実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

率川坐大神御子神社(奈良市本子守町)

率川坐大神御子神社(いさがわにます おおみわみこじんじゃ)は 大和国一之宮 大神神社の摂社で 「大宝令」大宝元年(701)制定に 国家の祭祀として 例祭 三枝祭(さいくさのまつり)は 既に規定されていました 鎮花祭大神神社 例祭〉と共に古くから疫病を鎮める祈りのお祭りです 『延喜式神名帳AD.927』にも記される古社です

Please do not reproduce without prior permission.

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

率川坐大神御子神社(Isagawanimasu ohomiwamiko shrine)

 [通称名(Common name)]

率川神社(いさがわじんじゃ)
・子守明神(こもりみょうじん)

【鎮座地 (Location) 

奈良県奈良市本子守町18

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

三座
向かって右殿(御母神)
《主》玉櫛姫命たまくしひめのみこと

向かって中殿 (御子神)
《主》媛蹈韛五十鈴姫命ひめたたらいすずひめのみこと

向かって左殿(御父神)
《主》狭井大神さいのおおかみ 

【御神格 (God's great power)】(ご利益)

安産、育児、生育安全、家庭円満の神様

【格  (Rules of dignity)

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社
・ 大和一之宮 大神神社 摂社

【創  (Beginning of history)】

 率川神社(いさがわじんじゃ)

御祭神
玉櫛姫命たまくしひめのみこと) 向かって右殿(御母神)
媛蹈韛五十鈴姫命ひめたたらいすずひめのみこと向かって中殿 (御子神)
狭井大神さいのおおかみ 向かって左殿(御父神)

御例祭
六月十七日 三枝祭さいくさのまつり(ゆりまつり)

御由緒
 当神社は 推古(すいこ)天皇元年(五九三年)大三輪君白堤(おおみわのきみしらつつみ)が 勅命によって創祀(そうし)した奈良市最古の神社であります 
父母神が御子神を両側から見守るようにして鎮座奉斎していることから 子守明神と称えられ安産あんざん育児いくじ息災延命そくさいえんめいの神様として篤い信仰を集めております
 例祭の三枝祭さいくさのまつり 御祭神に縁の深い笹百合(ささゆり)(古名 さいくさ)の花で白酒しろき)黒酒くろき)の酒樽さかだるを飾ってお祭りするところから付けられた名前であり 大宝令(七〇一年)に国家の祭祀として定められている古式ゆかしい神事で疫病除けの祭りとして今に受け継がれ「ゆりまつり」の名で知られています
 本殿は一間社春日造檜皮葺の建物三棟が東西一列に並び南面しており 近世初頭の社殿形式を伝えるものとして奈良県有形文化財に指定されています

率川阿波神社いさがわあわじんじゃ

御祭神 事代主神ことしろぬしのかみ(奈良市最古のえびすさん)
例祭日 六月十七日
初戎はつえびす一月五日

現地案内板より

Please do not reproduce without prior permission.

【由  (History)】

率川神社について

率川神社は、593年に大三輪君白堤(おおみわのきみしらつつみ)が勅命によりお祀りした奈良市最古の神社です。

御祭神の媛蹈韛五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)は、初代神武天皇(じんむてんのう)の皇后様で、ご聡明にして、よく内助の功をおたてになりました。全国の神社の中でも珍しい皇后様を主祭神とした神社です。

三棟の本殿左側には父神の狭井大神(さいのおおかみ)、右側には母神の玉櫛姫命(たまくしひめのみこと)をお祀りし、中央にお祀りするお子様(媛蹈韛五十鈴姫命)を両親がよりそうようにお守りになられる姿で鎮座されることから、古くより子供の守り神として知られています。

公式HPより

【境内社 (Other deities within the precincts)】

《式内社》
・率川阿波神社(いさがわあわじんじゃ)〈率川社 境内〉
 《主》事代主命(ことしろぬしのみこと)

