海神社(かいじんじゃ)は 延寶の調〈延宝四年(1676)平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉で 式内社 海神社と比定されました しかし それ以前は 筒城村の海浜の海神(カイジン)山と称する所に上海神 下海神と云い伝えて 社もなく定めた祭りも無く 古来より”けいじん”と云われていたとされます
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
海神社(Kai shrine)
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (Location) 】
長崎県壱岐市石田町筒城西触323
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》豊玉彦命(とよたまひこのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
延寶の調〈延宝四年(1676)平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉で式内社 海神社と比定されたが
それ以前は 筒城村の海浜の海神(カイジン)山と称する所に上海神 下海神と云い伝えて 社もなく定めた祭りも無く 古来より”けいじん”と云われていた
【由 緒 (History)】
海神社
当社は式内大、壱岐二十四座の一なり。
創立年代詳かならざるも此祭神、神功皇后西戒征伐の御時功をなし給うたので此島に祀られたのであろうと。
文徳天皇 仁寿元年辛未春正月庚子詔して 正六位上に叙し給う。清和天皇 貞観元年正月二十七日 従五位下海神に従五位上を授け給う。三代実録、陽成天皇 元慶元年丁酉九月二十五日癸亥 中臣忌部両氏を遣し幣を班給う。
大嘗会供奉に依りてなり。朱雀天皇 天慶三年庚子神位一階を進めらる。崇徳天皇 永治元年辛酉秋七月同じく一階を、高倉天皇 治承四年庚子冬十月、後鳥羽天皇 文治元年乙巳三月三日 平家追討の御祈りにて同じく一階を進めらる。『壱岐国続風土記』に、「当社は嵯峨天皇 弘仁二年辛卯冬十月朔平旦、直に日輪の神勅を受けて神代の霊璽を写し奉り真の神体に象り渡し奉る云々」とあり。
『壱岐名勝図誌』に「海神社在海神川上一名戀川とも、石祠末向延宝年中源鎮信朝臣奉絹也(中略)当社は神明式に所載の石田郡海神社大なりとせり。(故考に西の流川を里俗あまうづといい天水雨水などの字をあてたれども海水の義 なるへし海ノ神社によれる名ならん)」とあり。
『壱岐国神社考』に「此地大社の建し所とも見えねば今の宗社八幡宮是則式の海神社なるべし云々」とあり。
『石田町史』より抜粋
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・石祠
・海神社と刻字された石祠
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
京畿七道の諸神 総数267社の神々に神階の奉授が記されています
【抜粋意訳】
巻二 貞觀元年(八五九)正月廿七日〈甲申〉の条
○廿七日甲申
京畿七道諸神 進 階及新叙 惣二百六十七社
奉授 淡路國无品勳八等伊佐奈岐命一品・・・・
・・・・
・・・・壹岐嶋 從五位下 海神 住吉神 兵主神 月讀神 並に 從五位上
對馬嶋 從五位下 和多都美神 高御魂神 住吉神 並に 從五位上
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)壱岐島 24座(大7座・小17座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)石田郡 12座(大3座・小9座)
[名神大 大 小] 式内大社
[旧 神社 名称 ] 海神社(大)
[ふ り が な ](あまの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Ama no kamino yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
