実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

賣布神社(京丹後市久美浜町女布初岡)〈『延喜式』賣布神社〉

賣布神社(ひめふじんじゃ)は 丹後一覧記等によると第11代 垂仁天皇の御代 川上麻須の勧請に係れりと云う 延喜式内社 丹後國 熊野郡 賣布神社(ひめふの かみのやしろ)です 当初の鎮座地は「久美浜町谷の足洗井戸があり 祭神が始めて留りし地であり 野中 安養寺を経て船にて女布に着き小字舟處に上陸された」と伝わります

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

賣布神社(Himefu shrine

通称名(Common name)

・〈江戸時代の通称〉長船大明神

【鎮座地 (Location) 

京都府京丹後市久美浜町 女布(にょう)初岡724

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》豊受姫命(とようけひめのみこと)
   大屋媛命(おほやひめのみこと)
   抓津媛命(つまつひめのみこと)

『特選神名牒』には 大咩布命(おほめふのみこと)〈物部大咩布命〉

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

式内村社 売布神社

祭神

 豊受姫命(とようけひめのみこと)
 大屋媛命(おおやひめのみこと)
 狐津媛命(こずのひめのみこと)

由緒

 当社の創立は丹後一覧記によると垂仁天皇(十一代)川上麻須の勧請(かんじょう)に係るものと云う。

伝承に依れば 久美浜町谷の足洗井戸があり 祭神が始めて留りし地であり 野中、安養寺を経て船にて女布に着き小字舟處に上陸されたという。この附近に幟(のぼり)立ての小字があり道路そばに船石がある 舟を埋めたという。

延宝三年(一六七六)女布明細帳によれば 通称 長船大明神と言えりとあり 南方一七〇米の地には布杜神社があり 売布神社を大宮、布杜神社を小宮とよんでいる。

明治五年四月氏子調査に依れば九ヶ村あつたが その後七村となり女布、丸山、郷、野中、安養寺、円頓寺、谷の七村を云う。

元祭は 旧九月二日牛の日である。
文化十年(一八一三)久美浜代官 塩谷大四郎正義氏の奉納刀がる。

昭和五十九年三月 京丹後市教育委員会

社頭の案内板より

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【由  (History)】

『京都府熊野郡誌』大正12年に記される内容

【抜粋意訳】

賣布神社 村社 下佐濃村大字女布小字初岡鎮座

祭神 豊受姫命 大屋媛命 狐津媛命

由緒

 当社の創立は丹後一覧記等によるに、垂仁天皇の代 川上麻須の勧請に係れりといふ。其の延喜式内社たる事は、延喜式を始め大日本神祇志 神祇志料 神社覈録等に明記せる處なり。
傳説等を考ふるに、海部村大字谷に足洗井戸と言へるあり、祭神の始めて留まりましし地にして、夫より野中安養寺を經 船にて女布に着、小字 船處(ふなと)に上陸せられしといふ。此の附近 幟立の小字あり、社前に進めば道路の傍に船石あり、舟を埋めし記念となせりといふ。

 例祭の節 注連縄 連縄 盛砂等を爲す事 古来の慣例なり、
而して延寶三年女布村明細帳を見るに、長船大明神八尺に六尺とありて、通稱 長船大明神と言へりし事を知らる。此の長船の稱は 船處 船石等に關聯〈関連〉せるものの如し。
 さて現社殿は 明和六年の造營に係り、近来 基本財産の増殖 其の他設備等完成を告げ、大正八年十月幣饌料供進神社として指定せらる。

元祭日 舊九月二の午なりしも、近年十月十八日を例祭と定めぬ。

一 本殿 流レ造壹間社欅材勾欄付 屋根檜皮葺 建坪七坪五合
一 拝殿 切妻造檜松材 屋根檜皮葺 建坪五坪
一 籠屋 母入屋造松材 屋根萱葺 建坪拾貮坪
一 土蔵 切妻遣檜松材 星根本瓦葺 建坪四坪
一 境内坪数 二千九百四十九坪 官有地第一種
一 氏子戸数 二百八十一戸 舊七ケ村を氏子とす。

境内神社
 秋葉神社 祭神 加具土命 保食廼命 神武天皇
 三玉神社 祭神 奥津彦命 奥津媛命 加具土命

【原文参照】

『京都府熊野郡誌』,熊野郡,大正12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/925932

由緒

 当社の創立は丹後一覧記等によれば、垂仁天皇の御代 川上麻須の勧請に係れりという。
 その延喜式内社たることは延喜式を始め大日本神祇誌 神社要録等に明記せる処なり。
海部村字谷に足洗井戸といへるあり。祭神の始めて留まりましし地にて野中、安養寺を経て女布に着き小字舟処に上陸されしという。

現社殿は明和6年の造営に係るものである。

※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

・賣布神社 拝殿

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〈社殿の向かって右の杉木立の中に 三社合殿の境内社〉

・〈境内社〉秋葉神社《主》迦具土命,保食廼命,神武天皇
・〈境内社〉三玉神社《主》奥津彦命,奥津媛命,迦具土命

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考古殿

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・社頭

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

・布森神社〈賣布神社の神幸時の御旅所〉

社頭の案内板には

南方一七〇米の地には布杜神社があり 売布神社を大宮、布杜神社を小宮とよんでいる

・布森神社〈布杜神社〉(京丹後市久美浜町女布)の記事を参照
〈賣布神社の神幸時の御旅所〉元宮であるとも云う

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています

〇『六国史(りっこくし)』
  奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称

〇『延喜式(えんぎしき)』
  平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)

〇『風土記(ふどき)』
 『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています

1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉

現存するものは全て写本

『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態

『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陰道 560座…大37(うち預月次新嘗1)・小523

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)丹後國 65座(大7座・小58座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)熊野郡 11座(並小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 賣布神社
[ふ り が な ](ひめふの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Himefu no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】This is the point that Otaku conveys.

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

賣布神社の当初の鎮座地である「足洗井戸」について

賣布神社伝承に依れば 創建について「第十一代 垂仁天皇の御代 川上麻須(かよかみます)の勧請」とあり 当初の鎮座地は「久美浜町谷の足洗井戸があり 祭神が始めて留りし地であり 野中、安養寺を経て船にて女布に着き小字舟處に上陸されたという」と伝わります

つまり 賣布神社(京丹後市久美浜町女布初岡) 十一代 垂仁天皇の時代に 川上麻須の勧請により創建 当初の鎮座地は現在地より西南「谷」という所久美浜町谷の山中足洗井戸に鎮座したと云う

足洗井戸の所在は不明です〉参考までに「谷」山中には 現在は゛三柱神社゛があります

丹波道主命と川上麻須郎女の伝承を残す地

この辺りは 丹波道主命と川上麻須郎女の伝承を残し 古代から栄えていた地域です

「谷」山を西に下ると「新谷にいだに)」〈久美浜町新谷〉があります
新谷にいだに)」高龍小学校の東側には「芦原(あしわら)」〈久美浜町芦原〉があります

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「芦原(あしわら)」に鎮座する 丹波道主命 川上麻須郎女を祀る芦高神社」について

新谷の高龍小学校の東側 田中に 丹波道主命 川上麻須郎女を祀る「芦高神社」があり 『続熊野郡伝説史』には「丹波道主命の妃 川上麻須郎女の陵だと云ひ伝へている」とあります

芦高神社」の北西100m程には

『京都府熊野郡誌』に道主王の屋敷とされる王屋敷

「王屋敷・・・編者按ずるに崇神天皇の代、四道将軍の一人に丹波道主命 川上麻須郎女を娶り、此の地に邸宅を構へ居住せられしものにて、王屋敷は道主王の屋敷といへる意ならむ」

又「屋敷の中央に池あり、近年に至る迄其の形跡を存したりといふ。水源は二町余隔たれる山裾より清水を通ぜりといひ伝ふ。」と記されています

即ち 道主王の屋敷とされる王屋敷は 賣布神社の旧鎮座地である「谷」山中にあった足洗井戸」を水源として 屋敷中央の池に清水を通していた と伝えています

・芦高神社・・・丹波道主命の妃 川上麻須郎女の陵
王屋敷跡・・・丹波道主命と川上麻須郎女の邸宅跡
・三柱神社・・・〈足洗井戸の辺り賣布神社の当初の鎮座地で その清水は王屋敷の中央の池に清水を通していた

三ヶ所〈・芦高神社・王屋敷跡(久美浜町芦原)・三柱神社(久美浜町谷)〉の位置関係を地図にすると

古代 丹波國〈川上摩須郎女と丹波道主命〉について

【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

京都丹後鉄道 久美浜駅からR312号・県道20号経由で西方向へ約8.7km 車での所要時間は15~18分程度

久美浜湾に注ぐ 佐濃谷川(さのたにがわ)流域にあります

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丸山の橋 辺りに 参拝日は4月8日でしたが祭りなのか 幟が立っています

ここが字幟立かな~ と思いながら車を佐濃谷川沿いに進めます

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女布地区で 佐濃谷川の支流 長野川が合流しています
府道668号が長野川を渡る所がT字路になっていて ここに賣布神社の社号標が建てられています

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この道を民家の中を200m程進むと社頭に出ます

賣布神社(京丹後市久美浜町女布初岡)に参着

4/8(日)桜が満開で綺麗でした

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一礼をしてから 鳥居をくぐり 境内に進むと

正面に拝殿
社殿の向かって右の杉木立の中に 三社合殿の境内社が祀られています

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社殿の向かって左手前には「考古殿」と記された建屋があり その中には 見事な「御神輿」がありました

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境内には数人の年配の男性がいて 忙しそうに動かれていて 会釈をすると 会釈を返していただいたので「お祭りですか?」とお聞きしたところ

4月第2日曜日が春祭りとのことでした なんと2018/4/8(日)今日が祭日でした
「お忙しい所 失礼しました」と会釈をして 早々とおいとましました

朝の9時頃でしたので 祭りの準備真っ最中と云ったところでしたので失礼しました

それにしても 見事に神々しい 榊の付けられた神輿です

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拝殿にすすみます

賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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駐車場の横の建屋の中も 祭の準備が進められていました
子供神輿と まだほかにも 桜の枝で飾られた 祭りのダンジリ〈神輿〉がありました

掛け声は 威勢よく「ちょいさ~」「ちょいさ~」とのこと

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神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 賣布神社について 所在は゛佐野谷 女布村に在す゛〈現 賣布神社(京丹後市久美浜町女布初岡)〉と記しています

【抜粋意訳】

賣布神社

賣布は假

○祭神 詳ならず

○佐野谷 女布村に在す〔舊事記〕

類社
 攝津國 河邊郡 賣布神社の條見合すべし

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 賣布神社について 所在は゛佐野谷女布村にあり、女布(ヒメフ)大明神といふ゛〈現 賣布神社(京丹後市久美浜町女布初岡)〉と記しています

【抜粋意訳】

賣布(メフノ)神社、

 佐野谷女布村にあり、女布(ヒメフ)大明神といふ

 九月二午日祭を行ふ、〔神社覈録、神社明細帳、神社道志流倍、〕

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第15−17巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815497

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 賣布神社について 所在は゛女布村〔字 宮の谷〕(熊野郡下佐濃村女布゛〈現 賣布神社(京丹後市久美浜町女布初岡)〉と記しています

【抜粋意訳】

賣布(メフノ)神社  女布(ヒメフ)大明神

祭神 大咩布(オホメフノ)

日 九月二午日
社格 村社

所在 女布村〔字 宮の谷〕(熊野郡下佐濃村女布

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019

賣布神社(京丹後市久美浜町女布初岡) (hai)」(90度のお辞儀)

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丹後国 式内社 65座(大7座・小58座)について に戻る

一緒に読む
丹後國 式内社 65座(大7座・小58座)について

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