実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

亀山神社(亀山市西丸町)〈合祀 式内論社・片岡大明神・眞木尾神社・天満神社〉

亀山神社(かめやまじんじゃ)は かつては真澂神社(ますみじんじゃ)として亀山城内に鎮座していました 明治41年1908)に 延喜式内社の論社であった「・眞木尾神社(阿野田町)・天満神社(天神町)志婆加支神社江戸時代には片岡明神〉」や亀山皇太神社境内稲荷社・幸神社・天神地祇社を合祀して亀山神社と改称されています

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

亀山神社Kameyama shrine

通称名(Common name)

・真澂さん(ますみさん)

【鎮座地 (Location) 

三重県亀山市西丸町 570-1

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

祭神
源義家公(みなもとのよしいえこう)
源義時公(みなもとよしときこう)
石川義純公(いしかわよしずみこう)
石川家成公(いしかわいえなりこう)

合祀
句々廼遅命眞木尾神社(阿野田町)の祭神 式内社 眞木尾神社の論社
菅原道真公〈天満神社(天神町)の祭神 式内社 眞木尾神社の論社〉
武甕槌命志婆加支神社江戸時代には片岡明神〉の祭神 式内社 志婆加支神社の論社
大山津見神保食神宇迦之御魂神猿田比古神天照皇大神大名牟遅神品陀和氣命伊邪那美大神市杵島姫命火之迦具土神建速須佐之男命速玉之男神速山津見命大鷦鷯命安閑天皇瀬織津比女命天児屋根命黄泉津事解之男命大山咋神柴垣神天神地祇八百万神

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

由緒

 延享元年(一七四四)、備中国松山(現在の岡山県高梁市)から石川総慶が亀山城に入城した際、城内に小祠を設けて神祭りをした事に始まり、それ以来、亀山城内の旧館跡に鎮座して真澂神社として崇敬してきた。
亀山城主石川氏の祖である陸奥守源義家及び六男義時以下数世の神霊を祀っていた。
明治四年に至り城北の若山の地に遷座、同九年に再び城内の本丸跡に遷座し、村社の称号を許されたが、同十四年に郷社の列に加わった。
明治四十年から四十一年にかけて西町鎮座の郷社亀山皇太神社、阿野田村鎮座の式内社真木尾神社などを合祀し、同四十一年には社殿を現在の地である西丸に新築して奉遷し、社号を亀山神社と改めて現在に至っている。

皇學館大学現代日本社会学部神社検索システム研究会・三重県神社庁HPより
https://www.jinja-net.jp/jinjacho-mie/jsearch3mie.php?jinjya=63870

【由  (History)】

亀山神社(かめやまじんじゃ)【三重県亀山市観光/関西本線観光スポット】

三重県亀山市、亀山城の西出丸跡に鎮座する神社が、亀山神社。

祭神は亀山藩の旧藩主、石川氏の祖とされる源義家、源義時、元弘の役に奮戦して笠置山に散った石川義純(いしかわよしずみ)。江戸時代に城内に祀られた真澂神社(ますみじんじゃ)が前身です。

亀山城の西出丸跡に建つ藩主・石川家ゆかりの神社

江戸時代中期の延享元年(1744年)、備中国松山藩から石川総慶(いしかわふさよし)が亀山藩に転封され、亀山城に入城した際、城内に小祠を設けて奉斎したのが亀山神社の始まり。

亀山城内では、真澂神社(ますみじんじゃ)として崇敬されていました。

亀山城には、本丸、二の丸、東三の丸、西の丸、西出丸があり、本丸に本丸御殿、二の丸に藩庁となる二の丸御殿がありましたが、明治6年の廃城令で、多聞櫓と石垣、堀の一部を残し城郭の大部分は破却され、真澂神社も明治4年に城外に遷座しましたが、明治9年、真澂神社は亀山城内に戻っています。

明治32年には亀山演武場が境内に移設。

伊勢国鈴鹿郡鎮座の延喜式神名帳記載の眞木尾神社(祭神は句々廼遅神)、志婆加支神社(江戸時代には片岡明神、祭神は武甕槌命)、亀山皇太神社(江戸時代までは南崎権現社)を明治41年に合祀し、神社名を真澂神社から亀山神社に。

