実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

石上布都魂神社(赤磐市)

石上布都魂神社(いそのかみふつみたまじんじゃ)は 神話で有名な八岐大蛇を退治した剣「十握剣(totsuka no tsurugi)」に宿る神霊「布都御魂(futsu mitama)」を祀っていました 現在の御祭神は 素盞嗚尊(susanowo no mikoto)です この神剣は その後 第10代崇神天皇の御代に 石上神宮(奈良)に移されたとされていて 現在も 石上神宮(奈良)では 布都斯魂(futsushi mitama)として祀られています

 1.ご紹介(Introduction)

この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(shrine name)】

石上布都魂神社(isonokami futsumitama shrine)
 (いそのかみふつみたまじんじゃ)

 [通称名(Common name)]

お神社様(おじんじゃさま)

【鎮座地 (location) 】

岡山県赤磐市石上字風呂谷1448

 [地 図 (Google Map)]

 【御祭神 (God's name to pray)】

 《主》素盞嗚尊(susanowo no mikoto)

 ※御祭神は 江戸時代までは「布都御魂(futsu mitama)」(素盞嗚尊が八岐大蛇を斬った剣)布津魂とは剣の霊のこと
『神社明細帳』明治3年(1870)では 神話の記述に従い「天十握剣(ameno totsukano tsurugi)」

 【御神格 (God's great power)】(ご利益)

 ・安産 Healthy childbirth
・農業振興 Agriculture promotion
・癌封じContainment of cancer disease
・学業成就 Want to acquire knowledge and skills

 【格 式 (Rules of dignity) 】

 ・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』所載社
・ 備前国一之宮

 【創 建 (Beginning of history)】

 神代 天十握剣(ameno totsukano tsurugi)を祀ったのが当社の創始と伝えられる
頂上の巨岩の地にあったが 明治40年(1907)に焼失し 大正4年(1915)に現在地に遷座した

 【由 緒 (history)】

当社は「延喜式」神名帳、備前国赤坂郡6座の内の1社である。
備前国総社神名帳128社の中で正2位と記されている。
古くは書紀一書に「其の蛇を断ちし剣をば、なづけて蛇之麁(おろちのあら)と日ふ。此は今石上に在す。」
また一書に「素盞嗚尊、乃ち天蝿断の剣を以て、其の大蛇を斬りたまふ。」と記している。

「吉備温故秘録」で大沢惟貞は記紀、旧事記、神社啓蒙天孫本記、古語拾遺等から「曰く、この数書以て考ふるに、上古素盞嗚尊、大蛇を断の剣は当社に在る事明らかなり、その後、崇神天皇の御宇大和国山辺郡に移し奉るとあれども、当社を廃されしと見えず。(以下略)」

寛文9年 備前藩主池田綱政が山頂磐座に在った小祠を造営復興し、延宝2年「社記1巻、社領20石」を廃藩まで奉納した。

他に「備前一宮」として、今日「一宮巡拝」等で参拝者が増えつつある。

山頂の社殿は明治43年火災に遭い現在地に移す。
昭和20年「県社の資格有り」と認めたれた。
現在拝殿は平成5年改築。 岡山県神社庁より

【風呂谷 大松山 山頂にある 本宮(奥の院)】

 ・本宮(奥の院)

 この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

 この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています

【延喜式神名帳】(engishiki jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.

 [旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陽道 140座…大16(うち預月次新嘗4)・小124
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)備前国 26座(大1座・小25座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)赤坂郡 6座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社

 [旧 神社名 ] 石上布都之魂神社
[ふ り が な  ](いそのかみのふつのみたまの かみのやしろ)
[How to read ](isonokamino futsuno mitamano kaminoyashiro) 

 https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫

  【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

 天羽々斬剣(ameno habakiri no tsurugi)について

 神剣の由来

素盞嗚尊(susanowo no mikoto)が 八岐大蛇(yamatano orochi)り倒した剣で「天十握(あめのとつかのつるぎ)と云います

別名を天羽々斬剣(ameno habakiri no tsurugi)とされ 八岐大蛇(yamatano orochi)の尾を斬り割いた神剣のことです

この時 八岐大蛇の尾を割いて出た剣が 三種の神器となる「天叢雲剣(草薙剣)」で 天照大神に献上し 現在も 尾張(owari)熱田神宮で祀られています

熱田神宮の記事もご覧ください

神剣「天羽々斬剣(ameno habakiri no tsurugi)」の遷座について

天羽々斬剣(ameno habakiri no tsurugi)は  石上布都魂神社(備前国赤坂郡)に祭られて その後 第10代崇神天皇の御代に 石上神宮(奈良)に移されたとされていて 現在も 石上神宮(奈良)では 布都斯魂(futsushi mitama)として祀られています

石上神宮(奈良 天理)の社伝では 布都斯魂(futsushi mitama)(十握剣)は
「始め吉備の神部に祀られていたが 仁徳天皇56年(5世紀中葉)市川臣(孝安天皇の後裔・布留宿禰の子-新撰姓氏禄)が 勅を奉じて大和の石上神社の高庭(神宝を収めたとされる禁足地)に遷し 地下の石窟にある霊剣・フツノミタマの左に埋め祀った」と伝承されています

天羽々斬剣(ameno habakiri no tsurugi)が移された 「石上神宮」の記事もご覧ください

一緒に読む
石上神宮(天理市布留町)

石上神宮(いそのかみじんぐう)は 『古事記』『日本書紀』にも 石上神宮と記されています この当時「神宮(かみのみや)」と称されているのは 伊勢神宮と石上神宮だけです 記録の上では日本最古設立の「神宮」とされています 伊勢神宮の古名は「磯宮(isono miya)」で「isono kami」とは何らかの関係があるのかもしれません

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八岐大蛇(yamatano orochi)の退治の舞台 出雲國に祀られる 天十握剱(あめのとつかのつるぎ)」の御神霊

出雲國の式内社「飯石郡  多倍神社 たへの かみのやしろ」には 次のような社伝があります

「棟札(むなふだ)」に須佐之男命 八岐大蛇(やまたのおろち)を斬り玉の御神霊を祭る。故に里人(さとびと)明神という。」

この「剱の霊を祀る」と伝わる意味を考えると
当初 多倍神社に御神体として天十握剱」が祀られていた可能性があります

・多倍神社 

一緒に読む
多倍神社(出雲市佐田町反邊)

多倍神社(たべじんじゃ)は 須佐之男命が 八岐大蛇(やまたのおろち)を斬り玉ふた剱の御神霊を祀るとあり 又 命が鬼の大将を退治し その首を埋めその蓋になさった「首岩」が祀られています 『出雲國風土記733 AD.』所載の飯石郡 神祇官社「多倍社(たべ)のやしろ」の論社です

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神剣「天羽々斬剣(ameno habakiri no tsurugi)」の別呼称について

『古事記(kojiki) 』には
本文 「十握剣(totsuka no tsurugi)」

『日本書紀(nihon shoki)』には
本文 「十握剣(totsuka no tsurugi)」
一書2「蛇麁正(orochino aramasa)」
一書3「蛇韓鋤之劒(orochino karasabino tsurugi)」
一書4「天蠅斫剣(amano hahakirino tsurugi)」

と別称を数多く持ちます

 神社にお詣り(Pray at the shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

岡山駅からR53号経由 約28.6km 車 50分程度
県道468号沿いに鳥居が建ち 駐車場があります

傍らの現地案内板には

石上布都魂神社(いそのかみふつみたまじんじゃ)の由来
当社は日本書紀に素盞嗚命が八岐おろちを退治した剣を奉斎したと記す古社である。
延喜式内社であり備前一宮として格式高い神社で、広く全国から参拝される。
山頂は磐座で、禁足地である。

さらに参道が延びています

そこから500m程先に 数台の駐車場があります

石上布都魂神社(isonokami futsumitama shrine)に到着

緩やかな参詣道が境内まで続きます

階段の下に 手水舎があり 清めます

階段を上がると 正面に社殿が建ちます

拝殿にすすみます 

 賽銭をおさめ お祈りです 

ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

社殿の向かって左手から 本宮への参道(急坂山道・約500m)があります

布都魂神社 奥の院
この山頂にある本宮の後の磐境(磐座)は神霊を祀ったもので 古代信仰を伝える貴重な遺跡である。
昭和58年11月 吉井町教育委員会

下の写真のように 10分程度を山の参道を登ります

途中「六根清浄」があり

岩場の参道を 心身を清めながら山頂に向かいます

扁額に「本宮」と記された鳥居が建ちます

石段を登った先に 石積の基壇に本宮の小祠が建ちます

背後には 磐座(巨石)があります

神社の栞には
「当社の御神体は元来は大松山山頂の巨石で、神霊が宿る磐座である。現拝殿・本殿から急な山道を約0.5km登る。やがて磐座前にいたる石段が付けられており、本宮の祠がある。その後に屹立する巨石が磐座で、付近は禁足地となっている」と書かれています

磐座前の案内板には「寛文9年(1669)綱政公創建時之絵図」とあり
綱政公 創建時は 本殿・弊殿・拝殿が縦に並び 右に神楽殿を配する社殿群が描かれています

神楽殿や拝殿の跡地には 石柱が打たれています

祠に 賽銭をおさめ お祈りです 

ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

一礼して 山を下り 鳥居をくぐり 振り返り一礼をします

 神社の伝承(Old tales handed down to shrines)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『日本書紀(nihon shoki)』第八段一書(第二)に記される伝承

 素盞嗚尊(susanowo no mikoto)が八岐大蛇を退治して 尾を割いた剣は「蛇麁正(orochino aramasa)」といい これは今 石上(isono kami)にあります と記されて この場所の石上神宮(奈良)の元宮が 岡山の石上布都魂神社とされています

意訳

「 別の言い伝え(第二)によると
素盞嗚尊(susanowo no mikoto)が 天から 安芸国(akinokuni)の江川(eno kawa)の川上にお降りになりました

そこに神がおられました
神の名を 脚摩手摩(ashinazu tenazu)といいます
その妻の名を稲田宮主賛狭之八箇耳(inadano miyanushi susano yatsumimi)といいます

この神は身籠って(妊娠)いました

悲しんでいる夫婦が
「私が生んだ子は沢山ありましたが 生むたびに八岐大蛇やまたのおろちがやってきて呑んでしまいます そのようなことで 一人も生き残っておりません
今から 私が生む子も 恐らくは 吞まれてしまうでしょう
それで悲しんでいます」と言いました

素戔嗚尊は 答えられます
「お前は 沢山の木の実を集めて 八つの甕(kame)に酒を造りなさい 私はお前のために 大蛇(orochi)を殺しましょう」

二柱の神は教えに従って 酒を用意しました
やがて 出産の時 やはり その大蛇(orochi)が入口にやってきて その子を吞もうとしました

そこで素戔嗚尊は大蛇にと言われました
「あなたは恐れ多い神様です おもてなし申し上げます」

そして 八つの甕の酒を 大蛇の八つの口に入れました
すると大蛇は 酒を飲んで眠ってしまいました

素戔嗚尊は 剣を抜いて斬りつけました
すると 尾を斬るときに剣の刃が少し欠けました

尾を割いてご覧になると 剣が中にありました
これを 草薙剣(kusanagi no tsurugi)と名づけました

この剣は今 尾張国の吾湯市村(ayuchino mura)にあります
すなわち 熱田の祝部(hafuri be)がお祀りしている神(熱田神宮)がこれであります

その大蛇を斬った剣を 名づけて「蛇麁正(orochino aramasa)」といいます
これは今 これは今 石上(isono kami)にあります

この後に 稲田宮主簧狭之八箇耳(inadano miyanushi susano yatsumimi)が生んだ子は 真髪触奇稲田媛(makami furukushi inada hime)を 出雲国の簸ひの川の川上に移して育てました

のちに 素戔嗚尊がこの姫を妃とされて その六代の孫を 大己貴命といいます 」

【原文参照】『日本書紀』 刊本 文政13年選者 舎人親王[旧蔵者]内務省 国立公文書館デジタルアーカイブ
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047528&ID=M2017042515415226619&TYPE=&NO=画像利用

『日本書紀(nihon shoki)』第八段一書(第三)に記される伝承

素盞嗚尊(susanowo no mikoto)が八岐大蛇を退治して 尾を割いた剣は「十握剣」or「蛇韓鋤之劒(orochino karasabino tsurugi)」といい 今は吉備の神部(kambe)の元にありますと書かれていて この場所が岡山の石上布都魂神社とされています

意訳

「 別の言い伝え(第三)によると
素盞嗚尊(susanowo no mikoto)が奇稲田媛(kushinada hime)を妃に欲しいといわれた
脚摩乳(ashinazuchi)・手摩乳(tenazuchi)が答えました
「どうか あの大蛇(orochi)を殺して それから召されたら良いでしよう かの大蛇(orochi)は頭ごとに それぞれ石や松が生えており 両脇には山があり とても恐ろしい力です どのようにして殺すのですか?」

素盞嗚尊(susanowo no mikoto)は 計略を練りました
毒の入った酒を用意して これを飲ませましたので 大蛇は飲んで眠ってしまいました
素盞嗚尊(susanowo no mikoto)は そこで蛇韓鋤之劒(orochino karasabino tsurugi)で 大蛇の頭を斬り そして腹を斬りました

そして その尾を斬るときに 剣の刃が少し欠けました
そこで 尾を割いてみると 一つの剣がありました

これを名づけて草薙剣(kusanagi no tsurugi)と云います
この剣は 素盞嗚尊(susanowo no mikoto)のものであったが
今は 尾張国(owari no kuni)にあります

また 素盞嗚尊(susanowo no mikoto)が 大蛇を斬られた剣は
今は 吉備(kibi)の神部(kambe)(神主)の所にあれます
尊が大蛇を斬られた地は 出雲の簸の川(hino kawa)の上流の山です 」

【原文参照】『日本書紀』 刊本 文政13年選者 舎人親王[旧蔵者]内務省 国立公文書館デジタルアーカイブ
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047528&ID=M2017042515415226619&TYPE=&NO=画像利用

石上布都魂神社(isonokami futsumitama shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)

天羽々斬剣(ameno habakiri no tsurugi)が移された 「石上神宮」の記事もご覧ください

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石上神宮(天理市布留町)

石上神宮(いそのかみじんぐう)は 『古事記』『日本書紀』にも 石上神宮と記されています この当時「神宮(かみのみや)」と称されているのは 伊勢神宮と石上神宮だけです 記録の上では日本最古設立の「神宮」とされています 伊勢神宮の古名は「磯宮(isono miya)」で「isono kami」とは何らかの関係があるのかもしれません

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「全国 一之宮(Ichi no miya)」について に戻る 

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