実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

稲荷神社(上里町八町河原)

稲荷神社(いなりじんじゃは 中世後期の創建を伝え 宝徳年中1449-1452天文年中1532-1555天正年間(1573-1592)の勧請と諸説あります 延喜式内社ではないだろうか とも伝わっていますが これは式内社の゛稲実(いなみ)゛と゛稲荷(いなり)゛の音が通じているための誤りであろうとされています

 

 1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

 【神社名(Shrine name

稲荷神社(Inari shrine

 通称名(Common name)

 【鎮座地 (Location) 

埼玉県児玉郡上里町八町河原2266

  (Google Map)

 【御祭神 (God's name to pray)】

 《主》天照大神,伊弉諾尊,伊弉冉尊,大物主命,倉稲魂命,誉田別尊,罔象女神,菊理媛命,豊受姫命,加具土命,菅原道真

 【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

 【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社〈参考〉

【創  (Beginning of history)】

 六十二回伊勢神宮式年遷宮記念

 稲荷神社 御由緒

 上里町八町河原(はっちょうがわら)二二六六

 御祭神
・倉稲魂命 ・誉田別尊 ・罔象女神 ・菊理媛命
・伊諾尊 ・伊冉尊 ・天照大御神 ・豊受姫命
・迦具土命 ・大物主 ・菅原道真公

 縁起(歴史)
 当社は八町河原の小字の一つである本村の北端に鎮座する。創建年代は、児玉郡誌に宝徳年中西一四四九-五二)郡村誌に天文年中西一五三二-五五)風土記稿には天正年間(西一五七三-九二)とそれぞれ載せられており、遅くとも中世後期には勧請されたことをうかがわせる。鎮座地については、郡村誌に「往昔は鳥川の畔(ほとり)にあり、其後安政己未年(西一八五九)月中洪水に罹(かか)り社地崩せり、同年十一月本村の中央に仮宮建立遷座す」と記されている。

 本殿には、「稲荷大明神」「享保己亥(西一七一九)霜月吉祥日京稲荷社愛染法院暁雄」と墨書された神璽筥(しんじばこ)が奉安されており、京都の伏見稲荷神社から拝受したことが知られる。

 明治四〇十三日、八幡神社(植竹)、水神社(水神前)、白山神社(前河原)及び境内の神明愛宕、琴平、北野の各神社を合祀している。

 本殿右の大欅の元には、寛永年(西一六二七)上州那波之郡、八町河原之持と刻まれた石祀があり、その他境内には寛永年建立の雷電神社や江戸期に栄えた八丁河原の舟運利用の永の神である大杉神社などが祀られている。

 □御祭礼
・春祭(四月三日)・八坂祭(七月十五日)
・秋祭(十一月三日)

現地案内板より

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【由  (History)】

 稲荷神社(いなりじんじゃ)

 所在地 神里町八丁河原四六八

  稲荷神社の祭神は、倉稲魂命、誉田別尊、罔象女神、菊理媛命、伊弉諾尊、伊弉冉尊、天照大御神、豊受命、迦具土命、大物主命、菅原道真公である。

 当社の創立は、宝徳年間(一四四九一四五二)といわれ、天文二年(一五三三)に再建され、元禄年(一六九六)に正一位稲荷大明神の神階を授けられたと伝えられている。
 その後、寛保二年(一七四二二月七日、宮司関口和泉守が京都の卜部家(うらべけ)より神道の裁許を賜ったという。また、安政年(一八五六八月大洪水で流失、同年十一月に仮宮が建てられた。

 明治四〇二月十三日、八幡神社(植竹)、水神社(水神前)、白山神社(前河原)及び境内の神明、愛宕、琴平、北野の各神社を合祀している。

 本殿右の大欅の元には、寛永年(西一六二七)上州那波之郡、八町河原之持と刻まれた石祀があり、その他境内には寛永年建立の雷電神社や江戸期に栄えた八丁河原の舟運利用の永の神である大杉神社などが祀られている。

