神興神社(じんごうじんじゃ)は 『宗像社縁起』には゛宗像三女神が初め室木の六ヶ嶽に天降り その後この地に留り給う 此の村に於て神威輝耀を以って神興と號す その後三所の霊地(田島、大島、沖ノ島)に御遷座あり云々゛と神興りますところの縁起を持つ 宗像大社の旧鎮座地と伝えます その後も立派な宮殿は残っていたとされ 延喜十一年(911)の古瓦が出土しています
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
神興神社(Jingo shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
福岡県福津市津丸645
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》多紀理姫命(たきりひめのみこと)
市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
多岐都姫命(たきつひめのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
神興神社縁起
祭神 宗像三女神(天照大神の御子神)
多紀理姫命
市杵島姫命
多岐都姫命神興神社は往時より斯の地に御鎮座あり
十一部落即ち上西郷、下西郷、久末、津丸、手光、村山田、八並、本木、畦町、内殿、舎利蔵の住民に依り祭祀を斎行す。(例祭は十月五日)宗像社縁起に曰く、宗像三女神初め室木の六ヶ嶽に御着、その後此の地に留り給う。此の村に於て神威輝耀を以って神興と号す。その後三所の霊地(田島、大島、沖ノ島)に御遷座あり云云とある。
その三所に遷り給える後も、この地にも御社殿厳かにして祭祀も盛んなりしとかや、然れども何れの頃にかや兵乱に遇い御社も崩壊せしが村民の土一と言う者に夢の御告けあり、小祠を営めり。その後旱魃、凶作年に祈願すれば、霊應ありとて隣村民力を合せ石祠を建立す
大正年間古瓦発見せられ、鑑定の結果 延喜十一年の銘あり、吾が国で二番目に古い瓦と解り、この神社の往時の壮大なるを偲ぶ。
昭和五十五年十月吉日建立(平成十四年七月吉日再建)
神興神社氏子会社頭の案内板より
【由 緒 (History)】
9.神興神社【じんごうじんじゃ】
津丸区の福間東中学校の隣地に、石段を登ると境内には古寺の塔心礎であった巨石(楕円形の長い方で約2メートル)の手水鉢が置かれています。秋季大例祭は毎年10月5日、氏子は近在の11村落(行政区)です。祭神の宗像三女神は、はじめ鞍手郡室木の六ガ岳に降臨され、津丸郷に移られ、三女神の神の威光がこの地で響き輝いたことから、社号が神興とよばれるようになりました。後に、三女神は宗像大社に遷座されました。神社の瓦塚から延喜11年(911年)銘の平瓦が出土しています。隣地には、8世紀後半(奈良時代)に建立された宗像氏一族の氏寺と考えられている「神興廃寺」の遺跡があります。 JR東福間駅からー1,550メートル
福津市地域コミュニティ課郷づくり支援係HPより
https://wagamachi.city.fukutsu.lg.jp/jingouhigashi/%E8%A6%8B%E3%81%A9%E3%81%93%E3%82%8D%E8%81%9E%E3%81%8D%E3%81%A9%E3%81%93%E3%82%8D/
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・本殿
・拝殿
・手水石
福間町教育委員会 1992 『福間町文化財調査報告書4:神興廃寺』
福間町教育委員会
8世紀後半創建と考えられる寺院。延喜十一年銘瓦出土で知られる。塔心礎が神社の手水鉢として残る。
独立行政法人国立文化財機構 奈良文化財研究所HPより
https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/58718
神興(じんごう)神社
宗像三女神が移られたので神興というそうです。
拝殿に向かって左側にある巨大な手水(ちょうず)鉢は、神興廃寺の堂塔の心礎と言われています。近くにあった瓦塚の中からは延喜11年(911年)銘の瓦が見つかっており,鴻族館系として注目されています。
ふくつ観光協会より
・石碑
・注連柱
・社頭・鳥居
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)筑前國 19座(大16座・小3座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)宗像郡 4座(並大)
[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社 名称 ] 宗像神社三座(並名神大)
[ふ り が な ](むなかたの かみのやしろ みくら)
[Old Shrine name](Munakata no kaminoyashiro mikura)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
式内社 宗像神社 三座(並名神大)(むなかたの かみのやしろ みくら)
「宗像社縁起」
「宗像三女神は 初め 室貴(室木 鞍手郡鞍手町室木)の六ヶ嶽に御着になり その後 此の地・津丸神輿村に著き給ふ この村において初めて天神威を輝かせらる その後三所の霊地(・田島・大島・沖ノ島)に御遷座あり」
〈宗像三女神降臨の地〉
・六嶽神社(鞍手町室木)
六嶽神社(むつがたけじんじゃ)は ゛宗像三女神が初めて降臨した六嶽 崎門〈サキト〉峰゛と伝わる地に上宮 里宮〈下宮〉は 第13代 成務天皇7年(137年頃)創建゛前戸(サキト)神社゛と称したと『宗像神社末社記』に載る古社です 宗像三女神は 第7代 孝霊天皇(在位 BC290~215年)の御宇に宗像三所に遷幸したと伝
六嶽神社(鞍手町室木)〈宗像三女神が初めて降臨した六嶽〉
〈宗像三女神遷幸の地〉
・神興神社(福津市津丸)
神興神社(じんごうじんじゃ)は 『宗像社縁起』には゛宗像三女神が初め室木の六ヶ嶽に天降り その後この地に留り給う 此の村に於て神威輝耀を以って神興と號す その後三所の霊地(田島、大島、沖ノ島)に御遷座あり云々゛と 宗像大社の゛神興ります所゛旧鎮座地であると伝えます
神興神社(福津市津丸)〈宗像大社の旧鎮座地゛神興(かみおこり)ます所゛〉
〈霊地・田島〉
・宗像大社 辺津宮(宗像市田島)
宗像大社(むなかたたいしゃ)は 日本神話に起源を持つ゛宗像三女神゛が三つの宮〈・沖津宮(沖ノ島)・中津宮(大島)・辺津宮(田島)〉に坐ます ゛辺津宮(へつぐう)の起源゛は 背後の宗像山〈辺津宮古代祭祀の場〉゛高宮祭場゛の麓に本土の信仰の場として社殿が造営されたものです 古から受け継がれる宗像信仰の中心地となっています
宗像大社 辺津宮(宗像市田島)〈世界文化遺産「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群〉
〈霊地・大島〉
・宗像大社 中津宮(宗像市大島)
宗像大社(むなかたたいしゃ)中津宮(なかつぐう)は ・沖津宮(沖ノ島)と・辺津宮(九州の田島)をつなぐ大島に鎮座します 社殿背後の御嶽山の山頂には゛湍津姫神(たぎつひめのかみ)を祀る御嶽山祭祀遺跡゛〈沖ノ島と共通する古代国家祭祀の跡〉があり 後に山頂には御嶽神社が 麓には中津宮 社殿が創建されました
宗像大社 中津宮(宗像市大島)〈世界遺産 「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群〉
・宗像大社 沖津宮遥拝所(宗像市大島)
宗像大社(むなかたたいしゃ)沖津宮遙拝所(おきつぐうようはいしょ)は 遥か沖に浮かぶ゛神宿る島 沖ノ島゛〈島は全体が御神体であり 厳格な禁忌によって古くから一般人の渡島は禁止・女人は禁制〉この遥拝所として 少なくとも江戸時代〈境内の石碑には寛永3年(1750)と刻字〉には ここに造られていたと推測されています
沖津宮遥拝所(宗像市大島 字伊東)& 御嶽山祭祀遺跡
〈霊地・沖ノ島〉
・宗像大社 沖津宮(沖之島)〈一般参拝は不可〉
宗像大社 沖津宮(おきつぐう)〈一般参拝は不可〉は 日本神話に起源を持つ゛宗像三女神゛を祀る 三つの宮〈・沖津宮(沖ノ島)・中津宮(大島)・辺津宮(田島)〉の内 玄界灘の沖に浮かぶ゛神宿る沖ノ島゛に鎮座 島は全体が御神体であり 厳格な禁忌によって古くから〈一般人の渡島は禁止・女人は禁制〉 限られた人のみ参拝が叶います
宗像大社 沖津宮(沖之島)〈世界文化遺産「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群〉
この五つの神社が古代に祀られていた斎場の位置関係について
宗像神〈三女神〉を祀る゛延喜式内社゛と゛国史見在社゛について
現在 全国に宗像神〈三女神〉を祭る神社は3500社を超えると云います
この内 本来の゛宗像神〈三女神〉゛と゛厳島系で宗像神〈三女神〉のみを祀る゛神社は 950社を超えると云います
更に『宗像神社史』一覧表には 90社が挙げられています
古代から 続いている神社として ゛延喜式内社゛と゛国史見在社゛に記載のある 宗像神〈三女神〉を祭る神社は 50社の記載があります
