出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉としていて 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖 ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています
出雲国造(いつものくにのみやつこ)とは
出雲国造(Itsumonokuninomiyatauko)は 出雲東部の意宇地方を支配した古代豪族の首長を指す名称とされます
大化改新(645年)以前には 日本国内には約140の国造が各地を支配していたが このなかでも出雲国造は 宮廷信仰とは異なる独自の信仰を背景として地方の祭政の一切を掌握し 山陰道に一大勢力をもった地方豪族でだったとされます
このように上古には 出雲を中心とした大きな勢力を誇った出雲氏(いずもうじ)〈姓は臣〉だったが やがて大和王朝の勢力が広がり〈6世紀後半から まず出雲西部についで意宇平野の東も〉制圧されて 出雲氏は服属支配下に置かれ 出雲国造に任ぜられていったとされます
このため 出雲国造が大和朝廷で奏上した 出雲國造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)の性格としては 服属儀礼とみる見方と復奏儀礼〈復奏(かへりごと)とは 来た道を帰ってから会って報告を申し上げる〉とする見方があります
出雲國造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)について
出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷に於いて 出雲国造が 新たにその任に就いた時や 遷都など国家の慶事にあたって 朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています
出雲國造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)について
出雲国造(いつものくにのみやつこ)の系統について
出雲国造家の 始祖〈初代〉は 天穂日命(あめのほひのみこと)〈天照大御神と素戔嗚尊の直系〉
天穂日命(あめのほひのみこと)は 天照大御神と須佐之男命との 誓約(うけい)により 誕生した五男三女神の一柱です
天照大御神の右のみずらに巻いた勾玉(まがたま)から成ったとされ 天照大御神の第二子とされます
第一子の天忍穂耳命(あめのほひのみこと)の弟神にあたります
天忍穂耳命(あめのほひのみこと)は 天皇家の祖神でありますので
出雲國造家は 天皇家と同様のルーツを持っていることになります
出雲國造家は 現在までも 脈々とその血筋を保っています
始 祖 | 天穂日命(あめのほひのみこと) 〈天照大御神と素戔嗚尊との誓約により誕生した御子〉 |
第 2世 | 武夷鳥命(たけひなどりのみこと) |
第 3世 | 伊佐我命 |
第 4世 | 津狭命 |
第 5世 | 櫛瓺前命(くしみかさきのみこと) |
第 6世 | 櫛月命 |
第 7世 | 櫛瓺鳥海命(くしみかとりみのみこと) |
第 8世 | 櫛田命 |
第 9世 | 知理命 |
第10世 | 世毛呂須命 |
第11世 | 阿多命 亦は 出雲振根(いずものふるね)と名のる |
第12世 | 氏祖命(おほしのみこと) |
第12世 氏祖命(おほしのみこと)の代になり 第10代 崇神天皇(すじんてんのう)の御世 国の制度として 國造職が定められ 氏祖命(おほしのみこと)以降 しばらく出雲の國の國造職を兼務したと伝わります〔國造本紀による〕
出雲國造の任命と國造家の姓(かばね)について
第13世 | 襲髄命(そつねのみこと) |
第14世 | 來日田維命(きひたすみのみこと) |
野見宿禰(のみのすくね)姓氏録に曰く「天穂日命14世孫野見宿禰」菅原氏の始祖とされます 末裔に菅原道真公 | |
第15世 | 三島足奴命(みしまそまぬのみこと) |
第16世 | 意宇足奴命(おうそまぬのみこと) |
第17世 | 國造出雲臣宮向(くにのみやつこ いずものおみ みやむき) |
北島家乗の一本に云く「反正天皇の4年國造と為し始めて出雲姓を賜わる」 |
反正天皇4年(409)〈北島家伝承〉もしくは 允恭天皇元年(412)〈千家家伝承〉
