氷川神社(ひかわじんじゃ)は 細谷郷〈細長い谷という意から名付けられた郷〉の惣鎮守 飯玉氷川神社〈式内社に比定される横見神社〉から分霊を受けたものと思われますが 延喜式内社 武蔵國 横見郡 横見神社(よこみの かみのやしろ)の論社とする説もあります
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
氷川神社(Hikawa shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
埼玉県比企郡吉見町上細谷316
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》素戔嗚命(すさのをのみこと)
稲田姫命(いなだひめのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
創建年代不詳
【由 緒 (History)】
氷川神社
吉見町上細谷一四五(上細谷字飯玉)
吉見丘陵の東端は、古くから開発された所で、谷あいの湧き水を利用して谷田が形成された。集落は、この谷田と並行して南北に延びる自然堤防上にある。この地は、中世、細長い谷という意から細谷郷と名付けられた。この細谷郷は、戦国期、上細谷・下細谷の両郷に分郷し、江戸期に入ると、更にこれらの郷から上細谷村、下細谷村、御所村、中新井村、小新井村などの村々が独立した。
当社は、この折、細谷郷の惣鎮守である飯玉氷川神社(式内社に比定される横見神社)より分霊を受けたものと思われる。社名は、『風土記稿』に「東土氷川」と載り、『明細帳』にも「寛文二年(一六六二)四月、京都白川殿に於いて東土氷川許可あり」とある。しかし、この東土については明らかにできない。
別当は『風土記稿』によると、今泉村金剛院末の真言宗蓮性寺である。同寺は、明治初年廃寺となっている。現在、当社境内には、明和四年(一七六七)に蓮性寺法印観蓮が建立した稲荷神社がある。
蓮性寺の後、当社の祭祀に当たったのは、当地の原口孝慶である。孝慶が神職となったのは、名主家として代々郷民の訓導に力を注ぐ家柄に生まれるとともに、母親のキチが幕末から熱心に屋敷近くにある稲荷社を信仰していたことがあげられる。成人してからは、皇典講究所に学び、二荒山神社の神職としても活躍した。『埼玉の神社』〈著者 埼玉県神社庁神社調査団 出版社 埼玉県神社庁 平成4年刊行 〉より抜粋
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・稲荷社《主》保食命・天神社
・三峰社・富士嶽
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)武蔵國 44座(大2座・小42座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)横見郡 3座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 横見神社
[ふ り が な ](よこみの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Yokomi no kamino yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
武蔵國 横見(よこみ)郡の謂れ(いわれ)について
この横見郡は 郡(こおり)としては小規模な範囲ですが 現在の埼玉県比企郡 吉見町辺りです
武蔵國 横見(よこみ)郡の謂れを遡ると 元は横渟(よこゐ)であったと云われます
これは第27代天皇 安閑天皇〈在位 531~536年〉の時 笠原直使主(かさはらのあたいおみ)が朝廷に献上した 屯倉(みやけ)四力所の内 横渟(よこゐ)の事であるとされます
『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』に記される゛横渟(よこゐ)゛伝承
埼玉郡笠原郷を本拠とした豪族と推定される 笠原直使主(かさはらのあたいおみ)と同族の小杵(おぎ)が 武蔵国造の地位をめぐって争った事が 『日本書紀』安閑天皇元年(534年頃)の条に「武蔵国造の乱(むさしのくにのみやつこのらん/むさしこくぞうのらん)」〈武蔵国造の笠原使主と同族との内乱〉として 大和朝廷も重要視する お家騒動として記されており これは当時の武蔵國が 東国の蝦夷(えみし)への前線として 朝廷の重要な拠点であったことを示すものとされます
因みに 武蔵國 横見(よこみ)郡の謂れを遡ると 元は横渟(よこゐ)であったと云われます この横見郡は 郡(こおり)としては小規模な範囲ですが 現在の埼玉県比企郡 吉見町辺りで 第27代天皇 安閑天皇〈在位 531~536年〉の時 笠原直使主(かさはらのあたいおみ)が朝廷に献上した 屯倉(みやけ)四力所の内 横渟(よこゐ)の事であるとされます
【抜粋意訳】
第十八巻 安閑天皇 宣化天皇
安閑天皇 元年閏十二月の条
武蔵国造(むさしのくにのみやつこ)の笠原直使主(かさはらのあたいおみ)と同族の小杵(おき)とが 国造(くにのみやつこ)の地位を争い 長年決着しなかった
※使主(おみ)・小杵(おき)はどちらも名前です
小杵(おき)は 性格が激しく逆らうことがあった 心が高慢で順(まつろう)〈従う〉ことがなかった
ひそかに上毛野君小熊(かみつけのきみおくま)に助を求め 使主(おみ)を殺そうと謀りました
使主(おみ)は悟って 逃げ走り 京(みやこ)に詣で到り 実状を言上しました
朝廷は 臨断〈裁断〉を下され 使主(おみ)を国造(くにのみやつこ)とし 小杵(おき)を誅殺しました国造(くにのみやつこ)使主(おみ)は 恐懼感激して黙し得ず〈黙っていられなくなるほど 喜びが心に満ちた〉
国家のために・横淳(よこぬ)〈横渟(よこゐ)〉・橘花(たちばな)・多氷(おおひ)・倉樔(くらす)の四力所に屯倉(みやけ)を設け奉りました
この年 太歳甲寅(をほとし きのえとら)
【原文参照】
