國高野御霊と見え、出雲寺流記に、・・・当社を出雲高野神社とは差定めがたくや゛〈現 出雲高野神社(京都市左京区上高野西明寺山)〈崇道神社 境内社〉を定めきれない〉
もしかすると゛出雲郷に坐す高野神にて 別社なるか、廃亡せしにもやあらん゛〈出雲郷に鎮座していた高野神は 別神社であるか 廃絶しているのではないだろうか〉
との『神社覈録』の説を記しています
さらに 京都府式内考證の説として゛出雲路 猿田彦神社は小祠なれど最古社゛〈現 猿田彦神社(京都市上京区上御霊前町)〉の可能性も考慮すべきなのだが 確証がなく今は決定しきれない とも記しています
【抜粋意訳】
出雲高野神社
祭神
今按
神社覈録に 山城志に在ニ高野村 稱ニ御霊と云るは信用難し こは神祇拾遺に八所御霊内崇道天皇 山城國高野御霊とみえ 出雲寺流記に、延暦年中 遷都之時、崇道天皇之御崇依不止、此後永代無ニ遷都、末代鎮守云々、とあれば、当社を出雲高野神社とは差定めがたくや と云るは當れり
京都府式内考證に 出雲路 猿田彦神社は小祠なれど最古社にして 傳来の古書を見るに出雲路神社とありて 出雲高野とは記さざれども 足利尊氏の教書に寄ニ進 出雲路神社 山城國高野村地頭職之右為 同國小野村地頭職 替所寄附之狀如 件 康永四年六月六日正二位源朝臣 花押 とあるをみれば 高野の緣なきに非ず 當時 鎮座の邊も 盖 出雲郷の内ならんが 尚能考べしと云る 由ありげなれど 出雲高野神社と云べき明證なければ從がたし
【原文参照】
上御霊神社(京都市上京区上御霊前通烏丸東入上御霊竪町)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
山城国 122座(大53座(並月次新嘗 就中11座預相嘗祭)・小69座(並官幣)
山城国(やましろのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 山城国 の122座(大53座(並月次新嘗 就中11座預相嘗祭)・小69座(並官幣)の神社のことです
山城國 122座(大53座(並月次新嘗 就中11座預相嘗祭)・小69座(並官幣)