実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

伊佐須美神社(会津美里町宮林甲)

伊佐須美神社いさすみじんじゃは 『古事記』10 崇神天皇の段に゛四道将軍派遣の時 建沼河別 其の父 大毘古命が相津(あいづ)にて行き逢った゛と記され 社伝には この時 天津嶽に伊弉諾尊と伊弉冉尊の二神を 国家鎮護の神として奉齋した事に始まると伝えます 延喜式内社 陸奥国 会津郡 伊佐須美神社 名神大(いさすみかみのやしろ)です

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

伊佐須美神社Isasumi shrine

通称名(Common name)

・伊佐須美様(いさすみさま)

【鎮座地 (Location) 

福島県大沼郡会津美里町宮林甲4377

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

〈御祭神四柱を総称して゛伊佐須美大明神と奉称

《主》伊弉諾尊(いざなぎのみこと)
   伊弉冉尊(いざなみのみこと)
   大毘古命(おおひこのみこと)
   建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)

〈相殿神〉

《配》・鹽竈大神塩土翁命・八幡大神〈品陀別命

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

八方除・延命長寿
・夫婦円満や様々な縁結び、あらゆる殖産興業や土木建築、交通運輸に御利益がある

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社
・ 岩代國一之宮
・ 旧国弊中社
・ 別表神社

【創  (Beginning of history)】

奥州二宮 岩代一宮 会津総鎮守 伊佐須美神社の御事

御祭神
 伊弉諾尊・伊弉冉尊・大毘古命・建沼河別命
 (御祭神四柱を総称して伊佐須美大明神と奉称する)

例大祭  九月十五日 九月一日から九月七日まで

御田植祭 七月十二日

由緒
 伊佐須美神社の創祀起源は悠久二千有余年の昔第十代崇神天皇十年四道将軍派遣の時に始まり古事記には『東の方より遣けつる建沼河別、其の父大毘古と共に相津に往き遇ひ給ふき故れ其地を相津と謂ふ』と記録されている如く会津地名発生の伝承社であります。

 即ち往き合い給うた時国家鎮護の為、国土開拓の祖神(諾・冉二神)を会津高嶺の聖地 天津嶽(新潟県境)に鎮斎されたのが始まりと伝えております。その後博士山、明神岳を経て欽明天皇十三年(五五二)当地に御鎮座されたのであります。

 その時大毘古命、建沼河別命二神も合祀奉斎されて以来千四百有余年、歴朝はもとより歴代藩候、別けても会津松平藩祖保科公以来格別の崇敬と庶民の崇敬殊の他篤く、延喜式内『名神大社』光格天皇宣下『伊佐須美大神宮』として崇められ、又戦前は国幣中社として官祭に預り御社殿の奉修、改築、社領、宝物等の寄進が相次ぎ会津開拓の祖神を祀る大社にふさわしく、今尚広くあらゆる殖産興業を守護したもう御神威のもと衆民の崇敬は深く厚いものであります。

御神徳(八方除・延命長寿)
 伊佐須美大明神は我日本、国土創成の祖神として又会津国を中心に広く東海、北陸、東北を御開拓になられ、農林、水産、漁業、商工、土木、建築、交通運輸のあらゆる殖産興業の道を授け給うた会津文化の生みの祖神であり、日常生活に忘れることの出来ない一切生業の守護神であります。わけても古来より延命長寿、地相、家相、方位、日柄等に由縁する諸々の災難を除かせ給う八方除の尊い御神威と建築土木、移転等の方除或は厄除 開運、結婚、旅行、営業、交通、病気等にそれぞれ祈念をこめて限りなき恩頼を戴かれております。

 大明神の広大無辺の御加護の下に諸事押し進めれば万事無難に成就すると共に、福徳円満家門は益々繁栄に導かれる御霊験あらたかにましますのであります。

参道の案内板より

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【由  (History)】

由緒と社格

社伝によると、凡そ二千有余年前第10代崇神天皇10年に諸国鎮撫の為に遣わされた大毘古命とその子 建沼河別命が会津にて行き逢い、天津嶽(現・新潟県境の御神楽嶽)において伊弉諾尊と伊弉冉尊の祭祀の礼典を挙げ、国家鎮護の神として奉斎した事に始まると伝えられます。

我が国最古の歴史書とされる『古事記』には「大毘古命は先の命のまにまに、高志国に罷り行きき。ここに東の方より遣はさえし建沼河別、その父大毘古と共に相津に往き遇ひき。かれ、そこを相津と謂ふ。ここを以ちて各遣はさえし国の政を和平して覆奏しき。ここに天の下太平けく、人民富み栄えき。」とあり、“会津”地名発祥の由来と創始を共にしております。

その後、博士山、波佐間山(現・明神嶽)と会津の山々を巡り、第29代欽明天皇13年(552)に高田南原(現・境内高天原)に遷られ、同21年(560)現在の宮地に鎮座されました。以来千四百有余年、大毘古命、建沼河別命 父子も合祀し、四柱の大神を伊佐須美大神と称え奉りお祀り申し上げております。

