菱妻神社(ひしづまじんじゃ)は 永久元年(1113)久我家の祖 右大臣 源雅実公が奈良の春日大社から天児屋根命を勧請「火止津目(ひしづめ)大明神」と崇奉った 御遷宮の時は具仁親王・源氏(久我家)・藤原氏の一族が牛車三両などを連ねた大社であり 延喜式内社 山城國 乙訓郡 簀原神社(すはらの かみのやしろ)との学説あり
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1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
菱妻神社(Hishizuma shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
京都府京都市伏見区久我石原町3-27
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》天児屋根命(あめのやねのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・久我の里の発展と里人達の平和や幸福を守り給う鎮守の神
【格 式 (Rules of dignity) 】
・ 国史に記載される神社
〈六国史(『日本書紀』『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇實録』『日本三代實録』)に記載されている神社〉
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
御由緒
当神社は平安時代 後期12世紀の初め、永久元年(1113)2月、右大臣 源雅実(みなもとのまさざね)公が奈良の春日大社から天児屋根命(あめのやねのみこと)を勧請して、「火止津目(ひしづめ)大明神」と崇め奉ったことに始まります。御遷宮(せんぐう)の時には具仁(ともひと)親王をはじめ、源氏(久我家)・藤原氏の一族が牛車三両、手輿(こし)数十丁を連ねて社参されたと旧記には伝えられています。
御鎮座(ちんざ)当時には、桂川の西に地境方三十九間、本社、拝殿、神楽殿、御垣の御門に続いて東西に廻廊、南に一の鳥居、東に具平宮(たいのみや)、一・二の鳥居の間には祭殿、御供殿、並びに久我公の成殿があり、高殿の東に遥拝所および御垣、また、御祭道の巽(南東)に惣門があり、祭殿に並んで神主の宅があったと伝えられています。
神領として当地の近辺に五千坪の地があって田中には檜が生え、数十丈の藤がかかっていたと言われています。この事からも当時の広大さがしのばれます。しかし、当地は鴨川、桂川の洪水の被害をたびたび受け、長承3年(1134)には桂川の大洪水により社領三百歩が渕となるほどでした。そこで、久寿元年(1154)「火止津目(ひしづめ)」の字を、水徳があるとして「菱妻(ひしづま)」と改め現在に至っています。
この頃には、親王宣下(せんげ)の時に奉幣使が社参される例であったと言います。また、本社より巽の惣門を奏聞口と言い、辰の上刻(午前7時過ぎ)まで人の通行を禁じていました。
これは南都より毎朝白い鹿が来てこの中を通り、卯の刻(午前6時頃)に南都に帰ったと言われたことによっています。なお、当社を式内社の簀原(すはら)神社ではないかとする学説もあります。
菱妻神社 公式HPより
http://hishiduma.net/history.html
由緒
当神社は平安時代十二世紀の初め、鳥羽天皇の永久元年(一一一三年)二月に、久我家の祖 右大臣 源雅実(みなもとのまさざね)公が、奈良の春日大明神から、藤原氏の祖神、天児屋根命(あめのこやねのみこと)を勧請し、源氏の守護神として火止津目(ひしづめ)大明神を崇め奉ったことに始まる。
華(はな)やかな御遷(せん)宮が行はれたことは、
千種(ちくさ)の花を 手につみいれて
御所へ参らせ 御所へ参らせと、はやされた当時の古歌からも偲ばれる。
御鎮座当時は、広大な神領社殿があったが、桂川の大洪水におかされ 久寿元年(一一五四年)には 字を菱妻(ひしづま)大明神と改められ 以来 今日まで 久我の郷の鎮守の杜として 又 学問運動上達の神として御神徳が高い
神垂祭 五月上旬~中旬
例 祭 九月中旬 二百二十日すぎ現地案内板より
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【由 緒 (History)】
由緒
当神社は平安時代後期 十二世紀の初め、第七十四代鳥羽天皇の永久元年(1113)2月に右大臣源雅実公(後の太政大臣で久我家の祖)が、奈良の春日大明神から天児屋根命を勧請して、火止津目大明神と崇め奉ったことに始まる。
藤原氏、源氏の氏神であると共に火止津目の名の如く、久我の郷の発展と郷人達の平和と幸福を守り給う鎮守の神として、お鎮まりになった御神徳高く、由緒の深い神社である。
御遷宮の時には、判官代、右衞門大尉竹内宿称家澄(当社神主渕田家の祖)が奉行し、源具仁親王はじめ、源氏(久我氏)、藤原氏の一族が、牛車3両、手輿数十丁をつらねて社参されたと、旧記に記されている。
その当時の歌「千種の花を手につみいれて、御所へ参らせ、御所へ参らせ。」この歌の通りに、華やかな遷宮当時の祭事をしのぶことができる。
この歌は、近年まで、5月還幸祭の時に、男の児が、五色の造花(花まきといって、今も厄除とされている)で飾った古風牛車にのって、これをうたい、神輿のお供をする、華やかな、郷をあげての、いかにも氏子祭らしい風習が残されていた。一時は種々の事情で、神輿の渡御ができにくい状況にあったが、昭和53年4月に、御旅所が改新築されたのを機として牛車のお供はないが、還幸祭に神輿渡御が復活され、又、平成元年からは、樽に替り立派な子ども神輿がお供することとなった。中世の祭礼には、猿楽や競馬などの芸能もさかんに行われ、久我の住民はもちろん、近郷の者も集まり盛大をきわめたという。当社の神輿渡御の神幸祭を「御出」と言っているが、これは、夜行われ、社司に続いて神楽の神子たちが馬にのってともをし、いよいよ神輿の着御の時には松明を持った村中の善男善女老婦にいたるまでが、はちまき、たすきがけで、「セジョロヤ、マジョロ。」とはやしたてたという。これは千歳、万歳の意味であって、今日もなお、御出の時「センジョロ。」といって、緋縮緬の襷をかけて着かざった女の児が、手に手に松明を持って神輿の先行をつとめるやさしい姿として残されていた。
御鎮座当時の本社は、桂川の西、地境方39間、本社、拝殿、神楽殿、御垣の御門に続いて東西に回廊、南に一の鳥居、東に具平宮(村上源氏の祖、久我家の大祖、具平親王をまつる)一、二の鳥居の間には、祭殿、御供殿、並びに久我公の成殿があり、又、高殿の東に遥拝所、及び御垣、又、御祭道の巽に惣門があり、祭殿に並んで、社司の宅があって、久我家との関わりが極めて深い。神領として本地の近辺5千坪の地があって田中に桧があり、数十丈の藤がかかっていた。この事からも当時の広大さがしのばれる。
第七十五代崇徳天皇の長承3年(1134)桂川の大洪水によって、社地をおかされ社領三百歩が渕となった。第七十六代近衛天皇の久寿元年(1154)火止津目の字を改めて菱妻大明神として祀る。この頃には、親王宣下の時に奉幣使が社参される例であったという。又、本社より巽に惣門があり、奏聞口といい、辰の上刻まで人の通行を禁じていた。これは、南都より毎朝白い鹿が来てこの中を通り卯の刻に南都に帰ったといわれたことによる。
※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・菱妻神社 社殿
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・〈社殿向かって右 境内社〉具平宮《主》具平親王
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・〈社殿向かって右横 境内社〉粟島神社《主》少彦名命
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・〈参道向かって右 境内社〉虫八幡宮《主》応神天皇
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・〈参道向かって左 境内社〉八幡宮《主》応神天皇
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・〈八幡宮の前 境内社〉住吉神社《主》底筒男神,中筒男神,上筒男神
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・割拝殿
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・御神木〔くすのき〕
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・〈境内社〉稲荷神社
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・社頭の鳥居
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・参道入口鳥居
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【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『風土記(ふどき)』和銅6年(713)
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています
『風土記(ふどき)』和銅6年(713)の特徴について
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本です
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史の総称
・『日本書紀』養老4年(720)完成
・『續日本紀』延暦16年(797)完成
・『日本後紀』承和7年(840)完成
・『續日本後紀』貞観11年(869)完成
・『日本文徳天皇実録』元慶3年(879)完成
・『日本三代實録』延喜元年(901)完成
〇『延喜式(えんぎしき)』延長5年(927)完成
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)全50巻 約3300条からなる
『日本三代實録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
山城國乙訓郡 簀原神社
【抜粋意訳】
卷二 貞觀元年(八五九)正月廿七日甲申
○廿七日甲申
京畿七道諸神 進階及新叙 惣二百六十七社
奉授
淡路國
无品勳八等伊佐奈岐命一品備中國
三品吉備都彦命二品神祇官
无位神産日神。高御産日神。玉積産日神。生産日神。足産日神並從一位。 无位生井神。福井神。綱長井神。波比祇神。阿須波神。櫛石窓神。豐石窓神。生嶋神。足嶋神並從四位上宮内省
從三位園神。韓神並正三位
大膳職
正四位下御食津神從三位
左京職
從五位上太祝詞神。久慈眞智神並正五位下
大膳職
從五位下火雷神
大炊寮
從五位下 大八嶋竈神八前。齋火武主比命神
内膳司
從五位下庭火皇神
造酒司
從五位下大戸自神等 並從五位上。无位酒殿神從五位下。山城國
正二位勳二等松尾神 從一位
葛野月讀神。平野 今木神 並正二位
正四位下 稻荷神三前並正四位上
正四位下 大若子神。小若子神。酒解神。 酒解子神並正四位上
平野從四位下 久度古開神 從四位上
正五位上 貴布禰神。正五位下乙訓火雷神。從五位上 水主神等 並從四位下
正五位下 合殿比咩神 正五位上
從五位下 樺井月讀神。木嶋天照御魂神。和攴神 並正五位下
從五位下 祝園神。天野夫攴賣神。 岡田鴨神。岡田園神。樺井月神。棚倉孫神。許波多神。出雲井於神。片山神。 鴨川合神等並從五位上
正六位上 與度神。石作神。向神。簀原神。鴨山口神。小野神。久 我神。高橋神。雙栗神。水度神。伊勢田神。无位小社神 並從五位下・・・
・・・
・・・〈以下略〉
【原文参照】国
立公文書館デジタルアーカイブス『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫 https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=画像利用
立公文書館デジタルアーカイブス『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫 https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=画像利用
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)山城國 122座(大53座(並月次新嘗・就中11座預相嘗祭)・小69座(並官幣))
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)乙訓郡 19座(大5座・小14座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 簀原神社
[ふ り が な ](すはらの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Suhara no kaminoyashiro)
【原文参照】
国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
延喜式内社 山城國 乙訓郡 簀原神社(貞)(すはらの かみのやしろ)の論社
・菱妻神社(京都市南区久世築山町)
〈合祀もしくは境外社〉
菱妻神社(ひしづまじんじゃ)は 簀原大明神が前身とされるが 詳細は明らかではありません 13世紀頃社名を乙訓坐火雷神社 16世紀頃 菱妻神社に変更と云う 延喜式内社 山城國乙訓郡 乙訓坐大雷神社〔名神大月次新嘗〕・走田神社・茨田神社・簀原神社と4つの式内論社となっています
菱妻神社(久世築山町)〈『延喜式』乙訓坐火雷神社 名神大・走田・茨田・簀原神社〉
・菱妻神社(京都市伏見区久我石原町)
菱妻神社(ひしづまじんじゃ)は 永久元年(1113)久我家の祖 右大臣 源雅実公が奈良の春日大社から天児屋根命を勧請「火止津目(ひしづめ)大明神」と崇奉った 御遷宮の時は具仁親王・源氏(久我家)・藤原氏の一族が牛車三両などを連ねた大社であり 延喜式内社 山城國 乙訓郡 簀原神社(すはらの かみのやしろ)との学説あり
菱妻神社(京都市伏見区久我石原町)〈『延喜式』簀原神社〉
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR京都線 向日町駅から東方向へ約3km 車での所要時間は9~11分程度
社殿 境内 参道は南向きです
菱妻神社(京都市伏見区久我石原町)に参着
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鳥居の向かって左横に「八百五十年祭記念」の石柱
掲示板には 「千種祭(ちくさまつり)五月十四日」の貼紙あり
参拝日は4月7日
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一礼をしてから鳥居をくぐり抜け 境内参道を進みます
正面に割拝殿があります
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割拝殿には由緒書きが掲げられています
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割拝殿をくぐり抜けて
本殿の覆い屋〈拝所〉にすすみます
参道の両脇には〈境内社〉が祀られています
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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
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社殿に一礼をして境内を戻ります
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【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 簀原神社について 所在は゛築山村田圃の中に、今 簀原森といふ小墳あり、是舊跡也、゛〈現 菱妻神社(京都市南区久世築山町)〈合祀もしくは境外社〉〉と記しています
【抜粋意訳】
簀原神社
簀原は須披良と訓べし、吉記に治承四年十一月二十六日、一院入ニ 御簀原泉亭とある、此地なるべし、
○祭神詳ならず
○築山村田圃の中に、今 簀原森といふ小墳あり、是舊跡也、〔土人説〕
名勝志に、土人云、スハラト云所、水垂村西北ニアリ、此所ナランと云り、
また山城國和歌名所集に、簀原山あり、こは夫木集、〔二十〕人志れず恋をのみこそすはら山云々、とあるより引出たる也、〔連胤〕按るに、水垂村西北のすはらと云所尋ね得ず、もとより此邊は水害の場にて、山もなし、されば據を志らず、また夫木集によめる すはら山は、恐らくは美濃信濃の両國のうちなる須原山なるべし、さてまた同村 菱妻神社といふは、当社廢亡の跡をおひて 勧請したるにやあらんとも思へど、さる社傳も聞えず、猶考ふべし、
神位
三代實録、貞観元年正月二十七日甲申、奉授ニ 山城國正六位上 簀原神 從五位下、
【原文参照】
鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 簀原神社について 所在は゛今 廢たり、築山村に簀原森と云 古墳あり、是 其舊址也、゛〈廃絶後 現 菱妻神社(京都市南区久世築山町)〈合祀もしくは境外社〉〉と記しています
【抜粋意訳】
簀原(スハラノ)神社
今 廢たり、築山村に簀原森と云 古墳あり、是 其舊址也、〔神社覈録、式社考證、〕
清和天皇 貞観元年正月甲申、正六位上 簀原神に従五位下を授く、〔三代実録〕
【原文参照】
栗田寛 著『神祇志料』第6,7巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815493
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 簀原神社について 所在は゛築山村田圃の中に今 簀原ノ森と云小墳あり是舊跡也とみえ゛〈現 菱妻神社(京都市南区久世築山町)〈合祀もしくは境外社〉〉と記しています
【抜粋意訳】
簀原(スハラノ)神社
祭神
神位清和天皇 貞觀元年正月廿七日甲申 奉授 山城國正六位上 賽原神 從五位下
祭日
社格所在
今按 神社覈録に土人の説を舉て云 築山村田圃の中に今 簀原ノ森と云小墳あり是舊跡也とみえ 又 名勝志に土人云 すはら と云所 水垂村西北にあり此所ならんと云れど今 其處を尋得ずとあり 湮埋したるにやあらん
【原文参照】
教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019
菱妻神社(京都市伏見区久我石原町)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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山城国 式内社 122座(大53座(並月次新嘗 就中11座預相嘗祭)・小69座(並官幣)について に戻る
山城国(やましろのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 山城国 の122座(大53座(並月次新嘗 就中11座預相嘗祭)・小69座(並官幣)の神社のことです
山城國 122座(大53座(並月次新嘗 就中11座預相嘗祭)・小69座(並官幣)