久伊豆社(ひさいずのやしろ)は 延喜式内社 武蔵国 足立郡 足立神社(あたちの かみのやしろ)の論社とも云われ 鎮座地の゛笠原゛は 古墳時代後期 豪族〈笠原氏〉の本拠地で 『日本書紀』安閑天皇元年(534年頃)の条に「武蔵国造の乱」〈武蔵国造の笠原使主と同族との内乱〉として 大和朝廷も重要視する お家騒動として記されており これは当時 東国の蝦夷(えみし)への前線 武蔵國が朝廷の重要な拠点であったことを示すものとされます
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
久伊豆社(Hisaizu shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
埼玉県鴻巣市笠原1755
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》大己貴命(おほなむちのみこと)
※明治六年に村社となり
明治四十二年(1909)大字笠原
・字 弐貫野(にかんの)の菅原神社と伊奈利社
・字 水井戸(ながいと)の熊野社
・字 前新田(まえしんでん)の浅間社の無格社 計四社を合祀
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・国土経営、夫婦和合、縁結び
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
創建年代不詳
【由 緒 (History)】
久伊豆社 御由緒
鴻巣市笠原(かさはら)一七五五
御縁起(歴史)
『日本書紀』安閑天皇元年閏十二月条には、笠原直使主(かさはらのあたいおみ)と同族の小杵(おぎ)が武蔵国造の地位をめぐって争ったという記事がある。笠原使主は『和名抄(わみょうしょう)』記載の埼玉郡笠原郷を本拠とした豪族と推定される。当地は、この笠原郷の遺称地とされ、古い開発をうかがわせる。また、『吾妻鏡(あづまかがみ)』建久六年(1196)三月十日条には、源頼朝(みなもとよりとも)の奈良東大寺供養に従った隋兵のうちに笠原六郎の名が見え、更に正治二年(1200)二月二十六日条には、源頼家の鎌倉 鶴岡(つるがおか)八幡宮参詣に従った供奉人として笠原十郎左衛門尉親景の名が見える。この両名は、笠原を名字の地とする武士と思われ、平安末期から中世にかけて南・北埼玉郡に勢力を振るった武士団である野与党に属すると推測される。久伊豆社は一般に野与(のよ)党や私市(さきいち)党の共通の祖神とされており、当社もそのような中で奉斉された社(やしろ)の一つであろう。
当社は『風土記稿』笠原村の項に「久伊豆社村の鎮守なり、東光寺持、社人高橋右門は、江戸浅草田原町神事舞太夫田村八太夫配下なり」と記されている。また、当社東隣の真言宗東光寺は慶安二年(1649)に阿弥陀堂(あみだどう)領として朱印地一一石余を与え与れたという。
明治六年に村社となり、同四十二年には大字笠原 字 弐貫野(にかんの)の菅原神社と伊奈利社、字 水井戸(ながいと)の熊野社、字 前新田(まえしんでん)の浅間社の計四社の無格社を合祀した。□御祭神と御神徳
大己貴命(おおなむちのみこと)・・・国土経営、夫婦和合、縁結び□御祭日
・歳旦祭並びに交通安全祈願祭(一月一日)
・祈念(きねん)祭並びに勧学(かんがく)祭(二月二十五日)
・夏祭り(七月十四日)
・例祭(十月十四日)
・新嘗(にいなめ)祭(十一月二十五日)現地案内板より
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・神楽殿〈参道左手〉
・天神社〈神楽殿の向かって左手〉
・八雲神社・小石祠 2宇〈八幡宮と稲荷大神の合祀〉
・社頭 社号標 一の鳥居
・二の鳥居
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)武蔵国 44座(大2座・小42座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)足立郡 8座(大1座・小3座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 足立神社
[ふ り が な ](あたちの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Atachi no kamino yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
久伊豆社(鴻巣市笠原)の鎮座する゛笠原(かさはら)゛は 武蔵国造の笠原氏の本拠地でした
古墳時代後期の゛笠原郷゛は 武蔵国造の笠原氏の本拠地でした
『日本書紀』に記される出来事として「武蔵国造の乱(むさしのくにのみやつこのらん/むさしこくぞうのらん)」があり これは安閑天皇元年(534年頃)に起きたとされる戦いで 武蔵国造の笠原氏の内紛とされます
゛鴻巣(こうのす)゛の地名由来
鴻巣は 无邪志国(むさしのくに)の国府があったとされ 武蔵国造の本拠地があった゛笠原゛と関係がありそうです
鴻巣市役所のHPには 次のようにあります