真木尾神社の伝承地は、亀山市阿野田町の真木尾神社とする説と亀山市天神町の天満神社とする説がありましたが、現在では2社とも亀山神社に合祀され、式内社の論争は合祀というかたちで決着しています。

社宝として、石川忠総甲冑(いしかわただふさかっちゅう)がありますが、江戸時代初期の慶安4年(1651年)に亀山藩主となった石川憲之(いしかわのりゆき)の父で、膳所城主・石川忠総の甲冑です。

JR関西本線 b-netグループお茶の京都宣伝プロジェクトHPより
https://kansaisen.mi-ktt.ne.jp/kankou_place/kameyamajinja/

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

・本殿

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・拝殿

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・天満宮〈真澂天神〉

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・出世稲荷

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・二の鳥居

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・宝篋印塔基礎部(亀山市指定文化財)

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・明治天皇亀山行在所遺構

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・亀山演武場

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・亀山城 与助井戸

与助井戸

 亀山城本丸で使用されたきた井戸です。天正18年(1590)岡本宗憲による亀山城築城の際、この場所にあった民家「与助鍛冶」を場外へ移したとの伝承から「与助井戸」とよびなわされてきました。城外への抜穴伝説がありますが、確認されていません。

現地案内板より

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・大久保神官家棟門

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市指定有形文化財建造物 大久保神官家棟門

 江戸時代に南崎権現社の神官であった大久保家の守邸の門であったとされる大久保家は、江戸時代前期の大庄屋打田権四郎が記した記録「九々五集」によれば、寛永九年 (一六三二)に西町権現・東町八幡宮・西町三社権現を、また、「亀山領分神社取調帳」 (天保七年・一八三六 )では、十三ヶ村・四十二社の神官を兼ねていた。
 亀山小学校 (現亀山西小学校)に時期は不明だが移築され、裏門として利用されていたが、昭和三十年に亀山神社境内に再び移築され、現在に至る。平成二十四年度に半解体修理を行った。
現地案内柱より 

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・社頭・一の鳥居

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

・旧亀山城 多聞櫓

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています

『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称

『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)

『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

亀山神社亀山市西丸町は 合祀された〈眞木尾神社(阿野田町)・天満神社(天神町)・片岡大明神〉が 二つの式内社〈①鈴鹿郡 真木尾神社鈴鹿郡 志婆加支神社〉の論社となっています

鈴鹿郡 真木尾神社〈合祀神 眞木尾神社(阿野田町)・天満神社(天神町)が論社

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢 253座(大18座・小235座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)鈴鹿郡 19座(並小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 木尾神社
[ふ り が な ](まきをの かみのやしろ
[Old Shrine name]Makiwo no kaminoyashiro

鈴鹿郡 志婆加支神社〈合祀神 志婆加支神社江戸時代には片岡明神〉が論社

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢 253座(大18座・小235座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)鈴鹿郡 19座(並小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 志婆加支神社
[ふ り が な ](しはかき かみのやしろ
[Old Shrine name]Shihakaki no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】This is the point that Otaku conveys.

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

『大神宮叢書』第3 後篇に記される内容

伊勢式内神社檢錄鈴鹿郡の条〈江戸時代末期の国学者 御巫 清直(みかなぎ きよなお)1812年~1894年(明治27年)の著書〉には 式内社・木尾神社・志婆加支神社の論社について記しています

【抜粋意訳】

伊勢式内神社檢錄 鈴鹿郡 木尾(マコヲ)神社

此社號モ地名ナルへケレト、今其名ヲ失シテ本社ノ坐地ヲ詳ニセス。神名帳傍注ニ云ク ,今云フ郡山ノ社 ,在リニ庄野邊、煕那近ノ考證コレ同ス。延經ノ考證ハ、今在ルニ久我村ニ社地歟、卜云ヘリ。何レモ浮妄ノ談ニテ取ルニ足ラス。按内記ニ、阿濃田村ニマス、御厨大明神卜云フ、卜載ス。實曆九年八月上進神社記ニ ,鈴鹿郡阿野田村眞木尾神社、延喜式内、祭所句々廻馳ノ命、祠官 櫻井信濃 ,トアレト ,其村ニ眞木尾卜稱スル祠アル事ナシ。御厨社ヲ狡意ニカク書ケルニヤアラム。依テ地志、里諺、徵古錄、宮地記等コレニ從テ皆阿濃田村ニ