式内社 海神社(大)(あまの かみのやしろ)の論社について
・海神社(壱岐市石田町筒城西触)
海神社(かいじんじゃ)は 延寶の調〈延宝四年(1676)平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉で式内社 海神社と比定されました しかし それ以前は 筒城村の海浜の海神(カイジン)山と称する所に上海神 下海神と云い伝えて 社もなく定めた祭りも無く 古来より”けいじん”と云われていたとされます
海神社(壱岐市石田町筒城西触)
・白沙八幡神社(壱岐市石田町筒城仲触)
白沙八幡神社(はくさはちまんじんじゃ)は 本来の式内社 石田郡 海神社(大)だとされています 社記に延暦6年(787)神殿を辰(東南東)向きに建立とあり 八幡勧請以前は ”管城社” と呼ばれ 壱岐国大七社の一社で 例祭時には国主参拝の神社として特別扱いされていたが 延寶の調〈延宝四年(1676)平戸藩の国学者 橘三喜の式内社調査〉の際 ”八幡宮” の称号であった為 誤査定となった とあります
白沙八幡神社(壱岐市石田町筒城仲触)
『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される 海神社について
海神は「あまのかみ」「わたつみ」と呼ばれます 東日本の式内社には該当するものがありません
但馬国 城崎郡 海神社(貞・名神大)(あまの かみのやしろ)
・海神社(豊岡市小島)
・絹巻神社(豊岡市気比絹巻)
隠岐国 知夫郡 海神社 二座(あまの かみのやしろ ふたくら)
・渡津神社(隠岐 知夫里村 島津島)
渡津神社(わたつじんじゃ)は かつては「地触神 ちぶり神」「道路(海路)の神様」すなわち「道触の神:ミチブルのカミ」が祀られていました 渡津神社が鎮座する「知夫里」は 隠岐諸島のうちで 最も本土に近く 隠岐に渡航する門戸にあたり 古来 日本海の航行の船舶が必ず寄港する所でありました この神と渡津の海の様子は「紀貫之(きのつらゆき)」の『土佐日記』にも詠われています
渡津神社(隠岐 知夫里村 島津島)
・海神社(隠岐 西ノ島)
海神社(かいじんじゃ or うみじんじゃ)は 本殿背後に古墳もあり 古くからの社地と思われますが 創立年などは不詳です 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載社とされていて 近世になって江戸時代には 別府村の「六社大明神(rokusha daimyojin)」と称されていました
海神社(隠岐 西ノ島)
播磨國 明石郡 海神社三座(並名神大月次新嘗)(たるみの かみのやしろ みくら)
・海神社(神戸市垂水区宮本町)
・下畑海神社(神戸市垂水区下畑町)
紀伊国 那賀郡 海神社(あまの かみのやしろ)
・海神社(紀の川市神領)
海神社(かいじんじゃ)は 通称「海神(うながみ)さん」の名で親しまれ 主祭神は豊玉彦命・国津姫命です 創建は 第11代 垂仁天皇の御代〈BC.29~72AD.〉忌部宿禰が 神のお告げによって創建したと伝えられる古社で 『延喜式神名帳(927 AD.)』所載の紀伊國 那賀郡 海神社(あまの かみのやしろ)とされます
海神社(紀の川市神領)〈延喜式内社 海神社の論社〉
紀伊国 牟婁郡 海神社三座(あまの かみのやしろ みくら)
・潮崎本之宮神社(串本町串本)
・熊野本宮旧社地 大斎原(田辺市本宮町)に合祀
阿波国 名方郡 和多都美豊玉比賣神社(わたつみとよたまひめの かみのやしろ)
・雨降神社(徳島市不動西町)
雨降神社(あまたらしじんじゃ)は 創建年代は不祥です 『延喜式神名帳(927 AD.)』に所載の 二つの式内社〈①天石門別豊玉比賣神社(あめのいはとわけ とよたまひめの かみのやしろ)②和多都美豊玉比賣神社(わたつみとよたまひめの かみのやしろ)〉の論社です 近世では゛雨降大明神゛と称し 雨乞の霊験が伝わります
雨降神社(徳島市不動西町)〈延喜式神名帳所載 論社〉
・王子和田津美神社(徳島市国府町)
王子和田津美神社(おうじわたつみじんじゃ)は 徳島藩の地誌『阿波志』には゛延喜式小祠と為す 和多村に在り 今王子と称す゛と記され 延喜式内社 阿波国 名方郡 和多都美豊玉比賣神社(わたつみとよたまひめの かみのやしろ)の論社とされています
