比売神社(ひめじんじゃ)は 太古 目の前が海岸〈湿地帯〉であった時 真埼(まさき)の渡所であったので砥宮(とのみや)〈渡ノ宮〉と呼ばれていた 式内社 弥佐支刀神社(みさきとの かみのやしろ)は 御崎渡(みさきと)の意であり 壱岐氏系譜にも 弥佐支刀社に壱岐眞根子連〈玉比賣の遠祖〉を祀るとあり 式内社の論社とされます
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
比賣神社(Hime shrine)
[通称名(Common name)]
・砥宮(とのみや)
・比売大明神(ひめだいみょうじん)
【鎮座地 (Location) 】
長崎県壱岐市芦辺町深江鶴亀触721
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》伊弉册尊(いざなみのみこと)
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)
※比売大明神(ひめだいみょうじん)の祭神として
《主》玉主賣(たまぬしめ)を祀ると伝わります
玉主賣(たまぬしめ)は 壱岐直眞根子(いきのあたいまねこ)より数えて16代目の子孫 壱岐直玉守(いきのあたいたまもり)の娘
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
創建年代不詳
【由 緒 (History)】
『壱岐名勝図誌』に
〇神社帳云 るき比賣大明神 古来 勧請年数不知 小社拝殿なり 定祭九月十一日云々
〇神社考云 砥宮と称すはと磯によしなり此考るに式に所載の弥佐支刀神社ならむとは 此所なり
海岸なりし時は 真埼(まさき)の渡なる所なりへし 式の弥佐支刀と假字にて 正しく御崎渡(みさきと)の意に之 然ればこきそ 式の神と思へり
島中に御崎といふ所になればなり云々
【境内社 (Other deities within the precincts)】
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
・貞婦玉主売の墓
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)壱岐島 24座(大7座・小17座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)石田郡 12座(大3座・小9座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 彌佐支刀神社
[ふ り が な ](みさきとの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Misakito no kamino yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
式内社 彌佐支刀神社(みさきとの かみのやしろ)の論社について
・彌佐支刀神社(壱岐市郷ノ浦町大原触)
弥佐支刀神社(みさきとじんじゃ)は 太古には この地域の東側が沼地のように広がる内海であったとされていて この内海を渡る「海辺の出崎の渡にして御埼渡(みさきと)」その岬にあるのが式内社 彌佐支刀神社(みさきとの かみのやしろ)だと伝わっています
彌佐支刀神社(壱岐市郷ノ浦町大原触)
・比賣神社(壱岐市芦辺町深江鶴亀触)
比売神社(ひめじんじゃ)は 太古 目の前が海岸〈湿地帯〉であった時 真埼(まさき)の渡所であったので砥宮(とのみや)〈渡ノ宮〉と呼ばれていた 式内社 弥佐支刀神社(みさきとの かみのやしろ)は 御崎渡(みさきと)の意であり 壱岐氏系譜にも 弥佐支刀社に壱岐眞根子連〈玉比賣の遠祖〉を祀るとあり 式内社の論社とされます
比賣神社(壱岐市芦辺町深江鶴亀触)
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
内海湾(うちめわん)から 幡鉾川を遡った北岸の丘の中腹にあり 水田を見渡せます
太古 ここは内海湾(うちめわん)の入江になっていて この内海を渡る「海辺の出崎の渡にして御埼渡(みさきと)」その岬にある式内社が彌佐支刀神社だと伝わっています
比賣神社(壱岐市芦辺町深江鶴亀触)に参着
鳥居の扁額には 比賣神社 と刻されます
一礼をして 鳥居をくぐり 石段を上がり
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
一礼をして 石段を下りて 西へ数十メートルで 比売大明神(ひめだいみょうじん)の祭神とされる玉主賣(たまぬしめ)の墓があり
その丘の上には 縄文時代の遺跡から元寇・鯨組に関する中近世の遺跡まで通史的に歴史を知ることができる「壱岐市立一支国博物館」があります
ここからは 比賣神社の南下に広がる 原の辻遺跡(はらのつじいせき)が一望できます
海も近く 太古から栄えていた土地であることが良くわかります
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
貞婦 玉主売(たまぬしめ)の墓 の伝承について
玉主賣(たまぬしめ)は 壱岐直眞根子(いきのあたいまねこ)より数えて16代目の子孫 壱岐直玉守(いきのあたいたまもり)の娘とされます
比売大明神(ひめだいみょうじん)〈現 比賣神社(壱岐市芦辺町深江鶴亀触)〉の祭神として 玉主賣(たまぬしめ)を祀ると伝わります
貞婦玉主売の墓
時は772年(宝亀3)、壱岐国壱岐郡に女直玉主という女性がいました。玉主売は15歳で夫を亡くし、その後30余年間、生涯独身を貫き、毎日かかさず夫の墓に仕えたことが評価され、朝廷から位を賜り「終生田祖」を免じられています。死後はこの功績を称え、比売大明神として祭られ代々語り継がれました。時は1000年近く過ぎた安政年間(11854年~1860年)に平戸藩親衛士隊長であった葉山高行が、玉塚山に祭られた比売大明神の云われを、藩主に進言したところ藩主は感動し、葉山高行に命じ碑文を作らせ石碑をこの地に建てさせたと云われています。
『壱岐名勝図誌』〈文久元年(1861)に完成〉に記される伝承
巻7 深江村之部 比賣神社(壱岐市芦辺町深江鶴亀触)は 昔海岸であった頃に真埼(まさき)の渡なる所であったので 砥宮(とのみや)と呼ばれている 式内社の弥佐支刀神社は 御崎渡(みさきと)の意であり 壱岐氏系譜にも 弥佐支刀社に壱岐眞根子連を祭るとあり 玉比賣の遠祖なので合祀したとの説もある と記しています
【抜粋意訳】
巻7 深江村之部 比賣大明神
在 鶴木 今の俗称 砥宮 例祭九月十一日
祭神 伊弉冉尊 伊弉諾尊とそ
・・・・
・・・・
續風土記云 当社は所謂 砥宮(とのみや)なり
〇神社帳云 るき比賣大明神 古来 勧請年数不知 小社拝殿なり 定祭九月十一日云々
〇神社考云 砥宮と称すはと磯によしなり此考るに式に所載の弥佐支刀神社ならむとは 此所なり
海岸なりし時は 真埼(まさき)の渡なる所なりへし 式の弥佐支刀と假字にて 正しく御崎渡(みさきと)の意に之 然ればこきそ 式の神と思へり
島中に御崎といふ所になればなり云々〇正恒云 壱岐氏系譜に弥佐支刀社に壱岐眞根子連を祭るよりなしたるむ 彼 玉比賣の遠祖なるから合せ祭てありとのこと 比賣大明神 即 弥佐支刀神社なりといふ説により所あるやうなり 尚考えるべし
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 彌佐支刀神社は 志原村〈現 彌佐支刀神社(壱岐市郷ノ浦町大原触)〉と記しています
【抜粋意訳】
彌佐支刀神社
彌佐支刀は 假字也
〇祭神 詳ならず
〇志原村に在す 土俗 八剱明神と称す
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 彌佐支刀神社は 旧説では祭神は壱岐眞根子であったが 延宝四年(1676)延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉で 祭神は日本武尊となり 式内社として志原村〈現 彌佐支刀神社(壱岐市郷ノ浦町大原触)〉に所在するとなっているが疑わしい 他説もあるが確証もないので仕方がないと記しています
【抜粋意訳】
彌佐支刀神社
祭神
今按〈今考えるに〉
旧説 祭神 壱岐眞根子とし 延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉に日本武尊と云る 共に明証を得ず されど日本武尊は尾張熱田神宮の摂社に八剱神社あるより思ひよせたる説なるべければ信じがたし祭日 九月廿一日
社格 村社
所在 志原村(石田郡志原村)
今按〈今考えるに〉
明細帳 長崎縣式内社記に志原村とす
神社考に延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉に志原村の八剱大明神を彌佐支すふ刀を劔と考え式内の彌佐支刀神社とす 刀は劔にあらず 海辺の出崎の渡にして 則 御埼渡なり 其岬にある社なるべしと云る據ありて聞ゆ
されど式社沿革考に諸書 志原村とあれば今の社ならむと云り 故 今姑く之に従ふ
【原文参照】
『壱岐国神社誌』(Ikinokuni jinjashi)〈昭和16年(1941)〉』に記される伝承
【抜粋意訳】
田川村ノ部 無格社 比賣神社
鎭座地 田河村深江字止乃美夜
祭 神 伊弊諾尊、伊弉冊尊
例祭日 九月十一日 神幸式、大神樂奉奏
境内地 357坪〔由緒沿革〕創立年月 其ノ他不詳。
【原文参照】
比賣神社(壱岐市芦辺町深江鶴亀触)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
壹岐嶋 式内社 24座(大7座・小17座)について に戻る
壱岐島(いきのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 壹岐嶋 24座(大7座・小17座)の神社です
壹岐嶋 式内社 24座(大7座・小17座)について