延喜式内社 武蔵國 横見郡 横見神社(よこみの かみのやしろ)の論社について
・横見神社(吉見町御所)
横見神社(よこみじんじゃ)は 社伝によれば 創建は和銅年間(708~715年)とされ 平安時代末~中世には 吉見氏の居館゛吉見の御所゛があり゛御所゛が地名となった 中世~有力農民層の管理に移ると 飯玉氷川明神社と社号を改称〈穀霊信仰により〉 更に その後 延喜式内社 武蔵國 横見郡 横見神社(よこみの かみのやしろ)の論社として 社号を戻したとされます
横見神社(吉見町御所)
・横見神社(吉見町久保田)
〈建長年間(1249~56)大洪水の際 飯玉明神社〈現 横見神社(吉見町御所)〉の御神体が窪田村(当時)に漂着し 現在まで祀られている神社〉
横見神社(よこみじんじゃ)は 社伝によれば 建長年間(1249~56)の大洪水の際 飯玉明神社〈現 横見神社(吉見町御所)〉の御神体が窪田村(当時)に漂着し 貴い神の来臨と捉え 愛宕社の社地〈当地〉にお祀りしたものと伝えます 故に延喜式内社 武蔵國 横見郡 横見神社(よこみの かみのやしろ)の論社ともされています
横見神社(吉見町久保田)
・氷川神社(吉見町上細谷)
氷川神社(ひかわじんじゃ)は 細谷郷〈細長い谷という意から名付けられた郷〉の惣鎮守 飯玉氷川神社〈式内社に比定される横見神社〉から分霊を受けたものと思われますが 延喜式内社 武蔵國 横見郡 横見神社(よこみの かみのやしろ)の論社とする説もあります
氷川神社(吉見町上細谷)
・吉見神社(熊谷市相上)
吉見神社(よしみじんじゃ)は 景行天皇56年 東国統治を命じられて善政をしいたとされる御諸別王(みもろわけのみこ)が 天照大神を祀ったのが創基とされ 以来 御諸別王の子孫が代々神主として奉仕しています 現在は大里郡に鎮座しますが 延喜式内社 武蔵國 横見郡 横見神社(よこみの かみのやしろ)の論社ともされています
吉見神社(熊谷市相上)
・野芽神社(吉見町和名)〈郷土史研究家による推定 参考論社〉
野芽神社(のげじんじゃ)は イネ科植物の穂先を芒(のげ)と云い ここから゛野芽(のげ)゛を社号として 穀霊を祀って創祀したのではないかと伝わります 横見郷を見渡す吉見丘陵の上に鎮座し 郷土史研究家の説に 延喜式内社 武蔵國 横見郡 横見神社(よこみの かみのやしろ)との推論もあります
野芽神社(吉見町和名)
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR高崎線 鴻巣駅から西へ約7.1km 東武東上線 東松山駅から東へ約6.4km程度 両駅の中間辺り どちらからも車15分程度
吉見町ふれあい広場の駐車場から 東へ450mで社頭に出ます
鳥居の縁迄 弧を描くように白砂利が敷かれている
氷川神社(吉見町上細谷)に参着
一礼をして鳥居をくぐり 細い石畳みの参道
拝殿にすすみます
拝殿の扁額には 氷川大明神 と記されています
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社殿の両脇 左右に各々に 境内社が2社 祀られています
社殿に一礼をして 参道を戻ります
社頭のすぐ先は 住宅街となっています
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『新編武蔵風土記稿(Shimpen Musashi fudokiko)』文政13年(1830)完成 に記される伝承
氷川神社(吉見町上細谷)について 村の鎮守と記しています
【抜粋意訳】
新編武蔵風土記稿 巻之一九七 横見郡 巻之二 下吉見領 上細谷村
氷川社
村の鎮守とす
土人等 東土氷川と稱すれど 其故を詳にせず 蓮性寺持
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 横見神社の所在について (高負比古根神社に由来して 古くは高負村と呼ばれた)田甲村〈現 吉見町田甲〉の゛横見松゛と記していますが 現在どこにあるのかは判りません
その他に 御所村に飯玉氷川社〈現 横見神社(吉見町御所)〉
【抜粋意訳】
横見神社
横見は郡名に同じ
○祭神 素戔鳴尊、倉稻魂命、(地名記)
○田甲村に在す、(同上)
例祭、 月 日、
地名記書入云、御所村に飯玉氷川と称る社あり、神拝の人是を横見神社と云、然れど村役人に問に証たる事なし、
又 田甲村名主云、三社共に田甲村にありと、此説も亦信用がたし、伊波比神社は黒岩村にあり、高負比古神社は田甲村にあり、尤此所に横見松などあれば、横見神社は田甲村なるべし、
類社
美作國 大庭郡 横見神社
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 横見神社について 社号のみ 記されています
【抜粋意訳】
横見(ヨコミノ)神社
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 横見神社の所在について 御所村〈現 横見神社(吉見町御所)〉と記しています
【抜粋意訳】
横見神社
祭神
今按〈今考えるに〉
明細帳 祭神 素戔嗚尊 稲倉魂神 大己貴命とあり
武蔵式社道程命附に大己貴命はなくて 二社を祭る由 云れど主神は何れの神にますや詳かならず 思ふに素戔嗚尊 大己貴命の内 一座なるべし
稲倉魂命は由ありとも聞えざれば也祭日 九月十五日
社格 郷社
所在 御所村(比企郡西吉見村大字御所)
【原文参照】
氷川神社(吉見町上細谷)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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武蔵国(むさしのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 武蔵国には 44座(大2座・小42座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
武蔵國 式内社 44座(大2座・小42座)について