創始以来、古代北限の地に奉斎され悠久の歴史を培ってきた当社は、鎮護神として朝野の崇敬篤く、様々な社格や神階の奉授がなされました。

『貞観格式』において“正一位”の神階奉授の記録があり、『延喜式「神名帳」』には朝廷の名神祭に与る“名神大社”に列せられました。朝廷を含めて地方では“奥州二宮”と称えられ、開拓や東征が進むにつれ変遷があったとされる一宮に対して、古来揺るぎ無い不動の崇敬を得ておりました。寛政11年には、第119代光格天皇より大神宮号宣下を受け“伊佐須美大神宮”と号し、現在でも扁額や御神札に名残を留めております。

また、会津文化の生みの祖神でもある当社は“会津総鎮守”とも称され、会津蘆名家や会津藩祖保科正之公をはじめ御歴代藩侯には殊の外篤い信仰を寄せられ、社殿の修改築や社領、宝物等数々の寄進が多くなされました。

降って明治維新以降戦前に至るまでは、“国幣中社”として官祭に与り、戦後は神社本庁の別表神社に列せられております。現在では、当地方の古大社として“岩代国一之宮”として、全国より多くの巡拝者が参拝に訪れております。

伊佐須美神社公式HP
https://isasumi.or.jp/outline.html

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

・殺生石稲荷神社《主》倉稲魂大神
・菅原神社《主》菅原道真公
・白山神社《主》菊理姫命
・会津大國魂神社《主》会津大国魂大神
・招魂斎場《主》護国の英霊

※詳しくは 伊佐須美神社公式HP「神社のご案内」にて
https://isasumi.or.jp/about.html

神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

・奥宮(会津美里町西本字明神岳)

※町指定史跡(伊佐須美神社奥宮の地)〈明神ヶ岳山頂付近 東側に鎮座の石祠〉

福島県公式HP「ふるさと回廊あいづ(風景)<明神ヶ岳>」より

頂上まで新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込んで登っていくと、頂上手前の広場には伊佐須美神社の奥宮といわれる石の祠が鎮座しており、頂上には二等三角点があります。

https://www.pref.fukushima.lg.jp/sec/41340a/www-wakamatsu-kensetsu49.html

・斎神社《主》倭姫命
・御田神社《主》伊佐須美大神

※詳しくは 伊佐須美神社公式HP「神社のご案内」にて
https://isasumi.or.jp/about.html

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『續日本後紀(Shoku nihon koki)〈貞観11年(869)完成〉』に記される伝承

无位(むい)から從五位下に 神階の奉授が記されています

【抜粋意訳】

十三 承和十年(八四三)九月庚寅

○九月丙戌朔庚寅

奉授に 陸奧國
從五位下 多久都神 正五位下
勳九等 伊波止和氣天神
无位(むい)玉造温泉神
无位(むい)伊佐酒美神に 從五位下

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『続日本後紀』(869)貞観11年完成 選者:藤原良房/校訂者:立野春節 刊本 寛政07年[旧蔵者]内務省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047680&ID=&TYPE=&NO=

『延喜式Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭Meijin sai)」の条 285座

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂

延喜式巻第3は『臨時祭〈・遷宮天皇の即位や行幸国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で名神祭Meijin sai)』の条に 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています

名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています

【抜粋意訳】

名神祭 二百八十五座

・・・
・・・

佐酒美神社 一座 巳上 陸奥
・・・

座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩

嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合

加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1絇を 布1端に代える

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『延喜式 巻3-4』臨時祭 名神祭 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブス『延喜式 巻3-4』臨時祭 名神祭 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブス『延喜式 巻3-4』臨時祭 名神祭 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)陸奥国 100座(大15座・小85座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)会津郡 2座(大1座・小1座)

[名神大 大 小] 式内名神大社

[旧 神社 名称 ] 伊佐須美神社(貞・名神大)
[ふ り が な ]いさすみかみのやしろ)
[Old Shrine name]Isasumi no kamino yashiro)

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

『古事記(Kojiki)〈和銅5年(712)編纂〉』 に記される゛会津の地名発祥゛の伝承

古事記には 10 崇神天皇10 四道将軍派遣の時の様子として「東の方より遣けつる建沼河別 其の父 大毘古と共に相津に往き遇ひ給ふき 故れ其地を相津と謂ふ会津の地名発祥を記しています

崇神天皇の段 四道将軍の派遣

大毘古命は先の命のまにまに 高志国に罷り行きき ここに東の方より遣はさえし建沼河別 その父大毘古と共に相津に往き遇ひき かれ そこを相津と謂ふ ここを以ちて各遣はさえし国の政を和平して覆奏しき ここに天の下太平けく 人民富み栄えき

