実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

日子坐命御陵墓(伊波乃西神社 旧鎮座地)

日子坐命御陵墓(ひこいますのみことごりょうぼ)は 第9代「開化天皇」の第三皇子「日子坐王(hikoimasu no kimi)」の王陵として 宮内省より 明治8年(1875)に「日子坐王陵」と認定されました その為 この地に鎮座していた「伊波乃西神社」は 現在の鎮座地である 清水山の麓に遷宮しました この地は 伊波乃西神社の旧鎮座地となります

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(shrine name)】

  日子坐命御陵墓(hikoimasu no mikoto goryobo)
  (伊波乃西神社 旧鎮座地)
(ひこいますのみことごりょうぼ)

 【鎮座地 (location) 】

 岐阜県岐阜市岩田西3丁目

 [地 図 (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》日子坐王(hikoimasu no mikoto)開化天皇の第三皇子

【御神格 (God's great power)】

【格 式 (Rules of dignity) 】

・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』所載社の旧鎮座地

【創 建 (Beginning of history)】

伊波乃西神社は この御陵墓の地にありましたが 明治8年に宮内省より日子坐王陵と認定されたため 現在の清水山麓に遷宮しました

式 内
銀弊社 伊波乃西神社 由緒

祭神 日子坐命

この社は 延喜式神明帳に「美濃国各務郡 七社内 伊波乃西神社」としてあり、二千有余年の間我々の祖先が崇敬し続けてきた格式の高い由緒ある神社である。

祭神、日子坐命は 人皇第九代開化天皇の第四皇子で、四道将軍 丹波道主命の父君にあたる。御子 八爪命が美濃前国造に命ぜられるにあたり 同道してこの地にこられ、地域の安定と人々の生活向上に心血を注がれ、住民の信望を一身に集められた、薨ぜられるにあたり、住民は この地方開拓の祖神として北山中腹に手厚く葬り崇めたてまつった。

古来 この墓所には社殿があり、ここを伊波乃西神社と称していたが明治8年宮内省より御陵墓と認定されたため 現地に遷宮し奉ったものである。

昭和61年 銀幣社に昇格された。
平成3年4月 氏子総代

境内案内石板より

【由 緒 (history)】

勧請年月は不詳である。

延喜式神名帳に「美濃国各務郡七社の内、伊波乃西神社」とある。

清水山の山ふところ、檜の巨木数百本から成る美しい林に蔽われて鎮座する。

祭神日子坐王は、人皇第九代開化天皇の皇子で、伊奈波神社の祭神、丹波道主命の父君にあたらせられる。
古事記中巻、水垣宮の段(崇神天皇の御代)によれば「日子坐王をば、旦波の国につかわして、玖賀耳の御笠(クガミミノミカサ)を殺さしめ給いき」とある。史上に表れた御勲功のはじめである。なお、クガミミとは、国神の義であって、旦波の国に国神ミカサが住んでいたのである。

王は、その後、勅命により東日本統治の大任をおび、美濃国各務郡岩田に下り、治山治水に着手され且農耕の業をすすめられ、殖産興業につくされた。

八瓜入日子王(ヤツリイリヒコノミコ)は、日子坐王の皇子である。
神大根王(カムオオネノミコ)と申し上げ、父君の後をつがれて、この地方の開発に功が多かった。

日子坐王薨去の後、御陵を清水山の中腹に築かれた。
当社の西に隣接している。
明治8年12月に至り、日子坐王陵と確認されたので、宮内省陵墓寮の所管に移された。
御陵墓祭は、3月21日であるが、毎年10月11日には、滋賀県木之本町の老若男女数10名が観光バスを連ねて参拝する。
これは、その地に日子坐王をはじめ、御一族数柱を祭神とする神社がある為、10月10日例祭の後 御陵参拝を行事としているからに他ならない。

「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]

【境内社 (Other deities within the precincts)】

 この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています 

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています

【延喜式神名帳】(engishiki jimmeicho)The shrine record was completed in December 927 AD.

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)美濃国 39座(大1座・小38座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)各務郡 7座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社名 ] 伊波乃西神社
[ふ り が な  ](いはのにしの かみのやしろ)
[How to read ](ihano nishi no kamino yashiro) 

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫

【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

宮内庁管理地として 陵墓参考地に指定されている
日子坐命御陵墓(hikoimasu no mikoto goryobo) (伊波乃西神社 旧鎮座地) 

伊波乃西神社は この御陵墓の地にありましたが 明治8年に宮内省より日子坐王陵と認定されたため現地に遷宮しました
伊波乃西神社の祭神は 日子坐王(hikoimasu no mikoto)とその皇子の八爪入日子命(yatsuirihiko no mikoto)と云われています

社伝によれば 日子坐王(hikoimasu no mikoto)は 美濃前国造を命ぜられた御子の八爪入日子命(yatsuirihiko no mikoto)(神大根王・神骨・八瓜入日子王とも表記)と共に美濃に入り 薨去にあたり御陵を清水山の中腹に築かれた としています

