出雲井於神社(いずもいのへのじんじゃ)は 式内社 山城國 愛岩郡 出雲井於神社(いつものゐのうへの かみのやしろ)であり 出雲郷の総社が「井於〈川=鴨川の辺〉」に鎮座する意味があります 又 厄年の御祈願で神社の周りに御献木すると ことごとく柊の葉の様にギザギザになり お願い事が叶うと云い 比良木社(柊社)とも呼ばれます
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
出雲井於神社(Izumoinoheno shrine)
【通称名(Common name)】
・比良木大明神(ひらきだいみょうじん)
・比良木社(ひらきのやしろ)
・柊社(ひいらぎのやしろ)
【鎮座地 (Location) 】
京都府京都市左京区下鴨泉川町59(下鴨神社 境内)
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》建速須佐乃男命(たけはやすさのをのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・運開き、厄除け、茶道上達の信仰
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
・ 賀茂御祖神社 境内摂社
【創 建 (Beginning of history)】
重要文化財 出雲井於神社(いずもいのへのじんじゃ)
祭 神 建速須佐乃男命(たけはやすさのおのみこと)
例祭日 十月十四日
『延喜式』に「出雲井於神社」とある神社で『日本書紀』神武天皇二年の条に葛野主殿県主部(かどのとのもりあがたぬしべ)とある人々が祖神としてお祭りした神社です。
古代 山城北部に住んでいたこの県主部たちは、鴨氏と同じ祖先に属し「神亀三年(七二六)山背国愛宕郡出雲郷雲上、雲下里計帳」(『正倉院文書』)で知られる人たちです。
大宝令(七〇〇)以降、山代国葛野郡は四つに分割され、鴨川と高野川の合流点より東山、北山までの地域が愛宕郡となり 鴨川の東岸が蓼倉郷、西岸が出雲郷となりました。
「井於(いのへ)」とは、鴨川のほとりのことで、出雲郷の鴨川のほとりの神社という意味です。承和二年(八四四)二月二十日、太政官符によって定められた鴨社領 出雲郷の総社でありました。
その地域の氏神社、地主社として信仰が厚く、通称を比良木(ひらき)神社と呼ばれています。
また、厄年の御祈願としてこの神社の周りに御献木すると、ことごとく柊になってお願い事が叶う
「何んでも柊」と呼ばれ、京の七不思議になっています。
特に古来より、お祭りに「お茶」を薬草としてお供えされるところから、お茶の神様としても信仰されています。
さらに「ヒラキの牛王宝札(ごおうほうさつ)」という特別御祈願符がいただけます。現在の社殿は寛永六年度(一六二九)式年遷宮の時、
先の式年遷宮(天正九年[一五六一])に造営された御本宮本殿が移築され、当神社の中では最も古い貴重な社殿です。重要文化財 末社(北社)岩本社 住吉神(すみよしのかみ)
重要文化財 末社(南社)橋本社 玉津島神(たまつしまのかみ)現地案内板より
【由 緒 (History)】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
【抜粋意訳】
山城國 〇附録 式外神
別雷神所摂 比艮木社
(亦號ニ氏神社、亦此號ニ地主神、)
祭神詳ならず
〇御祖社 中門外の坤方に在す
伴信友云、下社の地主神にして、社家賀茂氏の氏神なりといヘり、
或人云、此神社に女人の服を調進る例なりと聞り、これ眞ならば玉依媛命を祭れるにやあらん、この媛命を賀茂の氏人の氏神と稱はむは、謂れなきにはあらざれど、猶いかにぞや、