【抜粋意訳】

〈大毘古命(おほひこのみこと)は 祟神天皇の勅命通り 天皇の元から退き高志国(こしのくに)へと行き そこで東へ派遣された建沼河別(たけぬなかわわけ)は その父 大毘古命と行き逢ったので ここを相津(あいづ)と云うようになった これによって 天下は太平となり 人民は富み栄えた〉

【原文参照】

『古事記』選者:太安万侶/刊本 明治03年 校訂者:長瀬真幸 国立公文書館デジタルアーカイブhttps://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047416&ID=&TYPE=&NO=画像利用

伊佐須美神社 鎮座地の変遷について

①〈当初の鎮座地〉天津嶽(現・新潟県境の御神楽嶽)

社伝によると 二千有余年前 第10代崇神天皇10年に諸国鎮撫の為に遣わされた大毘古命とその子 建沼河別命が会津にて行き逢い
天津嶽(現・新潟県境の御神楽嶽)に 伊弉諾尊と伊弉冉尊の二神を 国家鎮護の神として奉齋した事に始まると伝えられます

「御神楽嶽」は鎮座の際に神楽が奏されたことによる地名゛御神樂山゛とされています

②〈その後の鎮座地〉

〈当初の鎮座地〉天津嶽(現・新潟県境の御神楽嶽)から・博士山・明神ヶ岳を経て 現在の会津美里町内に遷座していきます

『新編会津風土記』に
「博士山 山勢高大ニテ其脈支分シテ数山トナル、
西ニ引タル峯ニ伊佐須美明神ノ社跡アリ、御神楽嶽ヨリ此山ニ遷座アリテ、又明神嶽ニ遷レリト云、其地二間四方計、今ニ草木生セス」
と記されています

2-1 佩山〈現 会津の中央にある博士山〉

博士山(はかせやま)は 四道将軍が大太刀を腰に「佩(は)いて」嶺を通ったことから「佩(は)かせ」となり訛り「博士」になったと云う

2-2 波佐間山〈現 会津美里町の明神ヶ岳〉

伊佐須美神社奥宮(会津美里町西本字明神岳)
※町指定史跡(伊佐須美神社奥宮の地)〈明神ヶ岳山頂付近 東側に鎮座の石祠〉

③〈山岳地から現在の会津美里町内に遷座〉

3-1 高田南原〈現・あやめ苑〉

欽明天皇13年(552)に遷座

(高天原 神代桜の辺り)神代桜は 旧宮地である゛高天原゛にあり 古くは他の種蒔桜と同様 人々に農作の時期を報せていたと云う

3-2 現在の社地

欽明天皇21年(560)現在地の高田東原に遷座し 社殿を創建したと云う

変遷の地図

【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

JR只見線 会津高田駅からR401号経由で南下 約1.9km 車8分程度

私は会津若松に宿泊していたので 高田橋で阿賀川を渡り 会津高田方面に向かいます

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昨晩 薄く雪が降り 朝陽に白く輝く景色が一面に広がっています

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境内北側の道路は氷結しています

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伊佐須美神社の境内 南側 外苑の゛あやめ苑゛に参拝者の駐車場があります

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参拝日は12/7でしたが 鳥居に正月の新しい注連縄が掛けられようとしていました

伊佐須美神社会津美里町宮林甲に参着

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境内社 菅原神社が参道の向かって左手に祀られています

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社殿は2008年(平成20年)の火災で焼失したため 参拝時(2014年)には〈出雲大社の古神殿のような〉再建計画図がありました 現在再建中とのこと

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立派な楼門が構えます

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楼門の脇には回廊が廻されていて 東側には境内社 道主命神社が祀られています

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楼門をくぐり抜けて 先の内庭にはご神木の「薄墨櫻」に雪

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薄墨櫻の先 西側にも神門があります

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仮社殿が設けられています こちらにも〈出雲大社の古神殿のような〉再建計画図

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仮社殿拝殿にすすみます

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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足元も雪でしたので 社殿に一礼をして 参道を戻ります
先程 取り外された古い注連縄が丁寧に片付けられてました

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丁度 真新しい注連縄が 鳥居に取り付けられる瞬間に鳥居の脇を抜けて一礼

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駐車場に戻ると 雪景色の゛あやめ苑゛に朝陽が差し込み美しい

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明るい参道を戻ります

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神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『新編会津風土記(しんぺんあいづふどき)』享和3年(1803)文化6年(1809)編纂 会津藩官選による会津藩領に関する地誌 全120巻〉に記される伝承