在トス。然レトモ何ノ證蹟アリテ其處ニ配スルカ詳細ニ記セス。徐ク遺響ニ、阿濃田ノ属邑上野ニアリ、御厨明神卜稱ス、卽豊田御厨ノ地ナリ、今俗ハ榊ノ宮卜云、属邑ニ小ミサ、除尾(ノキヲ)ノ小字アリ、小見佐ハ小溝、ノキ尾ハ眞木尾ノ轉訛也、此ニ從テ定ムヘシ、卜云ヘリ。仍テ其御厨神明社ヲ檢スルニ、本社ニ塡へキ證跡ナシ。其村舊古ハ豊田御厨ノ地ニシテ、今モ村民豊田ヲ氏トスル者過半ナリト。其上分田 ,後ニハ廃セシカト ,年々米四俵ヲ内宮御師正龜大夫ニ送進ス。其内八斗ヲ神宮ニ收ム。其因ヲ以テ遷宮ノ翌年古材ヲ以テ小祠ヲ造リ、舟ニ積載セ、白子濱ニ廻ラシテ此處ニ建置ク神明祠ナリトソ。然ルヲ不勘ニ式内社ニ配スルハ、牽強論ニ及ハヌ事ナリ。然ルニ又遺響ニ云ク、式外赤尾天神祠アリ、天正年中ノ棟札アリ、舊領主豊田加賀守同備中守ノ寄附物アリ、トイヘリ。實ニ森垣内ニ赤子尾天神宮トイフアリテ、社殿〔長五尺、径四尺五寸、〕社地〔東西四十八間、南北六十間、〕ノ舊祠ナリ。其アコヲニ阿濃(アコウ)ノ字ヲ訛借シ、阿濃豊田(アコウトヨタ)卜合シテイフヲ、田一字ニ略省シ、濃(コウ)ヲ音讀ニシテ阿濃田(アノタ)トイへルヲ、後又阿野田ニ作ルナラム。是ヲ以テ考フレハ、赤子尾(アコヲ)ハ眞子尾ノ轉訓ニテ、其赤子尾天神ソ本社ノ遺存ナルヘキ。
〔因云、績日本紀云、天平十七年四月乙未•伊勢國眞木山火、三四日不滅、延ニ燒数百餘町、卽仰ニ山背伊賀近江等國撲ニ滅之、卜云ヘル眞木山 本社所在ノ山ナラムカト疑ヘルニ、類聚國史ニハ伊賀國ニ作レリ。伊勢トアルハ刊本ノ誤ナリ。〕

【抜粋意訳】

伊勢式内神社檢錄 鈴鹿郡 志婆加支(シバカキノ)神社

 