また此社を素盞嗚尊なりと云 伝説も有とぞ、賀茂の氏人の氏社なるを志かいふは、由もなき事なり、されど後世 地主と稱ふ神には、既(ハヤ)く其處(ソコ)に坐(マシ)ましゝ神をいふならひなるが多きを思へば、素(モト)より素盞嗚尊を祭れる社の在来しを、後に賀茂の氏神を合せ祀れるにも有べし、なほよく證し考ふべしと云り、雑事
帝王編年記、元永二年十一月一日、鴨御祖社寶殿巳下燃亡、〔失火〕御躰先奉渡に卸読経所、其後奉移に地主明神神殿、〔號に比良木明神〕
長秋記に、賀茂下社氏神社、〔件社本社外廻廊西南也」〕
四季物語〔追儺の條に〕云、柊は吾神の社〔中略〕より奉る事定れる故實とかや、
【原文参照】
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
末社(北社)岩本社《主》住吉神(すみよしのかみ)
末社(南社)橋本社《主》玉津島神(たまつしまのかみ)
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
出雲井於神社〈比良木大明神〉の境内は 下鴨神社の本殿の向かって左手前に鎮座します
下鴨神社について 別記事を参照してください
・賀茂御祖神社〈下鴨神社〉(京都市)
賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)は 本殿は東西二棟からなり 西本殿には 賀茂別雷神社の〈祖父神〉賀茂建角身命〈古代の京都をひらかれた神〉 東本殿には〈母神〉玉依媛命を祀り 賀茂別雷神社〈上賀茂神社〉とともに賀茂縣主の氏神を祀り 平安京遷都以降は国家鎮護の神社として 皇室や朝廷からも篤い崇敬を受ける 山城國一之宮です
賀茂御祖神社〈下鴨神社〉(京都市左京区下鴨泉川町)〈山城國一之宮〉
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
『日本三代實録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
京畿七道の諸神267社に 神階の奉授が記されています
出雲井於神は 從五位下から從五位上へ と記されます
【抜粋意訳】
卷二 貞觀元年(八五九)正月廿七日甲申
○廿七日甲申
京畿七道の諸神に 進む 階(くらい)及ひ 新に叙つ 惣て二百六十七社あまり
奉授に
淡路國 无品勳八等 伊佐奈岐命一品
備中國 三品 吉備都彦命二品神祇官
无位 神産日神。高御産日神。玉積産日神。生産日神。足産日神 並從一位。
无位 生井神。福井神。綱長井神。波比祇神。阿須波神。櫛石窓神。豐石窓神。生嶋神。足 嶋神 並從四位上。宮内省
從三位 園神。韓神 並正三位。
大膳職正四位下 御食津神 從三位。
左京職從五位上 太祝詞神。久慈眞智神 並正五位下。
大膳職從五位下 火雷神。大炊寮從五位下 大八嶋竈神八前。齋火武主比命神。内膳司從五位下庭火皇神。造酒司從五位下大戸自神 等並從五位上。
无位 酒殿神 從五位下。山城國
正二位勳二等 松尾神從一位。葛野月讀神。平野 今木神 並正二位。
正四位下 稻荷神三前 並正四位上。
正四位下 大若子神。小若子神。酒解神。酒解子神 並正四位上。
平野從四位下 久度古開神 從四位上。
正五位上 貴布禰神。正五位下乙訓火雷神。從五位上水主神等 並從四位下。
正五位下 合殿比咩神 正五位上。
從五位下 樺井月讀神。木嶋天照御魂神。和攴神 並正五位下。
從五位下 祝園神。天野夫攴賣神。 岡田鴨神。岡田園神。樺井月神。棚倉孫神。許波多神。出雲井於神。片山神。 鴨川合神 等並從五位上。