伊佐須美神社会津美里町宮林甲ついて 会津藩官選による会津藩領に関する地誌なので 実に詳細に記されています

【抜粋意訳】

新編会津風土記 巻之七十四 陸奥國大沼郡之四 髙田組

伊佐須美神社

境内東西一町 南北二町 免除地 横町の東にあり

延喜式内 陸奥国 一百座の一にて 祭神は即ち 伊弉諾 伊弉冉の両尊なり 神名帳には會津郡の部に載す 今は本郡に属す

縁起を案ずるに 此の神 元は明神 冑組 に鎮座ありしが 大石組木名村博士峠と越後國蒲原郡小川庄御神楽嶽にも 此の神 鎮座ありし由を云傳ふ

欽明帝 喜楽元年壬申(552年)此の地に遷し祭れりと云
喜楽は貴楽の誤なるへし 如是院年代記に欽明帝十三年を貴楽元年とす

御正體に正一位の神爵を銘じ 大同四年(809)の彫付 寳物の部に出す あれども
續日本後記 仁明帝承和十年(843)奉授に陸奥國 伊佐須美神 従五位下とあれば 大同の頃 此の神爵ありしには非ず 其の後 正一位の贈爵ありし見え
後奈良帝 天文十二年(1543)十二月十四日の位記 今に存せり されば歳時の祭 厳重にて四郡の内にも此の社の祭田神戸多く 神職もあまたありしが漸々に衰廃せり されど天正の頃(1573~1593)までは 高田 長尾 二ヶ村にて三百貫文の社領ありしを 同巳丑(1589)伊達氏の乱にこれをも失へり
豊臣太閤の命にて 住古より御正作田と稱する所の地七段この社の領となれり
其の後 肥後守正之封を受け 此の神の祀典にのり威霊の厳重なるを崇ひ三十石の地を寄付し 社屋をば府の修造とす
天明三年癸卯(1783)又 災に罹り 神殿門廡 共に焚燬す 今の社は 其の後 府よりこれを造営せり

冠木門(かぶきもん)

南門の外にあるを正面とす 両柱の間 二間 左右に柵木あり 門外に馬止舎あり 東西の透門の外にも 又 冠木門あり 寸尺冠木門と同じ 東西ともに冠木門の外に馬止舎あり

鳥居(とりい)

冠木門を入て南門の外にあり 両柱の間一丈二尺 明木造なり 東西透門の内にも鳥居あり 寸尺南の鳥居に同く 都て三箇所にあり

制札(せいさつ)

南鳥居の外にあり

南門(みなみもん)

南の鳥居を入て本社にゆく正面の門なり 三間に二間半 門の左右に廊あり 祭りの時は 此に警衛を置 この門の東の桁に 天文十八年 甲斐國 武田信玄家來 武者執行同行三人 堀無手右衛門縄無理介澤是非介 と記せる題名あり 内棟木に上山よしまさと云 六字あり これは天正巳丑の乱に 羽州上山領主義正という者 政宗に従い ここに来り鎗(やり)の鋒(ほこ)に筆を約し 馬上にてこれを題せりと云 これ等の墨痕 近頃までありしが 天明三年(1783)の火災に焼失し 其の後 府よりこれを造営せり

薄墨櫻(うすすみさくら)

南門を入て左の方 本社の西南にあり 高一丈有餘 四方五六歩を庇へり 四方に柵木あり 周十間計 遷宮の頃よりありし神木なりと云 花は八重にして一重まじり 浅紅にして淡墨を含む 因て此の名あり 外の櫻樹よりは少遅く 三月中旬の頃漸盛なり 香氣 殊に深く 花色最艶なれば 此に来り花を賞するもの多し 或る人の説に この樹の名花なる事 朝に聞えて隠なかりしかば大永五年(1525)十一月八日 左小辨某に仰て 詔書を賜はりしに 其の書 水雲紙に記されしにより薄墨の稱ありとも云 文明十八年(1486)六月の頃 この花開て春の如し 神職 渡邊大和某が二子萬寿丸とて 十三歳なりしが和歌を詠ず

君が代の久しかるへきためしには 伊佐須美よしの櫻木の花

其の頃は 乱世といい 田舎の事なれば 童にて かかる口號も世に珍しかりしにや 葦名盛髙 其の夙慧(しゅくけい)を賞す 後には渡邊主殿光綱と號し 河沼郡臺村にて 永楽銭三十貫文の地を領せりとぞ 又 寛文五年(1665)にも六月十八日の頃より この花開て春月の如し 天明三年(1783)の火に この樹を焼て 已に枯んとせしが 今又 繁茂して故の如し

鐵華表(くろがねかひょう)

本社の前にあり 今は両柱折れて 長七尺有餘 周六尺五寸計の鐵の柱二残れり

柱に各佛象一軀を隠起にし 礎石各一丈有餘 其の間三間計なり 舊事雑考に明應元年(1492)十月二十六日長峯越中と云う者建てるとあり 又 民間の言傳には 本郡東尾岐村の百姓 佐藤某が先祖にて奉納せる鐵の燈籠の圯廃せしなりぞ 何れが是なることを知す

本社(ほんしゃ)

三間四面 南向 南に階あり 東西を繚て庇縁 勾欄あり 玉垣は東西より北に繚り 二十六間餘 神體は一木にて刻めり長四寸八分 又 同社に鹽竈明神と八幡宮を配食す 祭事は五月砂山祭 御田植祭八8月 流鏑馬の類たぐい古風を存す

三曲の神楽歌あり 左に記す

丹志喜廼登波里(ニシキノトハリ)古河禰乃瀬登乎(コガネノミトヲ)於之比羅幾(オシヒラキ)夜幣乃久母乎(ヤエノクモヲ)惠伊和氣天(エイワケテ)天良草舞也(テラサンヤ)天良草舞(テラサン)

阿知女(あちめ)作法 毎曲謡之

安知面(アチメ)於(オ)於於於於於於 氣安知面(オケアチメ)於(オ)於於於於於

十寸鏡(ますかかみ)

太神廼御影乎(オホムカミノミカケヲ)移白銅鏡(ウツスマスカカミ)中爾曇半(ウチニクモリハ)惠伊(エイ)須惠事刀杼面珥(スエシトトメシ)

安名手伸(あなたのし)

安那多乃之(アナタノシ)孤能彌可具良乃於登(コノミカクラノオト)安那多能志(アナタノシ)古乃可武可遇蘭乃(コノカムカクラノ)惠伊(エイ)淤等波知譽布流(オトハチヨフル)

幣殿(へいでん)

四間に二間

拝殿(はいでん)

六間に三間 四面に庇縁あり 奥州二宮 伊佐須美太神宮と云額あり 従二位ト部連卿の筆なり

神供所(じんくところ)

拝殿の西にあり 二間半に二間 東西に庇縁あり 拝殿に所に幅一間に長四間餘の渡殿を架へ左右に勾欄あり

神庫(かみこ)

本社の西北にあり 二間に一間半 四方に柵あり 周七間餘

囘廊(かいろう)

本社の前南門の東西にあり 共に六間に二間 祭禮の日は 神官等 東の廊にて斎す 西の廊は祭の時雨の備とす

番所(はんしょ)

本社の西南にあり 一間半に一間 神職の者 輪番する所なり

東門(ひがしのもん)

本社の東にて宮川の方に出る門なり 一間半に一間 宮川は本社の御手洗なり

西門(にしのもん)

本社の西にて社家町の方に出る門なり 間數上に同じ この南に一間四尺に一間半の所あり 古札を納る所とす

井(い)

二あり 一は神供所の南 一は南門を入て右の廊の前にあり 共に屋を構え三方に柵あり 又 南門の井に並て 盥水の所あり 屋を架す 二間に一間半 石の盥を設く

天満宮(てんまんぐう)

南門の外 本社にゆく路の左にあり 前に鳥居を建 相殿三十一座あり

相 殿

稲荷神 五座 共に本村より移す
伊勢宮 三座 同上
荒 神 二座 同上
八幡宮 同上
熊野宮 同上
三島神 同上
鹿島神 同上
宗像神 同上
山 神 同上
聖 神 同上
幸 神 同上
天 神 同上
天王神 同上
鹽竈神 同上
石 神 同上
一王子神 同上
七五三王子 同上
十二神 同上
八乙女神 同上
鬼渡神 同上
叶 神 同上
軍 神 同上
加武氣神 同上
権 現 同上

守従霊社(もりたふれいしゃ)

本社の東にあり 元文元年(1736)家老西郷源蔵近方を祭り末社とす 鳥居拝殿あり 額に守従霊社と題す 文書博士菅原長親の筆なり

高天原(たかまのはら)

本社の西南にあり 一町四方の地にて 本社の神輿を渡す旅所なり 中央に本殿あり 三方に玉垣を繚らし 前に弊社 拝殿 鳥居あり 又 此の中に相撲場あり 毎年八月十六日随兵童子とて 童兒を力士形に造り相撲を取しむ 又 左右に二箇所の的場あり 祭りの日 禮射賭弓を行う處なり

流鏑馬場(やぶさめばば)

本社の西南 高天原の北にあり 東西一町三十五間 廣八間餘 毎年八月十六日流鏑馬を行ふ

御正作(みしゃうさく)田

本社より子丑の方 五町四十間餘にあり 相傳て 本社の神田とす 文禄元年(1593)豊臣家中村式部少輔を目代とし 此の地を検校し 上古已來の神田たるに因り 此の社に寄付し免除地とす 其の地七段餘あり 不浄を入ざれども よくみのると云 舊事雑考 康應二年(1390)の記に 伊佐須美に月祭田千語百束とあるは この御正作田のことなるべし

宮林(みやはやし)田

本社の南にて髙三十石の地なり 此の地 昔は一藂の平林にて本社に属せり 

寛永十二年(1635)三月十四日に本村に火災ありて 民家残り少く延焼せしにより 領主加藤式部少輔 其の林を伐て 本村の家作とし 新田を闢き高六十七石餘の地とす 其の地 本村と永井野村の間にあるゆえ 村名を境新田と云 肥後正之時代 其の中三十石を以て 當社の領とす

姥清水(うはしみず)

本社の東北にあり 三間四方計 北に流れて御正作田に灌ぐ 旱魃にも此の水涸るることなし

砂山祭(すなやまのまつり)