昭和六十一年三月 埼玉県 神里町

拝殿前の案内板より

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神社の境内 (Precincts of the shrine)】

由緒に〈大欅の元には、寛永年(西一六二七)上州那波之郡、八町河原之持と刻まれた石祀があり〉とり この地が かつて上州〈上野國〉であったことを示しています

八坂神社《主》素盞嗚尊,別雷神,大物主櫛甕玉命
 雷電神社《主》別雷命(わけいかづちのみこと)

寛永4年(1627)4月村民持ちにより創建 文政7年(1824)洪水社地を失い 字前河原に遷座 明治40年に当社の境内社となる

 大杉神社《主》大物主命(おおものぬしのみこと)

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

 この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

 この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

 『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

 延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

  [旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

 [旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)武蔵國 44座(大2座・小42座)

 [旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)賀美郡 4座(並小)

 [名神大 大 小] 式内小社

 [旧 神社 名称 ] 今木青坂稲實荒御魂神社
[ふ り が な ](いまき あをさか いなみあらみたまの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Imaki awosaka inamiaramitama no kamino yashiro)

 【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

 延喜式内社 武蔵國 賀美郡 4座(並小)について

 延喜式内社 武蔵國 賀美郡 4座(並小)について その所在は4社ともに確証がなく 尚且つ明治期の合祀によって それぞれが入り乱れて論社となっています それぞれの論社を参照

長幡部神社(なかはたへの かみのやしろ)

・長幡部神社(上里町長浜)

一緒に読む
長幡部神社(上里町長浜)

長幡部神社(ながはたべじんじゃ)は 延喜式内社 武蔵國 賀美郡 4座(並小)のすべての論社となっています 創建年代は不詳で 此の地域に進出した長幡部氏〈高度な機織り技術を持った渡来系氏族〉が 神流川南岸の字宮の西的場に機織りの神゛天羽槌雄命゛を祀ったことが起源と伝わり 天永元年(1110)洪水のため社地が流亡し現在地に遷座と伝えています

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今城青八坂稲實神社(いまき あを やさか いなみの かみのやしろ)

・天神社(上里町五明)

一緒に読む
天神社(上里町五明)

天神社(てんじんしゃ)は 延喜式内社 武蔵國 賀美郡 今城青八坂稲實神社(いまき あをやさか いなみの かみのやしろ)の論社です 創建年代は不詳ですが 社名の起源について゛今城(いまき)゛とは 此の地域に進出した渡来系氏族 長幡部氏〈高度な機織り技術を持った今来漢人(いまきかんじん)〉が 当初の居住地゛大和国 今来郡゛から移住したもので ゛稲實(いなみ)゛は 稲霊を祀ったことによるとされます

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・熊野神社(神川町八日市)

一緒に読む
熊野神社(神川町八日市)

熊野神社(くまのじんじゃ)は 延喜式内社 今城青八坂稲實神社(いまき あをやさか いなみの かみのやしろ)の論社の一つです 口碑によれば 当社は村内 字 今城(いまき)から今の森下の地に遷座されたと伝えられ かつては 今城の社名を号していたことを窺わせます 神社に奉納される゛八日市の獅子舞゛は 神川町指定民俗文化財となっています

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・阿保神社(神川町元阿保)

一緒に読む
阿保神社(神川町元阿保)

阿保神社(あぼじんじゃ)は 村老の伝に「大古、阿保人上(にんじょう)武蔵介の建立せし所なり、其後阿保次郎實光、当国府中六所明神を移し合祀せしと云。社名は今城青坂稲實(いまきあおさかいなみ)明神なりと言伝はるを記す。古社なるべし。」とあり 阿保は゛あお゛とも読み 今城青三社の゛青゛と通じ 式内論社となっています

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・七本木神社(上里町七本木)
〈七本木神社に合祀 榛名大神社 

一緒に読む
七本木神社(児玉郡上里町七本木)〈延喜式内社論社〉

七本木神社(しきほんぎじんじゃ)は 七本木村の鎮守 八幡神社(金井家〈新田義重の後裔〉邸内社)に 明治42年(1909)村社(7社)と境内社を合祀して 社名改称がなされ 合祀中の一社゛榛名大神社゛は 延喜式内社 武蔵國 賀美郡の三座゛今城青八坂稲實神社゛゛今木青坂稲實荒御魂神社゛゛今城青坂稲實池上神社゛の論社とされます

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・長幡部神社(上里町長浜)
〈長幡部神社の相殿&合祀 稲荷社(上里町長浜字久保)〉

一緒に読む
長幡部神社(上里町長浜)

長幡部神社(ながはたべじんじゃ)は 延喜式内社 武蔵國 賀美郡 4座(並小)のすべての論社となっています 創建年代は不詳で 此の地域に進出した長幡部氏〈高度な機織り技術を持った渡来系氏族〉が 神流川南岸の字宮の西的場に機織りの神゛天羽槌雄命゛を祀ったことが起源と伝わり 天永元年(1110)洪水のため社地が流亡し現在地に遷座と伝えています

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・皇大神社(上里町長浜神田)
〈長幡部神社に合祀された 稲荷社(上里町長浜字久保)の旧鎮座地〉

一緒に読む
皇大神社(上里町長浜神田)

皇大神社(こうだいじんじゃ)は 口碑によれば この地に゛稲荷社゛があったが 長幡部神社に合祀され 跡地に゛神明社゛が祀られたと云う その後 明治5年 長浜村の村社となり 社号を「皇大神社」と改めたが 明治41年 長幡部神社に合祀され 昭和22年 氏子の希望により旧地のここに遷されたものです かつて合祀された゛稲荷社゛は 式内社 武蔵國 賀美郡の三座〈・今城青八坂稲實神社・今木青坂稲實荒御魂神社・今城青坂稲實池上神社〉の論社でした

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今木青坂稲實荒御魂神社(いまき あをさか いなみあらみたまの かみのやしろ)

・熊野神社(上里町堤)

一緒に読む
熊野神社(上里町堤)

熊野神社(くまのじんじゃ)は 式内社 武蔵國 賀美郡 今城青坂稲實荒御魂神社であると伝わっていますが 証はなく 町内にある他の熊野神社が中世の武士団の信仰と関わりがあり付会ともされますが 本殿のすぐ後ろが 熊野神社古墳(東堤古墳群8号墳)となっていて この古墳を祀る故に熊野神社が勧進される以前に式内社があった可能性を示唆し 式内論社とされています

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・七本木神社(上里町七本木)
〈七本木神社に合祀 榛名大神社〉

一緒に読む
七本木神社(児玉郡上里町七本木)〈延喜式内社論社〉

七本木神社(しきほんぎじんじゃ)は 七本木村の鎮守 八幡神社(金井家〈新田義重の後裔〉邸内社)に 明治42年(1909)村社(7社)と境内社を合祀して 社名改称がなされ 合祀中の一社゛榛名大神社゛は 延喜式内社 武蔵國 賀美郡の三座゛今城青八坂稲實神社゛゛今木青坂稲實荒御魂神社゛゛今城青坂稲實池上神社゛の論社とされます

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・阿保神社(神川町元阿保)に合祀
〈今木青坂稲實荒御魂神社の論社 稲荷神社(
字稲荷宿)を明治43年(1910)阿保神社に合祀

一緒に読む
阿保神社(神川町元阿保)

阿保神社(あぼじんじゃ)は 村老の伝に「大古、阿保人上(にんじょう)武蔵介の建立せし所なり、其後阿保次郎實光、当国府中六所明神を移し合祀せしと云。社名は今城青坂稲實(いまきあおさかいなみ)明神なりと言伝はるを記す。古社なるべし。」とあり 阿保は゛あお゛とも読み 今城青三社の゛青゛と通じ 式内論社となっています

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・長幡部神社(上里町長浜)
〈長幡部神社の相殿&合祀 稲荷社(上里町長浜字久保)〉

一緒に読む
長幡部神社(上里町長浜)

長幡部神社(ながはたべじんじゃ)は 延喜式内社 武蔵國 賀美郡 4座(並小)のすべての論社となっています 創建年代は不詳で 此の地域に進出した長幡部氏〈高度な機織り技術を持った渡来系氏族〉が 神流川南岸の字宮の西的場に機織りの神゛天羽槌雄命゛を祀ったことが起源と伝わり 天永元年(1110)洪水のため社地が流亡し現在地に遷座と伝えています

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・皇大神社(上里町長浜神田)
〈長幡部神社に合祀された 稲荷社(上里町長浜字久保)の旧鎮座地〉

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皇大神社(上里町長浜神田)

皇大神社(こうだいじんじゃ)は 口碑によれば この地に゛稲荷社゛があったが 長幡部神社に合祀され 跡地に゛神明社゛が祀られたと云う その後 明治5年 長浜村の村社となり 社号を「皇大神社」と改めたが 明治41年 長幡部神社に合祀され 昭和22年 氏子の希望により旧地のここに遷されたものです かつて合祀された゛稲荷社゛は 式内社 武蔵國 賀美郡の三座〈・今城青八坂稲實神社・今木青坂稲實荒御魂神社・今城青坂稲實池上神社〉の論社でした

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・稲荷神社(上里町八町河原)〈参考〉

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稲荷神社(上里町八町河原)

稲荷神社(いなりじんじゃ)は 中世後期の創建を伝え 宝徳年中(1449-1452)天文年中(1532-1555)天正年間(1573-1592)の勧請と諸説あります 延喜式内社ではないだろうか とも伝わっていますが これは式内社の゛稲実(いなみ)゛と゛稲荷(いなり)゛の音が通じているための誤りであろうとされています

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今城青坂稲實池上神社(いまき あをさか いなみの いけかみの かみのやしろ)

・今城青坂稲実池上神社(上里町忍保)

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今城青坂稲実池上神社(上里町忍保)

今城青坂稲実池上神社(いまき あおさか いなみいけがみ じんじゃ)は 社伝によれば 和銅四年(711)に勧請と伝わる 延喜式内社 今城青坂稲実池上神社(いまき あをさか いなみの いけかみの かみのやしろ)の論社です 社名の「いまき」は今城すなわち新来の意で 渡来系氏族が当地に高度な稲作技術を導入し゛稲魂゛を祀ったものとされ 江戸時代には゛稲荷社゛と呼ばれていました

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・今城青坂稲実池上神社(神川町関口)
〈天正5年(1577)3月 元阿保村と関口村が分立の際 六所社(現 阿保神社)の裏当たりに鎮座していた今城青坂稲實池上神社の論社゛丹生明神゛を関口村字池上に遷座し 関口村の鎮守としたもの〉

一緒に読む
今城青坂稲實池上神社(神川町関口)

今城青坂稲実池上神社(いまきあおさかいなみいけがみ じんじゃ)は 天正5年(1577)3月 元阿保村と関口村が分立の際 関口村の鎮守として 現在地(関口字池上)に遷座しました もとは阿保神社の裏に鎮座していたと伝わる式内社 今城青坂稲實池上神社(いまき あをさか いなみの いけかみの かみのやしろ)の論社゛丹生明神(にうみょうじん)゛でした

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・阿保神社(神川町元阿保)の境内
〈天正5年(1577)3月 元阿保村と関口村が分立の際 関口村の鎮守として遷座した
今城青坂稲實池上神社の論社゛丹生明神゛の旧鎮座地に石祠を祀奉り 境内に再建(慶應三年)〉

一緒に読む
阿保神社(神川町元阿保)

阿保神社(あぼじんじゃ)は 村老の伝に「大古、阿保人上(にんじょう)武蔵介の建立せし所なり、其後阿保次郎實光、当国府中六所明神を移し合祀せしと云。社名は今城青坂稲實(いまきあおさかいなみ)明神なりと言伝はるを記す。古社なるべし。」とあり 阿保は゛あお゛とも読み 今城青三社の゛青゛と通じ 式内論社となっています

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・七本木神社(上里町七本木)
〈七本木神社に合祀 榛名大神社〉

一緒に読む
七本木神社(児玉郡上里町七本木)〈延喜式内社論社〉

七本木神社(しきほんぎじんじゃ)は 七本木村の鎮守 八幡神社(金井家〈新田義重の後裔〉邸内社)に 明治42年(1909)村社(7社)と境内社を合祀して 社名改称がなされ 合祀中の一社゛榛名大神社゛は 延喜式内社 武蔵國 賀美郡の三座゛今城青八坂稲實神社゛゛今木青坂稲實荒御魂神社゛゛今城青坂稲實池上神社゛の論社とされます

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・長幡部神社(上里町長浜)
〈長幡部神社の相殿&合祀 稲荷社(上里町長浜字久保)〉

一緒に読む
長幡部神社(上里町長浜)

長幡部神社(ながはたべじんじゃ)は 延喜式内社 武蔵國 賀美郡 4座(並小)のすべての論社となっています 創建年代は不詳で 此の地域に進出した長幡部氏〈高度な機織り技術を持った渡来系氏族〉が 神流川南岸の字宮の西的場に機織りの神゛天羽槌雄命゛を祀ったことが起源と伝わり 天永元年(1110)洪水のため社地が流亡し現在地に遷座と伝えています

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・皇大神社(上里町長浜神田)
〈長幡部神社に合祀された 稲荷社(上里町長浜字久保)の旧鎮座地〉

一緒に読む
皇大神社(上里町長浜神田)

皇大神社(こうだいじんじゃ)は 口碑によれば この地に゛稲荷社゛があったが 長幡部神社に合祀され 跡地に゛神明社゛が祀られたと云う その後 明治5年 長浜村の村社となり 社号を「皇大神社」と改めたが 明治41年 長幡部神社に合祀され 昭和22年 氏子の希望により旧地のここに遷されたものです かつて合祀された゛稲荷社゛は 式内社 武蔵國 賀美郡の三座〈・今城青八坂稲實神社・今木青坂稲實荒御魂神社・今城青坂稲實池上神社〉の論社でした

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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

 JR高崎線 神保原駅から県道143号を北上 約2.6km 車6分程度

 烏川が利根川に合流する辺りの南岸に位置します

土手に上がると 大河の合流地点なので 広大な河川敷が広がり上州の山々(赤城山・榛名山等)がよく見えます 180度広すぎて写真には納まりません

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畑の中に鎮守の杜が見えています

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稲荷神社(上里町八町河原)に参着

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一礼をして鳥居をくぐり

拝殿にすすみます 右手には 御神木

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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拝殿の奥には 幣殿・本殿の覆屋か一体となっています

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社殿に一礼をして参道を戻ります

 神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承

 式内社 長幡部神社の所在について 下郷長濱村〈現 長幡部神社(上里町長浜)

 式内社 今城青八坂稲實神社・式内社 今木青坂稻荒御魂神社・式内社 今城青坂稻池上神社について 三社を合祭て榛名大明神〈現 七本木神社(上里町七本木)に合祀の榛名宮神社〉と記しています
・式内社 今木青坂稻實荒御魂神社・式内社 今城青坂稻實池上神社について 青坂は゛青八坂゛が正しく 八の字が抜けている と記しています

 【抜粋意訳】

長幡部(ナガタヘ)神社

 古事記 日子坐王子神大根王者ーーー連之祖
式社考 下郷長濱村にあり

 今城青八坂稲實(イマギアヲヤサカイナミ)神社

大嘗會式 稜穂田稲実 卜部

 旧  事 奉献 天瑞立今木 又云 五十櫛 亦曰 今木刺饒於布都主劔
万葉 集 五十串立神酒座奉
式社 考 本長濱村今城云々の三社を合祭て榛名大明神と称す 太田氏式社細見録に見えたり

 今木青坂稻荒御魂(イマキアヲサカイナミアラミタマ)神社

 〇信友云 青下脱八字

 今城青坂稻池上(イマキアヲサカイナミイケガミ)神社

 〇信友云 青下脱八字

 【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用

『新編武蔵風土記稿(Shimpen Musashi fudokiko)』文政13年(1830)完成 に記される伝承

 稲荷神社(上里町八町河原)ついて 八町河原村にあり゛稲荷社゛と呼ばれている 天正年間(1573-1592)の勧請である と記しています

 【抜粋意訳】

新編武蔵風土記稿 巻之二百四十五 加美郡之三 領名未勘 八町河原

 稲荷社

 鎮守なり 天正の頃 勧請すと云 宮守を關口和泉と云 先祖は要人とて堤もその頃の人なりと云 観音寺持 下七社同じ
〇雷電社〇水神社〇天神社〇神明社〇愛宕社〇大杉社〇八幡社

 【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『新編武蔵風土記稿』 著者:間宮士信[数量]265巻80冊[書誌事項]活版 ,明治17年 , 内務省地理局[旧蔵者]太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002820&ID=M2017051812110439332&TYPE=&NO=

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

 式内社 長幡部神社の所在について 長濱下郷村〈現 長幡部神社(上里町長浜)

 式内社 今城青八坂稲實神社の所在について 七本木村〈現 七本木神社(上里町七本木)に合祀の榛名宮神社

 式内社 今木青坂稻荒御魂神社の所在について 七本木村〈現 七本木神社(上里町七本木)に合祀の榛名宮神社 

 式内社 今城青坂稻池上神社の所在について 七本木村〈現 七本木神社(上里町七本木)に合祀の榛名宮神社

と記しています

【抜粋意訳】

長幡部神社

 長幡部は 奈賀波多倍と訓べし
○祭神 長幡部連祖歟、(地名紀、祭神比咩大神と云、)
〇長濱下郷村に在す、(地名記)今長幡五社宮と称す、証考

例祭  日、
〇古事記、(開化段)日子坐王之子大根王者、長幡部連之祖、

 類社
常陸國 久慈郡 長幡部神社

 今城青八坂稲實神社

 今城青八坂稲實は 伊麻岐阿袁夜佐加伊奈美と訓べし

祭神 稚産靈尊地名記
七本木村に在す、地名記、証考

 今木青坂稻荒御魂神社

 今木は 前に同し、青坂は 佐加と訓べし、疑ふらくは、前に同じく、青八坂なる八の字を脱せるか、
は前に同じ、荒卿魂は阿良美多麻と訓べし、

○祭神 天児屋命、此咩大神、地名記

七本木村に在す、同上

例祭  日、

 今城青坂稻池上神社

 今城青坂稲 前に同、池上は 伊介賀美と訓ベ

○祭神 伊吹戸主命、地名記

 〇七本木村に在す、同上
例祭  日、

 前件三社、
太田氏式社細見録には、本長瀬村に合祭して榛名大明神と称すと云り、
地名記も、村名はかはれども、同所鎮坐の由は同じ、さて祭神の説は、記のまゝに載すといへども疑はし、猶考ふべし、

 【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

 『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

 式内社 長幡部神社の所在について 下郷長濱村〈現 長幡部神社(上里町長浜)

 式内社 今城青八坂稲實神社は「八坂」となっていて
・式内社 今木青坂稻荒御魂神社・式内社 今城青坂稻池上神社について 「八」の文字が抜けている 本来は「八坂」であると記しています

 【抜粋意訳】

長幡部(ナガタベノ)神社

  下郷長濱村にあり、長幡部五社といふ、巡拝舊祠記、神名帳土代、
蓋 長幡部連の祖神 大根王を祀る、斟酌古事記、延喜式、

 今城青八坂稲實(イマキアヲヤサカイナミノ)神社

 今木青坂稻荒御魂(イマキアヲサカイナミノアラミタマノ)神社

今城青坂稻池上(イマキアヲサカイナミノイケガミノ)神社

〇按 已上二座、坂の上疑くは八字を脱せり

 【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神祇志料』https://dl.ndl.go.jp/pid/815490著者 栗田寛 著 出版者 温故堂 出版年月日 明治9[1876]

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

 式内社 長幡部神社について 長濱村〈現 長幡部神社(上里町長浜)

 式内社 今城青八坂稲實神社について 社名のみ記載

式内社 今木青坂稻荒御魂神社について 社名のみ記載

式内社 今城青坂稻池上神社について 忍保村〈現 今城青坂稲実池上神社(上里町忍保)

と記していますが 参考として論社を挙げています

實神は 八日市村の熊野権現〈現 熊野神社(神川町八日市)
實神は 七本木村〈現 七本木神社(上里町七本木)
荒御魂神社は 七本木村の榛名明神〈現 七本木神社(上里町七本木)
池上神社は  伊吹戸主命にて同所〈現 七本木神社(上里町七本木)

 この三社を本長濱村に合わせ祭りて榛名大明神と称す〈現 七本木神社(上里町七本木)に合祀の榛名宮神社
三座とも長幡部神社の相殿〈現 長幡部神社(上里町長浜)の相殿

関口村の丹生〈現 今城青坂稲実池上神社(神川町関口)〉 七本木村の榛名〈現 七本木神社(上里町七本木)に合祀の榛名宮神社〉 忍保村の稲荷〈現 今城青坂稲実池上神社(上里町忍保)

 【抜粋意訳】

長幡部神社

 祭神
今按
武藏式社道程命附に祭神 姫大神とあり
神社覈録に地名記を引るにも同じ
されど 長幡部は 古事記に 日子坐王之下大根王者 長幡部連之祖とあるに據らば神 大根王を祭れる歟
又 常陸久慈郡に長幡部神社あり 常陸風土記 古老曰 珠賣美萬命 自天降時為織御衣從而降之神名綺日安命 本自筑紫國 日向二神之峰至 三野國引津根之丘後 及 美麻貴天皇之世 長幡部造祖 多弖命 避 自三野遷于久慈造立機殿 初織之其所 織服自成衣装更無裁縫い謂之内幡とあるによる時は綺日安命 或は多弖命を祭れるか こは皇別の長幡部とは出自異にして神別の氏人 なるべし

 祭日
社格 村社
所在 長濱村(児玉郡長幡村大字長幡)

 今城青八坂稲實神社

 祭神
祭日
社格
所在

 今木青坂稻荒御魂神社

 祭神
祭日
社格
所在

 今城青坂稻池上神社

 祭神
祭日
社格 村社(郷社)
所在 忍保村(児玉郡神保原村大字忍保)

 
岩鼻縣神社考に 武蔵國四十座命附に實神八日市村の熊野権現 素戔嗚命 今本書を考るに實神社 祭神 稚産霊命  七本木村とあリ然るを八日市村と云るは誤りなるべし
荒御魂神社は 七本木村の榛名明神 天兒屋根命
池上神社は  伊吹戸主命にて同所にありとみえ
細見録に この三社を本長濱村に合わせ祭りて榛名大明神と称す
又 三座とも長幡部神社に相殿にますとも
又 関口村の丹生 七本木村の榛名 忍保村の稲荷とも云ひて
其所詳かならず
而 関口村なるは思ひ捨がたく 忍保村なるは池上神社ならんと云り
故 今姑く之に從へり 武蔵演露 に求凉雑記を引いて本門寺境内の七面社 是 往古の池上神社なるべしとあれと 忍保村なるは今も池上明神とも云へば七面社と云よりは勝りてきこゆ

 【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155

稲荷神社(上里町八町河原) (hai)」(90度のお辞儀)

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武蔵國 式内社 44座(大2座・小42座)について

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