鴻巣市の名前の由来
「こうのす」の名の由来は、かつてこの地に无邪志国(むさしのくに)の国府が置かれたことから、「国府の州」が「こうのす」と転じ、後に「こうのとり伝説」から「鴻巣」の字を当てるようになったと伝えられています。
(注意)諸説あります
鴻巣市役所HP 市長政策室 秘書課HPより
https://www.city.kounosu.saitama.jp/page/2987.html
延喜式内社 武蔵国 足立郡 足立神社(あたちの かみのやしろ)の論社について
・〈植田谷本村 足立神社 旧社地〉植田谷本のクスノキ(さいたま市西区植田谷本)
植田谷本の楠(うえたやほんのくすのき)は 植田谷本村の足立神社は 植田谷本村 名主 勘太夫の屋舗の内あった足立神社の旧社地辺りだったとされます 明治39年(1906)政府の合祀政策により 飯田村の鎮守 氷川・八幡社に合祀されました
植田谷本の楠(さいたま市西区植田谷本)〈植田谷本村 足立神社 旧社地辺り〉
・〈植田谷本村 足立神社・水判土村 足立神社の合祀先〉足立神社(さいたま市西区飯田)
足立神社(あだちじんじゃ)は 元々は飯田村の鎮守 氷川・八幡合社でしたが 政府の合祀政策により 明治39年(1906)植水村内にあった30社を当社に合祀しました その中に式内社 足立神社の二つの論社〈・植田谷本村の足立神社・水判土村の足立神社〉が含まれており この合祀を機に氷川神社の社号を「足立神社」と改めたものです
足立神社(さいたま市西区飯田)
・加茂神社(さいたま市北区宮原町)
加茂神社(かもじんじゃ)は 江戸時代までは 加茂大明神と呼ばれていました 勧請の年代は不詳ですが その昔 京都の上賀茂神社を勧請したもの と伝えられます 一説に 延喜式内社 武蔵国 足立郡 足立神社(あたちの かみのやしろ)の論社ともされています
加茂神社(さいたま市北区宮原町)
・足立神社(さいたま市浦和区上木崎)
足立神社(あだちじんじゃ)は 開化天皇の御代 創立 延喜式内 足立神社と口碑に伝称されています 高埇郷に鎮座したので 江戸期まで 高埇(たかはな)明神社と呼ばれていましたが 明治期になると 上木崎村の副戸長を努めた市川治右衛門は 当社を延喜式内社の足立神社であると主張し 社名変更を行ったとされます
足立神社(さいたま市浦和区上木崎)
・久伊豆社(鴻巣市笠原)
久伊豆社(ひさいずのやしろ)は 延喜式内社 武蔵国 足立郡 足立神社(あたちの かみのやしろ)の論社とも云われ 鎮座地の゛笠原゛は 古墳時代後期 豪族〈笠原氏〉の本拠地で 『日本書紀』安閑天皇元年(534年頃)の条に「武蔵国造の乱」〈武蔵国造の笠原使主と同族との内乱〉として 大和朝廷も重要視する お家騒動として記されており これは当時 東国の蝦夷(えみし)への前線 武蔵國が朝廷の重要な拠点であったことを示すものとされます
久伊豆社(鴻巣市笠原)
・氷川女體神社(さいたま市緑区宮本)〈・式社考・神名帳考証土代・神社覈録 等に足立神社 論社として掲載〉
氷川女体神社(ひかわにょたいじんじゃ)は 武蔵国有数の古社で 見沼に突き出た小舌状台地の上に鎮座しています 一説では 当社(女體社)と 大宮区高鼻町の大宮氷川神社(御祭神:須佐之男命・男体社)と 見沼区中川の中山神社(御祭神:大己貴命・王子社)の三社を合わせて 武蔵国一之宮と称されていたとも伝えられています
氷川女體神社(さいたま市緑区宮本)
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR高崎線 鴻巣駅から県道38号を東へ約4.3km 車12分程度
県道38号〈加須鴻巣線〉沿いに社号標「村社 久伊豆社」と鳥居が建ちます
久伊豆社(鴻巣市笠原)に参着
社頭が境内の東側で 社殿は南向きの為 参道は途中で ほぼ直角に折れるように曲がります
参道が曲った先には 狛犬が座し 二の鳥居が建ち 正面に社殿が建ちます
拝殿にすすみます
拝殿には 笠原伊勢講の奉納額が掛かります
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿は瓦葺 その奥には 同じく瓦葺の本殿の覆屋が建ちます
社殿に一礼をして 参道を戻ります
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』に記される伝承
久伊豆社(鴻巣市笠原)の辺り 埼玉郡笠原郷を本拠とした豪族と推定される 笠原直使主(かさはらのあたいおみ)と同族の小杵(おぎ)が 武蔵国造の地位をめぐって争った事が 『日本書紀』安閑天皇元年(534年頃)の条に「武蔵国造の乱(むさしのくにのみやつこのらん/むさしこくぞうのらん)」〈武蔵国造の笠原使主と同族との内乱〉として 大和朝廷も重要視する お家騒動として記されており これは当時の武蔵國が 東国の蝦夷(えみし)への前線として 朝廷の重要な拠点であったことを示すものとされます
因みに 武蔵國 横見(よこみ)郡の謂れを遡ると 元は横渟(よこゐ)であったと云われます この横見郡は 郡(こおり)としては小規模な範囲ですが 現在の埼玉県比企郡 吉見町辺りで 第27代天皇 安閑天皇〈在位 531~536年〉の時 笠原直使主(かさはらのあたいおみ)が朝廷に献上した 屯倉(みやけ)四力所の内 横渟(よこゐ)の事であるとされます
【抜粋意訳】
第十八巻 安閑天皇 宣化天皇
安閑天皇 元年閏十二月の条
武蔵国造(むさしのくにのみやつこ)の笠原直使主(かさはらのあたいおみ)と同族の小杵(おき)とが 国造(くにのみやつこ)の地位を争い 長年決着しなかった
※使主(おみ)・小杵(おき)はどちらも名前です
小杵(おき)は 性格が激しく逆らうことがあった 心が高慢で順(まつろう)〈従う〉ことがなかった
ひそかに上毛野君小熊(かみつけのきみおくま)に助を求め 使主(おみ)を殺そうと謀りました
使主(おみ)は悟って 逃げ走り 京(みやこ)に詣で到り 実状を言上しました
朝廷は 臨断〈裁断〉を下され 使主(おみ)を国造(くにのみやつこ)とし 小杵(おき)を誅殺しました国造(くにのみやつこ)使主(おみ)は 恐懼感激して黙し得ず〈黙っていられなくなるほど 喜びが心に満ちた〉
国家のために・横淳(よこぬ)〈横渟(よこゐ)〉・橘花(たちばな)・多氷(おおひ)・倉樔(くらす)の四力所に屯倉(みやけ)を設け奉りました
この年 太歳甲寅(をほとし きのえとら)
【原文参照】
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
式内社 足立神社について 所在は 鴻巣 久伊豆社〈現 久伊豆社(鴻巣市笠原)〉と記し
別説として 式社考に 三室郷 宮本村 宮本大明神〈現 氷川女體神社(さいたま市緑区宮本)〉
或いは 殖田谷村〈現・〈足立神社 旧社地〉植田谷本のクスノキ(さいたま市西区植田谷本) 〉と記しています
【抜粋意訳】
足立(アタチ)神社
〇在 鴻巣曰 久伊豆社乎
古事記 大山津見神 之女 名 神阿多都比賣(カムアタツヒメ)
神代記 天杵瀬命 娶 吾田津姫 生児 火明命
惣風 --神社 神田六十束 四囲田 大日本根子彦太目天皇 御宇二年戊子 所祭 猿田彦命也 有神戸巫家等
式考 三室郷宮本村にあり 宮本大明神 サルタ彦 御朱印十五石 或いは云う 殖田谷村にあり
【原文参照】
『新編武蔵風土記稿(Shimpen musashi fudoki ko)』〈文政13年(1830)に完成〉に記される伝承
久伊豆社(鴻巣市笠原)について 足立郡ではなく 埼玉郡の項に記されています
【抜粋意訳】
巻之二〇八 埼玉郡 巻之十 菖蒲領 笠原村
久伊豆社
村の鎮守なり 東光寺持 社人 高橋右門は 江戸淺草田原町 神事舞太夫 田村八太夫 配下なり
〇淺間社 正福寺持
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 足立神社について 所在は 殖田本村〈現・〈足立神社 旧社地〉植田谷本のクスノキ(さいたま市西区植田谷本) 〉と記しています
式社考に 三室郷 宮本村 宮本大明神〈現 氷川女體神社(さいたま市緑区宮本)〉と記している
(古代より氷川女体神社の祭祀者は 武笠氏一族〈武蔵國の祭祀権を司ると同時に 在地豪族として また武士団としての力も持っていた〉その祖先は由緒書きでは足立郡国造だった「佐伯朝臣」にさかのぼるとされ 故に足立神社か?)
【抜粋意訳】
足立神社
足立は郡名〈阿太知〉に同じ
○祭神 猿田彦大神、(風土記)
○殖田本村に在す、(地名記)
○惚國風土記七十七残欠云、武藏國 足立郡 足立神社、神田 六十束四囲田、大日本根子彦太日天皇 御字二年戊子、所祭 猿田彦命也、有神戸巫家等、
式社考に、三室郷 宮本村 宮本大明神と云り、
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 足立神社の所在について 明治2年に合祀された飯田村 足立神社〈現 足立神社(さいたま市西区飯田)〉としていて 合祀前の旧鎮座地は 水判土村 慈眼寺の境内にあったと記しています
又 植田谷本村 足立神社〈現〈足立神社 旧社地〉植田谷本のクスノキ(さいたま市西区植田谷本)〉も式内社と云われるが 証拠がないので 信じられない と記しています
【抜粋意訳】
足立神社
祭神 猿田彦命
祭日 一月五月 並 十五日 九月十九日
社格 村社
所在 水判土村(北足立郡飯田村 足立神社に合併)
今按〈今考えるに〉
本社この村中の慈眼寺の境内にありしを 明治二年 今の地に移せりと云ひ
又 神社に天正年中の文書三通を蔵するもの證とすべし 故 今之に従ふ
一説に植田谷本村にも足立神社ありと云へど證とすべきものあらねば従がたし
【原文参照】
久伊豆社(鴻巣市笠原)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
武蔵国 式内社 44座(大2座・小42座)について に戻る
武蔵国(むさしのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 武蔵国には 44座(大2座・小42座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
武蔵國 式内社 44座(大2座・小42座)について