家島神社(いえしまじんじゃ)は 国生み神話の伝承地ともされる播磨灘の中央に浮かぶ家島諸島に鎮座します 社伝によれば 神武天皇が東征途中 当地に御寄港になられ 港内が大変穏やかで「あたかも家の中にいるようで静かだ」として 家島と名付けられた 又 神功皇后 三韓御門出の時 天神を祀り給ふに山中ゆりければ ゆるの山と古歌にもよまれと伝わります
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
家島神社(Ieshima shrine)
[通称名(Common name)]
天神さん(てんじんさん)
【鎮座地 (Location) 】
兵庫県姫路市家島町宮1
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》大己貴命(おほなむちのみこと)
少名彦命(すくなひこなのみこと)
天満大神(てんまんおほかみ)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
延喜式内
名神大社 家島神社御祭神 大己貴命(おおなむじのみこと)
少名彦命(すくなひこなのみこと)
天満天神(てんまんてんじん)
例祭日 七月二十四日・二十五日
沿革
社伝によれば、家島という地名は、神武天皇が大和へ向かわれる途中、当地に御寄港になられたところ、港内が大変穏やかで、「あたかも家の中にいるようで静かだ」として、名付けられたとある。
家島神社は、この時、天神をお祀りし海上安全と戦勝を祈願されたのが始まりとされている。
又、神功皇后は、三韓門出に際し、天神に祈願されたところ全山がにわかに鳴動したのて、こので一帯を ゆするの山 と呼ばれたともある。
古くから、家島の地は、瀬戸内航路の要衝として栄え、万葉歌人達もいくつか歌を残している。
菅原道真公が参拝されたおり、境内入り口の岩場で詩を書かれたといわれ「詩を書き石」と呼ばれて現存している。後に菅公は、合祀されることになった。
当神社は、家島諸島の総鎮守であるとともに、播磨灘を守護する大神様で、更に国家鎮護の神としで承和七年(八四〇)官社となり、醍醐天皇の延喜の制には、式内名神大社に列せられ今日に至っている。現地案内板より
【由 緒 (History)】
由緒
播磨灘の中央に、44とも数えられる家島諸島が浮かぶ。ここは国生み神話の伝承地、そして、海洋交通の要衝として重要な位置にある。
当社の鎮座する家島本島は、諸島の中でも特に入り江が奥深く、絶好の港になっている。伝えられる処では、神倭磐彦命(神武天皇)が、大和橿原の地に向かわれる途次、当地へ御寄港になられたところ、港内が風波穏やかで、あたかも家の中にいるように静かであったので「いえしま」と名付けたという。当社はこの時、武運長久と海上航海の安全を祈願して天神をお祀りしたに始まると伝わる。
家島諸島・播磨灘総鎮守である当社は、承和7年(840)官社に列せられ、つづく『延喜式』には「名神大」としてその名を連ねている。
境内地は岬の突端に位置し、境内全域にウバメガシ、シイ、トベラ等が生い茂り「天神の森」と呼ばれ瀬戸内海国立公園に指定されている。境内入り口には、菅公上陸の地とされる「詩オ書き石」と呼ぶ岩場があり、大鳥居横には万葉の歌碑がある。
平成13年(2001)に天神の森の保護も考慮し、海岸線を中心とする境内整備の大事業が施された。
当神社は、神倭磐彦命(即位して神武天皇)御東征の砌り、御寄港室の内の如く静かなるを以て家島と名付け、天神を祀り、皇師の武運長久と海上安全を祈願し給うとぞ、
又 神功皇后 三韓御門出の時 天神を祀り給ふに山中ゆりければ、ゆるの山と古歌にもよまれ、朝廷の御崇敬篤く、
第四十八代 称徳天皇 天平宝字8年3月7日 揖保郡福井庄 家島の高島に支那福州の賊船襲来屯す、時の国司 藤原朝臣貞国 下知して、戦勝を祈願せしめ、これを撃退 神威毫し衰へず 播磨を往来する船舶は、風波の難を祈り、崇敬怠る事なし。故に仁明天皇 承和7年6月官社と為り、醍醐天皇 延喜の制に式内名神大社となる。
此の大神は 国土を開墾し、海運、漁業、医薬、禁厭酒造の方法を定め、温泉を開発人畜の病に悩むを助け給ふ最も尊き神に坐す故に、大己貴神は大国様、少彦名命は薬神様として崇めたる。兵庫県神社庁HP https://www.jinja-net.jp/jinjashi-kensaku/jsearch3jinjashi.php?jinjya=5483
【境内社 (Other deities within the precincts)】
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