正六位上 與度神。石作神。向神。簀原神。鴨山口神。小野神。久我神。高橋神。雙栗神。水度神。伊勢田神。无位小社神 並從五位下。
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻1 四時祭上 六月祭十二月准 月次祭
月次祭(つきなみのまつり)『広辞苑』(1983)
「古代から毎年陰暦六月・十二月の十一日に神祇官で行われた年中行事。伊勢神宮を初め三〇四座の祭神に幣帛を奉り、天皇の福祉と国家の静謐とを祈請した」
大社の神304座に幣帛を奉り 場所は198ヶ所と記しています
【抜粋意訳】
月次祭(つきなみのまつり)
奉(たてまつる)幣(みてぐら)を案上に 神三百四座 並大社 一百九十八所
座別に絁五尺、五色の薄絁各一尺、倭文一尺、木綿二両、麻五両、倭文纏刀形(まきかたなかた)、絁の纏刀形、布の纏刀形各一口、四座置一束、八座置一束、弓一張、靫(ゆき)一口、楯一枚、槍鋒(ほこのさき)一竿、鹿角一隻、鍬一口、庸布一丈四尺、酒四升、鰒、堅魚各五両、腊二升、海藻、滑海藻、雑の海菜各六両、堅塩一升、酒坩(かめ)一口、裹葉薦五尺、祝詞(のとこと)座料短畳一枚、
前一百六座
座別絁五尺、五色薄絁各一尺、倭文一尺、木綿二両、麻五両、四座置一束、八座置一束、楯一枚、槍鋒一口、裹葉薦五尺、
右所祭之神、並同祈年、其太神宮(かむのみや)、度会宮(わたらひのみや)、高御魂神(たかむすひのかみ)、大宮女神(おほみやめのかみ)には各加ふ馬一疋、〈但太神宮、度会宮各加籠(おもつを)頭料庸布一段、〉
前祭五日、充忌部九人、木工一人を、令造供神調度を、〈其監造并潔衣食料、各准祈年、〉祭畢即中臣の官一人率て宮主及卜部等を、向て宮内省に、卜の定供奉神今食に之小斎人(みのひと)を、
供神今食料
紵一丈二尺、〈御巾料、〉絹二丈二尺、〈篩(ふるい)の料、〉絲四両、〈縫篩等料、〉布三端一丈、〈膳部巾料、〉曝布一丈二尺、〈覆水甕料、〉細布三丈二尺、〈戸座襅(へさたまき)并褠料、〉木綿一斤五両、〈結ふ御食(みけ)料、〉刻柄(きさたるつか)の刀子二枚、長刀子十枚、短刀子十枚、筥六合、麁(あら)筥二合、明櫃三合、御飯、粥料米各二斗、粟二斗、陶瓼(すえのさかけ)[如硯瓶以上作之]瓶【瓦+并】(かめ)各五口、都婆波、匜(はふさ)、酒垂各四口、洗盤、短女杯(さらけ)各六口、高盤廿口、多志良加[似尼瓶]四口、陶鉢八口、叩盆四口、臼二口、土片椀(もひ)廿口、水椀八口、筥代盤(しろのさら)八口、手洗二口、盤八口、土の手湯盆(ほん)[似叩戸采女洗]二口、盆(ほとき)四口、堝十口、火爐二口、案(つくえ)十脚、切机二脚、槌二枚、砧二枚、槲四俵、匏廿柄、蚡鰭(えひのはた)槽[供御手水所]二隻、油三升、橡の帛三丈、〈戸の座服の料、冬絁一疋、綿六屯、履一両、〉
右供御の雑物は、各付内膳主水等の司に、神祇官の官人率神部等を、夕暁(よひあかつき)両般参入内裏に、供奉其の事に、所供雑物、祭訖て即給中臣忌部宮主等に、一同し大甞会の例に、
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻2「四時祭下」中の「相嘗祭神七十一座」
【抜粋意訳】
巻2 神祇2 四時祭下 十一月祭
相嘗祭神(あひむへのまつりのかみ)七十一座出雲ノ井上ノ社一座
絹二疋、絲一絇一両、綿三屯、調布三端四丈、庸布一段一丈三尺、木綿一斤十両、堅魚二斤十両、鮑十両、海藻二斤、凝海藻三斤、腊四斤、塩一升、筥一合、瓼、缶、水瓫、山都婆波、小都婆波、筥瓶、酒垂、匜、等呂須伎、高盤、片盤、短女坏、小坏、筥坏、陶臼各二口、酒稲五十束、〈神税、〉
【原文参照】
『延喜式(Englishmen)』巻2 四時祭下 新嘗祭
新嘗祭(にいなめのまつり)は
「新」は新穀を「嘗」はお召し上がりいただくを意味する 収穫された新穀を神に奉り その恵みに感謝し 国家安泰 国民の繁栄を祈る祭り
式内大社の神304座で 月次祭(つきなみのまつり)に准じて行われ
春には祈年祭で豊作を祈り 秋には新嘗祭で収穫に感謝する
【抜粋意訳】
新嘗祭(にいなめのまつり)
奉(たてまつる)幣(みてぐら)を案上に 神三百四座 並 大社 一百九十八所
座別に 絹5尺 五色の薄絹 各1尺 倭文1尺 木綿2両 麻5両四座置1束 八座(やくら)置1束 盾(たて)1枚 槍鉾(やりほこ)1竿
社別に庸布1丈4尺 裏葉薦(つつむはこも)5尺前一百六座
座別に 幣物准社の法に伹 除く 庸布を
右中 卯の日に於いて この官(つかさ)の斎院に官人 行事を諸司不に供奉る
伹 頒幣 及 造 供神物を料度 中臣祝詞(なかとみののりと)は 准に月次祭(つきなみのまつり)に
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)山城國 122座(大53座(並月次新嘗・就中11座預相嘗祭)・小69座(並官幣))
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)愛宕郡 21座(大8座・小13座)
[名神大 大 小] 式内大社
[旧 神社 名称 ] 出雲井於神社(大月次相嘗新嘗)
[ふ り が な ](いつものゐのうへの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Itsumo no ino uheno kaminoyashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
延喜式内社 山城國 愛岩郡 出雲井於神社(大 月次 相嘗 新嘗)(いつものゐのうへの かみのやしろ)の論社について
・出雲井於神社(京都市左京区下鴨泉川町)〈賀茂御祖神社 境内〉
出雲井於神社(いずもいのへのじんじゃ)は 式内社 山城國 愛岩郡 出雲井於神社(いつものゐのうへの かみのやしろ)であり 出雲郷の総社が「井於〈川=鴨川の辺〉」に鎮座する意味があります 又 厄年の御祈願で神社の周りに御献木すると ことごとく柊の葉の様にギザギザになり お願い事が叶うと云い 比良木社(柊社)とも呼ばれます
出雲井於神社〈比良木大明神〉(京都市左京区下鴨泉川町)〈賀茂御祖神社 境内〉
・井上社(京都市左京区下鴨泉川町)〈賀茂御祖神社 境内〉
井上社(いのうえのやしろ)は 賀茂斎院の御禊や解斎 関白賀茂詣の解除に参拝された御手洗社(みたらしのやしろ)で 旧鎮座地は 高野川と鴨川の合流地東岸〈文明二年(1470)焼亡〉文禄年間(1592~96)ここに再興〈井戸の井筒の上に祀られ井上社と呼ぶ〉式内社 出雲井於神社(いつものゐのうへの かみのやしろ)の論社です
井上社〈御手洗社〉(京都市左京区下鴨泉川町)〈下鴨神社 境内社〉
・上御霊神社(京都市上京区上御霊竪町)
上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)は 平安時代 御霊の祟りを恐れ 貞観5年(863)御霊会が修せられたのが 両御霊神社の創祀と云う 元は愛宕郡出雲郷の出雲路にある出雲氏の氏寺・上出雲寺に祀られた鎮守社 二つの式内社〈出雲井於神社(いつものゐのうへの かみのやしろ)出雲髙野神社(いつものたかののかみのやしろ)〉の論社です
上御靈神社(京都市上京区上御霊前通烏丸東入上御霊竪町)
・下御靈神社(京都市中京区寺町通丸太町下ル下御霊前町)
下御靈神社(しもごりょうじんじゃ)は 平安時代 御霊の祟りを恐れ 貞観5年(863)御霊会が修せられたのが 両御霊神社の創祀と云う 元は愛宕郡出雲郷の出雲路にある出雲氏の氏寺・下出雲寺の御霊堂に祀られた鎮守社で 社家は代々出雲路家が司り 延喜式内社 愛岩郡 出雲井於神社(いつものゐのうへの かみのやしろ)ともされます
下御靈神社(京都市中京区寺町通丸太町下ル下御霊前町)
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
出雲井於神社〈比良木大明神〉は 賀茂御祖神社〈下鴨神社〉の本殿に向かって左手前に鎮座しています
下鴨神社については 別記事を参照してください
・賀茂御祖神社〈下鴨神社〉(京都市左京区下鴨泉川町)
賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)は 本殿は東西二棟からなり 西本殿には 賀茂別雷神社の〈祖父神〉賀茂建角身命〈古代の京都をひらかれた神〉 東本殿には〈母神〉玉依媛命を祀り 賀茂別雷神社〈上賀茂神社〉とともに賀茂縣主の氏神を祀り 平安京遷都以降は国家鎮護の神社として 皇室や朝廷からも篤い崇敬を受ける 山城國一之宮です
賀茂御祖神社〈下鴨神社〉(京都市左京区下鴨泉川町)〈山城國一之宮〉
賀茂御祖神社〈下鴨神社〉の西鳥居をくぐり抜けると 右手に出雲井於神社〈比良木大明神〉となります
出雲井於神社〈比良木大明神〉(京都市左京区下鴨泉川町 下鴨神社 境内)に参着
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 出雲井於神社(大月次相嘗新嘗)について 所在は゛下鴨村 御祖社東井ノ上に在す゛〈現 井上社〈御手洗社〉(京都市左京区下鴨泉川町)〈下鴨神社 境内社〉〉と記しています
又 別の説として ゛橘経亮云、今の柊(ヒラキ)社也、古は別處に在しを、後に今の處に移したる也゛〈現 出雲井於神社(京都市左京区下鴨泉川町)〈賀茂御祖神社 境内〉〉を挙げるが 間違っているであろうと記しています
【抜粋意訳】
出雲井於神社 大月次相嘗新嘗
出雲は以都毛と訓べし、和名鈔、〔郷名部〕出雲、〔假字上の如し〕」井於は井乃倍と訓べし、和名鈔、〔郷名部〕河内國 志紀郡 井於、〔假字上の如し〕
○祭神 御井神歟
○下鴨村 御祖社東井ノ上に在す〔山城志〕
○式二、〔四時祭下〕相嘗祭神七十一座、〔中略〕出雲井上社一座、
○御祖社の末社也
類社
摂津國 島下郡 井於神社、
〔鍬靫〕和泉國 和泉郡 泉井上神社、
但馬國 養父郡 井上神社、〔連胤〕按るに、各國 御井神を、祭れるや否、今考ふに便なし、
神位
三代實録、貞観元年正月二十七日甲申、奉授ニ山城國從五位下 出雲井於神 從五位上、橘経亮云、今の柊(ヒラキ)社也、古は別處に在しを、後に今の處に移したる也、祭神は素盞嗚尊也、云々、
伴信友云、丹波國 桑田郡 出雲神社と同神なるべし、云々、
一宮記に、出雲井於神社 大巳貴命妻 三穂姫也、といへるも由ありてきこゆと云る、共に信用がたし、柊社は 今 御祖社の内坤方に坐し、井於神社は 同東方に坐す事現に知られたり、また素盞嗚尊を祭るといふも、出雲の名によれるなるべし、
また一宮紀に、云々、三穗津姫といへるは、丹波國一宮 出雲神社の下にあるにて、爰の井於神社の事にあらず、もとより此井於神社当國一宮ならねば、一宮紀に戴すべきにあらず、皆杜撰の臆断也、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 出雲井於神社(大月次相嘗新嘗)について 所在は゛今 出雲郷 下鴨社の楼門内 西傍 柊木社 即是也゛〈現 出雲井於神社(京都市左京区下鴨泉川町)〈賀茂御祖神社 境内〉〉と記しています
【抜粋意訳】
出雲井於神社
今 出雲郷 下鴨社の楼門内 西傍 柊木社 即是也、〔神名帳考、式社考証、〕
柊木社、又 地主明神 或は氏神社といふ、〔長秋記、帝王編年記、〕
盖 素戔嗚命を祀る、〔御祖社傳説〕清和天皇 貞観元年正月甲申、従五位下より従五位上を授く、〔三代實録〕
醍醐天皇 延喜の制、大社に列り、月次相嘗雑嘗祈年案上の幣に預る、〔延喜式〕
鳥羽天皇 元永二年十一月壬申朔、御祖神体を地主明神に移し置奉る、即是也、〔帝王編年記〕
順徳天皇 健保四年四月乙卯、上皇賀茂行幸の時、此社に詣給ひき、〔後鳥羽院宸記〕凡 本社神官、禰宜あり、みな鴨縣主を以て之を補さる、〔鴨縣主系圖、賀茂注進雑記、〕
凡 毎年四月十一月上申日、賀茂神官等此社に來て幣を奉り、氏神祭を行ふ、〔賀茂年中行事次第、〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 出雲井於神社(大月次相嘗新嘗)について 所在は゛御祖神社楼門内西傍(下鴨)〇稱 比良木社゛〈現 出雲井於神社(京都市左京区下鴨泉川町)〈賀茂御祖神社 境内〉〉と記しています
別の説として゛御祖神社の東側の井幹の上の社これなりと云るは甚しき誤なり゛と記し〈現 井上社〈御手洗社〉(京都市左京区下鴨泉川町)〈下鴨神社 境内社〉〉とするのは誤りであると記しています
【抜粋意訳】
出雲井於(イヅモノヰノウヘノ)神社(大月次相嘗新嘗)
〇稱 比良木社
祭神
今按 木社祭神 素戔嗚尊とあれど 帝王編年記 元永二年十一月一日鴨ノ御祖ノ社 焼亡の條に 御體云々 奉移ニ地主明神ノ神殿〔號ニ 比良木明神〕とみえ
長秋記に賀茂下社 氏神社〔件ノ社 本社外廻廊 西南也〕とあるによるときは 賀茂縣主の氏神 建角身命を祭れるにや神位
清和天皇 貞観元年正月二十七日甲申 奉レ授ニ山城國 從五位下 出雲井於神 從五位上祭日 十月二十三日
社格 賀茂御祖神社摂社所在 御祖神社楼門内西傍(下鴨)
今按 御祖神社註進状に 地名の出雲は祭神に由緒ある名にて 昔時の上出雲郷と云邊にて今も此社の西北の大路を出雲大路と云ひ 又 比良木社より二十間許東北にいと大なる井ありて 四時共に美泉涌出るが故に 出雲井於神社とは云るなり
さるを瀬見小河に 出雲井於神社は 御祖神社の東側の井幹の上の社これなりと云るは甚しき誤なり 其證に 今 井幹の上に小社ありて 井上社と云は 文祿叫年祝秀延が建たる趣社記に明なるが 上に今泉亭俊彦が家に所藏の社頭古圖には 只井のみ有て 社また井幹杯も見えず 又 鴨脚秀文が家に所藏の古圖には 只井のみ有て社なし 然れば此社は 此社頭の圖を作れるより後 文祿四年に祝秀延が建たること諭なきを 今 井上社と唱來れるは 後人の附會なることいといと明也と云り 故今之に從ふ
【原文参照】
出雲井於神社〈比良木大明神〉(京都市左京区下鴨泉川町 下鴨神社 境内)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
山城国 122座(大53座(並月次新嘗 就中11座預相嘗祭)・小69座(並官幣)
山城国(やましろのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 山城国 の122座(大53座(並月次新嘗 就中11座預相嘗祭)・小69座(並官幣)の神社のことです
山城國 122座(大53座(並月次新嘗 就中11座預相嘗祭)・小69座(並官幣)