王子和田津美神社(徳島市国府町和田宮ノ元)〈式内社 和多都美豊玉比賣神社の論社〉
壹岐嶋 石田郡 海神社(大)(あまの かみのやしろ)
・海神社(壱岐市石田町筒城西触)
海神社(かいじんじゃ)は 延寶の調〈延宝四年(1676)平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉で式内社 海神社と比定されました しかし それ以前は 筒城村の海浜の海神(カイジン)山と称する所に上海神 下海神と云い伝えて 社もなく定めた祭りも無く 古来より”けいじん”と云われていたとされます
海神社(壱岐市石田町筒城西触)
・白沙八幡神社(壱岐市石田町筒城仲触)
白沙八幡神社(はくさはちまんじんじゃ)は 本来の式内社 石田郡 海神社(大)だとされています 社記に延暦6年(787)神殿を辰(東南東)向きに建立とあり 八幡勧請以前は ”管城社” と呼ばれ 壱岐国大七社の一社で 例祭時には国主参拝の神社として特別扱いされていたが 延寶の調〈延宝四年(1676)平戸藩の国学者 橘三喜の式内社調査〉の際 ”八幡宮” の称号であった為 誤査定となった とあります
白沙八幡神社(壱岐市石田町筒城仲触)
對馬嶋 上縣郡 和多都美神社(名神大)(わたつみの かみのやしろ)
・和多都美神社(対馬 仁位)
和多都美神社(わたつみじんじゃ)は 伝承によれば 山幸彦(彦火火出見尊)が 豊玉姫命を妃として留まったワタツミノ宮の古跡され 古くから竜宮伝説が残ります 社殿裏手の深い森の中に 磐座〈豊玉姫の墳墓〉があり 本殿から正面へと海へ向かって海中に鳥居が建ち 満潮時にはまるで海に浮かぶ竜宮城のような神秘的な光景が広がります
和多都美神社(対馬市豊玉町仁位字和宮)〈延喜式内社 和多都美神社(名神大社)〉
・海神神社(対馬 木坂)
海神神社(かいじんじんじゃ)は 八幡神が神風を吹かせたと伝わる 木坂の伊豆山の麓に鎮座します 神功皇后(ジングウコウゴウ)が 三韓征伐より凱旋の折に 対馬で掲げたと伝わる 八旒の旗〈8本の旗〉「振波幡」「切波幡」「振風幡」「切風幡」「豊幡」「真幡」「広幡」「拷幡」ここから 八幡(ヤハタ)が発祥しているとして「八幡信仰の源流」とされ 江戸時代までは「八幡本宮」と号していました 対馬国一之宮であり 由緒正しき古社です
海神神社(対馬 木坂)
對馬嶋 下縣郡 和多都美神社(貞・名神大)(わたつみの かみのやしろ)
・嚴原八幡宮神社(対馬 厳原)
厳原八幡宮神社(いづはらはちまんぐうじんじゃ)は 文明8年(1476)の棟札に「当社は 雍州 男山八幡宮の原廟と記す」とあり 八幡信仰の中心 京都 男山の「石清水八幡宮の起源」とも云われ 社伝には 神功皇后(ジングウコウゴウ)〈第14代 仲哀天皇の皇后〉が 三韓征伐からの凱還の時 対馬の清水山に行幸し 神霊の止まるべき山であるとして 山頂に神鏡と幣帛を置き 天神地祇(テンジンチギ)を祀り 磐境(イワサカ)を設けた その後 第40代 天武天皇の勅命(677)により 清水山の麓に社殿を造営 5柱の神を祀り 八幡宮と称したと伝
厳原八幡宮神社(対馬 厳原)
・乙和多都美神社(対馬 久和)
乙和多都美神社(おとわたつみじんじゃ)は 下縣で 唯一のワタツミの社号を伝へた神社である とされています 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の「對馬嶋 下縣郡 和多都美神社 名神大」の論社として 厳原八幡宮神社と並んで論社ですが どちらも「名神大 和多都美神」となる決め手と証がありません
乙和多都美神社(対馬 久和)
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
壱岐空港の北方3km程度 車6分程度
道路沿いに石垣があり 石燈籠があります
式内大社 海神社と矢印が刻された案内石柱が立っていますので ⇒印に従って参道を進みます
参道の先に鳥居が見えてきます
鳥居の扁額には海神社と刻字
海神社(壱岐市石田町筒城西触)に参着
祭祀場? 御旅所?
その先に社殿が見えてきました
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿内には 奉納された三十六歌仙絵巻? と御祭神 豊玉彦命の但書
社殿の横の森の中には石祠が祀られています
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
式内社 海神社の所在について 筒城村〈現 海神社(壱岐市石田町筒城西触)〉と記しています
【抜粋意訳】
海(アマノ)神社 大
三代実録 貞觀元年(八五九)正月廿七日〈甲申〉の条 奉授 壹岐嶋 從五位下 海神 住吉神 兵主神 月讀神 並に 從五位上
畧志 筒城村にあり 所祭 豊玉彦神
【原文参照】
『壱岐名勝図誌』〈文久元年(1861)に完成〉に記される伝承
巻之六 巻之八 壱岐郡筒城村 従 山崎浦 之部 海(アマノ)神社〈海神社(壱岐市石田町筒城西触)には 延寶の調〈延宝四年(1676)平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉で式内社 海神社とされたが 式内社とは異なる神であり 本来の式内社 海神社は宗社八幡宮〈現 白沙八幡神社(壱岐市石田町筒城仲触)〉であると記しています
【抜粋意訳】
壱岐名勝図誌 巻之八 壱岐郡筒城村 従 山崎浦 之部
海(アマノ)神社
在 海神川(カヒシカワ)上 一名 立川とも
祭神 素盞嗚尊
石祠 (未向)
拝殿・・
山・・・
神領 畠八畝
当社は神名式に所載の石田郡 海神社 大なりといへり
故考に西の流川を里俗あまうづといい天水雨水などの字をあてたれども海水(アマツミ)の義 なるへし海ノ神社によれる名ならん〇神社考云 此地 大社の建てし所とも見らねば 今の宗社八幡宮 是則式の海神社なるへし
正恒云 実にさまざまならんとそ思いけり中昔 兵乱が続きし頃は 何この神になれ大方八幡宮と称へなるへしる多し
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 海神社の所在について 筒城村〈現 海神社(壱岐市石田町筒城西触)〉と記しています
【抜粋意訳】
海神社 大
海は 阿麻と古語あり
〇祭神 豊玉彦命歟
〇筒城村に在す類社
播磨国 明石郡 海神社の條 見合うべし神位
三代実録 貞觀元年(八五九)正月廿七日〈甲申〉の条 奉授 壹岐嶋 從五位下 海神 住吉神 兵主神 月讀神 並に 從五位上
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 海神社の所在について 筒城村〈現 白沙八幡神社(壱岐市石田町筒城仲触)〉と記しています
【抜粋意訳】
海神社
今 筒城村 海神山の東海浜に在り 八幡宮といふ
盖 海上 豊玉彦命を祀る
清和天皇 貞觀元年(八五九)正月廿七日〈甲申〉の条 奉授 壹岐嶋 從五位下 海神 住吉神 兵主神 月讀神 並に 從五位上醍醐天皇 延喜の制 大社に列る
凡毎年十一月四日祭を行ふ
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 海神社の所在について 延寶の調〈延宝四年(1676)平戸藩の国学者 橘三喜の式内社調査〉で 筒城村〈現 海神社(壱岐市石田町筒城西触)〉とされたが それ以前から 筒城村の宗社八幡宮〈現 白沙八幡神社(壱岐市石田町筒城仲触)〉が式内社とされていて 海神も祀られているので 本来の式内社であると断言しています
【抜粋意訳】
海神社
祭神 豊玉彦命
今按〈今考えるに〉