・春日社(かすがのやしろ)〈率川社 境内〉
 《主》春日大神(かすがのおほかみ)

・住吉社(すみよしのやしろ)〈率川社 境内〉
 《主》住吉大神(すみよしのおほかみ)

・率川阿波神社(奈良市本子守町)〈率川神社 境内〉をご覧ください

一緒に読む
率川阿波神社(奈良市本子守町)

率川阿波神社(いさがわあわじんじゃ)は 創建について 社伝には「宝亀二年(771)藤原是公 夢のお告げ」によるとされ 当初は奈良市西城戸町に鎮座していましたが 時代と共に衰微し 大正9年に率川神社の境内に社殿を建立し その後 末社 春日社・住吉社と共に現在地に遷座 式内社の率川阿波神社とされます

続きを見る

蛙石(かえるいし)

Please do not reproduce without prior permission.

蛙(かえる)石

この石は その形状から「カエル石」と言われています。
蛙は 一度に沢山(一五〇〇個ぐらい)の卵を産むことから 繁殖力・命の再生・豊富・裕福のシンボルとも云われております。
特に蛙は「カエル」という言葉の語呂が縁起が良いとされ「お金がかえる」「幸せがかえる」「若かえる」「無事かえる」「貸した物がかえる」等々言われ 参拝者も健康回復・旅行安全・金運アップ等の御利益を願って この石を撫で親しまれていることから 「撫で蛙」とも呼ばれるようになりました。

現地立札より

Please do not reproduce without prior permission.

【境外社 (Related shrines outside the precincts)】

率川神社は 大和国一之宮 大神神社 の摂社になります

・大神神社(桜井市三輪)

一緒に読む
大神神社(桜井市三輪)〈三輪山を〈御神体〉とする大和國一之宮〉

大神神社(おおみわじんじゃ)は 『記紀神話』に創建に関わる伝承が記されており 『延喜式』には名神大社と所載される 大和国一之宮です 古来から本殿は設けず 拝殿の奥にある三ッ鳥居を通し 三輪山〈御神体〉に祈りを捧げる原初の神祀りで 我が国最古の神社と呼ばれています 神社の社殿が成立する以前の祭祀の姿を今に伝えています 

続きを見る

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式(Engishiki)』巻1 四時祭上 の条

三月祭 鎮花(はなしずめ)祭二座

太神社一座 絁(アシギヌ)〈絹織物〉5疋 云々
狭井社一座 絁(アシギヌ)〈絹織物〉2疋 糸三絢、綿一屯四両、五色薄各三尺、倭文六尺、布一端一丈、木綿麻各六斤十両、(カラムシ)八両、弓七張、筧二連、鹿皮十張、(已上三種神祇官充)羽二翼、鹿角四頭、鉄三斤五両、漆一升、黄檗三斤五両、茜一斤、黒葛廿斤、清酒五升、濁酒六斗五升、鰒三斤、堅魚五斤五両、階八升、海藻五斤五両、塩二升、瓶二口、都婆波匝短女杯盞各一口、裏葉薦二枚

四月祭 三枝(さいくさ) 三座 卒川社
 絁(アシギヌ)〈絹織物〉1疋 云々

右三社幣物 依前件付祝等令供祭

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)大和国 286座(大128座(並月次新嘗・就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣))
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)添上郡 37座(大9座・小28座)
[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 率川坐大神神御子神社 三座
[ふ り が な ]いさかはにます おほみわのみこの かみのやしろ)(みつざ)
[Old Shrine name]Isakahanimasu Ohomiwanomiko no kamino yashiro)(MItsuza

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

三枝祭(さいくさのまつり)について

三枝祭(さいくさのまつり・ゆりまつり)

例祭日  6月17日 10時30分斎行
宵宮祭  6月16日 15時斎行
後宴祭  6月18日 10時斎行

三枝祭は、その起源も古く、文武天皇の大宝元年(701)制定の「大宝令」には既に国家の祭祀として規定されており、大神神社で行われる鎮花祭と共に疫病を鎮めることを祈る由緒あるお祭りです。

