実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

廣峯神社(姫路市広嶺山)

廣峯神社(ひろみねじんじゃ)は 奈良時代 天平5年(733)に遣唐使として中国から帰国した「吉備真備 公」は 国家の為に 陰陽道(天文・暦・気象を司り、国の吉凶を見定める)を習得されていました 奈良へ帰途の折 広峯山系の白幣山に登臨して「牛頭天王の信託を感受」します この旨を第45代聖武天皇に奏上して 翌年に廣峯神社の大社殿が造営されました

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(shrine name)】

 廣峯神社(hiromine shrine)
(ひろみねじんじゃ)

 [通称名(Common name)]

 【鎮座地 (location) 】

兵庫県姫路市広嶺山52

 [地 図 (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

本殿(honden)

 左殿(saden)
《配》奇稲田媛命(kushiinadahime no mikoto)
 別称 頗梨采女(hari saijo)歳徳神(saitokushin)恵方no神
《配》足摩乳命(ashinazuchi no mikoto)
《配》手摩乳命(tenazuchi no mikoto)

 正殿(shoden)
《主》素盞嗚尊(susanoo no mikoto)
 別称 牛頭天王(kozu tenno)武塔天神(muto tenjin)
    薬師如来(yakushi nyorai)天道神(tendo shin)
《主》五十猛尊(isotakeru no mikoto)
 別称 大屋彦神(oyahiko no kami)

 右殿(uden)
《配》正哉吾勝勝速日天忍穂耳命
  (masakatsuakatsuamenoshihomimi no mikoto)
《配》天穂日命(ameno hohi no mikoto)
《配》天津彦根命(amatsuhikone no mikoto)
《配》活津彦根命(ikutsuhikone no mikoto)
《配》熊野杼樟日命(kumanono kusuhi no mikoto)
《配》田心媛命(tagorihime no mikoto)
《配》湍津媛命(tagitsuhime no mikoto)
《配》市杵島媛命(itsukishimahime no mikoto)
《合》大年神(otoshi no kami)
《合》御年神(mitoshi no kami)
《合》若年神(wakatoshi no kami)
《合》久久年神(kukutoshi no kami)
《合》稚産霊神(wakumusuhi no kami)
《合》級長津彦神(shinatsuhiko no kami)
   級長津媛神(shinatsuhime no kami)
《合》久那斗神(kunato no kami)
《合》八衢彦神(yachimatahiko no kami)
   八衢媛神(yachimatahime no kami)

【御神格 (God's great power)】

・縁結びの神 God who deepens the connection and intimacy with others
・農耕の神 God of Agriculture
・生産の神 God of production
・暦を司る神 God controlling the calendar and fortune-telling
・植樹の神 Tree planting god

【格 式 (Rules of dignity) 】

・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』所載社
・ 別表神社
・ 全国にある牛頭天王の総本宮(祇園信仰)
(京都 八坂神社も「牛頭天王 総本宮」を主張しています)

【創 建 (Beginning of history)】

【由 緒 (history)】

平野庸修の撰にかかる
「播磨鏡」に「崇神天皇の御代に廣峯山に神籬を建て、素盞嗚尊、五十猛命を報齋し」とあるが如く、西歴元年前後と説いている。

其後、聖武天皇の御代 天平5年(733)
吉備真備公に勅して、廣峯山に大社殿を造営、新羅国明神と稱し、牛頭天王と名付けられたと述べている。

「峯相ノ記」に「播州峯相山鶏足寺(姫路市石倉西脇廃寺)参詣ス」と書き
初めて「広峯山ノ事、利生揚焉ニ賞罰厳重ナル間、自国他国歩ヲ運テ崇敬スル事、熊野御嶽ニモヲトラズ万人道ヲアラソイテ参詣ス、結縁の為ニ是モ一度詣テ候之」と広く崇敬されている事を記し、

次に吉備公が広峯の神を崇め奉り、牛頭天王稱した経緯を次の様に記している。

元正天皇御宇 霊亀2年、吉備大臣 入唐ス。在唐18年・所学十三道・殊に陰陽を極芸セリ・聖武天皇御宇 天平五年 帰朝云々・吉備公 於当山奉崇 牛頭天王也。年数ヲ歴テ 平安城東方守護ノ為 ス祇園荒町ニ勧請シ奉ル 当社ヲ以テ本社ト為ス也」とあり。

吉備真備公は 
永い外国留学の末帰朝したのであるが、その修学の内、陰陽暦学を世に広めたいと考え、唐ノ国の暦書には その国の歴神天道天徳歳徳八将神等、歴法家の造成した神であるので、彼の国の故事を取り入れ 素盞嗚尊を牛頭天王・天道神とし 奇稲田媛命を頗梨・采女・歳徳神とし 八王子の神を八将神などと配して 日本暦の歴神とし、薬師如来さえ立て 五節 或は年中の神事。佛事も法例としたもので、「こよみ」は現代の慶弔 建築等に重要されるもので 当時 中国文化を初めて取り入れた公が、広峯社の祭神を歴神とした事で 今迄も農耕を中心とする国民の生産として 崇める上に生活指針とする歴学の根源の社とされたので、生産の神の上に建築 方位方崇除の神として、又、牛頭天王としての故事による病気、海陸交通厄難除の神として尚一層の広範囲の庶民の信仰を亨けたものと考えられる。

又、神威として後白河法皇の御撰による「梁塵秘抄」に、関より西なる軍神として美作の中山、安芸の厳島、備中の吉備津、播磨の廣峯が挙げられ、
矢野信景の「牛頭天王辨」に廣峯(播州)祇園(京師)津島(尾張)大宝牛頭(近江)と延喜以前にあるも 式撰之日之を神名帳に載せずとあり近世では、広峯・祇園・津島を日本三大天王と稱されている。

斯くの如く歴史と伝統とを保持し 国の重文社殿を持つ広峯社は 当地方一円の誇りであり、牛頭天王総本社として自他共に認められ、皇室国家の疵護もなく唯、大衆の崇敬を得て維持されて来た神社は全国でも少ないと思われる。

当社は、京都 元官幣大社 八坂神社(祇園観慶寺感神院)と本社・末社の争いを永い間続けた歴史を持ち、現今では、天下の祇園社と本・末の争いをした事実は、当社の昔日の人民に支えられた繁栄を伺えるものであるが、

永仁元年(1293)に大火に罹り 社殿をはじめ総てを鳥有に帰したので わずかに残る古文書の一書、鎌倉将軍(源實朝)御教書に「播磨国 広峯社者 祇園本社也云々、自今後可停止守護使乱入之状、依鎌倉殿執達如件」建保4年8月29日(1216)信濃守(行光)

この文章に続き
貞応2年(1223)北条義時 下知状にも祇園本社とある。

官社に列せられた祇園社に対し、当 広峯社を祇園本社と認めた事は重大である。
室町時代、浪々に身で広峯社を信仰する黒田重隆夫妻と子息 兵庫助夫妻(その若い妻には黒田官兵衛孝高がみごもっていたのである)が、或る日参詣し、当社 神主の種々の指導支援により財を得て御着城主、姫路城主となり黒田官兵衛は 豊臣秀吉の軍師として活躍した事は有名である。

「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から

【境内社 (Other deities within the precincts)】

 「ご本殿の裏(九星詣り)」

・稲荷社(inarisha)
《主》倉稲魂命(ukanomitamanomikoto)

・天神社(tenjinsha)
《主》菅原道真(sugawaranomichizane)


・熊野権現社(kumanogongensha)
《主》菊理姫命(kukurihimenomikoto)
   速玉男命(hayatamaonomikoto)
   瀬織津姫命(seoritsuhimenomikoto)

・冠者殿社(kanshadensha)
《主》神皇産霊神(kamimusubinokami)
   高皇産霊神(takamimusupinokami)
   木花咲哉姫神(konohanasakuyahimenokami)

・山王権現社(sannogongensha)
《主》金山毘古神(kanayamahikonokami)
   金山比売神(kanayamahimenokami)

・庚申社(koshinsha)
《主》猿田彦命(sarutahikonomikoto)
   天鈿女神(amenozumenokami)

・大鬼社(oonisha)
《主》伊弉諾命(izanaginomikoto)

・蛭子社(ebisusha)
《主》蛭子命(ebisunomikoto)事代主命(kotoshironushinomikoto)

・地養社(chosha)
《主》蘇民将来(sominshorai)

・薬師堂(yakushido)
《主》薬師如来(素盞嗚尊の奇魂)(kushimitama)

・軍殿八幡社(gundenhachimansha)
《主》応神天皇(ojintenno)神功皇后(jingukogo)

・隋神門(zuijimmon)
《主》左大臣(sadaijin)右大臣(udaijin)

・天祖父神社(amasaisha)
《主》伊弉諾尊(izanaginomikoto)
   伊弉冉尊(izanaminomikoto)
   天照大御神(amaterasuomikami)

・荒神社(kojinsha)
《主》素盞嗚尊の荒魂(aramitama)

・吉備神社(kibisha)
《主》吉備真備公(kibinomakiko)

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています 

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています

【延喜式神名帳】(engishiki jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.

2つの延喜式内社の論社となっています

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陽道 140座…大16(うち預月次新嘗4)・小124 
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)播磨国 50座(大7座・小43座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)飾磨郡 4座(並小)
[名神大 大 小] 式内大社


[旧 神社名 ] 射楯兵主神社二座
[ふ り が な  ](いたての ひょうずの かみのやしろ)
[How to read ](kisakinokami ameno hirinome no kamino yashiro) 


[旧 神社名 ] 白国神社
[ふ り が な  ](しらくにの かみのやしろ)
[How to read ](kisakinokami ameno hirinome no kamino yashiro)

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫

【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

全国にある「牛頭天王の総本宮」(祇園信仰)の本宮争いについて

古くから 廣峯神社(hiromine shrine)と京都・祇園社(現八坂神社)との間に祇園信仰の本社争いが続いてきました

廣峯神社(hiromine shrine)の主張

祇園の神(牛頭天王)は 広峯から京都・祇園に遷った「広峯」が本宮である

白幣山には神代より
夫婦神
素盞嗚尊(susanoo no mikoto)
奇稲田媛命(kushiinadahime no mikoto)
奇稲田媛命の親神
足摩乳命(ashinazuchi no mikoto)手摩乳命(tenazuchi no mikoto)
御子神
五十猛尊(isotakeru no mikoto)御子神八王子神
が祀られていて神の山として信仰を集めていたと伝えられています

202年 神巧皇后(jingu kogo)が 三韓征伐に出兵の際に 勝利と平定の祈願をされた という記録が 廣峯神社社伝にしるされています

天平5年(733)「吉備真備公」は 陰陽道(天文・暦・気象を司り、国の吉凶を見定める)を習得されて 遣唐使として中国から帰国します その折 広峯山系の白幣山に登臨して「牛頭天王の信託を感受」します この旨を聖武天皇に奏上して 翌年に廣峯神社の大社殿を造営しました

『日本三代実録』 貞観11年(869年)平安京の祇園観慶寺感神院(八坂神社)に牛頭天王(素戔嗚尊)を分祠

京都・祇園社(現八坂神社)の主張

「播磨国 広峯社を祇園の本社とする説は 鎌倉時代以後に 広峯社が祇園執行の所領するところとなったのちに 広峯社側で主張しはじめたものであろう
 北白川の東光寺は 清和天皇・元慶2年(878)の創建なので それ以前に「祇園の神」が東光寺に遷座したとは言い難い
これは 東天王町に東光寺の鎮守として「牛頭天王社(東天王社)」があるため これと混同し付会したものであろう」

広峯から京都への 遷座の伝承を持つ神社について

東天王 岡崎神社(京都)

八坂神社の主張と反するものです 東光寺創建時期と広峰からの遷座説

由緒に 東光寺の鎮守といわれる東天王社について記されていす
「東天王社は 延歴13年の創建で もともと北白川の地で祀られていたが 弘仁年間(810~824)の社殿炎上の後 貞観11年(869)播磨国 広峯から改めて(牛頭天王)を勧請して現在地に祀った その後(牛頭天王)は感神院に遷し祀られた」とあります

東天王 岡崎神社の記事をご覧ください

 

祇園神社(神戸)

当社の創建由緒は

清和天皇の御代(858~876)に 京洛一帯に疫病が流行したので 貞観11年(869)播磨国 広峯社から 防疫神・牛頭天王を 京都・北白川(現 岡崎神社)に一時勧請します
これを最終的には 祇園感神院(現 八坂神社)に祀ります(貞観18年・876)と伝わります
その遷座の途上 神戸の当地に一泊されたことを契機として創祀されたとしています

境内案内板には

「第56代清和天皇の御代 貞観11年(869)、京の都では、大雨が降り続いて川が氾濫して疫病がはやり多くの犠牲者が出ました。この疫病をおさめるため京都の北白川に祇園さんを建てる事になり、姫路市の城北にある広峯神社より素戔嗚尊のご分霊を頂き、京都におうつししました。
その時、みこしがこの平野の地に一泊され、霊験あらたかなのを仰ぎ、お社を建てておまつりしたのが始まりと伝られています。」

祇園神社(神戸)の記事をご覧ください

一緒に読む
祇園神社(神戸・平野)

祇園神社(ぎおんじんじゃ)は 貞観11年(869)京の都で疫病が蔓延した時に これを治める御神威があるとされた「姫路の廣峯神社(ひろみねじんじゃ)」の御祭神「牛頭天王(ごずてんのう)」=「素戔嗚尊(すさのをのみこと)」の御分霊を 京都の八坂神社の前身とされている京都北白川の東光寺「祇園感神院」に遷すことになり その途中で その神輿が神戸にある この地「平野」に一泊されたと云われています 以来 当地でも 御神霊を祀り続け 今日に至ります

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京都にある「元祇園社 (モトギオンシャ)」と称する 梛神社Nagi Shrine)の伝承

梛神社Nagi Shrine)の社伝によれば

廣峯神社(hiromine shrine)の主張を裏付けしています
当然ですが 八坂神社ではその説を採用していません

社伝によれば貞観(じょうがん)11年(869)京都に疫病が流行したとき、牛頭天王(ごずてんのう)(素戔嗚尊)の神霊を播磨国広峰(はりまのくにひろみね)(現在の兵庫県姫路市)から勧請(かんじょう)して鎮疫祭(ちんえきさい)を行ったこのその神輿(みこし)を梛(なぎ)の林中に置いて祀ったことがこの神社の始まりであるという。

 後に神霊を八坂(今の八坂神社)に遷祀(せんし)したとき 当地の住人は花を飾った風流傘(ふうりゅうかさ)を立て、鉾を振り、音楽を奏して神輿を八坂に送った。これが祇園会(祇園祭)ぎおんえの起源と伝えられるまた、当社は八坂神社の古址(こし)にあたり、元祇園社と呼ばれる。

隼神社・梛神社(京都市)の記事をご覧ください

一緒に読む
隼神社・梛神社(京都市)

隼神社(はやぶさじんじゃ)・梛神社(なぎじんじゃ)は 一つの境内に二社が並立する神社です 隼神社は『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載 京中坐神三座の内 唯一現存する式内社で 大正7年(1918)現在地に遷座した古社です 梛神社は 貞観11年(869)の創建 京都祇園の八坂神社の旧跡にあたり「元祇園梛神社(Motogion Nagi Shrine)」と呼ばれています

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素盞嗚神社(新市町)の社伝によれば

後に 遣唐使であった「吉備真備(kibino maki)」が 天平6年 (734年)に 素盞嗚神社から播磨の広峯神社に勧請したとあります

素盞嗚神社(新市町)の記事をご覧ください

一緒に読む
素盞嗚神社(福山市新市町)

素盞嗚神社(すさのおじんじゃ)は 『備後国風土記(bingo no kuni fudoki)』逸文の「蘇民将来(somin shorai)」の説話の舞台となる伝説の地と伝えられています 説話に登場する「疫隈國社(eno kumano kunitsu yashiro)」が当社とされ もしくは 摂社の「蘇民神社・疱瘡神社」とされています 全国の「祇園社の始りの地」とされ 京都の八坂神社の源流もこの地と云われています『延喜式神名帳』所載社であり 「備後国一之宮」ともされる由緒ある格式の高い神社です

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神社にお詣り(Pray at the shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

姫路駅から 県道518号を経由して北上 約7.5km 車25分程度
広峯山の市営駐車場に車を停めます 本殿まで徒歩10分と書かれています

 廣峯神社(hiromine shrine)に到着

一礼して鳥居をくぐると道が二つに分かれます 提灯が下がっているアスファルトの表参道を歩きます

もう一方は 本来の参道なのかもしれません

石段が現れ 社号標「廣峯神社」とあります

石段の上には 隋神門が建ちます

随神門の先には拝殿が見えています

参道の中央(正中)は 玉垣で九星方位図を模って囲われています

右手に手水舎があり 清めます

拝殿にすすみます 

賽銭をおさめ お祈りです 

ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

拝殿内の賽銭箱の横には 神輿「御座を引く馬が飼葉を食む」があり不思議です 案内には次のように書かれています

神輿

この神輿は、享保(きょうほう)2年(1717)の作で、9月には天祖父社(あまさいしゃ)への御幸(みゆき)の神事がありました。

残念ながら現在は途絶えています。

拝殿から下がると 参道の先に隋神門がその横に 神札授与所があります

左手より境内を眺めると

右手より境内を眺めると

・地養社(chosha)
《主》蘇民将来(sominshorai) お詣りします

・薬師堂(yakushido)
《主》薬師如来(素盞嗚尊の奇魂)(kushimitama) お詣りします

・蛭子社(ebisusha)
《主》蛭子命(ebisunomikoto)事代主命(kotoshironushinomikoto) お詣りします

おそらく絵馬殿が休憩所のようになっていて その中に「広峰神社と付近図」という奉納の案内板がありました 山の様子が良くわかります

社殿の向かって左側に階段があり 通路となって裏手に続いています

拝殿内の様子です

本殿は数多くの御祭神を祀る為 横に長く立派です 

本殿向かって左脇を抜けて 裏手に回ります

陰陽道の関係でこちらは 「陰陽九星詣り」となっていて

まず 拝殿で神様に日頃の感謝を申し上げ 本殿裏にまわります

ここでは 一白水星から九紫火星までの守護神にご祈願します 9つの運命星の穴があり それぞれが守護神が鎮座される穴にお願い事を書いた九星祈願札を投げ入れ 穴に顔を近づけて 口をあてがい小声でお願い事を3度ささやきます

本殿の裏手には 境内社が立ち並びます お詣りします

本殿を向かって右側から

境内社・軍殿八幡社(gundenhachimansha)にお詣りします
《主》応神天皇(ojintenno)神功皇后(jingukogo)

霊木 千年松があり お詣りです

一周して 再び社殿の前で一礼します 少し 青空が覗いてきました

授与所でご朱印などを頂きます

隋神門をくぐり抜けて 振り返り一礼します

下りの石段からは 遥か眼下に姫路の市街地が見えています

神社の伝承(Old tales handed down to shrines)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『日本三代実録』(nihon sandai jitsuroku)貞観8年(866年)7月13日条に記される伝承

神階についての記述があり 当社のことと見られています

意訳

「播磨国の無位 速素盞嗚神(haya susanowo no kami)と 速風武雄神は並んで 従五位下を授く」

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=

廣峯神社(hiromine shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)

播磨国 式内社 50座(大7座・小43座)について に戻る        

一緒に読む
播磨国 式内社 50座(大7座・小43座)について

播磨国(はりまのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 播磨国 50座(大7座・小43座)の神社です 播磨国は 和銅6年(713) の詔によって『播磨国風土記』が編纂されていますので 7世紀には成立したとされています

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