此社號も地名なるらし。神名帳傍注に、楠原村の天神乎、とあり。考證、雜記、拾遺、俚諺、名所圖會、徵古錄等これに雷同すれども、楠原は奄藝郡にして本郡に隷せず、無稽の牽強論するに及ばす。
案内記、宮地記には、川崎村ノ内、上芝崎村ノ乾、宮屋鋪と云字あり、方一町に半丁許芝生高埜なり、里よりは二町許も上る、と云ひ、鈴鹿郡賦にも、しはかきは しは崎にして、川崎の宮屋しきてふ地名こそ廃社の跡か、といへり。
遺響にも、河崎邑ノ内柴崎に古昔神社あり、今廃してなし、村老に探尋するに、峯ノ城舊址の北に宮やしきと云處あり、土人柴垣さまと稱せり、然れども社宇なしと答ふ、愚案するに本郡川崎村に柴崎と云地あり、志波加伎に音邇し、加伎は後世に佐伎に轉訛する處にして、志波加伎は舊名なるへし、然れども今は廃社にして其地定り難し、本邑ノ内柴崎と云處と峯城舊墟ノ北と二處に舊名存すといへとも、社宇はなし、と詳細に記せり。
仍て これを檢査するに、川崎村ノ西田畝を隔て山際に芝崎世古と云ふ出屋鋪あり。其南ノ山峯氏の城跡なり。其西ノ山腹に、寬政九年八月廿日再興と稱して建築せる志波加支社ありて、艮に面せる小祠なり。
又諸誌に謂ふ所の宮屋鋪は此芝崎の乾位に當りて、小山の上に八幡、愛宕を祀る祠あり。土人は宮垣樣と稱す。諸書此二ヶ處を紛混して廃社とするは妄なり。併両社ともに眞の本社たるへき確証なし。地勢も式社の形狀にあらず。猶他村を探索すへきにや。
然るに實曆九年八月上進せる伊勢國龜山領内神社記に云く、片岡大明神〔延喜式内、〕志婆加支神社、祭所武甕槌神、〔神主〕大久保和泉、とあるに據て龜山藩上申書に、本社を龜山西町南三丁俗に角森と云、社地の邊を片岡とも角落とも云、又西に績て芝原と云村有しか、中古野村に移ると載す。其片岡角ノ森の小社を檢するに、狭少ノ叢祠にて、本社たるへき證ある事なし。芝原といふ地は小祠より三四丁許西にありて、社地には迂遠なる名稱なり。論するに及ばぬ浮妄にこそ。
然して志婆加支の稱は姓氏錄に、柴垣ノ連は饒速日命十二世ノ孫懷大連之後也。舊事紀にも、物部布都久留大連之子 小事ノ連ノ公柴垣ノ連等ノ祖、とある柴垣の氏人村邑を建置して地名に負せ、祖神を祀て志婆加支神社と稱するにこそ。其意を以て考索をなすへき事なりかし。

【原文参照】

神宮司庁 編『大神宮叢書』第3 後篇,西濃印刷岐阜支店,昭和10至15. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1239755

神宮司庁 編『大神宮叢書』第3 後篇,西濃印刷岐阜支店,昭和10至15. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1239755

延喜式内社 伊勢國 鈴鹿郡 真木尾神社(まきをの かみのやしろ)の論社

真木尾神社の論社として 真木尾神社(亀山市阿野田町 鎮座)とする説と 天満神社(鈴鹿市天神 鎮座)とする説が2説がありました しかし 2社ともに 現在亀山神社に合祀された為に 式内社の継承社は亀山神社(亀山市西丸町)となっています

・亀山神社(亀山市西丸町)
〈亀山神社に合祀 真木尾神社(亀山市阿野田町 鎮座)〉
〈亀山神社に合祀 天満神社(鈴鹿市天神 鎮座)〉

一緒に読む
亀山神社(亀山市西丸町)〈合祀 式内論社・片岡大明神・眞木尾神社・天満神社〉

亀山神社(かめやまじんじゃ)は かつては真澂神社(ますみじんじゃ)として亀山城内に鎮座していました 明治41年(1908)延喜式内社の論社であった・眞木尾神社(阿野田町)・天満神社(天神町)・志婆加支神社〈江戸時代には片岡明神〉や亀山皇太神社・境内の稲荷社・幸神社・天神地祇社等を合祀して亀山神社と改称されています

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延喜式内社 伊勢國 鈴鹿郡 志婆加支神社(しはかきの かみのやしろ)の論社

・明神社(津市芸濃町楠原)

一緒に読む
明神社(津市芸濃町楠原)〈延喜式内社 志婆加支神社・比佐豆知神社の論社〉

明神社(あきらじんじゃ)は 旧鎮座地は現在の愛宕山の西方に広がる丘の上でした 天正年中(1573~1591)荒廃し現在地へ奉遷 式内社 伊勢國 鈴鹿郡 志婆加支神社(しはかきのかみのやしろ)の論社とされ 又 御巫 清直〈江戸時代末期の国学者〉の説では 式内社 奄藝郡 比佐豆知神社(ひさつちのかみのやしろ)とされます

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・能褒野神社(亀山市田村町)〈日本武尊の御陵 能褒野王塚古墳〉
〈能褒野神社に合祀 志婆加支神社(亀山市田村町 鎮座)〉

一緒に読む
能褒野神社(亀山市田村町)〈日本武尊の御陵 能褒野王塚古墳〉

能褒野神社(のぼのじんじゃ)は 「川崎村名越字女ヶ坂」の丁子塚(一名 王塚)〈明治12年(1879)宮内省が『延喜式』に記す日本武尊の御陵「能褒野墓」と治定〉その御霊を斎き祀る神社として御鎮座 明治41年(1908)には 村内の40余社〈式内社3社〈縣主神社・那久志里神社・志婆加支神社〉を含む〉が合祀されました

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・亀山神社(亀山市西丸町)
〈亀山神社に合祀 志婆加支神社〈江戸時代には片岡明神(亀山市西町角森 鎮座)〉

一緒に読む
亀山神社(亀山市西丸町)〈合祀 式内論社・片岡大明神・眞木尾神社・天満神社〉

亀山神社(かめやまじんじゃ)は かつては真澂神社(ますみじんじゃ)として亀山城内に鎮座していました 明治41年(1908)延喜式内社の論社であった・眞木尾神社(阿野田町)・天満神社(天神町)・志婆加支神社〈江戸時代には片岡明神〉や亀山皇太神社・境内の稲荷社・幸神社・天神地祇社等を合祀して亀山神社と改称されています

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【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

JR関西本線 亀山駅 から北上 約950m 車5分程度

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旧亀山城の跡地には ますみ児童公園があります

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亀山神社亀山市西丸町に参着

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一礼をして 社頭の鳥居をくぐり抜けて 砂利の敷き詰められた参道を進むと 二の鳥居が建ち その先に社殿が見えます

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拝殿にすすみます 社殿の向かって右側には境内社が祀られています

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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社殿に一礼をして 参道を戻ります

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神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 眞木尾神社について 所在は゛阿野田村に在す、今神宮と称す゛〈現 亀山神社亀山市西丸町に合祀された 眞木尾神社(阿野田町)と記してます

【抜粋意訳】

眞木尾神社

眞木尾は麻岐乃と訓べし

○祭神 彌豆麻岐神、考証、俚諺、〕

○阿野田村に在す、同上国史、〕今神宮と称す、

内山寵云、木山ハ、伊賀伊勢近江マデ廣クイフ、甲賀越ノ道ニテ、近江卜伊賀ニ通ズ、鈴鹿郡加太ノ山也、神社ヲ阿野田村ニアリト云フハ、移シテ今云ナルベシ、然ルベシ、日本紀、天平十七月乙未、伊賀国木山火、三四日不滅、延焼数百町、即仰山背伊賀近江等滅之、」伊賀阿拝郡木山神社、

 式内社 志婆加支神社について 所在は゛柴崎村に在す゛〈現 能褒野神社(亀山市田村町)に合祀柴崎村に鎮座した)志婆加支神社〉と記しています
その他に゛楠原村、称天神此乎゛〈現 明神社(津市芸濃町楠原)〉の説も紹介しています

【抜粋意訳】

志婆加支神社

志婆加支は假字也

〇祭神詳ならず

○柴崎村に在す、俚諺

 考証云、大八洲霊、勢陽俚諺是に從ふ、を志らず、又考証に、在楠原村、称天神此乎、俚諺に、未詳、今考柴崎村と云り、今是に從ふ、

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 眞木尾神社について 所在は゛今 阿野田村にあり゛〈現 亀山神社亀山市西丸町に合祀された 眞木尾神社(阿野田町)と記してます

【抜粋意訳】

眞木尾(マキヲノ)神社

今 阿野田村にあり、〔龜山藩式社取調帳〕

式内社 志婆加支神社について 社号のみが記されています

【抜粋意訳】

志婆加支(シメカキノ)神社

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第1巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815490

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 眞木尾神社について 所在は諸説あり ゛按内記に始て阿濃田村の御厨明神に配す、以後の諸書 これに從ふ゛〈現 亀山神社亀山市西丸町に合祀された 眞木尾神社(阿野田町)とあり どの説も確証がないと記しています

