生根神社(いくねじんじゃ)は 創建年代は不詳ですが 社伝では「住吉大社が当地に御鎮座の以前より奉祀せられて居り 古伝によれば少彦名命は造酒の祖神であり 神功皇后も当社で酒を造り住吉三神に献ぜられた」とあり 『延喜式神名帳927 AD.』所載 摂津國 住吉郡 生根神社(大月次新嘗)(いくねの かみのやしろ)とされています
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
生根神社(Ikune shrine)
【通称名(Common name)】
・奥の天神(おくのてんじん)
【鎮座地 (Location) 】
大阪府大阪市住吉区住吉2丁目3番15号
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》少名彦命(すくなひこなのみこと)
※ 活津彦根命とする説あり
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・病気平癒・健康増進
・厄払い
・学業向上
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
・ 江戸時代~明治五年(1872年)の間は 住吉大社の摂社
【創 建 (Beginning of history)】
式内大社 奥の天神 生根神社
御由緒略記
御祭神 少彦名命
御由緒
御創立は不詳なるも延喜式の神名帳(十世紀前半)において当時の式内官幣大社に列し古来有名大社であった。豊臣時代には淀殿の崇敬社にて片桐且元が奉行じて現存の御本殿が寄進された。古伝によれば少彦名命は造酒の祖神であり、神功皇后も当社で酒を造り住吉三神に献ぜられたとある。
又別名「奥の天神」は住吉大社の奥の天満宮を称したとも云われ、一説には沖の天津神(少彦名命)から出た名称とも云われている。建造物
御本殿(大阪府指定 有形文化財)
完全なる桃山時代の建築様式を残し、切妻千鳥破風木造桧皮葺極彩色の建造にて、慶長五~七年頃淀殿の指示により建造された。拝殿
昭和十一年に旧殿を廃し、総木曽桧材にて桃山時代の建築様式を取り入れた豪華な新殿に造営し直した。其の美術的な真価は後世において重要視されて行くものである。天満宮
一間社流れ造で現在の建物は江戸時代後期の建造物である。殿内には御祭神菅原道眞公の御神像が安置されている。室町時代天台法主融円律師作の在銘の国宝級の御神像である。紅梅殿
元住吉大社神宮寺の廻廊の一部を明治初年当社に移し、昭和初期に集会所に改造する。西側の石垣は幕末期の「住吉土佐藩陣屋」より移築されたものである。境内旧跡
「帆柱観音堂跡」神功皇后御乗船の帆柱で刻まれた仏像を帆柱観音と称し、その尊像を祭祀していた御堂の礎石が境内に残されている。
「神明穴立石」御本殿東側に有り、「何首鳥」(薬草名)と刻し霊石とされている。保存樹木
境内の御神木は昭和四十三年に大阪市より保存樹木として指定されている。氏子区域
住吉小学校下、大領小学校下、東粉浜小学校下、粉浜小学校下、北粉浜小学校下、墨江小学校下一部、東加賀屋、南住吉一丁目、以上約二万余戸、玉出生根神社は、明治初期に当社より御分神されたものである。現地案内板より
【由 緒 (History)】
由緒
御祭神
少彦名命祭 日
10月9日(例大祭)7月19日(夏渡御祭)沿 革
当社の御創立は不詳なるも、住吉大社が当地に御鎮座の以前より奉祀せられて居り(日本書紀では1900百年前)、
延喜式の神明帳(約1300年前に制定)においても当時の式内官幣大社に列し年4度の官幣に預るとある。古来有名大社であったと文献にも多く残っている。
特に豊臣時代には淀君の崇敬社にて、片桐東市正勝元が奉行して現存の御本殿が寄進されている(現大阪府重要文化財文、文部省重重要文化財申請中)。
徳川時代においても、徳川綱吉将軍が修理を命じ奉幣している。(住吉大社造営記)
古来住吉郷の郷社だったが、徳川時代に神宮寺と倶に住吉大社の管理下に入り、後明治五年、元の如く(住吉郷現住吉区全体)の郷社に戻り、現在においては終戦後社格を廃す(全国神社)こととなったが、昨今の夏祭は盛大であり近郷より10万人近い社参がある。