現在の陵墓は 宮内庁管理地として陵墓参考地に指定されています
墓は 清水山の山麓に120m程の平坦な参道が整備されて 境内は東西13.5m南北25.2mの玉垣(石柵)に囲まれて
封土は流失していて 高さ2.4m幅1.8mの巨岩が露出しています

日子坐王(彦坐王)(hikoimasu no mikoto)のもう一つの御陵として
粟鹿神社(awaga shrine)では 本殿の後ろにある円墳は 日子坐命墓(hikoimasu no mikoto no haka)としています
粟鹿神社(awaga shrine)の記事もご覧ください

粟鹿神社(朝来市山東町粟鹿)〈但馬国一之宮〉

粟鹿神社(あわがじんじゃ)は 社伝によれば 粟鹿の名の由来として 鹿が粟をくわえて 粟鹿山から現れて 人々に農耕を教えたと伝えます その鹿が祀られているとも伝わる2000年以上の歴史とも云われる但馬国随一の古社で 但馬国一之宮・延喜式 名神大社に列しています

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神社にお詣り(Pray at the shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

名鉄岐阜駅から R248号 県道156号経由 約10km 20分程度
御陵のある清水山は 西に長良川 南に岩田公園のグラウンドがあります

伊波乃西神社の境内鳥居の 左側に 御陵への参道があります

日子坐命御陵墓(hikoimasu no mikoto goryobo)
  (伊波乃西神社 旧鎮座地)に到着

御陵標には「日子坐命御墓」とあります

参道は 伊波乃西神社の境内西側を清水山へと続いています

暫く進むと 右手に長い直線の参道階段(丸石を組み合わせた)があります

木漏れ日の木々の中をしばらく登っていきます

石段の先に 鳥居が建ち 御陵が見えてきます

宮内庁の案内板には「開化天皇皇子 日子坐命墓」とあります

石垣の上に 玉垣が廻らされて御陵の正面には「鳥居」が建ちます

11段の石段を上がり 拝所にすすみ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

振り返り 参道の石段を下ります

清水山を下り 振り返り一礼

神社の伝承(Old tales handed down to shrines)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

御祭神の「日子坐王(彦坐王)(hikoimasu no mikoto)」について

第9代「開化天皇」の第三皇子とされています
・『古事記』では「日子坐王」・『日本書紀』では「彦坐王」と表記されます

『古事記』中巻 開化天皇の条では「日子坐王(彦坐王)(hikoimasu no mikoto)」の出生について

 開化天皇と丸邇臣(和珥臣に同じ)祖の日子国意祁都命の妹の意祁都比売命(oketsuhime no mikoto)との間の皇子です

意訳
「 また丸邇(wani)の臣の祖先 日子国意祁都命(hiko kunioketsu no mikoto)の妹 意祁都比売命(oketsuhime no mikoto)を娶して(結婚)お生みになつた御子は 日子坐王(hikoimasu no miko)お一方です 」

【原文参照】『古事記』刊本 明治03年選者:太安万侶/校訂者:長瀬真幸 国立公文書館デジタルアーカイブ
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047416&ID=&TYPE=&NO=画像利用

『古事記(kojiki)』中巻にある 日子坐王の子 と子孫について

日子坐王の子孫達は 天皇の子孫と同様にしっかりと記されていて 王族として 諸氏族の祖であると記されています

『古事記』では 日子坐王の子の記述の後に
末裔の氏族として記しているのは
・伊勢之品遅部君・伊勢之佐那造・比売陀君・当麻勾君・佐佐君・日下部連・葛野之別・近淡海蚊野之別・若狹之耳別・三川之穂別・近淡海之安直・長幡部連・吉備品遅君・針間阿宗君ら
その後 『古事記』の中巻で 歴代の天皇と強く絡み合っていきます

『古事記(kojiki)』開化天皇の条によれば

 日子坐王の妃は 4人

・山代の荏名津比売(enatsu hime)別名を苅幡戸辨(karihatatobe)
・沙本之大闇見戸売(saho no okuramitome)
・息長水依比売(okinaga mizuyorihime)
・袁祁都比売(woketsu hime)

 日子坐王の御子は合わせて15人 王子は 12人 姫が3人が記されています 長文です

意訳
「 次に日子坐王(hikoimasu no miko)
山代の荏名津比売(enatsu hime) 亦の名は苅幡戸弁(karihatatobe)を娶して生みし子は 3柱です
大俣王(ohomata no miko)次に小俣王(womata no miko)次に志夫美宿禰王(shibuminosukune no miko)

また春日の建国勝戸売(takekunikatsutome)の女 名は沙本の大闇見戸売(saho no okuramitome)を娶して生みし子は 4柱です
沙本毘古王(sahobiko no miko)次に袁耶本王(ozaho no miko)次に沙本毘売命(sahobime no mikoto)亦の名は佐波遅比売(sahajihime)この沙本毘売命(sahobime no mikoto)は 伊久米天皇(ikume no sumeramikoto)の后となりき 次に室毘古王(murobiko no miko)

また近淡海(chikatsuafumi)の御上の祝が もちいつく天之御影神(ameno mikage no kami)の女 息長水頼比売(okinaga mizuyorihime)を娶して生みし子は 5柱です
丹波比古多々須美知能宇斯王(tanihanohiko tatasumichi no ushi no miko)次に水穂之真若王(mizuhonomawaka no miko)次に神大根王((kamuohone no miko)亦の名は八瓜入日子王(yatsurinoirihiko no miko)次に水穂五百依比売(mizuhonoihoyori hime)次に御井津比売(miitsu hime)

またその母の弟袁祁都比売命(woketsuhime no mikoto)を娶して生みし子は 3柱です
山代の大筒木真若王(ohotsutsukimawaka no miko)次に比古意須王(hikosu no miko)次に伊理泥王(irine no miko)

凡そ 日子坐王(hikoimasu no miko)の子は 并せて十一王なり 」

【原文参照】『古事記』刊本 明治03年選者:太安万侶/校訂者:長瀬真幸 国立公文書館デジタルアーカイブ
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047416&ID=&TYPE=&NO=画像利用

『古事記(kojiki)』中巻 崇神天皇の条では 将軍の派遣として記されています

第10代「崇神天皇」の異母弟にあたるのが「日子坐王」です
『日本書紀』では 崇神天皇が 「彦坐王」の子「丹波道主命」を四道将軍の一人として丹波に派遣しています 
『古事記』 では 崇神天皇が 日子坐王に 丹波の国の土蜘蛛退治を命じたとあり 次のように短い記載があります

意訳
「また日子坐の王を 丹波の国に遣して 玖賀耳之御笠(kugamimi no mikasa)を殺さしめたまひき 」

【原文参照】『古事記』刊本 明治03年選者:太安万侶/校訂者:長瀬真幸 国立公文書館デジタルアーカイブ
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047416&ID=&TYPE=&NO=画像利用

『古事記』中巻 第11代「垂仁天皇」の条では 日子坐王の子孫が登場します

・「垂仁天皇」の皇后 沙本毘売命(sahohime no mikoto)

日子坐王と沙本之大闇見戸売(saho no okuramitome)との間に生まれた皇女

沙本毘古王(sahohiko no miko)

日子坐王と沙本之大闇見戸売(saho no okuramitome)との間に生まれた皇子

「垂仁天皇」への反乱で沙本毘売命(sahohime no mikoto)と共に討たれます

・旦波比古多々須美智宇斯王(taniwa no hikotatasumi no ushi no miko)の娘 兄比売(ehime)・弟比売(otohime)

沙本毘売命(sahohime no mikoto)は 兄の反乱の際 自分の代りに「旦波比古多々須美智宇斯王(taniwa no hikotatasumi no ushi no miko)の娘を皇后にするよう天皇に勧めます この丹波比古多多須美知能宇斯王も 日子坐王と息長水依比売(okinaga mizuyorihime)との間に生まれた子です

従って 孫が 垂仁天皇の妃となります
孫:比婆須比売命(日葉酢媛命)垂仁天皇の後皇后 景行天皇の母
孫:真砥野比売命(真砥野媛) 垂仁天皇妃
孫:弟比売命 垂仁天皇妃

息長水依比売(okinaga mizuyorihime)との子5人の中には 神大根王(kamuone no miko)があり この娘は 倭建命(yamato takeru)の兄 大碓命(osu no mikoto)の妃となります

・本牟都和気命(homutsuwake no mikoto)「もの言わぬ皇子」の出雲訪問に同行した曙立王と莬上王の兄弟

日子坐王と山代の荏名津比売(enatsu hime)との間に生まれた大俣王(omata no miko)の子です

・袁祁都比売(woketsu hime)との間に生まれた 山代之大筒木真若王(yamashiro no otsutsukimawaka no miko)は 神功皇后の曽祖父に当たります

伊波乃西神社の旧鎮座地です 明治8年に宮内省より日子坐王陵と認定されたため伊波乃西神社は 現在の清水山麓に遷宮しました 日子坐王(hikoimasu no mikoto)は 第9代「開化天皇」の第三皇子とされています

日子坐命御陵墓(hikoimasu no mikoto goryobo)
  (伊波乃西神社 旧鎮座地)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)

日子坐王(彦坐王)(hikoimasu no mikoto)のもう一つの御陵として
粟鹿神社(awaga shrine)では 本殿の後ろにある円墳は 日子坐命墓(hikoimasu no mikoto no haka)としています
粟鹿神社(awaga shrine)の記事もご覧ください

粟鹿神社(朝来市山東町粟鹿)〈但馬国一之宮〉

粟鹿神社(あわがじんじゃ)は 社伝によれば 粟鹿の名の由来として 鹿が粟をくわえて 粟鹿山から現れて 人々に農耕を教えたと伝えます その鹿が祀られているとも伝わる2000年以上の歴史とも云われる但馬国随一の古社で 但馬国一之宮・延喜式 名神大社に列しています

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