【抜粋意訳】

眞木尾神社

今按るに 傍注には郡山社在 庄野邊と云ひ 考證には久我村歟と云へり
按内記に始て阿濃田村の御厨明神に配す 以後の諸書 これに從ふと雖も 確証ある事なし
 其御厨祠は神鳳鈔に内宮 安乃田御厨〔四石 十二月〕とある地の遺跡にて 今なほ毎年米四俵を内宮に送進す 其因を以て本宮遷替の翌年 古材を以て小祠を造り内宮御師より送越すを安置する所の祠にて 千吉の舊社にはあらす 然るを續日木紀 天平十七年四月伊勢國眞木山火とあるを引て 當社を徴せしものもあれと 類聚國史伊賀國に作るを是として 本社に関係すへからす 

式内社 志婆加支神社について  所在の考証のみが記され 三ヶ所の論社を示しています

奄藝郡楠原村 天神社に配せれ゛〈現 明神社(津市芸濃町楠原)〉
川崎村芝崎組の乾に宮屋舗と稱する地゛〈現 能褒野神社(亀山市田村町)に合祀柴崎村に鎮座した)志婆加支神社
龜山西町南三町角落の森なる小祠に配す゛〈現 亀山神社(こ合祀片岡神社(亀山神社の境内鎮座)〉の説も紹介しています

【抜粋意訳】

志婆加支神社

祭神
祭日
社格

所在
 今按るに傍注以下の諸書に奄藝郡楠原村 天神社に配せれと郡差へり 案内記 郡賦等には川崎村芝崎組の乾に宮屋舗と稱する地あるに填たるに 寛政九年八月坤の山に再興す
又 龜山藩上申書に龜山西町南三町角落の森なる小祠に配す右三所何れも確証なくして決しがたし

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,大正14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/971155

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,大正14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/971155

『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承

 亀山神社は 郷社に列しています

【抜粋意訳】

〇三重縣 伊勢國 鈴鹿郡山町大字西丸

郷社 龜(カメヤマノ)神社

祭神
 石川氏世之霊(イシカハシスウセイノレイ)
 速玉之男(ハヤタマノヲノ)
 伊邪那美(イザナミノ)大神
 大山津見(オホヤマツミノ)
 泉津事解之男(ヨモツコトサカノヲノ)
 宇迦之御魂(ウガノミタマノ)

合殿
 保食(ウケモチノ)
 猿田彦(サダヒコノ)
 句々廼遅(ククノチノ)

 亀山神社は (マズミ)神社及び郷社 亀山皇太神社とを明治四十一年合併せし以来の名称にして、
 徴神社は、延享元年石川総慶の備中松山より移封の後、始祖 陸奥守 源義慶六男左衛門督義時 以来数世の神霊を城内に祭祀せるに始まり、
明治 城北若山へ遷座せしを、同年貴族士族の願に依り 舊本丸地字館へ奉遷し、同年村社に列せられ、其後 亀山南町  稻荷神社及び亀山北山神社を合併す、

又 亀山皇太神杜は、祭神 伊邪那美大神、速玉之男命、泉津事解之男命、大山津見命、保食神等を祀り、文永年中の勧請にして、社伝によれば、亀山天皇の御宇、平清盛の後胤関左近衛將監忠、紀伊国熊野大神を勧請し産土神として齋き奉る、其子 四郎盛種山城を築きて後 城内の鎮護神とし、代々崇敬厚く、或は宮殿の営繕 或は奉幣寄進等怠ること無し、文化年氏子の請願に由り正一位の神階を授けらる、而して 當社は 亀山権現と称へりしが、明治元年亀山皇太神社と改称し、同年亀山縣々社並に同縣第一郷社と定められ、同年三重縣第六大十五小の郷社に列せらる、

四十一年に至り 村社稻荷神社、同白山神社、同三池神社、同眞木尾神社、同天満神社、同横倉神社、同春日八幡神社、外無格社二十四社及び徴神社等と共に合併し、以て山神社と称するに至る。

殿は神殿、拝殿、参籠舎、玉垣等具備し、境内坪数三百十二坪(民有地第二種)にして、古松欝々として林立し眺望頗る絶佳なり。

【原文参照】

明治神社誌料編纂所 編『明治神社誌料 : 府県郷社』上,明治神社誌料編纂所,明治45. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1088244

亀山神社亀山市西丸町 (hai)」(90度のお辞儀)

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