実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

鹿児島神宮(霧島市隼人町)

鹿児島神宮(かごしまじんぐう)は 社伝によると 創始は 遠く神代とも「神武天皇の御代に天津日高彦穗穗出見尊の宮殿であった高千穂宮」ともされます 和銅元年(708)現在地に遷座されて 高千穂宮跡の旧鎮座社地には 現在は 摂社 石体宮(石體神社)が鎮座しています

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(shrine name)】

 鹿児島神宮(kagoshima jingu)
 (かごしまじんぐう

 [旧名称(Old name)]

  国分正八幡(kokubu shohachiman)

【鎮座地 (location) 】

鹿児島県霧島市隼人町内2496番地1

 [地 図 (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》天津日高彦穂穂出見尊(amatsu hiko hohodemi no mikoto)(山幸彦)
   豊玉比売命(toyotamahime no mikoto)
《配》帯中比子尊(tarashi nakatsuhiko no mikoto)(第14代仲哀天皇)
   息長帯比売命(okinaga tarashihime no mikoto)(神功皇后)
   品陀和気尊(homudawake no mikoto)(第15代応神天皇・八幡大神)
   中比売命(homudawake no mikoto)(応神天皇皇后)

【御神格 (God's great power)】(ご利益)

・初宮参り Baby prays at shrine for the first time
厄除祓い Prayer at an age considered a milestone in life
・健康長寿 Health and longevity
・等 etc

【格 式 (Rules of dignity) 】

・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』所載社(大社)
・ 大隅国一之宮(osumi no kuni ichinomiya)
・ 別表神社
・ 宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)

【創 建 (Beginning of history)】

社伝によると 創始は 遠く神代とも「神武天皇の御代に天津日高彦穗穗出見尊の宮殿であった高千穂宮」ともされます

【由 緒 (history)】

鹿児島神宮の創祀は遠く神代にあって、又 皇孫神武天皇の御代なりとも伝えられます。
御祭神 彦穂穂出見尊は 筑紫の国開拓の祖神に坐しまし この地に高千穂宮(皇居)を営み給い、580歳の長寿に亘らせらるる間 農耕畜産漁猟の道を指導し 民政安定の基礎をつくり給うたのである。

俗に正八幡、国分八幡、大隅正八幡等と称し全国正八幡の本宮でもあります。

醍醐天皇の延喜の制には(901)大社に列し大隅一ノ宮として 朝野の崇敬特に篤く 営繕の費は三州の正税を以て充てられ
後鳥羽天皇建久年間(1198)には 社領2500余町歩の多きに至り江戸末期まで1000石を有して居た。
明治4年国幣中社、同7年神宮号宣下官幣中社、同28年官幣大社に夫々列格す。
昭和10年今上陛下の行幸を仰ぎ 勅使皇族の御参拝は20余度に及ぶ。現社殿は 桃園天皇の宝暦6年(1756)島津重年公(24代)の造営になるものである。

神社配布パンフレットより

【境内社 (Other deities within the precincts)】

 ・石體神社《主》天津日高彦穂穂出見尊

 鹿児島神宮は 和銅元年(708)現在地に遷座されて 高千穂宮跡の旧鎮座社地には 現在は 摂社 石体宮(石體神社)が鎮座しています

鹿兒島神宮の元鎮座地とされる「石體神社」の記事をご覧ください

一緒に読む
石體神社(鹿児島神宮の元宮)

石體神社(しゃくたいじんじゃ)は 遠く神代の頃 天津日高彦穂穂出見尊が 築かれた都「高千穂宮」の正殿跡と伝わります 皇后の豊玉比売命のお産の故事にあやかり 古くから安産の神として 篤い信仰があります 飛鳥時代 和同元年(708)に この地から遷座したのが 現在の鹿児島神宮と云われていて その元宮であるとされます 

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・御門神社《主》豊磐間戸命・櫛磐窓命

・雨之社《主》豊玉彦命

・四所神社《主》大雀命・石姫命・荒田郎女・根鳥命

・武内神社《主》武内宿禰
・隼風神社《主》日本武尊

・保食神社《主》保食神
・三之社《主》豊姫命・安曇磯良・武甕槌命・経津主命・火闌降命・大隅命
・山神神社《主》大山祇命
・大多羅知女神社《主》息長帯媛命
・稲荷神社《主》宇賀魂命・大宮売命・猿田彦命

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています 

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています

【延喜式神名帳】(engishiki jimmeicho)The shrine record was completed in December 927 AD.

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)大隅国 5座(大1座・小4座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)桑原郡 1座(大)

[名神大 大 小] 式内大社

[旧 神社名 ] 鹿兒島神社(大)
[ふ り が な  ](かこしまの かみのやしろ)
[How to read ](kakoshima no kamino yashiro)

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫

【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

大隅正八幡(鹿児島神宮)は 全国の正八幡宮の本宮です

前述の通り 大隅正八幡(鹿児島神宮)は 平安時代 醍醐天皇の延喜式には大社に列し 大隅國一之宮として朝野の崇敬篤く  
その由緒も かつて 八幡神は 大隅国に現れ 次に宇佐に遷り ついに石清水に跡を垂れたと『今昔物語集』にも記載されているように

大隅正八幡(鹿児島神宮)の正の字が示す如く 鹿児島神宮は八幡宮の根本社だともいわれていました 

幾多の伝承によれば かつて国分八幡(鹿児島神宮)と宇佐八幡との間に どちらが正統な八幡かを巡って争いが起きたとのことです

「宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)」(九州 五所別宮(kyushu gosho betsugu)について

宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

「宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)」の記事をご覧ください

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大隅国の式内社〈5座〉について

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大隅国 式内社 5座(大1座・小4座)について

大隅国(おほすみのくに)の式内社は 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載されている 大隅国の5座(大1座・小4座)の神社のことです 最南端の式内社として 益救神社(屋久島町宮之浦)もあります

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神社にお詣り(Pray at the shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

隼人駅から 県道473号経由 約1.3km 徒歩17分 車5分程度
県道から大鳥居が見える交差点には 社号標「大隅一之宮 鹿児島神宮」とあります

交差点を曲ると「朱色の大鳥居」が建っています

車道から駐車場には 鳥居を避けるように 境内地に入ります
夏祭りの準備が進み 提灯を照らすための 仮設照明用電線が参道に設置されています

車を下りると 参道にはいくつかの境内社が祀られていて「奉納木馬」もあります

石橋があり 参道の両側には 境内社・御門神社《主》豊磐間戸命・櫛磐窓命におまいりします 

その先には 石段が続きます

境内地は何段かになっていて 最初にあるのは社務所が建つ境内地です

参道石段の右脇には境内社・雨之社《主》豊玉彦命にお詣りです
すぐ横に樹齢800年の御神木があります

次の段まで上がると左手に「手水舎」があり龍頭から出る水で清めます

「竜宮の亀石」なるものがあります

右手の高檀に社殿が建ちます

奥から「本殿」「拝殿」「勅使殿」と建ち並びます

最前列の神殿入り口が勅使殿です

拝殿にすすみます 

賽銭をおさめ お祈りです 

ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

本殿向かって右横には
境内社・四所神社《主》大雀命・石姫命・荒田郎女・根鳥命にお詣りです

本殿地の右側横には
境内社・武内神社《主》武内宿禰 ・隼風神社《主》日本武尊にお詣りです

社殿域を後にします

勅使殿に一礼して

中段に建つ社務所で授与され 境内を後にします

神社の伝承(Old tales handed down to shrines)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『八幡愚童訓(hachimangudokun)』群書類従 に記される伝承

鹿児島神宮を正八幡と呼ぶ理由として 王女「大比留女(oohirume)」とその皇子について記されていてて 鹿児島神宮(旧鎮座地 石體神社)が八幡神の発祥の地としています

要約

「震旦(shintan)国(インドから見た中国の古称)の大王の娘の大比留女(oohirume)が 7歳の時に朝日の光が胸を突き入り 懐妊して王子を生んだ
王臣達はこれを怪しんで空船(utsuro bune)に乗せて 船のついた所を所領としたまうようにと大海に浮かべた

すると船はやがて 日本国 鎮西大隅の磯に着いた その太子は 八幡と名付けたので 船の着いたところを八幡崎と言う 継体天皇の代のことである
生母「大比留女(oohirume)」は 筑前国 若椙山へ飛入り給いて 香椎宮に飛んで聖母大菩薩となった

皇子は 大隅国に留まり 正八幡(八幡神)となり給い 大隅の元の住人の隼人は八幡の神と合戦して討ち負けた・・・・・・・」

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『八幡愚童訓』群書類従 刊本(跋刊) 旧蔵者 外務省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?BID=F1000000000000037302&ID=M1000000000000061076&LANG=default&GID=&NO=19&TYPE=JPEG&DL_TYPE=pdf&CN=1画像利用

『今昔物語集(konjaku monogatari shu)』巻12「於石清水行放生会語第十」に記される伝承
(いはしみず にして はうじょうゑ をおこなうこと だいじゅう)
(ihashimizu nishite haujoe wokonaukoto daiju)

八幡石清水宮の放生会(ほうじょうえ)についての説話が収められていて  鹿児島八幡宮を八幡神の発祥としています

意訳

「 今は昔 八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)が 前世にこの日本の帝王(みかど)としておいでになった時・・・・・・・・・・

はじめ 大隅国(おおすみのくに)に 八幡大菩薩として姿をお現しになり 次に宇佐宮(うさのみや)にお移りになり ついには この石清水に神としてお鎮まりになり 神に奉仕する 多くの僧俗たちに命じて 無数の生き物を飼わせてお放ちなさったのである・・・・・・・・・トナム語リ傳へタルトヤ 」

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス『今昔物語集』 写本 [旧蔵者]内務省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?BID=F1000000000000042818&ID=M2018061515390947949&LANG=default&GID=&NO=11&TYPE=JPEG&DL_TYPE=pdf&CN=1

『三国名勝図会(sangoku meisho zue)』天保14年(1843)に記される伝承

江戸時代の絵図(現在とほぼ同じです)と由緒などが記されています
境内社 四所宮 隼風宮 武内宮の由緒も記されています

抜粋

「 鹿児島神社

内村にあり また 正宮とも講ず 今 正八幡宮と云う・・・・
此餘(このよ) 臨時の会があり 延喜神名式 大隅國桑原郡一坐 大 鹿児島神社 と載られしは、當社なり

初め彦火々出見尊 一坐にて 神武天皇の勧請と云う

石清水伝記 曰く 鹿児嶋神社は 彦火々出見尊 也

神祇鈔 曰く 大隅國正八幡は 火々出見尊 也

興 宇佐八幡不同 宇佐八幡は豊前国宇佐郡にあり
・・・・・・・・

石體宮は 彦火々出見尊の山陵と相傳ふ

今の正宮は 和銅元年の御建立にて それ以前は石躰の地 即宮床(みやとこ)なり

又 口碑に 鹿児島とは 今の宮内(みやうち)の事といひ・・・・・・ 」

【原文参照】(https://dl.ndl.go.jp/)国立国会図書館デジタルコレクションサイト『三国名勝図会』天保14年(1843)五代秀尭, 橋口兼柄 共編 (山本盛秀, 1905) 

創始は 遠く神代とも「神武天皇の御代に天津日高彦穗穗出見尊の宮殿であった高千穂宮」ともされます 和銅元年(708)現在地に遷座されて 高千穂宮跡の旧鎮座社地には 現在は 摂社 石体宮(石體神社)が鎮座しています

鹿児島神宮(kagoshima jingu)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)

鹿児島神宮の元鎮座地とされる「石體神社」の記事をご覧ください

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石體神社(鹿児島神宮の元宮)

石體神社(しゃくたいじんじゃ)は 遠く神代の頃 天津日高彦穂穂出見尊が 築かれた都「高千穂宮」の正殿跡と伝わります 皇后の豊玉比売命のお産の故事にあやかり 古くから安産の神として 篤い信仰があります 飛鳥時代 和同元年(708)に この地から遷座したのが 現在の鹿児島神宮と云われていて その元宮であるとされます 

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行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

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