第17世 宮向の時代に「出雲」の姓(かばね)を賜ったと伝わります
第54代 出雲清孝まで出雲氏〈出雲國造家〉は 一子相伝〈一統〉として受け継いでいきます
第18世 | 國造出雲臣布奈 |
第19世 | 國造出雲臣布禰 |
第20世 | 國造出雲臣意波久 |
第21世 | 國造出雲臣美許 |
第22世 | 國造出雲臣叡屋 |
第23世 | 國造出雲臣帯許 |
第24世 | 國造出雲臣千國 |
第25世 | 國造出雲臣兼連 |
第26世 | 國造出雲臣果安(はたやす) 『続日本紀』元正天皇霊亀2年(716)2月丁巳 出雲国の国造外正七位上 出雲臣果安(はたやす) 斎(もの忌み)し竟りて神賀事を奏す 神祇大副〈神祇官の次官〉中臣朝臣人足 其の詞を以て奏聞す 是の日 百官斎す〈文武百官が仕事を斎して止める〉果安より祝部〈出雲各社の神官〉に至るまで一百一十余人に 位を進め 禄を賜ふこと各差(しな)有り伝に云わく 始祖 天穂日命斎を大庭に開き 此に至り始めて 杵築の地に移すと云う |
第27世 | 國造出雲臣廣島(ひろしま) 『続日本紀』聖武天皇神亀元年(724)春正月(戊子)出雲国造外従七位下 出雲臣廣嶋 神賀辞を奏す(己丑)廣嶋と祝・神部らとに 位を授け禄を賜ふこと各差(しな)有り『続日本紀』神亀三年(七二六)二月(辛亥)出雲国造従六位上 出雲臣廣嶋 斎事畢はりて〈出雲に戻り 斎(もの忌み)し戻ったことを指す〉 神址(かみのやしろ)の剣・鏡併せて白馬・鵠等を献る 廣嶋併せて祝二人に並びに位二階を進む 廣嶋に絁廿疋 綿五十屯 布六十端 自余の祝部一百九十四人〈出雲の諸神社の神官〉に禄を賜ふこと各差(しな)有り |
第28世 | 國造出雲臣弟山(おとやま) 『続日本紀』天平18年(746)3月(己未)外従七位下 出雲臣弟山に外従六位下を授け 出雲国造と為す 孝謙天皇天平聖宝2年(750)2月(癸亥)天皇 大安殿に御します 出雲国造外正六位上 出雲臣弟山 神斎賀詞を奏す 弟山に外従五位下を授く 自余の祝部に位を叙すること差有り 並びに絁綿を賜ふこと 亦各差(しな)有り 3年2月(乙亥)出雲国造出雲臣弟山 神賀詞を奏す 位を進め物を賜ふ『出雲國風土記』意宇郡新造院1所 山代郷中にあり 郡家西北2里 厳堂を建立す 飯石郡少領出雲臣弟山これを造るところなり |
第29世 | 國造出雲臣益方(ますかた) 『続日本紀』廃帝天平宝字8年(764)春正月(戊午)外従七位下 出雲臣益方を国造と為す 称徳天皇神護慶雲元年(767)2月(甲午)東院に幸したまふ 出雲国造 外従六位下 出雲臣益方 神事を奏す 仍りて益方に外従五位下を授く 自余の祝部等に 位を叙し物を賜ふこと差(しな)有り 2月春正月(庚辰)出雲国国造 外従五位下 出雲臣益方 神事を奏す 外従五位11を授く 祝部の男女百五十九人〈出雲の諸神社の神官〉に爵各一級を賜ふ 禄も亦差(しな)有り |
第30世 | 國造出雲臣國上(くにかみ) 『続日本紀』光仁天皇宝亀4年(773)9月(庚辰)外従五位下 出雲臣国上を国造と為す |
第31世 | 國造出雲臣國成(くになり) 『続日本紀』桓武天皇延暦4年(785)2月(癸未)出雲国国造 外正八位上 出雲臣国成ら 神吉事を奏す 其の儀 常の如し 国成に外従五位下を授く 自余の祝らに 階を進むること各差(しな)有り 5年2月(己巳)出雲国国造 出雲臣国成 神吉事を奏す 其の儀 常の如し 国成及び祝部に物を賜ふこと 各差(しな)有り |
第32世 | 國造出雲臣人長(ひとおさ) 『続日本紀』延暦9年(790)夏4月(癸丑)従六位下 出雲臣人長を出雲国造と為す 『類聚國史第十九』延暦14年(795)2月(甲子)出雲國造外正六位上出雲臣人長 特に外従五位下を授ける 遷都に縁(よ)るを以って神賀事を奏するなり |
第33世 | 國造出雲臣門起 『日本後紀』延暦24年(805)9月(壬辰)出雲国造 外従六位上 出雲臣門起に 外従五位下を授く |
第34世 | 國造出雲臣旅人 『日本後紀』弘仁2年(811)3年3月(癸酉)大極殿に御します 出雲国造 外従五位下 出雲臣旅人 神賀辞を奏す 併せて献物有り 禄を賜ふこと 常の如し |
第35世 | 國造出雲臣豊持 『続日本後紀』天長10年(833)夏4月(壬午)出雲国司 国造出雲豊持らを率ゐて神寿を奏す 併せて白馬一疋 生雉一翼 高机四前 倉代の物五十荷を献ず 天皇大極殿に御しまして 其の神寿を受く 国造豊持に外従五位下を授く |
第36世 | 國造出雲臣時信 |
第37世 | 國造出雲臣常助 |
第38世 | 國造出雲臣氏弘 |
第39世 | 國造出雲臣春年 |
第40世 | 國造出雲臣吉忠 |
第41世 | 國造出雲臣國明 |
第42世 | 國造出雲臣國経 |
第43世 | 國造出雲臣頼兼 |
第44世 | 國造出雲臣宗房 |
第45世 | 國造出雲臣兼宗 |
第46世 | 國造出雲臣兼忠 |
第47世 | 國造出雲臣兼経 |
第48世 | 國造出雲臣宗孝(むねのり) |
第49世 | 國造出雲臣孝房(のりふさ) |
第50世 | 國造出雲臣孝綱(のりつな) |
第51世 | 國造出雲臣政孝(まさのり) |
第52世 | 國造出雲臣義孝(よしのり) |
第53世 | 國造出雲臣泰孝(やすのり) |
第54世 | 國造出雲臣孝時(のりとき) |
出雲國造「千家氏」と「北島氏」の両家に分立
南北朝時代になって 後継者問題の為 「千家氏」と「北島氏」の両家に分立し
第55代より〈康永年間(1340年頃)以降〉それぞれ両家が 出雲国造を名乗るようになりました
「北島氏」の第56代 貞孝國造は 南朝〈南北朝時代〉に味方しとして 出雲地方で活躍しました
出雲國造家が 北島・千家に両立してから後 両家は 年間の神事や所領 役職などを等分するという和与状を結び 平等に職務を分担しました
例えば 出雲大社の神事は 年中を6ヶ月ずつ〈偶数月を北島家・奇数月を千家家〉に分掌することになりました
ここから江戸期の末まで 500年間以上 「千家氏」と「北島氏」の両家による国造体制が続きます
明治政府による出雲國造への介入〈神社改正令〉
しかし 明治維新により 神社の國家管理という基本方針のもとに 従来のような両國造制のもとで隔月交代に 出雲大社への奉仕が 認められなくなります
明治5年(1872)従来の両国造家による分掌制は廃止
・国造 千家尊福(たかとみ)は 出雲大社大宮司に任命
・国造 北島脩孝(ながのり)は 少宮司に任命
北島家は 大社奉仕の世襲職を解かれ 華族に列します
明治6年(1873)明治政府は 北島脩孝國造に対し 再度 命により岡山県の吉備津神社宮司に転勤を命じます しかし 北島脩孝國造は この明治政府の任命を断固として拒まれました
明治10年(1877)大宮司の制は宮司制に改められ 千家尊福が改めて出雲大社宮司に就任し 北島家は国造職を解かれ 男爵に列せられました
その後
千家尊福氏は 出雲大社崇敬講社を千家邸に移し「大社教」(今の出雲大社教)を改組された
北島家は 北島邸に「出雲教会」(今の出雲教)を組織し 明治18年「神道出雲教」と改め 昭和27年に宗教法人「出雲教」を設立しました
現在は 出雲大社は 千家家が祭祀していますが その屋敷は 今でも 出雲大社を中心にして 東に北島国造館があり 西に千家国造館があります
⑭豊葦原之千秋長五百秋之水穂国(とよあしはらのちあきながいほあきのみずほのくに) に進む
天照大御神(あまてらすおほみかみ)は この 葦原中国(あしはらのなかつくに)は 我が子 正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)が 治める所の国であると定めた と命を下された 天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)が 天浮橋(あまのうきはし)に立たれて 下界を眺めると「豊葦原之千秋長五百秋之水穂国(とよあしはらのちあきながいほあきのみずほのくに)は ひどく騒がしく有るな」と言われた
⑭豊葦原之千秋長五百秋之水穂国(とよあしはらのちあきながいほあきのみずほのくに)
”時の架け橋” 大国主神(おほくにぬしのかみ)
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大国主神(おほくにぬしのかみ)が 坐(ましま)す 古代出雲の神代の舞台へ行ってみたい 降積った時を振り払うように 神話をリアルに感じたい そんな私たちの願いは ”時の架け橋” があれば 叶うでしょう 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台は 現在の神社などに埋もれています それでは ご一緒に 神話を掘り起こしましょう
”時の架け橋” 大国主神(おほくにぬしのかみ)『古事記』に登場する神話の舞台