広瀬神社(ひろせじんじゃ)は 社記によると景行天皇の御代 日本武尊東征の折 当地を流れる入間川が大和国 広瀬河合の地によく似ていることから大和國 廣瀬坐和加宇加乃賣命神社より 若宇迦能賣命を移し祀ったと伝えています 『文徳実録』嘉祥3年(850)6月条に官社に列したと記される 延喜式(927年12月編纂)所載 武蔵国 入間郡 廣瀬神社(ひろせの かみのやしろ)です
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
廣瀬神社(Hirose shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
埼玉県狭山市広瀬2-23-1
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》若宇迦能賣命(わかうかめのみこと)
《配》八衡比古命(やちまたひこのみこと)〈猿田彦命〉
八衡比賣命(やちまたひめのみこと)〈天宇受賣命〉
久那斗命(くなとのみこと)
〈明治40年2月11日合祀 無格社 愛宕神社〉
《合》神火産霊命(かみほのむすびのかみ)
〈明治40年2月11日合祀 無格社 浅間神社〉
《合》木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・五穀豊穣、家内安全、健康長寿
・安産や子育て、家族弥栄など
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
埼玉縣入間郡水富村大字上廣瀬鎮座
延喜式内社 廣瀬神社
当社祭神ハ 若宇迦能賣命ヲ奉祀ス 創立年月ハ詳ナラスト雖モ 傳語ニ景行天皇ノ御代皇子 日本武尊 東夷ヲ征討シ給ウ時ニ 是地相ノ大和國川合ノ地ニ酷似セリト稱シ 親ラ幣帛ヲ奉リ 廣瀬ノ神ヲ斎キ祀リ 武運長久國家安穏ヲ祈誓セラレシニ依リ創始セリト言フ
文徳天皇ノ三年六月 武蔵国 廣瀬ノ神ヲ官社ニ列スト見エ 延喜式内社ニ挙ラル 爾後崇敬益加リ年代ノ久シキ間少モ変遷ナシ
明治六年郷社ニ列セラレ 同七年県社ニ昇格ス 同四十四年四月本殿拝殿社務所其他ノ設備全ク整ヘリ 大正九年四月覆殿ヲ再築セリ
恒例ノ祭祀弥尊厳ヲ極ムルニ至レリ 当社祭典中尤モ盛ナルハ 古式神事ニシテ 神輿ヲ四境ニ巡幸シ 四隅ニ塞神ヲ祭ルノ式アリ 即千年穀ノ豊穣ヲ報賽シ 悪疫ヲ退却スルノ儀ニシテ 地方ヨリ参拝スルモノ多ク頗ル賑ヘリ
寶物
崇光天皇御宸翰 一軸
備前長船太刀 一口
外数点祭日
例 祭 四月四日
祈年祭 二月十九日
新嘗祭 十一月廿五日
古式神事神輿渡御祭 十月十七日延喜式内社 廣瀬神社社務所
當社ハ入間川駅停車場ヨリ約十二丁 豊岡駅ヨリ約十五丁ノ地ニアリ現地案内板より
【由 緒 (History)】
廣瀬神社略記
創立
「大和時代の景行天皇(第十二代)の御代、日本武尊命東国平定の折、当地が大和の国河合の地に酷似せりと称し、親ら幣帛を奉り、(大和の国の)廣瀬の神を斎き祀りて、武運長久国家平穏を祈誓せられしより創始せり」との社伝があり、創立は、三世紀に遡る。由緒
「狭山市の社寺誌」(市教育委員会刊行)において、「当社は、大和朝廷により勅命により官社に列せられた数少ない神社であり、由緒正しく、当時すでに関東において格の高い名神として崇められていた・・。狭山市の神社の中で最も古く、格式高い神社である。」と、記述されている。主たる記録は次のとおり。
(官社)
『文徳天皇実録』の嘉永三年(西暦八百五十年)六月三日の条に「武蔵の国廣瀬の神を官社に列す」との記述あり。(延喜式内社)
延長五年(西暦九百二十七年)に編纂された『延喜式神名帳』に「武蔵国四十四座 入間郡五座の内一つ 廣瀬神社」と登載されている。(県社)
明治六年郷社、同七年県社に列せられた。御祭神
(主祭神)若宇迦能売命(わかうかめのみこと)(相殿神)八衡比古命(やちまたひこのみこと)
八衡比売命(やちまたひめのみこと)
久那斗命(くなとのみこと)御神徳
主祭神は、水の守り神であり、風雨の調和による穏やかな世の中、豊かな実りを守る神である。
五穀豊穣、家内安全、健康長寿の御神徳がある。水に因んでの崇敬者は遠方からも見える。女神であり、安産や子育て、家族弥栄など多方面の御神徳がある。
相殿神の三神はいずれも禍を防ぐ神である。除災招福や交通安全、疫病退散などの御神徳がある
(御本社に当たる廣瀬大社(奈良県河合町)の御記略においては、「主祭神(若宇迦能売命)は、水の守り神である。天武天皇以降歴代の天皇より、風雨の調和、年穀の豊穣等を御祈願され、国家の瑞祥、または禍害あるごとに、奉告御祈願された。」と記されてる。)祭事
大祭 春季四月第一土・日曜日 秋季 (神輿渡御 )十月第三土•日曜日
中祭 元旦祭一月ー日 祈年祭二月十一日 新嘗祭十一月二十三日
小祭 月次祭 毎月ー日・十五日 ※大祓式 六月三十日・十二月三十一日宝物
崇光天皇御宸翰 一軸
豊後住人増定秀太刀 一振
御正体(御鏡掛仏) 一枚
備前長船住人祐定太刀 一振
槍 鎌倉鍛冶山村綱広作一点文化財
埼玉県天然記念物 大欅二本(御神木)
狭山市指定文化財 (工芸品) 神輿一基
狭山市指定無形民族文化財 広瀨囃子末社(境内社)
杉森稲荷社(祭神)保食命、猿田彦命、大宮廻売命
八幡神社(祭神)応神天皇
霞神社(祭神)大国主命、少彦名命、神霊百十七柱社容整備
明治四十二年、本殿及び拝殿を境内北隅から現在地に遷宮。大正九年、本殿覆殿再築。
昭和七年、神楽殿を改築。昭和十五年、紀元二千六百年記念事業として太鼓楼を新築。昭和四十三年、明治百年記念事業として社務所建築。昭和五十五年社容整備(外柵、玉垣、攝末社等の改築修繕等)。平成八年大欅樹勢回復事業。平成十八年、拝殿改修、向拝増築。平成二十一年鳥居再築。
延喜式内 廣瀬神社 (平成二十三年 氏子中)
現地案内板より
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・本殿の覆殿
・拝殿
・旧社殿跡
・大欅
埼王県指定文化財 天然記念物
廣瀬神社の大ケヤキ
所 在 地 狭山市広瀬2-23-1(廣瀬神社)
指定年月日 平成10年(1998)3月17日ケヤキは楡(にれ)科の落葉高木です。農家では防風林として植えることが多く、武蔵野の景観にとけこんでいる馴染みの木です。普通、高さは二〇メートルぐらいまでですが、この大ケヤキは高さ約三〇メートル、周囲約六メートルmというまれに見る巨木で、樹齢七~八〇〇年と推定されます。
江戸時代末期の書物『新編武蔵風土記稿』の廣瀬神社の項に「…社辺に竹樹生茂り中にも古木の大槻(おおつき)三株あり、是(これ)を神とす、一は囲(かかえ)二丈、一は囲(かかえ)一丈五尺、一は囲(かかえ)二丈六尺余なり、是等を見て旧跡たることしるべし…」とあります。
現在はケヤキの巨木二本が相対して境内に立っております。
平成十六年一月 埼王県教育委員会 狭山布教育委員会
現地案内板より
・広瀬囃子について
狭山市指定無形民俗文化財
広瀬囃子(ひろせばやし)
伝 承 地 狭山市広瀬二-二三-一(広瀬神社)
指定年月日 昭和五十二年(一九七七)九月一日広瀬囃子は江戸末期の万延、文久のころ、「笛の佐平(さへい)に鶯(うぐいす)さえも唄を忘れて聞きほれる」と江戸末期に俗謡にまでうたわれた「佐平(さへい)の笛」こと村木佐平(きむらさへい)と「天孤(てんこ)の喜十郎(きじゅうろう)」こと飯島喜十郎(いいじまきじゅうろう)らが中心になり、神田囃子を学んだことに始まるといわれています。
囃子は享保年間(一七一六~三五)に江戸の葛西郡香取明神を中心に神楽囃子として作り出され、文化、文政年間には近在に普及しました。現在埼玉県内に分布しているものを大別すると、江戸系統の葛飾囃子、神田囃子、上州系統の三手古囃子、それに本県独特の系統の秩父囃子の三系統があります。入間、比企地方には神田囃子が多く、その中でも広瀬囃子は、県内でも珍しい神田古囃子を受け継いでいます。
曲目は屋台(やたい)、聖天(しょうでん)、大馬(おおま)、鎌倉(かまくら)、師調目(しちょうめ)、仁羽(にんぱ)、などで六曲あり、使用楽器は大太鼓一、小太鼓二、鉦一、笛一となっています。
毎年、廣瀬神社の元旦祭、禅龍寺(ぜんりゅうじ)の節分会(せつぶんえ)(二月三・四日)、廣瀬神社春祭り(四月第一土曜・日曜日)、秋祭り(十月第三土曜・日曜日)、広瀬浅間(せんげん)神社の火祭り(八月二十一日)などに奉納囃子がおこなわれています。
平成十五年三月 狭山市教育委員会・狭山市文化財保護審議会
現地掲示板より
・神楽殿
・不朽梅
不朽梅
梅の木は、樹齢二百年を越えるとねじれてくるのだそうです。
この梅の木の樹齢は四百年位 (樹木医の診断 )とのことですが、老いてなお、花を開かせ、新しい芽を伸ばすなど勢いがあります。
郷土の偉人清水宗徳翁は、境内にある「安政の句碑」の中に次の句を遺しています。
月澄めば 香も一入ぞ 梅の花
当神社の社容整備はもとより、近代日本の黎明期における宗徳翁の功績を讃え、偲ぶよすがとして、この梅の木を「不朽梅」と名づけることとした。
宗徳翁の俳号 不朽軒義同 そして逞しく生き続ける梅の木に因んでの命名である。
遷宮百年•翁没後百年記念として 平成二十二年春 氏子中
現地案内板より
・霞神社《主》大国主命、少彦名命、神霊百十七柱
由来
霞神社は明治の日清日露戦役以来、昭和十六年の太平洋戦争に至る数次の戦役事変に本地区旧水富村の在住の若者が出生され尊い生命を日本国の為に捧げ散華された人々の御魂を斎(いつき)奉られた鎮魂のお社です。
平成十三年四月吉日
・稲実の池
・杉森稲荷社《主》保食命、猿田彦命、大宮廻売命
・八幡神社《主》応神天皇
・太鼓楼
・社務所
・神明宮〈石祠〉
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『日本文徳天皇實録(Nihon MontokuTenno Jitsuroku)〈元慶3年(879年)完成〉』に記される伝承
武藏國 廣瀬神として 官社に列せられたことが記されています
【抜粋意訳】
卷一 嘉祥三年(八五〇)六月己酉〈三〉
○己酉
雷震す西寺刹柱 剥に取其竿 中央一許丈 去落て於右馬頭藤原朝臣春津宅
詔以に
武藏國 廣瀬神
常陸國 鴨大神御子神主玉神 並に列す於官社に安房國國造 正八位上 伴直千福麻呂 授に外從五位下
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)武蔵国 44座(大2座・小42座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)入間郡 5座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 廣瀬神社
[ふ り が な ](ひろせの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Hirose no kaminoyashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『延喜式神名帳(927年12月編纂)』に所載の゛廣瀬神社゛について
社号の゛廣瀬(ひろせ)゛は「川の合流点で 瀬の広き所」の意とのこと
式内社に゛廣瀬神社(ひろせのかみのやしろ)゛を号する社は 三ヶ所あります
①大和國廣瀬郡 廣瀬坐和加宇加賣神社 名神大
②伊豆國田方郡 廣瀬神社
③武蔵國入間郡 廣瀬神社
中でも 廣瀬神社(狭山市広瀬)は 社記によると景行天皇の御代 日本武尊東征の折 当地を流れる入間川が大和国 広瀬河合の地によく似ていることから大和國 廣瀬坐和加宇加乃賣命神社より 若宇迦能賣命を移し祀ったと伝えています
①大和國 廣瀬郡 廣瀬坐和加宇加乃売命神社(名神大 月次 新嘗)(ひろせにます わかうかめのみことの かみのやしろ)の論社
・廣瀬大社(河合町川合)
廣瀬大社(ひろせたいしゃ)は 創建は崇神天皇9年(前89)゛大和盆地を流れる全ての河川が合流する地点に祀られ治水と五穀豊穣を司る゛と由緒にあり 大和川は 鎮座地から 龍田を抜け奈良盆地を下り流れる 『日本書紀』天武天皇4年4月の条には 風神を龍田の立野〈龍田大社〉に 大忌神を広瀬の河曲〈廣瀬大社〉を祀る と記されます
廣瀬大社(北葛城郡河合町川合)〈崇神天皇九年(前八九)鎮座の式内社〉
②伊豆國 田方郡 廣瀬神社(ひろせの かみのやしろ)の論社
・廣瀬神社(伊豆の国市)
広瀬神社(ひろせじんじゃ)は 古来より 田中郷5ヶ村の総鎮守で『延喜式神名帳』(927年12月編纂)の論社です 社伝によれば 往古 社殿は 金銀をちりばめ壮大にして 禰宜36人 供僧6坊を置き 神領8町8反大50歩永80貫文を充てられ 隆盛を極めたとされ 三島大社はその昔 下田の白浜から この地に移り その後に三島に遷祀したと伝わります
廣瀬神社(伊豆の国市)
・廣瀬神社(伊豆国四之宮)〈楽寿園 内〉
廣瀬神社(楽寿園内)(ひろせじんじゃ)(らくじゅえんない)は 三嶋大社が 現在地(三島にあったとされる伊豆国の国府の傍)に遷座した時に 伊豆国府から国守が 廣瀨瀬神社を遥拝するために設けた遥拝所との説もあります 三嶋大社の元摂社で「伊豆国四之宮」とされています 一時は 隣接地の浅間神社(伊豆国二之宮)境内に遷座しましたが 昭和27年(1952)に楽寿園が公営公園となった際に園内に再建されました
廣瀬神社(伊豆国四之宮)〈楽寿園 内〉
・満宮神社(函南町)
満宮神社(まんぐうじんじゃ)は 第84代 順徳天皇の著『八雲御抄(yakumo misho)』〈鎌倉時代〉の歌論書に「伊豆国 田方郡(たがたのこおり)」にある鎮守の杜を指す言葉として「田方の杜(たがたのもり)」と称されたとする伝承があります 「田方の杜(たがたのもり)」ですから 田方郡でも 重要な神社として認識されていたであろうことが伺えます
満宮神社(田方郡函南町)
③武蔵國 入間郡 廣瀬神社(ひろせの かみのやしろ)の論社
・廣瀬神社(狭山市広瀬)
広瀬神社(ひろせじんじゃ)は 社記によると景行天皇の御代 日本武尊東征の折 当地を流れる入間川が大和国 広瀬河合の地によく似ていることから大和國 廣瀬坐和加宇加乃賣命神社より 若宇迦能賣命を移し祀ったと伝えています 『文徳実録』嘉祥3年(850)6月条に官社に列したと記される 延喜式(927年12月編纂)所載 武蔵国 入間郡 廣瀬神社(ひろせの かみのやしろ)です
廣瀬神社(狭山市広瀬)
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
西武新宿線 狭山市駅西口から西へ 入間川を渡り約3.2km 車15分程度
社頭は 東を向いています
鳥居の扁額には゛延喜式内 廣瀬神社゛と記されています
廣瀬神社(狭山市広瀬)に参着
一礼をして 鳥居をくぐり 駐車場を兼用している参道を進むと
玉垣の廻された 境内の入り口
境内に入ると 御神木゛大欅(オオケヤキ)゛に注連縄が廻されています
拝殿にすすみます 右手には゛太鼓楼゛が建ちます
太鼓楼は 時刻を知らせるものとされますが 神仏習合の名残か
拝殿に掲げられている扁額
社号額の「廣瀬神社」の文字は、
「明治の三筆」と称された
維新の志士野村素介の書です。野村素介
天保十三年五月十八日(一八四二)〜昭和二年十二月二十三日 (一九二七)父は長州藩士有賀留之介。長州藩の藩校明倫館で学んだ後、江戸にて漢学、兵学、書道を学んだ。
帰藩後明倫館舎長となり、同藩士野村正名の嗣子となる。幕末、尊攘を唱え国事に奔走。維新後、欧州視察 (ー八七一 )を経て文部大書記官などを歴任し、貴族院議員に勅選された。
晩年は書家として著名で書道奨励会の会頭を務め、杉孫七郎、日下部鳴鶴らとともに明治の三筆と称された。
資性温厚で質素をたっとび、気品高く、人に対して親切丁寧であった。
参考文献・朝日新聞社編「日本歴史人物事典」山口県萩市商工会議所 HP (萩市出身の志士 )
御遷宮百年記念として 平成二十二年秋 氏子中
境内の説明板より
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社殿は 拝殿 幣殿 本社の覆屋が一体となっています
社殿の脇から 境内を見ると大ケヤキが数本あって 古社を漂わせます
社殿に一礼をして 参道を戻ります
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『新編武蔵風土記稿(Shimpen musashi fudoki ko)』〈文政13年(1830)に完成〉に記される伝承
廣瀬神社(狭山市広瀬)について 高麗郡 上廣瀬村に記されています
式内社 廣瀬神社であるとも記されています
【抜粋意訳】
新編武蔵風土記稿 巻之ー百八十 高麗郡之五 上廣瀬村 廣瀬神社
村の東南下宿にあり 當社のことは 延喜式神名帳に武蔵國 入間郡 廣瀬の神社とあり 官社の説は前に辨ず
相傳ふ祭神は 太田命 倉稲魂命なりと 今祭るところは 白髭明神なり 神體は束帶せる木の立像にて 長一尺二寸 又 本地佛のよし 徑り六寸四分の圓鏡中に鑄造せる佛像あり 像の左右に 奉納武州高麗郡廣瀬郷大旦那 天正十年壬午九月吉日 諸旦那敬白とえり像の下に景吉繁昌とあり 神體佛像 其上に圖す
社地一段一歩を除す この餘林一段畠一段八畝あり
往古のこと更はなり 今は僅に上下廣瀬村の鎮守にて 例祭九月十九日なり
社邊に竹樹生茂り中にも古木の大槻三株あり 是を神木とす 一は圍二丈 一は圍一丈五尺あまり 一は二丈六尺餘なり 是等を見て舊跡たることしるべし 別當寶蔵寺は社の西にあり八幡社 西光寺持 下同
神明社
稲荷社
神明社 正覺院持 下同じ
愛宕社
稲荷社 信立寺の持
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 廣瀬神社について 所在は 上廣瀬村に在す、今高麗郡に属す〈現 廣瀬神社(狭山市広瀬)〉と記しています
【抜粋意訳】
廣瀬神社
廣瀬は比呂世と訓べし、和名鈔、〔郷名部〕廣瀬、〔假字上の如し〕
○祭神 太田命、倉稻魂命、〔地名記〕
○上廣瀬村に在す、今高麗郡に属す、
例祭 月 日、類社
伊豆國 田方郡 廣瀬神社官社
文徳実録、嘉群三年六月己酉、詔以に武蔵國廣瀬神、列に於官社、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 廣瀬神社について 所在は 高麗郡上廣瀬村にあり、廣瀬大明神といふ〈現 廣瀬神社(狭山市広瀬)〉と記しています
【抜粋意訳】
廣瀬(ヒロセノ)神社
今 高麗郡上廣瀬村にあり、廣瀬大明神といふ、〔巡拝舊祠記、神名帳土代、〕
文徳天皇 嘉祥三年六月己酉、詔して官社に列しむ、〔文徳実録〕
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
廣瀬神社(狭山市広瀬)について ゛文政六年 祝融の災に罹り゛火事の災難で 古文書などを失ってしまったが 古老の伝えには 景行天皇の御代の創建であり 延喜式内社であると 記しています
【抜粋意訳】
〇埼玉縣 武藏國 入問郡水富村大字上廣瀬
縣社 廣瀬(ヒロセノ)神社
祭神 若宇迦能賣廼(ワカウガノメノ)命
文政六年、舊別当 眞言宗 宝藏寺 祝融の災に罹りし際、當社 傳来の古記 古文書 及 古器等 悉く鳥有に帰し、為めに創立起源を詳にすること能はずと雖も、
古老相傳ふ、景行天息の御宇、大和國 廣瀬郡 廣瀬神社を勧請せるものにして、村名亦之に因すと、
されば當社は現に文徳實録に、
「嘉祥三年六月己酉、詔以に武蔵国 廣瀬神、列に於官社、」
と見え、
延喜の制、小社に列せられ、當國有数の舊社たり、
御神體は新編武藏風土記稿に、
「神體は束帯セル木ノ立像ニテ、長一尺二寸、又本地佛ノヨシ。径リ六寸四分ノ円鏡中ニ鋳造セル彿像アリ、像ノ左右ニ、奉納武蔵高麗郡廣瀬郷大旦那、天正十年壬午九月吉日、諸旦那敬白トアリ、像ノ下ニ、景吉繁昌トアリ、」
と見ゆ、
明治六年郷社に列し、翌七年更に縣社に列し、縣社兼郷社となる、社殿は本殿、拝殿、幣殿、其他神輿殿等あり、境内は千七百五十二坪(官有地第一種あり、
社頭大槻三株あり、里人神木と稱す、新記注して云く、「一ハ圍二丈、一ハ圍一丈五尺、一ハ二丈六尺余、是等ヲ見テ、舊跡タルコトシルベシ」と。境内神社
八幡大神(ヤハタノオホカミ)社 稻荷神社 神明社
【原文参照】
廣瀬神社(狭山市広瀬)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
武蔵国 式内社 44座(大2座・小42座)について に戻る
武蔵国(むさしのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 武蔵国には 44座(大2座・小42座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
武蔵國 式内社 44座(大2座・小42座)について