詳細は
宗像神〈三女神〉を祀る神社について
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR鹿児島本線 東福間駅から県道531号経由で南下 約1.6km 車5分程度
福津市立福間東中学校の南隣になります
〈明治45年〉建立の鳥居には 扁額に゛神興神社゛と刻字されています
神興神社(福津市津丸)に参着
一礼をして鳥居をくぐり 参道を進むと一段高い境内へと階段を上がります
階段の上には 注連柱が建てられています
注連縄の締められた御神木があり
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿内には゛神興神社゛と記された扁額
その奥に 石祠の本殿が鎮座します
社殿に一礼をして 参道を戻ります
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『宗像郡誌』上編〈深田千太郎,昭和19〉に記される伝承
神興(ジンゴ)といふ所は゛宗像三女神が室木六岳から しばらくこの地に遷座され 神威が此所よりおこつた゛名であると伝わり
宗像三女神が 三所に遷座された後も この地には厳かな宮殿があって 立派な祭祀が続けられていた その証拠に多くの古瓦が出土する
その後 兵乱によって 衰退してしまったが 村民によって再建され守られてきた と記されます
【抜粋意訳】
『宗像郡誌』上編 第五節 無格社 神興社
神興村大字津丸字元神興にあり。
〔神社帳〕
ー、祭神 宗像三女神
ー、由緖 不詳
〔筑前國續風土記附録〕津丸村
村の南六町計圃の中に神興(ジンゴ)といふ所あり。古瓦多し。又礎石も残れり。民老傳へて云。いにしへ宗像三女神、鞍手郡室木岳より、しはらくこゝに遷座し給ひし時の社地なりとそ。神興とは神威此所よりおこり、現れ給ふ故の名と、宗像宮緣起に見ゆ。其東三十步計に森あり。中に叢祠あり。宗像三神を祭れるなるへし。比邊にグハンジツタ(元日田)・ゴグハチデン(五月田)と云田の字残れり。皆神税の地なりしとそ。
〔筑前國續風土記拾遺〕神興宮址
村の南六町許山畠の内に石祠有。此處を古へより神興といふ。宗像三神を祀る。
宗像社記曰、三女神初室木六岳現シ給フ。其後於ニ神興村而神威ヲ輝給フ、故ニ其所ヲ神興村云、其後三所之霊地在ニ御迂座云云と見へたり。此處のことなり。
しかれば宗像三所に鎮座のことは、いともいとも上つ世のことにて、既に三所の地名は古事記、日本紀にもしるされたれば、なほ其前久しき世の事也けらし。其三所に遷給へる後も、此處は宮殿嚴にして、祭祀も盛也しとかや。今舊址を見るに、山谷の間に在て、其景致幽邃也。丘上方貮町許平坦にして、三方に山岡旋りて、南一方遥に開て、泉川東より西に流れたり。其平原の艮の隅に、冬青樹(ナノミ)と石壇樹(タブ)二三株立り。其餘は粟田豆田となりたり。圃中に古瓦の破たる多し。其南に古瓦を拾ひ捨し處、塚の如く積めり。
此圃中薦敷と云處、粟生の中より村民善三郎と云ものの女、享和元年辛酉六月十二日銅印一顆を得たり。其形方にして造字一字鐫たり。雞冠紐書躰古雅にして古色愛しつべし。宗像社所蔵の勘合印又山田村増福院にある所の氏雄の印に同様なり。
また此邊に五月田、元日田など云田字あり。古の祝税の地なりといふ。かくていづれの頃なりしにや。兵乱に御社も回禄せしかば、假に神禮を東南の方高宮山の南の半腹に社を建て祀りしか、又寛永十三年鳥巣村の内に移せり。〔此事は畝町村の条にいへり。〕かの鳥巣高宮に移せし後は、宮殿楼門の址空しく禾桼の田となりて、其址としも見へざりしが、近比村民土一と云もの、夢の告有と称して、石壇樹の下に、小祠を営めり。其後旱年に村民等、此祠に雩するに、霊應ありとて、隣村民等力を戮て、報賽に石祠を建立す。側に手水盥を置けり。是は南の圃中にありし いにしへの礎石なり。徑六尺貮寸、橫四尺六寸五分、高貮尺七寸、正中に柱を彫入し穴あり。經壹尺九寸、深三寸五歩あり。この礎石をみて、上古の殿舎の宏大なりしことを知べし。
【原文参照】
神興神社(福津市津丸)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
筑前国 式内社 19座(大16座・小3座)について に戻る
筑前国(ちくぜんのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 筑前国(ちくぜんのくに)には 19座(大16座・小3座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
筑前國 式内社 19座(大16座・小3座)について