更らに境内社天満宮は、室町後期の建造と推定され、御祭神菅公の木製御神像は、文明14年、天台法主融円律師作の在銘の国宝級の御神体を安置している。これらも近く国の指定となるは必至である。
又別名「奥の天神」は、住吉大社の奥の天満宮を称したとも云われ、一節には沖の天津神(少彦名命)から出た名称(筧博士の説)とも云われている。
更らに古伝によれば少彦名命は造酒の祖神であるため、神功皇后も当社で酒を造り住吉三神に献ぜられたとあり、「酒祝(さかほがい)の歌」というのが後世まで残って居て当社では秋の大祭を甘酒祭りと称して郷土の人々が親しんで来ているのもその一つの実証と思考される。
もともと薬の祖神である関係上、古来住吉の淡島明神との別名のもとに信仰者多く、現在においても旧暦3月3日に淡島祭を行っている。建造物
御本殿
大阪府指定 重要文化財。完全なる桃山時代の建築様式を残し、切妻千鳥破風木造檜皮葺極彩色の建造にて、慶長5~7年頃淀君の指令により建設されたものである。
拝殿
総木曽檜材にて桃山時代の建築様式を取り入れ、工事も2ケ年に亘って行なわれ、其の美術的な真価は後世迄も重要視されて行くものである。
天満宮 (境内社)
前述由緒書に明記せる通り室町後期の建築様式である。
紅梅殿
元住吉大社神宮寺の回廊(慶長初年の建造物)の一部を、明治初年当社に移し絵馬所となしたるも、昭和初期に集会所に改造す。
其他境内末社4社、及び氏子参集所、神庫、社務所等は何れも明治以降にて新築又は氏地中より移転したものである。主なる祭礼
例祭(10月8日・9日)、夏大祭(7月18日・19日[渡御式])、新年祭、紀元祭、節分祭、淡島祭(新暦4月3日)、秋思祭(10月25日)、月並祭(毎月9日)、七五三祈祷(11月13日・14日・15日)、除夜祭(12月31日)氏子区域
住吉小学校下、大領小学校下、東粉浜小学校下、西粉浜小学校下、北粉浜小学校下、加賀屋小学校下、住吉川小学校下、墨江小学校下、以上約2万余戸。境内旧跡
現拝殿東側にある礎石(23箇)は明治初年まで建立されていた、帆柱観音堂の跡であって、この観音堂内の仏像は帆柱観音と称して神功皇后御乗船の帆柱を以つて刻みしものと伝えられている(現在当社に無し)。
又紅梅殿西側の石崖は土佐陣屋の石崖の一部を当社に移せしものである。
「神明穴立石」御本殿東側に有り、少彦名命が海外に行かれし時の浜の石をここに運び「何首烏」と刻し(薬草名)霊石とされし時代もあり、一夜のうちに和歌浦より住吉浜に来たりし妙石なりとの伝説も今は古老の人のみが知る仮説である。
尚境内樹木、もち其他500年以上(大阪市指定)数本あり。
玉出生根神社は明治始年に当社より御分神されたものである。※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
由緒
当社の創立時期は不明であるが、延喜式神名帳(西暦927年)に官幣大社として記録されており、 古来より有力な神社であった。
特に豊臣時代には、豊臣秀吉の側室淀殿の崇敬社として、片桐且元が奉行となり現在の御本殿が寄進されている。 (大阪府指定重要文化財)
当社は古くから住吉郷の郷社であったが、江戸期に神宮寺とともに住吉大社の管理となり、明治5年に再び郷社に戻り現在は大阪市住吉区と住之江区に連なる地域の氏神様として多くの氏子崇敬者から信仰されている。
また、別名「奥の天神」(奥天社)は住吉大社の奥の天満宮を称したとも、沖の天津神(少彦名命)から出た名称ともいわれている。 さらに古伝によれば、少彦名命は造酒の祖神であり神功皇后も当社で酒を造り、住吉三神に献ぜられたといわれている。
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・天満宮〈境内の北西隅に南向きに鎮座〉《主》菅原大神〈菅原道真公〉
天満宮由緒略記
境内社天満宮ハ室町後期ノ建造物ト推定サレ御祭神菅公ノ御本像ハ文明十四年天台法主融円律師作ノ在銘アル国宝級ノ御神体ガ安置サル別名奥ノ天神名ハ住吉大社ノ奥ノ天満宮ヲ称シタトモ云ワレテヰマス
勤学の守護神 通称 奥の天神
現地立札より
・天淨稲荷大神〈境内の南西隅(手水舎の脇)に東向きに鎮座〉
境内北東の4つの境内社が南向きに鎮座 向かって左から
・龍王社
・塞神社《主》氏子の祖霊
・種貸社
・稲荷社
・御神木
・御神木のモチノキ
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・生根神社は 江戸時代~明治五年(1872年)の間は 住吉大社の摂社でした
住吉大社の摂社末社の記事をご覧ください
住吉大社(すみよしたいしゃ)の・境内・境外・摂社・末社と要所について
住吉大社(大阪市住吉区住吉)・境内外・摂社・末社について
・住吉大社(大阪市住吉区)摂津国一之宮
住吉大社(すみよしたいしゃ)は 『日本書紀』に神功皇后が三韓征伐の帰路 住吉三神の神託を得て 住吉大神の和魂(にきみたま)を鎮めて祀ったのが創建と記される 全国に2000社余ある住吉神社の総本社で 摂津國一之宮です 延喜式内社 住吉坐神社四座(並 名神大月次相嘗新嘗)(すみのえにます かみのやしろ しくら)です
住吉大社(大阪市住吉区住吉)〈摂津國一之宮〉
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式(Engishiki)』巻1 四時祭上 六月祭十二月准 月次祭
月次祭(つきなみのまつり)『広辞苑』(1983)
「古代から毎年陰暦六月・十二月の十一日に神祇官で行われた年中行事。伊勢神宮を初め三〇四座の祭神に幣帛を奉り、天皇の福祉と国家の静謐とを祈請した」
大社の神304座に幣帛を奉り 場所は198ヶ所と記しています
【抜粋意訳】
月次祭(つきなみのまつり)
奉(たてまつる)幣(みてぐら)を案上に 神三百四座 並大 社 一百九十八所
座別に絁五尺、五色の薄絁各一尺、倭文一尺、木綿二両、麻五両、倭文纏刀形(まきかたなかた)、絁の纏刀形、布の纏刀形各一口、四座置一束、八座置一束、弓一張、靫(ゆき)一口、楯一枚、槍鋒(ほこのさき)一竿、鹿角一隻、鍬一口、庸布一丈四尺、酒四升、鰒、堅魚各五両、腊二升、海藻、滑海藻、雑の海菜各六両、堅塩一升、酒坩(かめ)一口、裹葉薦五尺、祝詞(のとこと)座料短畳一枚、
前一百六座
座別絁五尺、五色薄絁各一尺、倭文一尺、木綿二両、麻五両、四座置一束、八座置一束、楯一枚、槍鋒一口、裹葉薦五尺、
右所祭之神、並同祈年、其太神宮(かむのみや)、度会宮(わたらひのみや)、高御魂神(たかむすひのかみ)、大宮女神(おほみやめのかみ)には各加ふ馬一疋、〈但太神宮、度会宮各加籠(おもつを)頭料庸布一段、〉
前祭五日、充忌部九人、木工一人を、令造供神調度を、〈其監造并潔衣食料、各准祈年、〉祭畢即中臣の官一人率て宮主及卜部等を、向て宮内省に、卜の定供奉神今食に之小斎人(みのひと)を、
供神今食料
紵一丈二尺、〈御巾料、〉絹二丈二尺、〈篩(ふるい)の料、〉絲四両、〈縫篩等料、〉布三端一丈、〈膳部巾料、〉曝布一丈二尺、〈覆水甕料、〉細布三丈二尺、〈戸座襅(へさたまき)并褠料、〉木綿一斤五両、〈結ふ御食(みけ)料、〉刻柄(きさたるつか)の刀子二枚、長刀子十枚、短刀子十枚、筥六合、麁(あら)筥二合、明櫃三合、御飯、粥料米各二斗、粟二斗、陶瓼(すえのさかけ)[如硯瓶以上作之]瓶【瓦+并】(かめ)各五口、都婆波、匜(はふさ)、酒垂各四口、洗盤、短女杯(さらけ)各六口、高盤廿口、多志良加[似尼瓶]四口、陶鉢八口、叩盆四口、臼二口、土片椀(もひ)廿口、水椀八口、筥代盤(しろのさら)八口、手洗二口、盤八口、土の手湯盆(ほん)[似叩戸采女洗]二口、盆(ほとき)四口、堝十口、火爐二口、案(つくえ)十脚、切机二脚、槌二枚、砧二枚、槲四俵、匏廿柄、蚡鰭(えひのはた)槽[供御手水所]二隻、油三升、橡の帛三丈、〈戸の座服の料、冬絁一疋、綿六屯、履一両、〉
右供御の雑物は、各付内膳主水等の司に、神祇官の官人率神部等を、夕暁(よひあかつき)両般参入内裏に、供奉其の事に、所供雑物、祭訖て即給中臣忌部宮主等に、一同し大甞会の例に、
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻2 四時祭下 新嘗祭
新嘗祭(にいなめのまつり)は
「新」は新穀を「嘗」はお召し上がりいただくを意味する 収穫された新穀を神に奉り その恵みに感謝し 国家安泰 国民の繁栄を祈る祭り
式内大社の神304座で 月次祭(つきなみのまつり)に准じて行われ
春には祈年祭で豊作を祈り 秋には新嘗祭で収穫に感謝する
【抜粋意訳】
新嘗祭(にいなめのまつり)
奉(たてまつる)幣(みてぐら)を案上に 神三百四座 並 大社 一百九十八所
座別に 絹5尺 五色の薄絹 各1尺 倭文1尺 木綿2両 麻5両四座置1束 八座(やくら)置1束 盾(たて)1枚 槍鉾(やりほこ)1竿
社別に庸布1丈4尺 裏葉薦(つつむはこも)5尺前一百六座
座別に 幣物准社の法に伹 除く 庸布を
右中 卯の日に於いて この官(つかさ)の斎院に官人 行事を諸司不に供奉る
伹 頒幣 及 造 供神物を料度 中臣祝詞(なかとみののりと)は 准に月次祭(つきなみのまつり)に
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)摂津国 75座(大26座(並月次新嘗・就中15座相嘗祭)・小49座(並官幣))
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)住吉郡 22座(大10座・小12座)
[名神大 大 小] 式内大社
[旧 神社 名称 ] 生根神社(大月次新嘗)
[ふ り が な ](いくねの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Ikune no kamino yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
神功皇后が酒を醸した伝承があり 生根神社と同じ名称を持つ式内社の類社
式内社 大和國 城上郡 忍坂坐生根神社(大 月次 新嘗)(おしさかゐます いくねの かみのやしろ)
・忍坂坐生根神社(桜井市忍阪)
忍坂坐生根神社(おっさかにいますいくねじんじゃ)は 忍坂山(外鎌山)を神体山として遥拝する古い祭祀様式で 本殿を持ちません 天平二年(730)正倉院文書『大倭國正税帳(やまとのくにしょうぜいちょう)』の記録には「生根神」として載る古社で 式内社 大和國 城上郡 忍坂坐生根神社(大月次新嘗)(をしさかにゐます いくねの かみのやしろ)に比定されています
忍坂坐生根神社(桜井市忍阪)
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
現在の大阪城から住吉大社にかけて続く上町台地の南端上にあたり
古代においては この台地の下は海岸であったと伝わり 西方の海を高台から望む重要な場所に鎮座しています
阪界電軌阪界線 住吉駅から北東へ約270m 徒歩4分程度
住吉大社境内社 大海神社から北へ100m
境内南の入り口には 鳥居は無く 注連縄柱が建っています
西の入口が表参道だろうと思います
鳥居が建ち 石段を上がり 神門が構えています
太古は この辺りが海岸から進んだ辺りで 海からの参拝が正式だったのだろうか? おそらくそうだろう などと 古代に想いを馳せて
生根神社(大阪市住吉区住吉)に参着
一礼をして 鳥居をくぐり 参道石段を上がり 境内へと進むと 社殿の脇に出ます 西から境内入ると 社殿は〈住吉大社を見下ろすように〉南に向いています
手水舎は 先程の南の注連縄柱を入った辺りにあり 清めます
南から進むと 正面に社殿が建ちます
拝殿前には 立派な銅製の狛犬が構えています
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿・幣殿の奥には 慶長5~7年(1600~1602)頃に淀君の指令により建設された御本殿〈大阪府指定 重要文化財〉が 桃山時代の建築様式を残し 鎮座します
境内には 祭りの準備が進んでいて 神輿がテントの下に出番を待っています
境内社にお詣りをして 社殿に一礼 神門を抜けて 参道を戻ります
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『摂津名所図會(Settsu meisho zue)』〈寛政8年(1796)~寛政10年(1798)刊行〉に記される伝承
奥天神社は 式内社の生根神社(大月次新嘗)(いくねの かみのやしろ)であると記しています
【抜粋意訳】
奥(おくの)天神社
大海(おほうみ)神の北一町計にあり
延喜式に生根(いくね)神社 少彦名命(すくなひこなのみこと)をまつる
文明十四年十二月廿四日 大自在天沸宮(だいじざいてんまんぐう)をまつる
杜の西に紅梅殿あり 東に観音堂あり 神宮寺(じんぐうじ)より法要(ほうよう)を勤(つと)む
例祭八月九日
住吉(すみよしの)里および近隣(きんりん)十余村の生土神(うぶすなしん)とす
【原文参照】
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
式内社の生根神社について 祭神は活津彦根命で生國魂神社と同神
所在については 不詳だが 住吉村の奥天神とも云われていると記しています
【抜粋意訳】
生根(イクネノ)神社(大月次新嘗)
〇活津彦根命 東生郡 生國魂同神
〇在所不詳 或いは曰 在 住吉村 今称 奥天神
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社の生根神社について 祭神・所在については不詳 一説に住吉村の奥天神で祭祀を預かっていると記しています
【抜粋意訳】
生根神社 大月次新嘗
生根は伊久禰と訓べし
○祭神、在所等詳ならず、
摂津志云、或曰在ニ住吉村、今称ニ奥天神、與ニ西成郡勝間今在家中在家共預祭祀、類社
大和國城上郡 忍坂座生根神社(大月次新嘗)の條見合すべし
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社の生根神社について 奥天神といって住吉大社の摂社であると記しています
【抜粋意訳】
生根神社
今 大海神社の北一許町にあり、奥天神と云ふ、又 住吉の摂社なり、名所図會
醍醐天皇 延喜の制、大社に列り、祈年月次新嘗の案上幣帛に預かる、延喜式
凡 其の祭り八月九日を用ふ、式社考証
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 生根神社の祭神は少彦名命 所在については住吉村と記しています
【抜粋意訳】
生根(イクネノ)神社
祭神 少彦名命(スクナヒコナノミコト)
祭日 九月七日
社格 郷社
所在 住吉村(東成郡住吉村大字住吉)
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
生根神社(大阪市住吉区住吉)について 明治初年に旧住吉大社の境内摂社から 今の地に遷座したと記しています
【抜粋意訳】
〇大阪府 摂津國 東成郡住吉村大字住吉
郷社 生根(イクネノ)神社
祭神 少彦名(スクナヒコナノ)命
創祀年月定かならずと雖も、旧住吉神社の境内に在りて摂社たりしが、明治の初年今の地に遷して郷社に列す、
境内五百三十三坪(官有地第一種)、
社殿は本殿、拝殿を備ふ、
住吉はもと須美乃江と呼べりしが、倭名抄に字によりて須美與志と訓したるより、多く之にならひて須美與志と訓するに至れり、
もと住吉郡といひしを、明治二十九年廃して東成郡に併す。
「住吉の里ゆきしかば春花のいやめづらしき君にあへるかも」(萬葉集)例祭日 十月九日
神饌幣帛料供進 明治四十年一月二十八日
【原文参照】
生根神社(大阪市住吉区住吉)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
住吉大社の摂社末社の記事をご覧ください
住吉大社(すみよしたいしゃ)の・境内・境外・摂社・末社と要所について
住吉大社(大阪市住吉区住吉)・境内外・摂社・末社について
・住吉大社(大阪市住吉区)摂津国一之宮
住吉大社(すみよしたいしゃ)は 『日本書紀』に神功皇后が三韓征伐の帰路 住吉三神の神託を得て 住吉大神の和魂(にきみたま)を鎮めて祀ったのが創建と記される 全国に2000社余ある住吉神社の総本社で 摂津國一之宮です 延喜式内社 住吉坐神社四座(並 名神大月次相嘗新嘗)(すみのえにます かみのやしろ しくら)です
住吉大社(大阪市住吉区住吉)〈摂津國一之宮〉
摂津国 式内社 75座(大26座(並月次新嘗・就中15座相嘗祭)・小49座(並官幣)について に戻る
攝津國(せっつのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 摂津国の 75座(大26座(並月次新嘗・就中15座相嘗祭)・小49座(並官幣)の神社のことです
摂津国 75座(大26座(並月次新嘗・就中15座相嘗祭)・小49座(並官幣)