細草神社(ほそくさじんじゃ)は 由緒は不祥ですが 社伝には゛この地は 皇師〈日本武尊〉の駐屯せし所なり゛と云い伝え 『甲斐国志』には 延喜式内社 甲斐國 山梨郡 黒戸奈神社(くろとなの かみのやしろ)としています 『甲斐国社記・寺記』に 大永三癸未年(1523)地頭駒井越後守本願 窪寺豊前守御崇敬し社殿を建立とあります
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
細草神社(Hosokusa shrine)
【通称名(Common name)】
・正一位細草大明神(しょういちいほそくさだいみょうじん)
【鎮座地 (Location) 】
山梨県甲府市平瀬町2935
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》日本武尊(やまとたけるのみこと)
《配》天照大神(あまてらすおほかみ)
倭姫命(やまとひめのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
『甲斐国式内社並国史現在社考』に記される内容
【抜粋意訳】
第二 延喜式内社 山梨郡九座
・細草神社 村社
西山梨郡千代田村平瀬組字髪櫛 鎭座
祭神
天照大神 日本武尊 橘姫命社記云。黒戸奈神社也。
黑印神領一石九斗餘。此地 皇師の駐屯せし所なりと云傳。
【原文参照】
赤岡重樹 著『甲斐国式内社並国史現在社考』,赤岡書店,大正8. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/958555
【由 緒 (History)】
由緒沿革:
社記寺記には「勧請鎮座之儀大永三癸未(略)地頭駒井越後守本願、窪寺豊前守御崇敬下され神殿その外御建立、その後永禄十三年跡部雅楽介神殿再建下され」とあり、その棟札は何れも現存する。
現在の社殿は、元禄十一年に地頭岡部源太左ヱ門が建立と伝へられてゐる。黒印神領壱石九斗九升、除地田壱反弐拾歩とあったが明治維新で上知となった。明治八年村社となる。
山梨県神社庁HPより
https://www.yamanashi-jinjacho.or.jp/intro/search/detail/1011
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・本殿
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・社殿
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・拝殿
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・隋神門
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・鳥居
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【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
〇『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
〇『風土記(ふどき)』
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)甲斐國 20座(大1座・小19座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)山梨郡 9座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 黒戸奈神社
[ふ り が な ](くろとなの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Kurotona no kaminoyashiro)
【原文参照】
国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
延喜式内社 甲斐國 山梨郡 黒戸奈神社(くろとなの かみのやしろ)の論社
・黒戸奈神社(山梨市牧丘町倉科)
黒戸奈神社(くろとなじんじゃ)は 景行天皇の御宇創立〈天皇皇子 日本武尊 東夷平定の後 当国鎮護 萬民幸福を祈る爲め 素戔鳴尊の神璽を出雲國より奉迎し奉り 唐土明神と称へ奉る〉文武天皇 大宝二年(702)勅を奉じて社号を黒戸奈神社としたと云う 延喜式内社 甲斐國 山梨郡 黒戸奈神社(くろとなの かみのやしろ)とされます
黒戸奈神社(山梨市牧丘町倉科)〈『延喜式』黒戸奈神社〉
・黒戸奈神社(甲府市黒平町)
黒戸奈神社(くろとなじんじゃ)は 創建年代は不詳です 社記には 延喜式内社 甲斐國 山梨郡 黒戸奈神社(くろとなの かみのやしろ)であるとしています 金桜神社の末社百二十社の内であり 本殿内幣束に大山祇命 手置帆負命 彦狭知命 八耳皇子と共に鎮風神鎮火神と記し 文化二年(1805)とある と伝えています
黒戸奈神社(甲府市黒平町)〈『延喜式』黒戸奈神社〉
・細草神社(甲府市平瀬町)
細草神社(ほそくさじんじゃ)は 由緒は不祥ですが 社伝には゛この地は 皇師〈日本武尊〉の駐屯せし所なり゛と云い伝え 『甲斐国志』には 延喜式内社 甲斐國 山梨郡 黒戸奈神社(くろとなの かみのやしろ)としています 『甲斐国社記・寺記』に 大永三癸未年(1523)地頭駒井越後守本願 窪寺豊前守御崇敬し社殿を建立とあります
細草神社(甲府市平瀬町)〈『延喜式』黒戸奈神社の論社〉
・穴切大神社(甲府市宝)
穴切大神社(あなぎりだいじんじゃ)は 社伝に 和銅年間(708~715)当國が未だ湖水であった時 國司が朝廷に奏上し 大己貴命に祈願して鰍沢口を切開き 水を南海に注ぎ盆地一帯を良田とした 御神助に讃仰し神祠を此所に建て 当初は黒戸奈神社と称したが 崇号を朝に奏請して 穴切大明神を賜ったと伝わります
穴切大神社(甲府市宝)〈『延喜式』黒戸奈神社の論社〉
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR中央本線 竜王駅から県道25号・101号経由で 県道7号に入り昇仙峡を目指して北上する途中 トータル約6.6km 車で17分程度
当日 私は昇仙峡から山道〈県道7号〉を下って参拝しました
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山の麓にある なだらかな地形に果樹園や畑があります
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その畑の中に鳥居が建てられています
細草神社(甲府市平瀬町)に参着
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参道があり 一礼をして鳥居をくぐります
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鳥居の扁額には゛正一位細草大明神゛と刻字されています
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鳥居をくぐると すぐに山の中に入ります
参道は 山林の中にも続いていて 隋神門が建てられています
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隋神門をくぐり抜けると 少し勾配がきつくなっていて 石段が造られています
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拝殿にすすみます
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拝殿内に認定書が掲げられていて
゛認定書 細草神社 五級社に認定する 平成十二年七月一日 山梨縣神社廰゛と記されています
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
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拝殿の奥には 本殿が祀られています
本殿の屋根の下に飾られているのは 鬼なのか? 細草神社の由緒は不明なので 気になる所です
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社殿に一礼をして 参道石段を下ります
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隋神門の下先には 鳥居が見えています
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隋神門をくぐると 景色が開けて 北西方向には 昇仙峡が見えています
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振り返ると 細草神社が祀られている お山はこちらです
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【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 黒戸奈神社について 所在・祭神は詳らかではない と記しています
参考に諸説を挙げて どちらか分からないとしています
゛倉科村唐土明神、祭神素戔鳴尊也゛〈現 黒戸奈神社(山梨市牧丘町倉科)〉
゛御嶽の奥黒平と云所に、黒戸(クロベ)明神と唱ふる社あり゛〈現 黒戸奈神社(甲府市黒平町)〉
【抜粋意訳】
黒戸奈神社
黒戸奈は 久侶登那と読り
○祭神 在所等 詳ならず
甲斐名勝志云、倉科村 唐土明神、祭神 素戔鳴尊也、
〔参考亦同〕相傳 延喜式所載 黒戸奈神社は、黒尸奈の尸を誤て戸と書たるにて、黒尸奈神社也とぞ、一説に、御嶽の奥黒平と云所に、黒戸(クロベ)明神と唱ふる社あり、
黒平を今黒ベラと云、ベラはベナの訛るにて、黒戸奈(クロベナ)の神社なりと云、何れか是なる事をしらず、後の考を待のみ、
【原文参照】
鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 黒戸奈神社について 所在は゛今 倉科村にあり、唐大明神といふ゛〈現 黒戸奈神社(山梨市牧丘町倉科)〉と記しています
【抜粋意訳】
黒戸奈(クロヘナノ)神社
今 倉科村にあり、唐大明神といふ、〔〇按 此村 谷間(くらあい)の里にて、此より奥西保など云ふ里に分入る谷の方なるを以て、黒戸奈とはいふなるべし、〕
凡 其祭四月三日 十月十八日を用ふ、〔甲斐名勝志、山梨縣取調書〕
【原文参照】
栗田寛 著『神祇志料』第12−14巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815496
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 黒戸奈神社について 所在は゛倉科村〔字 神田〕(東山梨郡中牧村)゛〈現 黒戸奈神社(山梨市牧丘町倉科)〉と記しています
又 その他の説として ゛御獄の奧黑平と云所に黑戸明神あり゛〈現 黒戸奈神社(甲府市黒平町)〉
【抜粋意訳】
黒戸奈神社
祭神 素戔鳴尊
祭日 四月三日 十月十八日
社格 郷社所在 倉科村〔字 神田〕(東山梨郡中牧村)
今按 黑戸奈にて倉科に同じき趣に云ひ 又 御獄の奧黑平と云所に黑戸明神あり 黑平(クワヘラ)のべラはべナの訛れるにて黑戸奈神社なりと云る説もあれど 共に信がたし
黑平村は もと巨摩郡に属したれば本郡に入るべき由なし 倉科村は谷間(クラアヒ)の里にて 奥は西保など云村里ありて 此へ分入る谷の戸なれば黑戸奈は谷戸の義にて 奈は乃の助辞に同じければ 黑戸奈神社は 即この倉科村なるべしと注進狀に云るは當るに似たり
【原文参照】
教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
黒戸奈神社(山梨市牧丘町倉科)について 式内社 黒戸奈神社であるとし 郷社に列した事が記されています
又 式内社 黒戸奈神社の論社には その他の説として ゛一説に 御嶽の奥黒平と云ふ所に黒戸明神あり゛〈現 黒戸奈神社(甲府市黒平町)〉とも記しています
【抜粋意訳】
〇山梨縣 甲斐國 東山梨郡中牧村大字倉科字神田
郷社 黑戸奈(クロトナノ)神社
祭神 素戔鳴(スサノヲノ)尊
社記に云ふ
当神社は 延喜式神名帳 山梨郡九座並小とある中の一社なりといふ、景行天皇御宇 皇子 日本武尊 東夷平定の後、当国鎮護 萬民幸福を祈る爲め、素戔鳴尊の神璽を出雲國より奉迎し奉り、唐土明神と称へ奉る、尊 曾て新羅に渡りまして種々神業ありければ、唐土明神とは称し奉つるとぞ、文武天皇の頃 勅を奉じて社號を黒戸奈神社とし、村をも黒戸奈村と云ひしを、
聖武天皇 天平年間 甲斐國司史 廣足 米蔵置の為め、当村宇屋舗と云ふ地へ倉庫を築きしが、賊徒の爲めに 其 蔵米を奪はれたる事あり、怠慢の罪に因りて、村長始め十数人 嚴科に処せられたり、其倉庫の為めに重科に処せられたる故を以て、其時より黒を倉とし、尸奈を科に変じて、倉科村と改称せしならん、
且 社號 黒尸奈の尸の字は、如何なる誤にや頭に一点を加へ、延喜式には遂に黒戸奈神社と記載せられたるなりと、社記及社寺明鑑等に見えたり、
又一説に
景行天皇 四十一年 皇子 日本武尊 東夷を平定し、御帰途 当國を経て、碓日嶺に至り給ふ御道筋に、宇小櫓嶽(此地方第一の高山)の峯に幕岩と稱する大厳あり、尊 此岩に登り、東陲を眺望せられし時、東陲鎮撫守護の神として、素戔鳴尊を祀らん事を思ひ出でさせられ、豫て御出陣の時 尊 體に添へさせられたる御守を、此岩の上に鎭められたり、後世 里民 石の祠を造りて奉祭せるなりと云ふ、
今の倉科の地に遷座せらたれる年代は詳ならず、今此 幕岩を奥宮と称せり。因みに云ふ、此幕岩と称するは、小楢嶽の最も高き處に直立し、高さ十数丈幅十数丈、上は平にして表は幕を張りたる様に見ゆ、又是より東地に凡三十町を距て的石と云ふあり、其 高さ凡三丈餘、直して彼幕岩に向ひ相へり、此 的石の表面に、日本武尊、幕岩より御慰の為め射させ給ふ、矢尻の跡なりとて、些さき穴四五個あり、此 二岩を日本武尊の御旧跡と称せり。
延喜年間、式内に列せしより、大嘗會の度々籾を献上し、勅使参向のことあり、御代々々帝都より社殿御造営有り、
後冷泉御宇 康平六年 源頼義 心願に依りて造営し、新羅三郎義光の末裔 武田氏累代の鎮守と崇め、晴信は倉料の内にて二十五貫文の朱印を付し、徳川氏よりも米二石八斗四升の朱印を給せられたり、明治初年 社領悉皆上地し、爾后遁減禄下賜せられ、同六年郷杜に列す、
口碑に伝はる歌あり、
鼓河なみのしらゆふうちかけて 音も名にたつ 黒戸奈の宮「永禄の番帳に大澤とあるは此社なるか、或は云ふ、成澤村 唐土明神鎮座の地を大澤と称す、未だ何れか是なるを知らず」と甲斐國志に見ゆ、
又「相伝ふ、延喜式内 黒戸奈神社は無尸奈の尸を誤りて 尸を書きたるにて、黒尸奈神社なりとぞ、一説に 御嶽の奥黒平と云ふ所に黒戸明神あり、黒平を今は くろべら と云ふ、べら は べな の横なまれるにて、黒戸奈の神社なりと云ふ、何れか是なるを知らず云々」と甲斐名勝志に見え、
神祇志料には 黒戸奈を黒(クロ)べなと訓みて、神社は当社を採れり、其説に云はく「此村(倉科)谷間の里にて、此より奥西保など云ふ里に分け入る谷の方なるを以て、「くろべなとは云ふなる可し」と、此意 今少し解しかたけれど、若しは暗(クラ)く戸なしてふ心にて、暗戸奈(クラトナ)と云ふにやと思ひ寄せられしか、さては地勢の實況など見調べて、かの黒平の社よりは当社のかた見優りたるよりなるべし、黒尸(シ)奈の説はすてながら、当社を採れるは、如何なる故なるか、
又或書に「黒戸奈神社 御嶽の奥黒平と云ふ所に、黒戸明神ありと云ふ説あれども、信じかだし、黒平村は元巨摩郡に属したれば、本郡に入る可からず、倉科村は谷間(クラアヒ)の里にて、奥に西保など云ふ村里ありて、此へ分け入る谷の戸なれば、黒戸奈は谷戸の義にて、奈は乃の助辞に同じければ、黒戸奈神社は即この倉科村なるべし」とあり、「兎に角に 此 両社 甚しくまぎらはし、記して後考を挨つべきなり、
さて又 当社は「山梨郡倉科村 神主 広瀬隼人 祭神 素戔鳴尊 御朱印二石八斗」〔巡礼舊神祠記〕など見えて、式の内外は暫く措くも、古き御社とは聞ゆるなり、文禄年間 産子に於て造営を負担し、慶安年中 再建の事あり、
社殿は本殿、拝殿、渡殿、神楽殿を有し、境内二千八百七十七坪(官有地第一種)なり、
社藏古器物は
黒木花表一暮、額面に黒戸奈神社とあり、吉田二位兼連卿の染筆一、金幣三本、但し物質銀作者詳ならず、
一、御鏡三面、但物質銀作者同上、
一、人体木橡一体、是は武田信玄の作にして、裏に永禄7甲子年7月22日大願成就馬場某奉之と記載あり、即末社諏訪大神の神體なりと云ひ伝ふ。徳川家康より拝領の品、
一、鑓一筋 一、太刀一腰、但正宗の作、一、短刀一ヒ、(三日月ト云フ)
右は関ケ原戦陣の時 神主 今澤右近 御供致し拝領せしものなり、境内神社
諏訪大神 神名社 愛宕社 蚕神社
白山社 玉寄天神 稲荷社 厳島社
【原文参照】
明治神社誌料編纂所 編『明治神社誌料 : 府県郷社』中,明治神社誌料編纂所,明治45. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1088278
細草神社(甲府市平瀬町)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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甲斐国(かひのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 甲斐国には 20座(大1座・小19座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
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