神社考に 今 八幡宮と称する 八幡宮海神にして元は海神を祭れるを後に八幡を合祭れる歟
其の八幡の祭神 中 誉田尊 仲姫尊 左に足仲彦尊 氣長足姫尊 大鷦鷯尊 右に武内宿祢 玉依姫なり
毎年八月十六日 例祭神幸 神移し 左三座先三の輿に移し奉る 中二座二輿に移し奉る 右二座一輿に移し奉るが 二番跡の神輿を一輿と称せる
是則 当社の御本主ならば玉依姫は海中の御子なり 然則 海神社にも據ありとみえ
旧説に祭神 豊玉姫命とあるを 延寶の調〈延宝四年(1676)平戸藩の国学者 橘三喜の式内社調査〉に豊玉彦命を祭ると云るは如何あらん海神とありとて必ずしも豊玉彦命とみ定むべきにあらず 旧説 玉依姫とも豊玉姫共云る如く姫神とあるに従ふ方穏ならん 姑附て考に備ふ神位
清和天皇 貞觀元年(八五九)正月廿七日〈甲申〉の条 奉授 壹岐嶋 從五位下 海神 住吉神 兵主神 月讀神 並に 從五位上祭日 十一月四日
社格 (無社格)所在 筒城村(石田郡石田村大字筒城)
今按〈今考えるに〉
神社考に 筒城村の海浜の海神(カイジン)山と称する所に上海神 下海神と云伝へて社もなく定と祭る事も無くして 古来よりけいじんと云 式内海神社なりとて 延寶の調〈延宝四年(1676)平戸藩の国学者 橘三喜の式内社調査〉に定めたけど 其の海神山の東海浜の山中に村の宗廣八幡宮あり 古今 当国の大七社と称する内の一社なり 式の海ノ神社大とあり 大は其の國の大社なり 海神山は大社ありし地とは見えず
上下の海神の称号を伝しは八幡宮海神にして 元は海神を祭れるに後に八幡を合祭れる歟とみえ
式社沿革考に 旧記悉く筒城邑とあり然るに海神社はあまの訓にして けいじん山の所名 據なきが如し然れば村の宗社八幡宮 往昔より御崇敬七社の一なれば小縁の社にあらず 又 延宝以前は式内の社と称せり かかれば海神社は八幡宮歟と云る據あり従ふべし
【原文参照】
『壱岐国神社誌』(Ikinokuni jinjashi)〈昭和16年(1941)〉』に記される伝承
海神社(壱岐市石田町筒城西触)は 創建年代は不詳と記されています
【抜粋意訳】
石田村ノ部 無格社 海神社
鎭座地 石田村大字筒城西触
祭 神 豊玉彦命例祭日 十一月四日 神幸式、大神樂奉奏
境内地 1116坪〔由緒沿革〕
一、当社ハ式内大、壱岐國廿四座ノ一ナリ。
一、創立年代詳ナラザレドモ 此ノ神、神功皇后西戎征伐ノ御時功ヲナシ給ヘルニ依リ 此ノ島ニ祀ラレタルモノナルベシ。
〔三代実録二巻〕ニ貞観元年正月廿七日壱岐島從五位下海神從五位上トアリ。一、陽成天皇 元慶元年丁酉九月廿五日癸亥 中臣、忌部両氏ヲ遣シ幣ヲ班給フ、大嘗会供奉ニ依リテナリ。
一、朱雀天皇 天慶三年庚子 神位一階ヲ進メラル。
一、白河院 永保元年辛西三月、同ク一階ヲ。
一、崇徳天皇 永治元年辛酉秋七月、同ク一階ヲ。
一、後島羽天皇 文治元年乙巳三月三日、平家追討ノ御祈リニテ同ク一階ヲ進メラル。当社ハ古來 壱岐國人ノ崇敬厚ク 衰徴セル神社ノ発展ト尊嚴ヲ保持セン爲 崇敬者維持費ヲ積ミ 大正十一年春 先ヅ石烏居ヲ建設セリ。
毎年例祭ニハ神幸式ヲ行ヒ 神徳ノ発揚 参拝者誘致ニ努メ居レリ。
【原文参照】
海神社(壱岐市石田町筒城西触)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
壹岐嶋 式内社 24座(大7座・小17座)について に戻る
壱岐島(いきのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 壹岐嶋 24座(大7座・小17座)の神社です
壹岐嶋 式内社 24座(大7座・小17座)について