・摂社 真浦神社(姫路市家島町)
真浦神社(まうらじんじゃ)は 家島本島真浦の中心に位置して 家島神社の摂社として祀られてきました 以前は 荒神社と呼ばれていましたが 明治になって真浦神社と改称されました
真浦神社(姫路市家島町)
・摂社 大山神社《主》大山祇神(男鹿島)
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭(Meijin sai)」の条 285座
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
延喜式巻第3は『臨時祭』〈・遷宮・天皇の即位や行幸・国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で『名神祭(Meijin sai)』の条には 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています
名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています
座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合〉
加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1👟絇を 布1端に代える名神祭 二百八十五座
・・・・・・
家嶋神社 一座
・・・
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陽道 140座…大16(うち預月次新嘗4)・小124
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)播磨国 50座(大7座・小43座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)揖保郡 7座(大3座・小4座)
[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社 名称 ] 家嶋神社(貞・名神大)
[ふ り が な ](いへしまの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Iheshima no kamino yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載の
播磨國 揖保郡 家嶋神社 名神大 の論社は2つ
・家島神社(姫路市家島町)
家島神社(いえしまじんじゃ)は 国生み神話の伝承地ともされる播磨灘の中央に浮かぶ家島諸島に鎮座します 社伝によれば 神武天皇が東征途中 当地に御寄港になられ 港内が大変穏やかで「あたかも家の中にいるようで静かだ」として 家島と名付けられた 又 神功皇后 三韓御門出の時 天神を祀り給ふに山中ゆりければ ゆるの山と古歌にもよまれと伝わります
家島神社(姫路市家島町)
・宮浦神社(姫路市家島町) 《参考論社》
宮浦神社(みやうらじんじゃ)は 以前は 家島白髭大明神を称していたが 明治になって宮浦神社と改称されました 社伝によれば 比叡山実相院の覚円僧都が門徒と共に坊勢島に渡海し 或る夜霊夢によって故郷の琵琶湖に準え白髭大明神を勧請したことによります
宮浦神社(姫路市家島町)
・家島神社摂社 真浦神社(姫路市家島町) 《参考論社》
真浦神社(まうらじんじゃ)は 家島本島真浦の中心に位置して 家島神社の摂社として祀られてきました 以前は 荒神社と呼ばれていましたが 明治になって真浦神社と改称されました
真浦神社(姫路市家島町)
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
姫路市飾磨港から約18km南 播磨灘(はりまなだ)に浮かぶ 大小44の島々からなる「家島諸島」の家島(いえしま)宮港の東 天神鼻に鎮座します
姫路市飾磨港より汽船約30分 家島の「宮港」を目指します 下船 徒歩約20分程度です
姫路市飾磨港を出港します
30分程で家島(いえしま)宮港に到着
宮桟橋で 高速船いえしま を下船します
家島諸島の案内図があり 4つの大きな島を西から 西島 坊勢嶋 家島 男鹿島があり ここは家島の西北部にあたります
宮桟橋から海岸沿いに港の東 天神鼻を目指します
すぐに 小さな祠 鳥居の扁額には「海神社」とあります 島上陸の祓いを込めて お詣りをします 「改修工事寄附」石碑などを見ると家島神社の境外社かと思いましたが あとで 宮浦神社(姫路市家島町)に参拝すると こちらの境外末社であるとわかりました
天神鼻には大きな鳥居が建っているのが見えてきました 望遠ならば良くわかります
海岸線には 昔ながらの小さな造船所がある のどかな風景を進みます
暫らく行くと 平安時代 菅原道真公が 左遷され太宰府に向かう途中 家島神社に参拝され その時 漢詩を石に書き付けたという場所「詩ヲ書場」
対岸には 姫路の工業地帯 岬の先端には家島神社の社頭の大きな石燈籠があります
社頭には 海岸線に玉垣が廻されて 立派な石燈籠が建ちます
家島神社(姫路市家島町)に参着
一端 海岸に降りて 石燈籠の間から一礼をして 鳥居へと向かいます
大鳥居の脇には 向かって左に社号標「式内 家嶋神社」右には万葉歌碑
鳥居をくぐると 玉垣に囲まれた参道が岬の下まで続いています
途中に神橋のように橋が架けられています かつての入江でしょうか 家島十景 天満霊樹 の石碑もあります
階段を上がると 二の鳥居が建ち 長い階段が続きます
階段を上がると 社務所が建ちます 御祈祷の受付案内が張られていました
社務所から右手を見ると 駐車場があり車での参拝も可能な様です 手水舎があり その先に車で参拝された方用の鳥居が建っています
折角なので 再び鳥居をくぐり 手水舎があります 社号標には「式内 名神大社 家嶋神社」
参道は 石畳みが敷き詰められて石灯篭に囲また立派なもので 微妙に折れていて 参拝者が正中を進まないようになっています
ここから見える景色は絶景です 男鹿島(たんがしま)は砕石により山が崩されていますが 播磨國風土記にも応神天皇の時代に雄雌一頭ずつの鹿がいて 雄の方が本土から現在の家島付近にあった男鹿島まで泳いで渡ったと伝えています
参拝の帰りに見ると 逆光の為 採掘跡が見えないので 太古の男鹿島(たんがしま)のシルエットのようで 美しかったです
再び 参道を進むと 社殿が見えてきました
拝殿にすすみます 拝殿の前には 威厳のある狛犬が親子〈あるいは大小〉で並びます
扁額には「家島神社」
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には 透塀に囲まれて 本殿が鎮座します
本殿に一礼をして 参道を戻ります
長い石段を下ります
海岸に建つ 一の鳥居が見えてきます
鳥居の先には 家島の港が広がります
岬の先端には 江戸末期の外国船の防備として造られた 砲台場跡があります
すぐ横を構内へと入船 島にいることを想い出します
社頭へと戻ろうとすると 朝日が岬の丘越しに日の出のように上り始めます
御祭神のはからいにより 鳥居の真ん中から朝陽が海岸に差し込みます 参拝を終えた喜びを胸に 深々と一礼をします
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
社伝にある 神武天皇と神功皇后の伝承
神武天皇や神功皇后の伝承が生まれのは この地が古くから 風待ち潮待ちの重要な要所であり 航海の崇敬の対象であったことがうかがわれます
「伝えられる処では、神倭磐彦命(神武天皇)が、大和橿原の地に向かわれる途次、当地へ御寄港になられたところ、港内が風波穏やかで、あたかも家の中にいるように静かであったので「いえしま」と名付けたという。当社はこの時、武運長久と海上航海の安全を祈願して天神をお祀りしたに始まると伝わる。」
「又、神功皇后は、三韓門出に際し、天神に祈願されたところ全山がにわかに鳴動したのて、こので一帯を ゆするの山 と呼ばれたともある。」
「又 神功皇后 三韓御門出の時 天神を祀り給ふに山中ゆりければ、ゆるの山と古歌にもよまれ、朝廷の御崇敬篤く」
「詩ヲ書キ場(しおかきば)」の伝承
家島神社近くの海岸に
平安時代 菅原道真公が 左遷され太宰府に向かう途中 家島神社に参拝され その時 漢詩を石に書き付けたという場所が「詩ヲ書場」と伝承されます それ以降 天神と習合した道真公も合祀されるようになったと伝わります
由緒 家島神社
詩ヲ書キ場(しおかきば)
菅原道真公(845~903)が大宰府に左遷される途中、この岩場より上陸され、詩を詠まれたという伝承からこの辺りを「詩ヲ書キ場」
この岩を「詩ヲ書キ石」(別にトシカゾエイシ トシカズレイシ)と申し伝えられております。天神浜(てんじんはま)
この岩より北を天神浜と云い、ここより先が家島神社の神域であったと云われております。
道真公がいらした祭、詠まれた詩を小石に記し、家島神社に奉納されましたが、その小石の一つが浜に紛れてしまったため、島の人々は恐れ多いとして、この浜の石を決して持ち帰る事がありません
平成二十年十二月吉日現地石碑より
『播磨国風土記(Harimanokuni Fudoki)〈和銅6年(713年)〉』に記される伝承
人が居住している島 と記しています
【意訳】
家嶋(いへじま)
人民が 家を作り居住している 故に家嶋と号される 竹・黒・葛などが生える
【原文参照】
『万葉集(Manyo shu)〈7世紀前半~759年頃〉』に詠まれる歌
奈良時代に遣唐使・遣隋使と同様 朝鮮半島の新羅へ派遣された「遣新羅使人( しらぎにつかわさるるじんら )」が 都へ帰る〈入京〉時に 播磨国の家島で詠った歌
家島は 太古から 瀬戸内海の航海の要所で 風待ち・潮待ちの為に 家島へ寄港したとされます
【抜粋意訳】
回来 築紫海路 入京 至 播磨國 家島之時 作歌五首
巻15-3718
【原文】伊幣之麻波 奈示許曽安里家礼 宇奈波良手 安我古非伎都流 伊毛母安良奈久爾
【ひらがな】いえしまは なこそありけれ うなばらを わがこいひきつる いもあらなくに
【意訳】家島は 名こそ有りけれ 海原を 吾が恋(漕い)きつる 妹あらなくに
【原文参照】
『続日本後紀(Shoku nihon koki)〈貞観11年(869)完成〉』に記される伝承
八保神〈八保神社〉と共に 官社に列せられたと記されています
【抜粋意訳】
承和七年(840)六月甲子の条
播磨國(はりまのくに)
揖保郡 家嶋神(いへしまのかみ)
赤穂郡 八保神(やほのかみ) 並びに 官社と為す
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社の論社として ・宮浦の白髭社〈宮浦神社(姫路市家島町)〉・真浦の荒神社〈真浦神社(姫路市家島町)〉とする説があるが これは誤りである と記しています
【抜粋意訳】
家島神社
家島は 伊敝之麻と訓べし
〇祭神 猿田彦大神 式社記、古跡建覧、播磨鑑
〇揖東郡家島宮浦に在す、今 白髭明神と称す
〇式三 臨時祭 名神祭二百八十五座 中略 播磨國 家島神社一座
〇播磨國風土記云、家島人民作家而居之、故号家島式社記に、往古は忘瀬島〈坊勢島〉にありしを、嘉禄元年(1225)今の地に移す、』
古跡便覧に、家島は南海中陸を去る事 三里五里にして、東は蓑嶋より、西は院家嶋まで東西八里、南は松嶋に至りて三里、その間に大小の島々二十餘、押並に家島に列すといへり、
或人云、白髭社縁起に元慶七年勧請のよし見えたり、されば今 真浦といふ所にある、荒神社 是 式内 家島神社なるべく、元慶年中勧請の社 式に載るべきよしなしといへり、こは縁起を正敷ものと見えたる誤り也、総て後世に作れる縁起は取用がたき事 兼ねていひおけるが如し、故に従わずといへども、序に中し試みおく也、官社 續日本後記 承和七年六月甲子 播磨國 揖保郡 家島神 為官社
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
祭神については 書かれておらず
【抜粋意訳】
家島神社
祭神
祭日 七月三十日 三十一日
社格 郷社
所在 家島宮浦
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
家島のもう一つの呼び名は「えじま」で「今も島の人々は 家島を『えじま』と呼ぶ」 「繪島神(えじまのかみ)称 宮浦明神〈宮浦神社(姫路市家島町)〉」を式内社の論社とする『播磨鑑』の説も載せています
【抜粋意訳】
兵庫縣 播磨國 飾磨郡家島村大字宮浦
郷社 家嶋(いへしまの)神社
祭神 大己貴命(おほなむちのみこと)
少名彦命(すくなひこなのみこと)創立年月詳ならず、但、播磨鑑に、元慶七年九月八日〇播磨名所巡覧図の鎮座云々」と見えたり、本社は一に白髭大明神と称す、〇播磨鑑 今或作 繪島神、称 宮浦明神と神名帳考証に見えたり、
續日本後記に云く、名神大社に列せらる、実に当国大社二十四社の内なり、
明治七年二月郷社に列す。
社殿は本殿、舞殿、拝殿を具へ、境内地は四百五十坪なりしが、三十八年中 内務省指令甲第八四三号を以て、上地林壹町七反七畝貮歩を境内に編入せらる。例祭日 七月二十五日
氏子戸数 千二百十一戸
【原文参照】
家島神社(姫路市家島町)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
播磨国 式内社 50座(大7座・小43座)について に戻る
播磨国(はりまのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 播磨国 50座(大7座・小43座)の神社です 播磨国は 和銅6年(713) の詔によって『播磨国風土記』が編纂されていますので 7世紀には成立したとされています
播磨国 式内社 50座(大7座・小43座)について