本社の條下に記せる如く 毎年五月五日に此の祭あり 鹽土翁を祭るにより鹽土祭とも云 即五日の晨(よあけ)に玉垣の内 東北の隅に二ノ砂山を築き 一ノ砂山に幣帛を建て 其の前に机を置き 香爐(こうろ)燈明(とうみょう)を設け 海藻を始め種々の備物を供し 神職長官進て 中臣秡三種大秡を誦す 外に又 神職一人鳥兜を冠り 朱塗りの假面をきて 槌を取り 一ノ砂山に進む 禰宜一人 又 鳥兜に黒塗りの假面をきて 八角に削れる三本の杭を砂山に建つ 神職 槌にてこれを打つ時に 神秘の呪文(じゅもん)あり 此の時楽人 皷吹調拍子を調へて 神楽歌を奏す 其の後 神職長官祈念して祭事終る この鹽土翁 鹽を煎初め給いし時に效(なら)ふと云 因て 此の社の寶物に鐵杖の首の両岐なる者あり これ上代の火箸なりとぞ 後 嘉元元年(1303)に寺入村に社を建 此の鐵杖を神體とし 金跨大明神と號してこれを祭る 因て鐵杖 今はなし

御田植祭(みたうえのまつり)

此れも本社の條下に記せる如く 毎年五月の末 六月の始 子午卯酉の日を撰びて 此の祭あり 其の式 巳の刻に童子四人 馬牛鹿獅子の假面を被り 本社を三たび巡り 南門より村中の両頬の民家にかけ入り 一軒ごとに後戸より前戸に出 御正作田に行き残りなく踏みならし 帰りに初過らざる家あれば前の如くかけ入り 本社に還り 假面を納む 村中の兒童これに従て馳巡る もし誤て過らさる家あれば 必禍ありとてこれを忌むと云 午の刻に及て 禰宜共圭冠(はしはこうぶり)袍襖(ほうこ)にて神田に往く 其の行装の次第 白子翁 黒子翁 白子女とて藁人形三を造り 男の姿は烏帽子狩衣 女の姿は菅笠帷子にて 各假面を着せ 其の外にも種々の人形ありて これを先に立 神田に往て祭あり 其の時 催馬楽の詞あり 左に記す

催馬楽十二段

太神宮能面佐布等氐都奈義於岐多類後座婦禰(たいしんくうのめさふとてるなきおきたるこざふね)其一

御正田廼林田波高天原乃與伊止古路(みしやうたのはやしたはたかまのはらのよりところ)其二

太神宮能御田地八葦毛乃古満乎波也宇牽(たいしんくうのみたりとはありけのこまちはやうひく)其三

佐耶氣喜也竹乃音乃草野氣幾(さやけきやさやきやたけのをとのさやけき)其四

太神宮廼御手坪爾於侶寸豊乃千垂頴(たいしんくうのみてつぼにおろすとよのちたれほ)其五

廣田也安田也植留地乃多乃之幾(ひろいたやすいたやうゝるところのたのしき)其六

白良葦毛乃白能駒乎高天原仁繋汰(しらあしけのしろのこまなたかまのはらにつないた)其七

志那比太也之奈飛太也秋乃垂穂波八握穂丹(しなひたやしなひたやあきのたりほはやつかほに)其八

太神宮乃面佐布十低葦毛乃駒乎繋太(たいしんくうのめさふとてあしけのこまちつないた)其九

低田哉高田哉栽流多哿羅廼楽憙(ひくいたやかたいたやうゝれたからのたのしき)其十

曾于登入耶曾于登入耶與等入也竹濃長枝農素譽都伊連(そうといれやそよといれやたけのなかえのそよといれ)其十一

其十二闕

寶物(たからもの)
口宣案

一通 清龍寺の住僧 智鏡が請にて再賜りし所なり 其の文如左

上卿 中山大納言
天文二十年十二月十四日 宣旨
陸奥国伊佐須美社
宣奉授正一位位記
 蔵人権右少辨藤原經元 奉

勅額掛幅

一軸 天文二十年賜る所と云 表に 奥州二宮 正一位 伊佐須美大明神 背に依勅命大納言孝新書之とあり

年代記掛幅

一軸 廣二尺 長四尺 細に縦横の系ありて 人皇の初より文亀 永正の頃までの編年にして 大事を記せり 其の中に喜楽 貴楽なるべし 彌勒など云 年號あり

紫銅香炉

一口 文安五年(1448)五月三日源行吉といふ銘あり 文禄元年(1593)葦名家の寄附なりと云傳ふ 葦名家は天正の末滅ぶ 傳る所誤りあるべし

横笛

二管 一管は漢竹と號す 大永五年(1525)葦名盛安の寄附なり 一管は神楽笛と號す 文明十三年(1481)黒川大町佐野七郎忠重と云ものの寄進なり

王鼻假面

二枚 赤塗と白塗の面なり

白女假面

一枚

老女假面

一枚

翁假面

一枚

馬假面

一枚 運慶作

牛假面

一枚 同上

鹿假面

一枚 同上

太刀

一口

甲冑

一領

以上14箇の神寶 天明三年(1783)の火災に盡く燒亡す

黄金燈籠

一箇 高一尺五寸 径八寸 府下馬場町坂内宗澤と云者の寄進なり

御正體

一面 径四尺 天明三年(1783)の災に罹り 欠損すれども今に存す 其の銘如左

奥州二宮
正一位伊佐須美大明神 大旦那 義清

大同四年巳丑
續日本後記に據れば 此の年號疑ふべけれども 相傳ふるままにここに記す

御正體円鏡

二面 共に天明三年(1783)の火災に焼亡し 今は其の写なり 一面は鹽竈明神 径四尺 建武四年丁丑八月廿六日という銘あり 一面は八幡宮 径一尺 その銘如左

貞和二年丙戌八月一日檢校
  鬼氏久光
 神主渡邊五郎源長
 子息彦五郎定吉
 藤原氏 女 大工圓阿彌
意趣者爲末代奉造立之處

一枚 長五尺五寸 廣二尺五寸 奥州二宮正一位伊佐須美大明神とあり 大納言孝親卿の筆なり

木造狛犬

二箇 運慶作と云

色紙掛幅

一軸 大納言藤原為家卿の筆なり

玉山講義附録三巻

肥後守正之編纂の書 寛文七年(1667)七月寄附す

長柄銚子

一口

神楽楽器

数箇 右二品肥後守正容寄附

神鏡

三面

古鼎

一口 径二尺餘

神輿

一両 方二尺二寸 檐七寸 金銀の鉸具にて蓋に紋あり 左三巴二引輛なり
大永六年丙戌八月吉日大旦那平盛安同盛常と云 銘ありと云 今は見えず

神職 渡邊伊豫

其の先 渡邊四郎光房は内舎人 従六位下渡邊綱が八世の裔にて
鳥羽院北面の侍なり 光房が次男 大和惟治 當国に来り その孫 長門頼綱建暦の頃(1211~1213)此の社の禰宜となる 六世の孫を 近江長と云 初め五郎と稱す 此の時 神職五員の内に入る 本宮八幡御正體に渡邊五郎源長とある 此の近江が事なり 近江が八世の孫 大蔵大輔則綱始て長官に任ず 則綱九世の孫を 渡邊伊豫惟一則と云 今の長官なり 昔は神主宮司検校より已下 三十二員の神職ありて 神宮寺と云 社僧もありしと云 今の長官の外に十三員の神職あり

齋宮神社

境内東西三十間 南北六間 免除地
村中にあり 昔は伊佐須美神社に給事する女官ありて 伊勢の斎王 加茂の斎院の如く 此れに住せしにや 其の舊跡に社を建て 倭姫命を祭りしと見ゆ 昔は 毎年三月二十五日 伊佐須美ノ神輿を此宮に渡し七日を経て 神輿を本社に還し納めしとそ 其の式 今は廃す鳥居幣殿拝殿あり 渡邉伊豫是を司る

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ『新編会津風土記』(享和3年(1803)~文化6年(1809)編纂 会津藩官選)写本 明治 [旧蔵者]太政官正院地志課https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002548&ID=M2017053109173349485&TYPE=画像利用

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国立公文書館デジタルアーカイブ『新編会津風土記』(享和3年(1803)~文化6年(1809)編纂 会津藩官選)写本 明治 [旧蔵者]太政官正院地志課https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002548&ID=M2017053109173349485&TYPE=画像利用

『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承

式内社 伊佐須美神社について 髙田村〈現 伊佐須美神社会津美里町宮林甲〉と記し 古来からある御神像についても 詳細を記しています

【抜粋意訳】

伊佐須美(イサスミノ)神社 名神大

〇今在 髙田村

「聞老」「會津風土記」
伊佐須美大明神 在髙田村 今在大沼郡 云々
明神嶽 此神 初現之地也 欣明御宇 移干此
古来 神殿に有る 伊弉諾・伊弉冊尊の立像 一木に二尊を刻み 人身鳥首 長嘴大耳にして 両頭相交わり 手をもって相抱く 長さ四寸八分なり 三月二十五日祭礼
社額に曰 奥州二宮 正二位 伊佐須美大明神
勅中山大納言之 御正体銘曰 奥州二宮 正一位 伊佐須美大明神 大同四年所祷 今見在焉

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 伊佐須美神社について 髙田村に在す〈現 伊佐須美神社会津美里町宮林甲〉と記し 当初は明神ヶ嶽に鎮座したと記しています

【抜粋意訳】

伊佐須美神社 名神大

伊佐須美は 假字なり

〇祭神 伊弉諾尊 伊弉冉尊

髙田村に在す、今 大沼郡に属す、巡拝録、

例祭 月 日

〇式三、臨時祭 名神祭二百八十五座、中略 陸奥 佐酒美神社 一座
〇神名帳頭注云、伊佐沼美、作須非 伊弉冉 伊弉諾二座也、古老謬云、有ニ神像、不如ニ何時儘筆也、畏ニ神威而、清寧天皇御宇辛酉歳、造殿奉遷之、

會津風土記云、
伊佐須美大明神社、髙田村、延喜式會津郡 伊佐須美神社 是也、今在に大沼郡、而 式所載如此者、當時未分為に大沼河沼二郡也、明神ヶ嶽 此神 初現之地也、欣明御宇移に干此、
古来 神殿に有る 伊弉諾・伊弉冊尊の立像 一木に二尊を刻み 人身鳥首 長嘴大耳にして 両頭相交わり 手をもって相抱く 長さ四寸八分なり、中略  御正体銘曰、奥州二宮 正一位 伊佐須美大明神、大同四年所祷、今見在焉、

文龜三年炎上、天文二十年十二月十四日、因ニ智鏡上人奏授ニ正一位、宣旨扁額 今亦存焉、社前垂櫻古樹、髙可二丈 枝六丈餘、名曰ニ薄墨、香気粉郁、

神位
續日本後紀承和十年(八四三)九月庚寅奉授陸奧國 无位(むい)伊佐酒美神從五位下

雑事
朝野群載云、康和五年六月十日、奏レ龜卜(きぼく)、御體卜、中略 座ニ陸奥國 伊佐須美神、云々・・・・・・・・・・

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 伊佐須美神社について 髙田村に在り〈現 伊佐須美神社会津美里町宮林甲〉と記し 当初は明神ヶ嶽に鎮座したと記しています

【抜粋意訳】

伊佐須美(イサスミノ)神社

今 大沼郡 高田村に在り、舊 明神嶽に在しを、後 今地に移奉る、之を陸奥二宮と云ふ、會津風土記、會津舊事雑考、神名帳考証、巡拝舊祠記、
仁明天皇 承和十年九月庚寅无位(むい)伊佐美神從五位下を授け、續日本後紀
醍醐天皇 延喜の制、名神大社に列る、延喜式
堀河天皇 康和五年六月、伊佐須美神社司に中祓を科す、神事を穢せる祟あるを以て也、朝野群載
其祭五月砂山祭、六月田植祭、八月流鏑馬の神事を行ふ、本社田植歌事書

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神祇志料』https://dl.ndl.go.jp/pid/815490著者 栗田寛 著 出版者 温故堂 出版年月日 明治9[1876]

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 伊佐須美神社について 所在は 髙田〈現 伊佐須美神社会津美里町宮林甲〉と記しています

【抜粋意訳】

伊佐須美神社 名神大

祭神 伊邪那岐神 伊邪那美神

今按〈今考えるに〉
本社祭神 伊邪那岐神 伊邪那美神と云は 伊佐須美神伊佐より云出たるが如くなれど 古くよらしが傳へたりとみゆるを近頃 古事記の大彦神 建沼河別命なりと神官より申出たれど實にさる傳説あるにや確證を得ざらん限りは舊よる方穏なるべし

神位
仁明天皇 承和十年九月庚寅 奉授 无位(むい)伊佐美神從五位下

祭日 九月十五日
社格 国弊中社

所在 高田村 今属 岩代國大沼郡(大沼郡高田町)

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155

伊佐須美神社会津美里町宮林甲 (hai)」(90度のお辞儀)

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一緒に読む
日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」について

日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」は 律令時代に発生した制度・社格で 律令時代の国司の参拝に伴う制度・社格として生じました 全国各地に現在でも「一宮」の地名が沢山あり 呼び方については「いちのみや」は同じでも 標記の仕方は「一宮」・「一之宮」・「一の宮」「一ノ宮」など様々です

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陸奥国 式内社 100座(大15座・小85座)について に戻る

一緒に読む
陸奥國 式内社 100座(大15座・小85座)について

陸奥国(むつのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 陸奥国には 100座(大15座・小85座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています

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  • B!

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世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」のクライテリア(iii)として「古代から今日に至るまで山岳信仰の伝統を鼓舞し続けてきた 頂上への登拝と山麓の霊地への巡礼を通じて 巡礼者はそこを居処とする神仏の霊能を我が身に吹き込むことを願った」と記されます

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出雲國(izumo no kuni)は「神の國」であり 『出雲國風土記〈733年編纂〉』の各郡の条には「〇〇郡 神社」として 神祇官の所在する社〈官社〉と神祇官の不在の社を合計399社について 神社名の記載があります 『出雲國風土記 神名帳』の役割を果たしていて 当時の出雲國の神社の所在を伝えています

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大国主神(おほくにぬしのかみ)が 坐(ましま)す 古代出雲の神代の舞台へ行ってみたい 降積った時を振り払うように 神話をリアルに感じたい そんな私たちの願いは ”時の架け橋” があれば 叶うでしょう 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台は 現在の神社などに埋もれています それでは ご一緒に 神話を掘り起こしましょう

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出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷に於いて 出雲国造が 新たにその任に就いた時や 遷都など国家の慶事にあたって 朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

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出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉として 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

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宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

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行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

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對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています