鏡作伊多神社(かがみつくりいたじんじゃ)は 神社の東北にある池゛宮古池゛が かつて享保年間(1716~1736)迄は 字はを「伊多の坪」と呼ばれた地であったが その後 池となったと伝わり この「伊多」の地名が延喜式内社 大和國城下郡 鏡作伊多神社(かかみつくり いたの かみのやしろ)の論社の論拠とされています
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
鏡作伊多神社(Kagamitsukuri ita shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
奈良県磯城郡田原本町大字宮古字補屋60
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》石凝姥命(いしこりどめのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
田原本歴史遺産 神々を訪ねて
延喜式内社 旧 城下郡 宮古 鏡作伊多(かがみつくりいた)神社
祭神 石凝姥命
境内社 布屋(ふや)(富屋)神社
宮古・鏡作伊多神社は 大字宮古集落の南端、宮古池の西に鎮座し、神社南側、道路・水路を挟んで、約150m南に保津・鏡作伊多神社がある。宮古と保津の間の道路・水路を境に宮古は城下郡、保津は十市郡で、この道路・水路は整然とした大和国条里に沿わず、西は大字富本から南南東に太子道・下ツ道を横切り、村屋座彌富都比売神社の中ツ道まで延びる仮称 阪手道(磯城下横道)で、太子道・下ツ道の交わる場所では、奈良時代以降の交易の場所である巷(ちまた)又は、役所に伴う遺構等が見つかっている重要な場所に鏡作伊多神社が存在する。 現在の本殿・拝殿とも平成9年の台風の被害により、新しく建て替えられ、本殿は一間社流造、千木、勝男木。
本殿の北側に、布(富)屋社があり、覆屋の中に板葺本殿、前に「□屋大明神」の石燈籠があり、この布(富)屋社が本来の鏡作伊多神社とも伝えられている。尚、現在、浄蓮寺に安置されている大日如来坐像は元 布(富)屋社又は鏡作伊多神社の本地佛である。
境内には、元禄三年(1690)、文化二年(1805)の石燈籠、文化六年(1809)の狛犬もある。
延喜式内社
平安時代の延長五年(927年)に纏められた「延喜式」の巻九・十に記載された全国2861社・3132座の神社「官社」の一覧表で国・郡・祭神・社格が記載されている。田原本町には、55の神社があり、その内16社、29%が延喜式内社で、さすがに、大和朝廷発祥の国、郡だけある。この宮古・鏡作神社も16社の内の1社である。
平成20年度 No.8 田観53 田原本町観光協会 編 中西秀和
現地案内板より
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【由 緒 (History)】
『奈良県史』第5巻 神社〈平成元年(1989)発行 奈良県史編集委員会編集〉 に記される伝承
【抜粋意訳】
十三 磯城郡 1、田原本町
鏡作伊多神社
当社鎮守地に二説あり、
Aは 田原本町保津字南垣内一五〇、
Bは 同町宮古字補屋六〇鎮座の神社で、A社は 近鉄田原本駅の西約一キロメートルの位置に
B社は 保津のA社から北北東に当って程近い宮古集落の東南端の社である。
二社の中いずれが『延喜式』神名帳の鏡作伊多神社に比定すべきか定め難い。A社に ついて『大和志』には「在ニ 穂津村 社ノ傍有ニ 小池 名鏡作 式載在ニ 城下郡」とあるが『延喜式』神名帳作製当時は 城下郡と呼んでいた当地は江戸中期の『大和志』編集当時は十市郡と呼んでいたことになる。例祭は十月十三日。
B社は 古来 城下郡に属して補屋明神と称し、祠の東北に沿ってある池の字名を伊多の坪という。享保(一七一六~三六)まで田地であったのを池にしたという。例祭は十月十三日。保津と宮古の社は南と北に道を距てた両大字に鎮座しているが、往古は両地共 鏡鋳造の作業をする氏族の住地であったと考えられる。
社伝によると、両社祭神の石許利止売命(石凝姥命)は鏡の材料を板状に引き伸し鍛えられるのに力の強かった神だったという。この付近の鏡作部の氏族が信仰した神の社が両社であったと考えられるが創建年代など明らかでない。
【原文】
『奈良県史』第5巻 神社〈平成元年(1989)発行 奈良県史編集委員会編集〉
『奈良縣磯城郡誌』大正4年(1915)に記される内
【抜粋意訳】
町村 都村 大字保津
鏡作伊多神社
村社にして村の南方池側に在り、本社を以て式にある鏡作伊多神社に充つるものありと雖も、社名に係けたる鏡作は郷名にして、而して此地は三宅郷に属し鏡作郷にあらず、
傳へ言ふ 本社は古來 補屋明神と稱し、祠の東北に沿ひてある池の字を伊多の坪と云ふ、享保年間(1716~1736)迄は田面なりしを、其後 池となしたるものなりと。
享保四年の村圖に 、補屋明神 北側の池底字伊多の坪、古檢二段十八歩、高三石二斗三升、天明六年の村圖は、補屋明神 北側の池床字伊多の坪二町ー畝七歩四厘、高二十六石四斗五升七令五勺とあり。此 伊多坪なる字に依り伊多神社と稱しなるものか、社の近傍にフヤと字せる地あり、フヤは補屋にして元と神田なりしより、斯く名けたるものか。或は云ふ三宅連は此地の氏族にして、祖神 天の日桙を祭りたるものならんと、補屋・日桙 音相近し、考ふへし。
【原文参照】
奈良縣磯城郡 編『奈良縣磯城郡誌』,奈良県磯城郡,大正4. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/950933
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・〈本殿向って左 境内社〉〈布屋(ふや)(富屋)神社〉2社合殿〔水乃神社・住吉神社〕
・〈拝殿向って右手前 境内社〉稲荷神社
・〈境内社〉春日神社《主》天児屋根命
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『風土記(ふどき)』和銅6年(713)
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています
『風土記(ふどき)』和銅6年(713)の特徴について
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本です
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史の総称
・『日本書紀』養老4年(720)完成
・『續日本紀』延暦16年(797)完成
・『日本後紀』承和7年(840)完成
・『續日本後紀』貞観11年(869)完成
・『日本文徳天皇実録』元慶3年(879)完成
・『日本三代實録』延喜元年(901)完成
〇『延喜式(えんぎしき)』延長5年(927)完成
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)全50巻 約3300条からなる
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)大和國 286座(第128座(月次新嘗・就中31座預り相詳細)・小158座(波官幣))
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)城下郡 17座(大3座・小14座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 鏡作伊多神社
[ふ り が な ](かかみつくり いたの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Kakamitsukuri ita no kaminoyashiro)
【原文参照】
国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
古代 大和國の「鏡作郷」に鎮座したと思われる式内社の論社について
鎮座地の周辺には 鏡作の守護神を祭祀した式内社「鏡作坐天照御魂神社・鏡作伊多神社・鏡作麻氣神社」などが鎮座し 古くは鏡を製作していた技術者集団が居住した古代 大和國「鏡作郷」であったとされます
延喜式内社 大和國 城下郡 鏡作坐天照御魂神社(大 月次 新嘗)(かかみつくりにます あまてるみたまの かみのやしろ)
・鏡作坐天照御魂神社(田原本町)
・鏡作神社(三宅町石見)
延喜式内社 大和國 城下郡 鏡作伊多神社(かかみつくり いたの かみのやしろ)
・鏡作伊多神社(磯城郡田原本町保津)
鏡作伊多神社(かがみつくりいたじんじゃ)は 本殿が二祠〔南本殿・北本殿〕があり 南本殿は伊斯許理度賣命を祀る 延喜式内社 大和國城下郡 鏡作伊多神社(かかみつくり いたの かみのやしろ)の論社です 又 北本殿は宇摩志摩遅命を祀る 延喜式内社 大和國城下郡 富都神社〔鍬靫〕(ふとの かみのやしろ)の論社とされています
鏡作伊多神社(磯城郡田原本町保津)〈『延喜式』鏡作伊多神社・富都神社〔鍬靫〕〉
・鏡作伊多神社(磯城郡田原本町宮古)
鏡作伊多神社(かがみつくりいたじんじゃ)は 神社の東北にある池゛宮古池゛が かつて享保年間(1716~1736)迄は 字はを「伊多の坪」と呼ばれた地であったが その後 池となったと伝わり この「伊多」の地名が延喜式内社 大和國城下郡 鏡作伊多神社(かかみつくり いたの かみのやしろ)の論社の論拠とされています
鏡作伊多神社(磯城郡田原本町宮古)〈『延喜式』鏡作伊多神社〉
延喜式内社 大和國 城下郡 鏡作麻氣神社(かかみつくり まけの かみのやしろ)
・鏡作麻氣神社(田原本町小阪)
鏡作麻氣神社(かがみつくりまけじんじゃ)は 延喜式内社 大和國 城下郡 鏡作麻氣神社(かかみつくり まけの かみのやしろ)とされます 鎮座地の周辺には 鏡作の守護神を祭祀した式内社「鏡作坐天照御魂神社・鏡作伊多神社」などが鎮座し 古くは鏡を製作していた技術者集団が居住した古代 大和國「鏡作郷」であったとされます
鏡作麻氣神社(田原本町小阪)〈『延喜式』鏡作麻氣神社〉
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
近鉄橿原線 田原本駅から北西方向へ約1.1km 徒歩での所要時間は15~17分程度
当社に面して北東には゛宮古池゛があります
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かつて この゛宮古池゛は享保年間(1716~1736)迄は田であった 其後 池となったと伝わり その字は「伊多の坪」と呼ばれた地であつたとのこと
この「伊多」の地名が式内社の論拠とされています
社頭は゛宮古池゛の方向 北を向いています
鏡作伊多神社(磯城郡田原本町宮古)に参着
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一礼をしてから 境内の北側にある鳥居をくぐり抜けて 境内へと進むと
社殿は 西を向いていますので 社殿に対して横から進む感じとなります
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文化六年(1809)の狛犬が座しています
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さらに境内を進むと拝殿の奥には 鳥居が建ち 一段高い壇に中門があり 本殿が祀られています
本殿の向かって左 瓦葺の覆い屋の中に祀られている2社合殿の境内社には〔水乃神社・住吉神社〕の社号があります
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社頭の案内板によれば
この境内社は「布屋(ふや)(富屋)神社」であり
「この布屋(ふや)(富屋)神社が 本来の鏡作伊多神社とも伝えられている」と記されています
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拝殿にすすみます
拝殿の向かって右手前の境内社は稲荷神社が祀られています
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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
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拝殿の奥 本殿は 平成9年の台風の被害によって新しく建て替えられたものです
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社殿に一礼をして境内を戻ります
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鳥居と狛犬の間には「百度石」が置かれいてました
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鳥居の先には゛宮古池゛があります
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【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 鏡作伊多神社について 所在は゛穗津村に在す、今 十市郡に属す、゛〈現 鏡作伊多神社(磯城郡田原本町保津)〉と記しています
【抜粋意訳】
鏡作伊多神社
鏡作は前に同じ、伊多は假字也、
○祭神詳ならず
○穗津村に在す、今 十市郡に属す、〔大和志〕
日本紀神代巻上、一書曰、鏡作部遠祖 天糠戸者、また鏡作遠祖 天抜戸兒已凝戸邊、」
舊事紀、〔天孫本紀〕饒速日命十一世 物部鍛冶師連公、鏡作等租、」
神宮雑事云、鏡作遠祖 天香古山命、
【原文参照】
鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014
鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 鏡作伊多神社について 所在は今 十市郡穂津村 鏡作池の傍にあり、゛〈現 鏡作伊多神社(磯城郡田原本町保津)〉と記しています
【抜粋意訳】
鏡作伊多(カカミツクリイタノ)神社
今 十市郡穂津村 鏡作池の傍にあり、〔大和志、奈良縣神社取調書〕
盖 伊斯許理度賣(イシコリドメノ)命を祭る、〔社傳〕
【原文参照】
栗田寛 著『神祇志料』第8,9巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815494
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 鏡作伊多神社について 所在は゛(神社覈録 保津村 明細 十市郡保津村 式下郡 宮古村有し同社號 村社にして 共に式内と唱へ居れり)゛〈現 鏡作伊多神社(磯城郡田原本町保津)と鏡作伊多神社(磯城郡田原本町宮古)〉と記しています
【抜粋意訳】
鏡作伊多神社
祭神 伊斯許理度賣命
祭日 九月二十一日
社格所在 (神社覈録 保津村 明細 十市郡保津村 式下郡 宮古村有し同社號 村社にして 共に式内と唱へ居れり)
今按 奈良縣の注進に宮古村とあれど 大和志に保津村に神社あり社傍小池あり 土人云 村東三丁に字伊多敷と云田地あり 此所 伊多神社の舊地なり 又 村の申方六丁に字鏡池あり 今は宮ノ池と云 亦 田地の字に的場 政所綱懸 神子橋などの名も存せりと云へれば 此地ならむ猶よく考べし
【原文参照】
教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019
鏡作伊多神社(磯城郡田原本町宮古)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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大和国 式内社 286座(大128座(並月次新嘗 就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)について に戻る
大和国(やまとのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 大和國の286座(大128座(並月次新嘗 就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)の神社のことです
大和國 286座(大128座(並月次新嘗就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)