昔、御祭神姫蹈韛五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)が三輪山の麓、狭井川のほとりにお住みになり、その附近には笹ゆりの花が美しく咲き誇っていたと伝えられ、そのご縁故により、後世にご祭神にお慶びいただくために酒罇に笹ゆりの花を飾っておまつりする様になったと言い伝えられています。

国が行うお祭りとして重んぜられた三枝祭は、平安時代には宮中からの使いが御供えの幣物や神馬を献上するなど、非常に丁重な祭祀が行われましたが、後世いつの間にか中絶していたのを明治十四年再び古式の祭儀に復興され、現在に及んでいます。

このお祭りの特色は、黒酒、白酒の神酒を「罇(そん)」「缶(ほとぎ)」と称する酒罇に盛りその酒罇の周囲を三輪山に咲き匂う百合の花で豊かに飾り、優雅な楽の音につれて神前にお供えする事です。又神饌は古式に則り美しく手が加えられ、折櫃に納めます。そして、柏の葉で編んで作ったふたをして、黒木の御棚と言う台にのせて宮司自らがお供えします。

率川神社公式HPより

「三枝祭」がとどこおりなく終わると 午後から 七媛女(ななおとめ)・ゆり姫・稚児による行列巡行が行われます
七媛女ななおとめとは 古事記神武天皇と須気余理比賣命(いけすよりひめのみこと)の出会いのシーンに登場する乙女たちで 勾玉のネックレスを首から掛けた鮮やかな衣装の七媛女を先頭に ゆり姫や稚児が 奈良市内を巡幸します 翌18日には後宴祭や奉納演芸などが行われます

神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

JR奈良駅から 西へ約600m 徒歩8分程度
近鉄奈良駅から 南へ約350m 徒歩4分程度

やすらぎの道沿いに鎮座します
率川坐大神御子神社(奈良市本子守町)に参着

Please do not reproduce without prior permission.

注連縄柱が建ち その先に朱色の両部鳥居は 東向きに構えます
一礼をしてから くぐると 社殿は南向きに建てられています

Please do not reproduce without prior permission.

手水舎は そのまま社殿の前を通り過ぎ 社殿の西前方にあり 清めます

Please do not reproduce without prior permission.

社務所は 境内の奥 北西に建っています

Please do not reproduce without prior permission.

こちら側から社殿を見ると 白い御壁の中に 三殿の本殿が並列して 南を向いています

Please do not reproduce without prior permission.

拝殿にすすみます 

Please do not reproduce without prior permission.

賽銭をおさめ お祈りをします 
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

Please do not reproduce without prior permission.

拝殿の奥には 御壁に囲まれた神域に 三殿の本殿が並列しています

中央の本殿に 媛蹈韛五十鈴姫命ひめたたらいすずひめのみこと
向かって右殿 玉櫛姫命たまくしひめのみこと(御母神)
向かって左殿 狭井大神さいのおおかみ(御父神)

中央の姫神を左右の父母神が 守るように鎮座するので 子守社と呼ぶ説もあるとの事

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

本殿の東側

Please do not reproduce without prior permission.

境内社 《式内社》・率川阿波神社(いさがわあわじんじゃ)・春日社(かすがのやしろ)・住吉社(すみよしのやしろ)〈が祀られていますので お詣りをします

・率川阿波神社(奈良市本子守町)〈率川神社 境内〉をご覧ください

一緒に読む
率川阿波神社(奈良市本子守町)

率川阿波神社(いさがわあわじんじゃ)は 創建について 社伝には「宝亀二年(771)藤原是公 夢のお告げ」によるとされ 当初は奈良市西城戸町に鎮座していましたが 時代と共に衰微し 大正9年に率川神社の境内に社殿を建立し その後 末社 春日社・住吉社と共に現在地に遷座 式内社の率川阿波神社とされます

