実践和學 Cultural Japan heritage

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井椋神社(深谷市畠山)〈境内社の白旗八幡社は式内社〉

井椋神社(いぐらじんじゃ)は 男衾郡 畠山の地に進出した 秩父郡吉田(旧・吉田町、現・秩父市)を本拠地とする秩父氏の嫡流畠山氏守護神として祀っていた 井椋五所宮 秩父市下吉田にある椋神社(式内社) 秩父権守 重綱 畠山の地に勧請(分祀)したのが始まりと伝えられています 又 境内社「白旗八幡社」は 式内社武蔵國 男衾郡 出雲乃伊波比神社の論社にもなっています

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

井椋神社Igura Shrine)
(いぐらじんじゃ)

 [通称名(Common name)]

【鎮座地 (Location) 

埼玉県深谷市畠山942

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》猿田彦命(Sarutahiko no mikoto)
   健甕槌命(Take mikazuchi no mikoto)
   経津主命(Futsunushi no mikoto)
   天児屋根命(Ameno koyane no mikoto)
   比売神(Hime no kami)

【御神格 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity)

・式内社 吉田神社(むくじんじゃ)の分祀

【創  (Beginning of history)】

井椋神社(いぐらじんじゃ)

所在地 大里郡川本町大字畠山

 井椋神社は、畠山氏の先祖である将恒(まさつね)から武基、武綱、重綱、重弘、重能(しげよし)の代に至る間、秩父吉田郷(よしだごう)領主(りょうしゅ)として井椋五所宮を敬ってきた。その後、重忠の父 重能が畠山庄司となって館を畠山に移した時、祖父 重綱が勧請(かんじょう)(分祀 ぶんし)したものである。
 初めは、井椋御所大明神(いぐらごしょだいみょうじん)、井椋五所宮と号していたが 後に井椋神社と改称したものである。
 祭神は、猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)のほか四柱である。
そのほか境内には 近所の各神社が合祀され、蚕の神様である蚕影神社、
源氏の白旗を祭った白旗八幡神社等がある。
 また、社殿の裏の荒川断崖に (うぐいす)の瀬の碑が建立されている
平成119月 埼玉県

社頭案内板より

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【由  (History)】

井椋神社 いぐらじんじゃ

 満福寺の北にあり、畠山氏秩父からこのに進出してきた際に、現秩父市下吉田にある椋神社(式内社)を勧請してきた神社と伝えられています、椋神社 代々秩父氏の守護神として崇敬されており、当 井椋神社も畠山氏の守護神たと推測されます。

深谷市文化財マップより深谷市文化財マップpanf-shigetada2

【境内社 (Other deities within the precincts)】

・白幡八幡社・八幡神社・大雷社の3社合殿

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3社合殿の中
境内社の「白旗八幡社」は 式内社武蔵國 男衾郡 出雲乃伊波比神社の論社となっています

天喜年中(1053~58)源頼義が 奥州征伐の途 当社に白旗を献じて戦勝を祈願し「白旗八幡社」と称荒川沿いの赤濱村に鎮座しましたが 天正8年(1580年)荒川の度重なる氾濫により 住民と共に現在地寄居町赤浜遷座した出雲之伊波比神社は 江戸時代までは「八幡さま」と呼称されますが この八幡社が赤浜に遷座した後も 畠山の氏子等は ここに祠を立てて祭りをつづけたとされます
 その後 明治39年の勅令に基いて 明治41年に字栗坪白旗八幡社井椋神社の境内に遷座て 白旗八幡社 井椋神社境内社となっています

・白旗八幡社〈井椋神社の境内社〉(深谷市畠山)

一緒に読む
白旗八幡社〈井椋神社の境内社〉(深谷市畠山)

白旗八幡社(しらはたはちまんしゃ)は 寄居町赤浜に遷座した出雲之伊波比神社〈白旗八幡社〉の元宮になります 天正8年(1580年)荒川の度重なる氾濫により 白旗八幡社が 住民と共に赤浜に遷座した後も 畠山の氏子等は ここに祠を立てて祭りを続けたとされます その後 明治39年の勅令に基いて 明治41年に字栗坪の白幡八幡社を井椋神社の境内に遷座し 現在に至ります

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・八坂神社・天神社・日吉神社・諏訪太社・八幡大社の5社合殿

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・荒神社と石の小祠3宇

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蚕影神社石の小祠2宇

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【境外社 (Related shrines outside the precincts)】

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

延喜式の吉田の神社(むくじんじゃ)の分祀が 井椋神社になります

参考に
『延喜式神名帳
Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載の分祀です
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)武蔵国 44座(大2座・小42座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)秩父郡 2座(並小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 椋神社
[ふ り が な ]むくの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Muku no kamino yashiro)

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

式内社 武蔵國 秩父郡 椋神社(むくの かみのやしろ)論社について 

明治初期 秩父郷に5つある椋神社の間に式内社論争が起こり 五社を合わせて式内社とする知事の裁定ありました

・井椋塚(秩父市下吉田)椋神社の社殿が焼失〈永禄十二年(1569)兵火〉以前の旧社地

一緒に読む
井椋塚(秩父市下吉田)〈吉田 椋神社の旧鎮座地〉

井椋塚(いくらづか)〈吉田 椋神社の旧鎮座地〉は 永禄十二年(1569)の兵火〈武田勢の侵入による秩父谷の社寺焼打ち〉で吉田 椋神社の社殿が消失する迄の旧社地とされます 天正三年(1575)に鉢形城主 北条氏邦が五宇あった神殿を一宇に改めて現在地に再建したと伝わります

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・吉田 椋神社 奥宮(秩父市下吉田)

一緒に読む
吉田椋神社奥宮(秩父市下吉田)

吉田椋神社 奥宮(よしだ むくじんじゃ おくみや)は 龍勢を打ち上げる龍勢櫓のある芦田山の中腹に鎮座します 御祭神は本社と同じですが 祭典は御犬様を祀る祭りとされて ゛延喜式内 椋神社 服従神犬 秩父吉田郷五峯山鎮゛と伝わります

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・吉田 椋神社(秩父市下吉田)

一緒に読む
吉田 椋神社(秩父市下吉田)

吉田 椋神社(よしだ むくじんじゃ)は 日本武尊が道に迷われ時 鉾の先から一条の光が走り大きな椋の木の根元近くに猿田彦大神が顕われ導かれた この鉾を神体として大神を祀ったのが創始とされ 延喜式内社 武蔵國 秩父郡 椋神社(むくの かみのやしろ)の有力論社とされます

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・上蒔田 椋神社(秩父市蒔田)

一緒に読む
上蒔田 椋神社(秩父市蒔田)

上蒔田 椋神社(かみまいた むくじんじゃ)は 延喜式内社 武蔵國 秩父郡 椋神社(むくの かみのやしろ)の5つある論社の一つです 明治初期 秩父郷に5つある椋神社の間に式内社論争が起こり 五社を合わせて式内社とする知事の裁定がありました 日本武尊が 当地の椋の大樹の根元に 大己貴命を奉祭し 椋大神と称したと伝わります

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・中蒔田 椋神社(秩父市蒔田)

一緒に読む
中蒔田 椋神社(秩父市蒔田)

中蒔田 椋神社(なかまいた むくじんじゃ)は 延喜式内社 武蔵國 秩父郡 椋神社(むくの かみのやしろ)の5つある論社の一つです 明治初期 秩父郷に5つある椋神社の間に式内社論争が起こり 五社を合わせて式内社とする知事の裁定がありました 祭神は秩父国造の祖である天下春命を主祭神として大己貴命・猿田彦命を祀ります

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・野巻 椋神社(皆野町野巻)

一緒に読む
野巻 椋神社(皆野町野巻)

野巻 椋神社(のまき むくじんじゃ)は 延喜式内社 武蔵國 秩父郡 椋神社(むくの かみのやしろ)の5つある論社の一つです 明治初期 秩父郷に5つある椋神社の間に式内社論争が起こり 五社を合わせて式内社とする知事の裁定がありました「野巻」という地名は「野牧」とも書かれ 昔 当地に牧〈大和朝廷の牧場〉があったとされます

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・皆野 椋神社(皆野町皆野)

一緒に読む
皆野 椋神社(皆野町皆野)

皆野 椋神社(みなのむくじんじゃ)は 延喜式内社 武蔵國 秩父郡 椋神社(むくの かみのやしろ)の5つある論社の一つです 社記には 景行天皇四十年日本武尊が知知夫国を巡見した折 この地に至り御矛を立て猿田彦命・大己貴命・ 八意思兼命を鎮祭したことを創祀としています

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・井椋神社(深谷市畠山)〈参考 井椋五所宮 秩父市下吉田にある椋神社の分祀

一緒に読む
井椋神社(深谷市畠山)〈境内社の白旗八幡社は式内社〉

井椋神社(いぐらじんじゃ)は 男衾郡 畠山の地に進出した 秩父郡吉田(旧・吉田町、現・秩父市)を本拠地とする秩父氏の嫡流の畠山氏が 守護神として祀っていた 井椋五所宮〈現 秩父市下吉田にある椋神社(式内社)〉を 秩父権守 重綱公が 畠山の地に勧請(分祀)したのが始まりと伝えられています 又 境内社「白旗八幡社」は 式内社「武蔵國 男衾郡 出雲乃伊波比神社」の論社にもなっています

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

畠山氏畠山 重忠(はたけやま しげただ)公」について

畠山氏 秩父郡吉田(旧・吉田町、現・秩父市)を本拠地とする秩父氏の嫡流です

その畠山氏男衾郡 畠山の地に進出したのは 秩父権守 重綱の孫 畠山庄司重能時代とされています

この重能公の子として 長寛2年(1164)に畠山の地〈現.深谷市畠山に生まれたのが 畠山氏の中も最も有名な平安時代末期から鎌倉時代初期の武将 武蔵武士の鑑(むさしぶしのかがみ)とされた畠山 重忠(はたけやま しげただ)公」です 鎌倉幕府の有力御家人でもありました

井椋神社(いぐらじんじゃ)は 畠山 重忠(はたけやま しげただ)公の墓所とも伝わります

畠山守護神「井椋神社の縁起について

畠山氏 秩父郡吉田(旧・吉田町、現・秩父市)を本拠地とする秩父氏の嫡流として 代々 秩父吉田郷(よしだごう)領主で 秩父からこの畠山の地〈現.深谷市畠山に進出してきた際〈平安時代末〉に 
畠山氏の守護神として祀っていた 井椋五所宮 秩父市下吉田にある椋神社(式内社) 秩父権守 重綱 勧請(分祀)したのが 井椋神社と伝えられています

井椋神社の社伝には『崇徳院 天治年中に重綱 当所に移住する砌り、当社 五所宮をば勧請し奉り』とあります

吉田の神社(むくじんじゃ)から分祀されたのが 井椋神社の始りとなります

・吉田 椋神社(秩父市下吉田)

一緒に読む
吉田 椋神社(秩父市下吉田)

吉田 椋神社(よしだ むくじんじゃ)は 日本武尊が道に迷われ時 鉾の先から一条の光が走り大きな椋の木の根元近くに猿田彦大神が顕われ導かれた この鉾を神体として大神を祀ったのが創始とされ 延喜式内社 武蔵國 秩父郡 椋神社(むくの かみのやしろ)の有力論社とされます

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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

秩父鉄道の永田駅から 東へ荒川を渡り約1.3m 徒歩15分程度
重忠橋と名付けられた 畠山 重忠(はたけやま しげただ)公の由来の鴬の瀬(うぐいすのせに架かる橋を渡ると川沿いに 鎮守の杜があります

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表参道の入口は 満福寺の横手に 社号標には「村社 井椋神社」とあり 石灯籠と一の鳥居が建っています 

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参道は そこから左に折れながら 東南向きの社殿に向かっていて 畑の中に小高いく聳えた杉木立の杜に鎮座します
井椋神社Igura Shrine)に参着

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一礼して鳥居をくぐります こちらのコンクリート製の参道も 僅かに右に折れていて 参拝者が 正中を歩まないように配慮がなされています

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境内は清掃が行き届いていて 石灯篭の先に手水舎があり清めます その先に 新築されたと思える瓦屋根の拝殿が建っています

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拝殿にすすみます 

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賽銭をおさめ お祈りをします 
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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新築された拝殿の奥には 幣殿と本殿の覆屋が続いています 本殿の脇には境内社の・荒神社と石の小祠3宇が鎮座しています お詣りをします

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その他の境内社に順次 お詣りをします

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再度 本殿に一礼をして 参道を戻ります

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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『新編武蔵風土記稿(Shimpen musashi fudoki ko)』〈文政13年(1830)に完成〉に記される伝承

巻之224 男衾郡之3 鉢形 畠山村 の条に
満福寺(まんふくじ)の絵図が描かれていて 参道と鳥居の奥に「井椋御所官」と記されています

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 『新編武蔵風土記稿』1830年(文政13年)著者:間宮士信 [旧蔵者]太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局 活版 ,明治17年
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002820&ID=M2017051812110439332&TYPE=&NO=

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史跡「鴬の瀬(うぐいすのせ)」について

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当神社 井椋神社(いぐらじんじゃ)は 直ぐ裏手を流れる荒川の河岸段丘上にあります そこに荒川の瀬があって
畠山重忠公が 家来の家へ行った帰りに豪雨で荒川が増水して困っていたところ 一羽の鴬が飛んできて美しい鳴き声で浅瀬を教えてくれたという伝承の地となっています

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(うぐいす)の瀬(せ) 

所在地:大里郡川本町大字畠山

 荒川のせせらぎの聞こえるこの地を鶯の瀬といい、増水時でも川瀬の変わらぬ浅瀬である。

 ここは、畠山重忠公が榛沢(はんざわ)六郎成清(なりきよ)のもとに行き、帰路豪雨に逢い、洪水で渡れないでいるときに一羽の鶯が鳴いて浅瀬を教えてくれたと言い伝えられており、その故事を詠んだのが次の歌である。

時ならぬ岸の小笹(おささ)の鶯は
 浅瀬たずねて鳴き渡るらん

 また、この上流には、古くから熊谷市・江南村方面にかんがい用水を送ってきた六堰(ろくせき)があり、遠く秩父連山を眺めながら鮎(あゆ)、ウグイ(通称ハヤ、クキ)等の釣り場として親しまれている名所でもある。

平成11年9月 埼玉県

現地案内板より

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境内の石碑に刻まれた 井椋神社の伝承

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【読みやすく文面を校正】

井椋神社は 武蔵國 大里郡 本畠村 大字畠山に在り 猿田彦命 天兒屋命 武甕槌命 経津主神 比賣神の五柱の神を祀る村社なり
其創始は 遠く 日本武尊 東夷征討の時に在り
是れ 延喜式載る所秩父郡二座の内 椋神社なり 同郡 吉田郷 芦田村に鎮座す
平将門 謀反を起すや 藤原秀郷 追討の命を奉し来て 祈願を籠め 猿田彦命一神なり 志を藤原祖神の四柱を合せ祭り 井椋五所大明神と称す
畠山重忠6代の祖 秩父六郎将恒 以後 4代相續いて 吉田郷の領主たり
故に 世々尊崇殊に厚かりしと云ふ 天治年中 重忠祖父 秩父権守重綱 居館を畠山に移すに當り 椋神社を比地に勧請し 井椋五所宮と称へ
王政維新の後 明治311 井椋神社と改称し 村社に列せらる
39年勅令の旨に基き 4110 無格社 字山王日吉神社 字諏訪亥諏訪神社 字子の亥子大神社 字冨士腰浅間神社 を井椋神社境内に移 字如意稲荷神社を井椋神社 末社稲荷神社に合祀し 字八幡八幡神社を字栗坪白旗八幡神社とを合祀して 井椋神社境内に移転す
427 神饌幣帛料供進を指定せらる 而て 氏子等 同心戮力して35年拝殿を建築し 大正4 御大典記念をして 石鳥居 社務所を建設し 崇敬奉仕懈らず 皆脳く誠を效す
是に於て 社頭愈整へ 神威益揚る頃 者氏子相謀り碑を建て 其来由を後世に傅へんとし余の文を需む余 深く敬神の志を 慶ひ 其所言の概要を誌すと云爾

井椋神社Igura Shrine) (hai)」(90度のお辞儀)

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武蔵国 式内社 44座(大2座・小42座)について に戻る

一緒に読む
武蔵國 式内社 44座(大2座・小42座)について

武蔵国(むさしのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 武蔵国には 44座(大2座・小42座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています

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8

對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています