為志神社(いしじんじゃ)は 創建・由緒は不詳ですが 延喜式内社 大和國 忍海郡 為志神社(いしの かみのやしろ)です 明治四十三年(1910)神社合祀政策により 式内名神大社 葛木坐火雷神社に合祀され 当地に石碑を立てて旧跡の地されましたが 昭和五十七年(1982)旧地に復し再建され現在に至ります
[目次]
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
為志神社(Ishi shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
奈良県葛城市林堂311
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》伊古比都幣尊(いこひつべのみこと)
※『神社取調書』には
本殿坐大御神・伊毘志都弊命
相殿坐大御神・国之底立神 以下十一社
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【フォーマット(品位の規定)】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創造(歴史の始まり) 】
為志神社跡の石碑の由来
式内古社 為志神社は伊古比都幣尊 祭神として古く栄え延喜式には忍海郡二社の筆頭に記載されている由緒正しい神社で久しくその尊厳を発揮してきたが 明治三十九年の勅令 社寺合併令により明治四十三年二月八日をもって式内大社葛木坐火雷神社に合併されて今日に至った
しかるに廃社の後 人々は社殿の跡に為志神社遺蹟の石碑を建て あたかも神殿に対するが如くこれを崇敬してきたのである
人々の志実って社殿を再建し 祭神を還し ここに式内小社 為志神社の再興が成就したあとなお 為志神社遺蹟の碑を温存する所以である
昭和五十七年十月十七日 式内社為志神社 再興発起人一同
現地石碑文より
『大和志料』下巻〈奈良県教育会,大正3〉に記される内容
【抜粋意訳】
為志(ヰシ)神社
大字林堂にあり、延喜式内社にして 今は村社たり、祭神詳かならず。
[参考原文]
【由 緒 (History)】
『奈良県史』第五巻 神社〈平成元年 奈良県史編集委員会編集〉より抜粋
15、北葛城郡 1、新庄町
為志神社跡
(林堂字キタンド)
林堂集落北方に鎮座していた為志神社が、式内社に比定されていたが、明治四十三年に葛木坐火雷神社相殿に合祀された。祭神は、伊古比都幣命で、近世には十二所権現と称して (『大和志』 )、大彦命など十二神を祀っていた。
社名の為志は、忍海の別称 飫斯の転音とも忍志の誤写でないかといわれる。旧鎮座地に為志神社遺跡の石碑や小祠など残っている。
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・本殿
・拝殿
・為志神社遺跡の石碑
この石碑について 石碑文中に〈廃社の後 人々は社殿の跡に為志神社遺蹟の石碑を建て あたかも神殿に対するが如くこれを崇敬してきた〉とあります
・稲荷社
・社頭
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
為志神社は〈明治43年〉葛木坐火雷神社相殿に合祀されました
延喜式内社 大和國 忍海郡 葛木坐火雷神社 二座(並 名神大 月次 相嘗 新嘗)(かつらきにます ほのいかつちの かみのやしろ)
・葛木坐火雷神社〈笛吹神社〉(葛城市笛吹)
葛木坐火雷神社(かつらきにいます ほのいかづちじんじゃ)は 延喜式内社 葛木坐火雷神社二座(並名神大月次相嘗新嘗)(かつらきにます ほのいかつちの かみのやしろ ふたくら)です 創建は 神代とも神武天皇の御代とも云われ 二座の内 笛吹神社は 上古以来 朝廷が大事を卜定められる毎時 波波迦木を進献していたと伝わります
葛木坐火雷神社〈笛吹神社〉(葛城市笛吹)〈延喜式内社 名神大社〉
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)大和國 286座(第128座(な月次新嘗・就中31座預り相詳細)・小158座(波官幣))
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)忍海郡 3座(大2座・小1座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 為志神社
[ふ り が な ](いしの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Ishi no kaminoyashiro)
【参考原文】
【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
鎮座地゛忍海(オシミ)゛と゛忍海郎女(オシヌミノイラツメ)゛について
゛忍海(おしみ)゛には 5世紀末ごろに忍海郎女(オシヌミノイラツメ)亦の名を〈飯豊青皇女〉が 政治を行ったという忍海角刺宮跡があります
忍海郎女(オシヌミノイラツメ)は 市邊忍歯別王(イチノヘノオシハノワケノミコ)の妹で 後 針間国で見つけ出された・意祁王〈仁賢天皇〉・袁祁王〈顕宗天皇〉の叔母にあたります
『古事記(Kojiki)〈和銅5年(712)編纂〉』 に拠れば
【抜粋意訳】
清寧天皇の段
〈雄略天皇の御子〉白髪大倭根子命(シラカノオオヤマトネコノミコト)〈清寧天皇〉は 伊波礼(イワレノ)甕栗宮(ミカクリノミヤ)に坐(マシマシテ)天下を収められた
この天皇(スメラミコト)には 皇后が無く また御子も無く 御名代(ミナシロ)として 白髪部(シラカベ)を定められた それで天皇が崩御された後 天下を治めるべき王(ミコ)がおられません
それで日嗣(ヒツギ)を引き継ぐ王(ミコ)を問うたところ 市辺忍歯別王(イチノヘノオシハノワケノミコ)の妹 忍海郎女(オシヌミノイラツメ) 別名を飯豊王(イイトヨノミコ)が 葛城の高木の角刺宮(ツノサシノミヤ)におられた
【原文参照】
爲志神社の東850mにある゛飯豊天皇埴口丘陵(北花内大塚古墳)゛について
飯豊天皇埴口丘陵(いいとよてんのうはにくちのおかのみさざき)
説明
現在、飯豊天皇埴口丘陵として宮内庁に管理されています。
全長約90メートルの前方後円墳で、5世紀末から6世紀はじめ頃につくられたと考えられています。宮内庁による発掘調査で、円筒埴輪(えんとうはにわ)や、人物埴輪をふくむ形象埴輪(けいしょうはにわ)、木製品などが見つかっています。
飯豊天皇とは『古事記』・『日本書紀』に登場する女性です。清寧天皇と顯宗天皇の間、ごく短期間ですが政務をとったとされます。現在の角刺神社(つのさしじんじゃ、葛城市歴史博物館南隣)は、彼女が政治をおこなったとされる忍海角刺宮(おしみつのさしのみや)の跡地とされます。
葛城市HPより
https://www.city.katsuragi.nara.jp/soshiki/rekishihakubutsukan/1/1/1867.html
忍海(おしみ)は 渡来人 忍海氏に由来されるとする説が一般的です
忍海(おしみ)
更新日:2021年03月01日
大字名の由来
都が藤原京(694~710)にあったころ、葛上郡と葛下郡にはさまれて忍海郡が設置されていたことは確かで、忍海の名が使用されたのは鉄生産技術を持って朝鮮から渡来した人たちの集団である忍海氏の本拠地であったことによるものと推測されます。忍海氏のオシヌミが何を意味するのか明らかではありませんが、海に関係していたものと思われます。
葛城市HPより
https://www.city.katsuragi.nara.jp/soshiki/kikakuseisakuka/19/2200.html
忍海(おしみ)は 大和湖との関連か?
但し 上記にも「忍海氏のオシヌミが何を意味するのか明らかではありませんが、海に関係していたものと思われます」とありますので
忍海の為志神社周辺は 太古には おそらくは大和湖の西岸に位置して 葛城の山辺から続く高台 角の様に突き出た半島だったか? 古代の大和湖〈大和海〉に想いを馳せるのがよいかと
奈良県のHPには「奈良湖」として説明がありますのでご参考まで
『第26回 奈良湖』2021年12月5日 奈良県立美術館館長 籔内佐斗司
https://www.pref.nara.jp/59787.htm
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
近鉄御所線 忍海駅から北西に約1.9km 車5分程度
県道254号沿いに鎮守の杜
社頭には社号標゛式内小社 為志神社゛と刻されています
為志神社(葛城市林堂)に参着
一礼をして鳥居をくぐります
両部鳥居のように見えるが 石柱で古い鳥居を支えているようにも見える
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 爲志神社は 祭神不祥 所在について゛林堂村に在す、今十二所権現と称す゛〈現 為志神社(葛城市林堂)〉と記しています
【抜粋意訳】
爲志神社
爲志は假字也
〇祭神詳ならず
〇林堂村に在す、今十二所権現と称す、〔大和志、同名所図会、〕
【参考原文】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 爲志神社は 祭神は記さず 所在について゛今 林堂村にあり 十二所権現と云ふ゛〈現 為志神社(葛城市林堂)〉と記しています
【抜粋意訳】
爲志(ヰシノ)神社
今 林堂村にあり 十二所権現と云ふ、〔大和志、名所圖會、〕
【参考原文】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 爲志神社は 祭神は記さず 所在について゛林堂村字北堂゛〈現 為志神社(葛城市林堂)〉と記し 笛吹葛木坐火雷神社に合併としています
【抜粋意訳】
爲志(ヰシノ)神社
祭神
祭日 九月六日七日
社格 村社所在 林堂村字北堂(南葛城郡忍海村大字笛吹葛木坐火雷神社に合併す)
【参考原文】
為志神社(葛城市林堂)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
大和国 式内社 286座(大128座(並月次新嘗 就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)について に戻る
大和国(やまとのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 大和國の286座(大128座(並月次新嘗 就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)の神社のことです
大和国 286座(大128座(並月次新嘗就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)