続きを見る

神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『古事記(Kojiki)〈和銅5年(712)編纂〉』 に記される伝承

三枝祭(さいくさのまつり)は「ゆりまつり」とも称され 大神神社で行われる鎮花祭と共に疫病を鎮める国家の祭祀として規定された祭りです
 御祭神 姫蹈韛五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)が 三輪山の麓 狭井川のほとりに住われていた その附近に 笹ゆりの花が多くいていたと伝えられ そのご縁故から 後世 ご祭神にお慶びいただくために酒罇に笹ゆりの花を飾って御祭りをする様になったと言い伝えられています

『古事記』には「伊須気余理比賣命(いけすよりひめのみこと)のお家は 狭井河(がは)の河之(かわべ)にありました」〈現在の狹井神社とされます〉 と記されています

【抜粋意訳】

『古事記』中巻 神武天皇〈伊波礼毘古命〉の后 神の御子 の段



伊波礼毘古命(いわれびこのみこと)が 日向(ひゅうが)坐(ましま)し時 阿多小椅君(あたのおばしのきみ)の妹の阿比良比売(あひらひめを娶(めと)り 生んだ子供は 多芸志美美命(たぎしみみのみこと)次に岐須美美命(きすみみのみこと)の

しかし 更に(おほきさき)〈皇后〉として 人(をとめ)求められた時 大久米命(おおくめのみこと)が申しました

ここに 神の御子と伝えるいます その神の御子といわれる理由は

三島湟咋(みしまみぞくひ)の娘 その名は勢夜陀多良比売(せやだたらひめ その容姿は とても美しいものでした

故に 美和(みわ)の大物主おほものぬしのかみ)が これを見て感じ
その美人の大便をするときに 丹塗矢(にぬりや赤い塗矢化(な)りて その厠(かわや)の水が流れる溝に流れて 美人の陰部を突きました
その美人はき 立ち走りました
そして その矢を持って 床に置くと 矢はたちまち麗しい壮夫(おとこ)に成りました
その美人を娶(めと)り生んだ子供が「富登多多良伊須須岐比命(ほとたたらいすすきひめのみこと)」別名を「比売多多良伊須気余理比ひめたたらいすけよりひめ)」と言う
これは ほと〈陰部というを嫌って 後に名を改めたのです

故に そうゆう次第で 神の御子というのです」 申し上げた


ある時 七媛女(ななおとめ〈七人の乙女〉 高佐士野(たかさじので遊んでいる時 伊須気余理比賣(いすけよりひめ)がその中にいた
そこで 大久米命(おほくめのみこと)が伊須気余理比を見て 歌で天皇に申し上げ
大和の國の高佐士野(たかさじの行く 七人女(おとめ)ども 誰をお召しになられます”

この伊須気余理比賣は 孃子たちの前さきに立つておりました
天皇は その孃子たちを御覽になられて 御心に伊須気余理比 最(やさき)に立つていることを知り お歌でお答えになりました
一番先に立てる娘を妻としようか”

ここに大久米命 天皇の仰せを 伊須気余理比伝えました
その時に 伊須気余理比 大久米命(さ)ける利目(とめ)〈イレズミを入れた目〉を見て 不思議に思い歌われた

天地(あめつち)の(ちどり)の千人勝(ちどりまさり)の勇士 どうして 鋭くさける利目(とめ)〈イレズミを入れた目〉なのですか”

と歌いましたから 大久米命が答えて歌う
お孃さんに すぐに逢おうと思利目(とめ)〈イレズミを入れた目〉をしています”

こうし その孃子(おとめ) お仕え申しあげす 奉りました

その伊須気余理比賣命(いけすよりひめのみこと)のお家は 狭井河(がは)の河之(かわべ)にありました

天皇は 伊須気余理比のもとおいでになり 一夜お寢やすみになられた

その河を 狭井河というわけは 河辺に山百合草やまゆりのぐさ)多くありました 山百合草の名を取り 佐韋河(さきがは)名づけた 
山百合草のもとの名は 佐韋サヰ云います


その 伊須気余理比賣 宮中に參した時 天皇のお詠みになつた歌
アシ原のアシの繁つた小屋 スゲのを清らかに敷き 二人で寢た

しかして お生まれになつた御子の名は
日子八井命ひこやゐのみこと
次に 神八井耳命(かむやゐみみのみこと
次に 神沼河耳命(かむぬなかはみみのみこと)の三柱

【原文参照】

『古事記』選者:太安万侶/刊本 明治03年 校訂者:長瀬真幸 国立公文書館デジタルアーカイブhttps://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047416&ID=&TYPE=&NO=画像利用

『古事記』選者:太安万侶/刊本 明治03年 校訂者:長瀬真幸 国立公文書館デジタルアーカイブhttps://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047416&ID=&TYPE=&NO=画像利用

『古事記』選者:太安万侶/刊本 明治03年 校訂者:長瀬真幸 国立公文書館デジタルアーカイブhttps://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047416&ID=&TYPE=&NO=画像利用

『古事記』選者:太安万侶/刊本 明治03年 校訂者:長瀬真幸 国立公文書館デジタルアーカイブhttps://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047416&ID=&TYPE=&NO=画像利用

『万葉集(Manyo shu)〈7世紀前半~759年頃〉』に詠まれる歌

境内には 率川(いざかわを詠んだ万葉歌碑があります

【抜粋意訳】

巻7 雑歌 詠河十六首 (万葉集 1112 作者未詳)

原文 波祢蘰 今為妹乎 浦若三 去来率去河之 音之清左

訓読 はね蘰 今する妹を うら若み いざ率川の 音の清けさ

意訳 まだ はねかづらを刺している 乙女とても若いから いざと誘う その率川(いざかわ)の川音清々しい

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ『萬葉集』刊本 寛永20年[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000045548&ID=M2014100619504988793&TYPE=&NO=画像利用

『日本文徳天皇実録(Nihon MontokuTenno Jitsuroku)〈元慶3年(879年)完成〉』に記される伝承

率川坐大神御子神率川阿波神が並んで神階の奉授が 記されています

【抜粋意訳】

仁寿二年(852)十一月辛丑(9日) の条

特加(ことにくわ)ふ 大和國(やまとのくに)
金峯神に 従三位を

率川坐大神御子神(いつかはにます おほみわの みこのかみ)
狭囲神(さいのかみ)
率川阿波神(いさかはのあわのかみ)に 並びに 授(さづ)く 従五位下

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス 『日本文徳天皇実録』元慶3年(879年)完成 選者:藤原基経/校訂者:松下見林 刊本 ,寛政08年 10冊[旧蔵者]農商務省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047714&ID=M2018040912122716848&TYPE=&NO=

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

【抜粋意訳】

卒川坐大神御子神社 三座

卒川は 伊佐加波と訓べし、
日本紀、開化天皇 元年月丙申朔戊申、遷都于春日之地、是謂卒川宮、卒川、此云伊社箇波」
大神御子は 於保美和乃美古と訓べし、大神の假字の事は、城上郡大神大物主神社の下見るへし、
〇祭神明か也、但し御子の神名は志れず
〇南都子守町に在す、今子守宮と称す、大和志
○古事記神武段 伊須氣余理比売命之家、在狭井河之上云々、其河謂佐葦河由者、於其河邊山由理草多在、故取其山由理草之名、号佐葦河也、山由理草之本名云佐葦也、
〇年中行事秘抄云、南家口伝云、卒川社、右大臣 藤原是公 卿所建立也、光孝天皇 奉寄八十町之勅旨田、又其社南有社、號三枝名神、即 大神名神御子神、件両社在一村相去不幾、今林小路加牟古不社者、神御子之訛乎、
壷井義知云、按三枝神者、是 事代主命 神女媛蹈鞴五十鈴媛命也、綏靖天皇御母也、拠旧事本紀 伊須気余理此売也、但謂卒川社者、與卒川三枝御子社別社也、御子社在率川社西而祀三坐、中御子神、左事代主神、右玉櫛姫、左右父母也、曰ニ之子守神、

神位
文徳実録、仁寿二年十一月辛丑、大和國 率川坐大神御子神 授從五位下、 

祭祀
神祇令集解云、猛夏 三枝祭、謂 率川祭也、・・・・云々

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

【抜粋意訳】

率川坐大神御子(いざかはにます おほみわみこの)神社

祭神
媛蹈韛五十鈴姫命ひめたたらいすずひめのみこと
大國魂神〈おほくにたまのかみ〉
玉櫛姫命たまくしひめのみこと

今按するに〈今考えるに〉
本社祭神明細帳に記せるは右の如くなるを 縣の注進状に 稚日本大日日命(わかやまとおほひひのみこと)伊邪那岐命(いざなぎのみこと)住吉大神(すみよしのおほかみ)と云りいみじき誤りなれば取らず
其れは 仁安中に記せる率川神社記に大神氏家牒曰 小治田豊浦宮(をはりたのとようのみや)御宇天皇の推古御世建に大神御子神(おほみわのみこのかみ)媛蹈韛五十鈴姫命宮を 於 春日率川邑(かすがのいざかはむら)本の名は狭井川邑(さいかはむら) 君白堤(おおみわのきみしらつつみ)奉斎(いつきたてまつり)云々
養老年中 左大臣 藤史建子守 御母は三島溝杭耳之女玉櫛姫 狭井神さいのかみ)大己貴命の荒魂 大國魂命 両神社を奉斎(いつきたてまつり)為とあるは 正しき証拠なるが 上に坪井義知が説に この神を子守神と云は 御子神を中に置きて 左右に父母神を祭れる故なりと云もいと由ありて 聞ゆれば今はこれに従へり

神位 文徳天皇 仁寿二年十一月辛丑 大和國 率川坐大神御子神 授從五位下

祭日
社格 (春日神社 摂社を十二年十月 大神神社摂社へ改正す)
所在 奈良子守町

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155

『大和志料(Yamato shiryo)』〈大正3年(1914)〉に記される伝承

率川坐大神御子神社と率川阿波神社について記しています
絵地図には 阿波神社の古跡も載っています

【抜粋意訳】

率川坐大神御子(いざかはにます おほみわみこ)神社 附 阿波神社

奈良市本子守町にあり。
延喜式神名帳に「率川坐大神神御子神社 三座」と見ゆる即ち是
俗に 子守(こもり)社と称す。又 その祭義に依り三枝(さいくさの)神とも称せり。
率川の一名を子守川と云ひ、社地を本子守と云うも 皆 社名に因めるのみ。
中殿は 媛蹈韛五十鈴姫命ひめたたらいすずひめのみこと
左殿は 玉櫛姫命たまくしひめのみこと)即ち 子守神
右殿は 大己貴荒魂命 即ち 狭井神さいのかみ)を祭る、

五十鈴姫は 大神大物主命(おほみわ おほものぬしのみこと)の御子なり、
故に大神御子神と称す。

推古天皇 勅して 大神御子神ノ社殿をこの所に建て、大三輪君白堤(おおみわのきみしらつつみ)をして これを祭らしめ給う。即ち是、当社の創祀にして、養老中に至り藤原不比等、子守(こもり)狭井(さい)の二神を その左右に斎ひ祭る、子守の称蓋しここに起る、言ふは二神 左右に座し その子を擁護するの義なり、
その率川阿波神社は 率川の若宮、又 三枝御子社と称し事代主命を祭り、宝亀中 藤原是公の阿波国より勧請する所なり。

 当社は もと山邊郡 大倭神社の別社たりしを以って かの社 仁安中の注進状には 率川社記を これが付録となせり、後、大神神社の別社に属せり、故に嘉禄二年勧作の大三輪三社鎮座次第には これを春日三枝神社と称し 別宮小社の部に収めたり。所謂 大倭社注進状に付録したる当社記は左の如し。

・・・・・云々

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『大和志料』著者 奈良県 編 出版年月日 大正3年 出版者 奈良県教育会https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950813

国立公文書館デジタルコレクション『大和志料』著者 奈良県 編 出版年月日 大正3年 出版者 奈良県教育会https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950813

国立公文書館デジタルコレクション『大和志料』著者 奈良県 編 出版年月日 大正3年 出版者 奈良県教育会https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950813

国立公文書館デジタルコレクション『大和志料』著者 奈良県 編 出版年月日 大正3年 出版者 奈良県教育会https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950813

国立公文書館デジタルコレクション『大和志料』著者 奈良県 編 出版年月日 大正3年 出版者 奈良県教育会https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950813

国立公文書館デジタルコレクション『大和志料』著者 奈良県 編 出版年月日 大正3年 出版者 奈良県教育会https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950813

国立公文書館デジタルコレクション『大和志料』著者 奈良県 編 出版年月日 大正3年 出版者 奈良県教育会https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950813

国立公文書館デジタルコレクション『大和志料』著者 奈良県 編 出版年月日 大正3年 出版者 奈良県教育会https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950813

国立公文書館デジタルコレクション『大和志料』著者 奈良県 編 出版年月日 大正3年 出版者 奈良県教育会https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950813

国立公文書館デジタルコレクション『大和志料』著者 奈良県 編 出版年月日 大正3年 出版者 奈良県教育会https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950813

国立公文書館デジタルコレクション『大和志料』著者 奈良県 編 出版年月日 大正3年 出版者 奈良県教育会https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950813

率川坐大神御子神社(奈良市本子守町)に (hai)」(90度のお辞儀)

Please do not reproduce without prior permission.

大神神社(桜井市三輪)の・境内社・境外社 の記事を見る

一緒に読む
大神神社(桜井市三輪)摂社(せっしゃ)・末社(まっしゃ)・別宮(べつぐう)巡り

〈三輪山を〈御神体〉とする大和國一之宮〉゛大神神社(おほみわじんじゃ)゛奈良県桜井市三輪に鎮座は 日本で最も古い神社の一つで 摂社(せっしゃ)・末社(まっしゃ)の数も非常に多く 本社域と参道の南北に分けて表示して 分かりやすいように記載しています 各々の記事をクリックすると 各神社の詳細が確認できます

続きを見る

大和国 式内社 286座(大128座(並月次新嘗 就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)について に戻る

一緒に読む
大和国 286座(大128座(並月次新嘗就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)

大和国(やまとのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 大和國の286座(大128座(並月次新嘗 就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)の神社のことです

続きを見る

  • B!

おすすめ記事

1

世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」のクライテリア(iii)として「古代から今日に至るまで山岳信仰の伝統を鼓舞し続けてきた 頂上への登拝と山麓の霊地への巡礼を通じて 巡礼者はそこを居処とする神仏の霊能を我が身に吹き込むことを願った」と記されます

2

出雲國(izumo no kuni)は「神の國」であり 『出雲國風土記〈733年編纂〉』の各郡の条には「〇〇郡 神社」として 神祇官の所在する社〈官社〉と神祇官の不在の社を合計399社について 神社名の記載があります 『出雲國風土記 神名帳』の役割を果たしていて 当時の出雲國の神社の所在を伝えています

3

大国主神(おほくにぬしのかみ)が 坐(ましま)す 古代出雲の神代の舞台へ行ってみたい 降積った時を振り払うように 神話をリアルに感じたい そんな私たちの願いは ”時の架け橋” があれば 叶うでしょう 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台は 現在の神社などに埋もれています それでは ご一緒に 神話を掘り起こしましょう

4

出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷に於いて 出雲国造が 新たにその任に就いた時や 遷都など国家の慶事にあたって 朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

5

出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉として 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

6

宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

7

行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

8

對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています