実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

本宮神社(日光発祥の地)

本宮神社(ほんぐうじんじゃ)は 神護景雲元年(766年)勝道上人(shodo shonin)が「山菅の蛇橋」(現在の神橋)を渡りこの地(日光)に神仏を祀り 庵を結んだのが始まりとされています ここは日光の原点であり 二荒山神社発祥の地であり 開運の神社と言われます 古くは 新宮(現在の二荒山神社)と滝尾神社と共に 日光三社と呼ばれていました

1.ご紹介(Introduction)

この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(shrine name)】

本宮神社(Hongu Shrine)
(ほんぐうじんじゃ)

【鎮座地 (location) 】

栃木県日光市山内2300

[地 図 (Google Map)]

御祭神 (God's name to pray)】

《主》味耜高彦根命(ajisukitakahikone no mikoto)

【御神格 (God's great power)】

・開運 Good luck
・生産 God of production
・交通安全 Pray for Traffic safety

【格 式 (Rules of dignity) 】

・『延喜式神名帳(Engishiki jimmeicho)』所載社(名神大)の元宮
・ 下野一之宮Shimotsuke no kuni ichinomiya)日光二荒山神社の元宮

・ 日光二荒山神社(Nikko Futarasan Shrine)の別宮

【創 建 (Beginning of history)】

本宮神社(ほんぐうじんじゃ)

御祭神 味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)御神徳 開運・生産・交通安全例 祭 4月17日

二荒山神社御本社・滝尾神社と合わせ「日光三社」という。

神護景雲元年(766年)、勝道上人は「山菅の蛇橋」(現在の神橋)を渡りこの地に神仏を祀り、庵を結ぶ。これより15年の歳月を有して、念願の「二荒山」(男体山)、の山頂を極めて、二荒山神社奥宮を創建する。

ここは日光の原点であり、二荒山神社発祥の地であり、 開運の神社と言われます。 何度かの遷宮を経て、現在の「良い縁坂」上に「御本社」が鎮座しております。

境内には勝道上人が笈を掛けたと伝えられる「笈掛(おいか)け石」があり、この石に触れると若返ると言われています。本殿玉垣の南西角に、神竹と言われる「開運笹」があります。この笹にふれると魔除け・開運の御利益があると言われます。拝殿左横の杉には、大きく重なり合った「こぶ」があります。やさしく撫でると喜びが廻ると言われます。

案内立札より

【由 緒 (history)】

本宮(ほんぐう)神社 (重要文化財)
古くは、新宮(現在の二荒山神社)滝尾と共に、日光三社と呼ばれた。
創建は大同3年(808)。祭神は 味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)。現在は二荒山神社の別宮。
4月17日 二荒山神社の弥生祭のとき、三社の神輿がここに渡御する。
貞享元年(1684)の大火で焼失、翌年に再建された。境内には修験者が背 にしていた笈をかけて参拝するところか ら「笈掛石(おいかけいし)」と名付けられた石がある。
案内立札より

【境内社 (Other deities within the precincts)】

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています

延喜式神名帳】(engishiki jimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)下野国 11座(大1座・小10座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)河内郡 1座(大)
[名神大 大 小] 式内名神大社

[旧 神社 ] 二荒山神社(貞・名神大)
[ふ り が な  ](ふたあらさんの かみのやしろ)(みょうじんだい)
[How to read ]Futaarasan no kamino yashiro)(myojindai) 

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

世界遺産「日光の社寺」(The World Heritage Shrines and Temples of Nikko)
日光三社権現(Nikko sansha gongen)について

日光山に鎮座する3つの神社の総称で「日光三社(Nikko sansha)」とも呼ばれます

日光山の信仰は
三山(女峰山〈Mt. Nyoho〉・男体山〈Mt. Nantai〉・太郎山〈Mt. Taro〉を御神体山として
【山・所・仏・神・社】は 神仏習合をして 唱えられていました

三山 (女峰山  ・男体山  ・太郎山)
・三所 (女体権現 ・男体権現 ・太郎大明神
三仏 (阿弥陀如来・千手観音 ・馬頭観音)
・三神 (田心姫命 ・大巳貴命 ・味耜高彦根命
三社 (滝尾権現 ・新宮権現 ・本宮権現)

江戸時代までは 日光山を信仰する三社として
日光三社権現(Nikko sansha gongen(滝尾権現・新宮権現・本宮権現)と呼ばれ
明治元年(1868)3月「神仏判然令(神仏分離令)」に伴って
明治4年に現在の「滝尾神社・日光二荒山神社・本宮神社」と改められています

現在 日光三山を御神体として祀る神社は 次の通りです

女峯山〈Mt. Nyoho〉⇒
頂上には女峯山神社Nyohosan Shrine)奥社
山麓の遥拝処には瀧尾神社Takinoo Shrine)

男体山〈Mt. Nantai〉⇒
頂上には二荒山神社 奥宮(Futarasan Shrine Okumiya)
中腹には二荒山神社 中宮祠(Futarasan Shrine Chugushi)
山麓の遥拝処には日光二荒山神社 本社Nikko Futarasan Shrine

太郎山〈Mt. Nantai〉⇒
頂上には太郎山神社Tarosan Shrine)
山麓の遥拝処には本宮神社Hongu Shrine)

日光二荒山神社(Nikko Futarasan Shrine)と その別宮である「本宮神社・滝尾神社」の「日光三社権現(Nikko sansha gongen)」は いずれも世界遺産(World Heritage)「日光の社寺(Shrines and Temples of Nikko)」の一群です

本宮神社Hongu Shrine)の記事をご覧ください

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本宮神社(日光発祥の地)

本宮神社(ほんぐうじんじゃ)は 神護景雲元年(766年)勝道上人(shodo shonin)が「山菅の蛇橋」(現在の神橋)を渡りこの地(日光)に神仏を祀り 庵を結んだのが始まりとされています ここは日光の原点であり 二荒山神社発祥の地であり 開運の神社と言われます 古くは 新宮(現在の二荒山神社)と滝尾神社と共に 日光三社と呼ばれていました

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日光二荒山神社Nikko Futarasan Shrineの記事をご覧ください〈当社〉

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日光二荒山神社 本社(日光市山内)〈世界遺産「日光の社寺」〉

日光二荒山神社(にっこうふたらさんじんじゃ)は 標高2486m霊峰「男体山(二荒山)」をご神体として 古くから日光における信仰の中心となってきました 残存する最も古い記録には 767年に勝道上人が 日光山を開基したとあり 世界遺産「日光の社寺」の一群で 日光東照宮と日光山輪王寺の中間の位置に鎮座します

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滝尾神社Takinoo Shrine)の記事をご覧ください

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瀧尾神社(日光市山内)〈弘仁11年(820)弘法大師空海が創建 日光瀧尾女躰権現〉

滝尾神社(たきのおじんじゃ)は 弘仁11年(820)弘法大師空海(くうかい)が創建したと伝え 江戸時代までは 日光山を信仰する三社の1つとして 日光三社権現(にっこうさんしゃごんげん)(滝尾権現・新宮権現・本宮権現)と呼ばれていました 女峰山を御神体山と仰ぎ 田心姫命(たごりひめのみこと)を祀り「女体中宮」とたたえます

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『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)に所載の
下野国 河内郡 二荒山神社Futaarasan no kamino yashiro)(貞・名神大)の論社について

現在 論社とされている神社は 全部で6神社あります
日光に4神社と宇都宮に2神社が鎮座します

・日光二荒山神社 本社(Nikko Futarasan Shrine)
・本宮神社(Hongu Shrine)
・二荒山神社 中宮祠(Futarasan Shrine Chugushi)
・二荒山神社 奥宮(Futarasan Shrine Okumiya)

・宇都宮二荒山神社(Utsunomiya Futarasan Shrine)
・二荒山神社 下之宮(Futarasan Shrine Shimonomiya)

それぞれの記事をご覧ください

・日光二荒山神社 本社Nikko Futarasan Shrineの記事をご覧ください

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日光二荒山神社 本社(日光市山内)〈世界遺産「日光の社寺」〉

日光二荒山神社(にっこうふたらさんじんじゃ)は 標高2486m霊峰「男体山(二荒山)」をご神体として 古くから日光における信仰の中心となってきました 残存する最も古い記録には 767年に勝道上人が 日光山を開基したとあり 世界遺産「日光の社寺」の一群で 日光東照宮と日光山輪王寺の中間の位置に鎮座します

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本宮神社(Hongu Shrineの記事をご覧ください

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本宮神社(日光発祥の地)

本宮神社(ほんぐうじんじゃ)は 神護景雲元年(766年)勝道上人(shodo shonin)が「山菅の蛇橋」(現在の神橋)を渡りこの地(日光)に神仏を祀り 庵を結んだのが始まりとされています ここは日光の原点であり 二荒山神社発祥の地であり 開運の神社と言われます 古くは 新宮(現在の二荒山神社)と滝尾神社と共に 日光三社と呼ばれていました

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二荒山神社 中宮祠(Futarasan Shrine Chugushi)
・二荒山神社 奥宮(Futarasan Shrine Okumiya)の記事をご覧ください

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日光二荒山神社・中宮祠・奥宮(日光市)

日光二荒山神社・中宮祠・奥宮は 男体山の山頂にあるので奥宮と呼ばれ 奥宮と日光二荒山神社本社の中間にあるので中宮祠と呼ばれています 御祭神は日光二荒山神社と同じ・大己貴命・田心姫命・味耜高彦根命の3神です 中宮祠の本殿右側には山頂の奥宮への登拝門があり 5月から10月に登山口の門が開き ここから男体山に登ることができます

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宇都宮二荒山神社Utsunomiya Futarasan Shrineの記事をご覧ください

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宇都宮二荒山神社(宇都宮市)

宇都宮二荒山神社(うつのみや ふたあらやま じんじゃ)は 宇都宮市の中心部 明神山(臼ヶ峰、標高約135m)山頂に鎮座します 大変歴史が古く 創建は 第10代 崇神天皇の御代に遡ると云われます 戦災で多くの資料を喪失し 現存の社記には 第16代 仁徳天皇の御代(約1600年前)毛野国が下野国と上野国の二国に分割された時 下野国国造に任じられた奈良別王(ならわけのきみ)が 曽祖父・豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)を氏神として祀ったのに始まると記されます

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二荒山神社 下之宮Futarasan Shrine Shimonomiyaの記事をご覧ください

一緒に読む
宇都宮二荒山神社 下之宮(宇都宮市)

二荒山神社 下之宮は 宇都宮二荒山神社の旧 鎮座地に祀られる元宮です 御祭神の4世の孫 奈良別王が 第16代 仁徳天皇の御代(1600年程前)に下野の初代国造となり 国を治めるに当たり 御神霊を荒尾崎(現在の下之宮)の地に祀り合せたとされます その後 神社は 平安時代前半の承和5年(838)に臼ヶ峰(現在地)に還座しましたが 下之宮は発祥の聖地に鎮座するとして永く奉斎されてきました 1995年以後の再開発の際に現在地に再建されました

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神社にお詣り(Pray at the shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

日光駅から r119号経由 約2km 徒歩30分程度
神橋交差点に面して 境内の入口があります

世界遺産「日光の社寺」(The World Heritage Shrines and Temples of Nikko)案内図で見ると右下の神橋の上になります

本宮神社(Hongu Shrine)に参着

神橋の道路反対側に社号標があり「下野國一之宮 二荒山神社 別宮 本宮神社」と刻まれています この神社は 日光二荒山神社 本社の旧鎮座地になります

杉木立の参道石段を上がると 鳥居が建っています

鳥居の横に手水舎があり 清め 鳥居に向かいます 一礼して鳥居をくぐります

鳥居(寛政12年・国指定重要文化財)には 立札があります

開運の石鳥居
左手前に立ち、一礼して左足より鳥居をくぐり「笈掛け石(おいかけいし)」に触れると運が開くと言われる。

石畳の参道の先には 木々に囲まれて 朱色の社殿が建っています

石畳参道の左手には「笈掛け石」がありますので 先程の「開運の石鳥居」の案内の通り 触れます

笈掛け石(おいかけいし)

日光開山の祖「勝人上人」が笈を掛けたと伝えられる石。
「笈(おい)」と「老(お)い」が同音から、老いを掛けて若返えると言われる。
別名「若返りの石」
※石の上には乗らないでください
案内立札より

石段を上がると拝殿が建ちます石段の横には 日光特有の四角い石燈籠がが建ちます
拝殿にすすみます

神社の案内とご朱印の案内が置かれています

賽銭箱には「開運 日光の原点 本宮神社」と書かれていて この地が 日光の信仰の始まりの地であることが記されています

賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

石畳の参道は 社殿向かって右側に廻っています
ここからですと 拝殿とその奥にある唐門と玉垣に囲われた本殿の全体様子が良くわかります

唐門と玉垣 本殿は朱色に極彩色です

本殿玉垣内には 開運笹があります

古くは神竹と呼ばれ、本殿玉垣南西角に植えられたもの。開運の御利益があると伝えられる。
案内立札より

唐門前には 開運と彫られている「開運石」があります
左右どちらかは 人によって様々でしょう

開運祈願木で「開運石」を軽く3回たたいて定位置より 祈念を込めて
右に移動 金運・幸運左に移動 健康・良縁

説明書きより

本殿の向かって左手前には杉の大木があり「こぶ杉」

この杉のこぶをなでると喜びが廻ってくると言われます。喜こぶ杉をなでて運を開いて下さい。
案内立札より

本殿向かって右手の参道から本殿を仰ぎます

本殿に向かって 右手奥へと参道が続き その奥に三重塔が建ちます

四本龍寺(shihonryuji)三重塔(重要文化財)とあります

四本龍寺 三重塔(重要文化財)

日光山二十四世座主弁覚が、将軍源実朝の供養のために仁治2年(1241)に東照宮境内付近に建立。その後この地に移された。 貞享元年(1684)の大火で焼失、翌年再建されたのが現在の塔である。 三間四方(約6メートル)。最下層の蛙股に十二支の彫刻がある。隣接の不動明王と石の護摩壇は日光修験(しゅげん)の峰修行の遺跡である。
案内立札より

明治時代初頭に発令された神仏分離令によって 日光山内が二社一寺に分離されました四本龍寺(shihonryuji)は 日光山輪王寺に組み込まれ 前面に鎮座する本宮神社は 日光二荒山神社の別宮となっています

四本龍寺(shihonryuji)の創建は 天平神護2年(766年)勝道上人(shodo shonin)が祈祷を捧げると「紫雲石」から 紫色の雲が立ち昇り男体山の方向へたなびくのを見て この地に神仏を祀り 庵を結び 四神守護(青龍・朱雀・白虎・玄武)の霊地とし四本龍寺を開創します

この「四本龍寺 紫雲石(Shihonryuji Shiunseki)」があります

四本龍寺 紫雲石(しほんりゅうじ しうんせき)

ここから西南に少し離れた唯心院境内の礼拝石で、勝道上人が、ある日、礼拝をささげた折、この石の辺りから紫の雲が立ちのぼり、男体山の方へたなびくのを見たということから、紫雲石と呼ばれる。そしてこの地を四神守護の霊地として、四本龍寺を建てたという。
現在は、観音堂、三重塔のみだが、日光発祥の地であり、奈良、平安時代の日光の中心地であった。
案内立札より

日光発祥の地を後にします

神社の伝承(Old tales handed down to shrines)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

神橋の伝説について

聖地日光の表玄関を飾るにふさわしい朱塗に映える美しい神橋は 本宮神社の参道入口に架かります昔は「御橋(みはし)」「山菅の蛇橋(やますげのじゃばし)」などと呼ばれ 日光信仰の創始者 勝道上人(shodo shonin)の日光入りと深いかかわりがあります 現在は 日光二荒山神社の建造物で国の重要文化財に指定され 平成11年12月に世界遺産に登録されました

神橋の伝説

奈良時代の末、下野の人沙門勝道は、その伯父・大中臣諸清たちと、かねて深く尊崇する霊峯二荒山(男体山)の登頂によって鎮護国家、人民利益のための大願をたてました。 天平神護2年3月(766年)勝道上人一行は 大谷川のほとりにたどりつき川を渡ろうとしましたが、岩をかんで流れる大谷川の激流のため渡る方法がなくこまりはてました。
上人はひざまづいて一心に祈念を凝らすと、川の北岸にひとりの神人が現われました。その姿は夜叉のようで、身の丈一丈余、左手は腰にあんじ、右手に二匹の蛇をまき、上人に向って「我は深沙大王である。汝を彼の岸に渡すべし」といいながら手にもった蛇を放つと、赤と青二匹の蛇は、たちまち川の対岸とを結び、虹のように橋をつくり、背に山菅が生えたので、上人一行は早速これによって急流を渡ることができたといいます。
ふり返って見ると、神人も蛇橋もすでに消え失せてしまっていたので、上人は合掌して、深沙大王の加護に感謝し、それ以来この橋を山菅の蛇橋と呼んだといいます。

神橋の伝説 日光二荒山神社 神橋HPよりhttp://www.shinkyo.net/shinkyo2.html

本宮神社(Hongu Shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)

日光三社権現(Nikko sansha gongen)(滝尾権現・新宮権現・本宮権現)の記事をご覧ください

本宮神社Hongu Shrine)の記事をご覧ください

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本宮神社(ほんぐうじんじゃ)は 神護景雲元年(766年)勝道上人(shodo shonin)が「山菅の蛇橋」(現在の神橋)を渡りこの地(日光)に神仏を祀り 庵を結んだのが始まりとされています ここは日光の原点であり 二荒山神社発祥の地であり 開運の神社と言われます 古くは 新宮(現在の二荒山神社)と滝尾神社と共に 日光三社と呼ばれていました

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日光二荒山神社Nikko Futarasan Shrineの記事をご覧ください〈当社〉

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日光二荒山神社 本社(日光市山内)〈世界遺産「日光の社寺」〉

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瀧尾神社(日光市山内)〈弘仁11年(820)弘法大師空海が創建 日光瀧尾女躰権現〉

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日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」について

日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」は 律令時代に発生した制度・社格で 律令時代の国司の参拝に伴う制度・社格として生じました 全国各地に現在でも「一宮」の地名が沢山あり 呼び方については「いちのみや」は同じでも 標記の仕方は「一宮」・「一之宮」・「一の宮」「一ノ宮」など様々です

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下野国 式内社 11座(大1座・小10座)について に戻る 

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下野國 式内社 11座(大1座・小10座)について

下野国(しもつけのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 下野国には 11座(大1座・小10座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています

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