氷鉋諏訪神社(ひがのすわじんしゃ)は 下氷鉋に鎮座する諏訪神社です 鎮座地の氷鉋村は かつて一つでしたが 上中下の三村に分れ各々氏神を祀ったとあり 上中の両村は 共に諏方社と称し 下氷鉋村は 氷銫斗賣神社or諏方社と称したとあります 式内社 氷鉋斗賣神社〈氷銫斗賣神社〉(ひかなとめの かみのやしろ)に関係があるのでしょう
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
氷鉋諏訪神社(Higano suwa shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
長野県長野市稲里町大字下氷鉋字入村367
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》健御名方命(たけみなかたのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社〈参考論社〉
【創 建 (Beginning of history)】
創建年代不詳
【由 緒 (History)】
由緒不祥
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・本殿覆屋・幣殿
・拝殿
拝殿の屋根に厚みがあるので 茅葺屋根を銅板で覆った屋根だと思います
・境内社の祠四宇・石神
・参道
・社頭の鳥居
・社頭の庚申
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式・風土記など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
〇『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
〇『風土記(ふどき)』
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ
記すべき内容として下記の五つが挙げられています
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)信濃國 48座(大7座・小41座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)更級郡 11座(大1座・小10座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 氷鉋斗賣神社〈氷銫斗賣神社〉
[ふ り が な ](ひかなとめの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Hikanatome no kaminoyashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
信濃國と阿曇族について
酒井春人氏の研究に詳しいので ご紹介します
〔酒井春人 1949年 長野市生まれ 早稲田大学第一文学部卒 1993 年龍鳳書房を設立現在代表取締役〕2015年7月
知られざる日本古代史②『海人族安曇族と古代日本列島』安曇族研究会会員 酒井春人 より抜粋
【抜粋意訳】
安曇族の祖神は綿津見神
前号で福岡県の志賀海神社の祭神が、綿津見三神 (表津•仲津・底津 )の海神であることをご紹介した。安曇族はこの綿津見神を祖神とすると言われている。
・・・
・・・全国に刻された安曇族の足跡
安曇族の痕跡は、日本全国に三十数か所あると言われている。今のところ、地名あるいは綿津見系の神社の鎮座地、苗字、地域の伝説などからその関係地を割り出す作業が行われている。
・・・
・・・
その成果を紹介すると、安曇族の本拠地は福岡県の玄界灘を望む志賀島。前号で紹介したように、中国春秋時代の呉国の人々が、紀元前五世紀後半に越との戦争に負けて、海に逃亡し、北部九州、あるいは対馬、毫岐、さらには朝鮮半島の南部にたどり着いたと考えられる。この時、大海を渡る操船の技術を持つ海人族である呉の人々 (安曇族)は、呉の農民や各種技術者を古代日本列島に入植させ、生活の面倒をみたと前述した。
安曇族は、巧みな操船の技術を駆使して、日本海側を北上、日本各地にその痕跡をとどめる。前記米子市の上下安曇、石川県羽咋郡志賀町安津見、滋賀県高島市安曇川町、新潟県岩船郡関川村安角、山形県鶴岡市温海などがその関係地ではないかと考えられる。いずれもこれら関係地には、近くに大きな河川があり、日本海に注いでいる。
長野県の安曇族
こうした全国の安曇族関係地の中でも長野県は、本拠地福岡を凌ぐ第二の安曇族の故郷ではないかと言われているほど、その痕跡が色濃いところである。
まず、穂高神社のある安曇野市は多くの人が知るところだが、以外と知られていないのが、川中島平と佐久平。・・・
すると、安曇族はどのルートを使って、信州に入ってきたのだろうか。考えられるのは信濃川ルー卜である。信濃川から千曲川を経由して入り込むことは、そうむずかしいことではない。・・・
・・・【原文参照】詳しくは原文をお読みください
『千曲川地域の人と文化 2015年7月』より抜粋
https://ueda.zuku.jp/journal/2015.7.pdf
『小学国史教授用郷土史年表並解説』〈昭和12年(1937)〉に記される「阿曇氏の祖 早くより信濃に入る」より
信濃國に入った阿曇氏が 祀つた神社について記されています
【抜粋意訳】
阿曇氏の祖早くより信濃に入る。
阿曇氏は元來海部の頭梁であるから海岸にばかり榮えたやうに思はれるにも拘はらず、この信濃のやうな山國にも住したことが部名以外、地方神社名に依って想像することが出來る。
卽ちこの氏又は此の氏の率ゐし海部 若しくは其部曲である阿曇部の住したことは、安曇郡の明神大社、穂高神社が安曇氏の祖神として仰がれる穂高見神を祀つてゐること、同じく式内社である川會神社が亦海神を祀ってゐることに依っても明である。本郡内の式内社 氷鉋斗賣神社は阿曇氏の祖 宇都志日金拆命を祀ってゐる。これ又 阿曇氏の住したことを證するものであらう。又地名にも氷飽、斗賣二郷がある。これは二郷に住した阿曇族が其の奉齋神の名稱を二分して地名としたのであらう。本郡の隣 埴科都には阿曇氏の女・神武天皇の御母である玉依比賣命を祀ってゐる處の玉依比賣神社が東條村にある。小縣郡には海部郷がある。兎に角 阿曇氏の族は早くから阿曇・更級・埴科・小縣に分布したのであろう。(更科郡誌、)
【原文参照】
延喜式内社 信濃國 安曇郡 穗髙神社(名神大)(ほたかの かみのやしろ)
安曇氏の祖神として仰がれる穗高見命(ほたかみのみこと)(別名 宇都志日金拆命 うつしひかなさくのみこと)が 祀られます
・穗髙神社(安曇野市穂高)
穂高神社(ほたかじんじゃ)は 太古 安曇族は 海神系の宗族として遠く北九州に栄え 信濃の干拓に功をたて 安曇野の中心 穂高の里に祖神を奉斎したのが 当神社の創始とされます 延喜式内社 信濃國 安曇郡 穗髙神社(名神大)(ほたかの かみのやしろ)の本宮です 上高地には奥宮 奥穂高岳の山頂には嶺宮が鎮座しています
穗髙神社(安曇野市穂高)〈延喜式内社 名神大社〉
・穗髙神社 奥宮(松本市安曇上高地)
穗高神社 奥宮(ほたかじんじゃ おくのみや)は 上高地 明神池のほとりに祀られています 上高地明神付近は古くから〈神合地 神垣内 神河内〉(上高地)とも呼ばれ 神々を祀るにふさわしい神聖な場所とされてきました 嶺宮は 安曇族の神・穂高大明神が降臨されたと云う 穂高連峰の最高点・奥穂高岳の頂上に祀られています
穗髙神社 奥宮(松本市安曇上高地)〈上高地の聖地 明神池のほとりに鎮座〉
延喜式内社 信濃國 安曇郡 川會神社(かはあひの かみのやしろ)
海神として 海の底の神〈底津綿津見命〉を祀られています
・川会神社(北安曇郡池田町)
川會神社(かはあいじんじゃ)は 海の底の神〈底津綿津見命〉を祀り 遠い昔 ここ安曇野は山に囲まれた一面の湖だったと云う真実を 時を超えて 私達に伝えています 民話『泉小太郎』は 山を破り 湖の水を抜き あらわれた湖底が やがて里を潤う田となります 人々は遠い神代から 現在まで神に感謝を捧げています
川會神社(北安曇郡池田町会染)〈民話『泉 小太郎』ゆかりの里〉
延喜式内社 信濃國 更級郡 氷鉋斗賣神社〈氷銫斗賣神社〉(ひかなとめの かみのやしろ)
安曇氏の祖神として仰がれる 宇都志日金拆命(うつしひかなさくのみこと)が 祀られます
・氷鉇斗賣神社(長野市稲里町下氷鉋)
氷鉋斗賣神社(ひがのとめじんしゃ)は 延喜式内社 信濃國 更級郡 氷鉋斗賣神社〈氷銫斗賣神社〉(ひかなとめの かみのやしろ)で 鎮座地の氷鉋村は かつて上中下の三村に分れ各々氏神を祀り 上中の両村は 共に諏方社と称し 下氷鉋村は 氷銫斗賣神社と称し 本宮であろうとされます 鉋の文字は 材木の表面を削る「かんな」の意です
氷鉋斗賣神社(長野市稲里町大字下氷鉋)〈阿曇族の祀る延喜式内社〉
・更級斗女神社(長野市川中島町御厨)
更級斗女神社(さらしなとめじんじゃ)は 口碑には゛建御名方命が 境内に広い行宮(社務所)を建て 隋従の八人の乙女を配し滞在鎮座の地【八名祗の内】と称した゛と伝わり 斗女郷の中心地とされます 延喜式内社 信濃國 更級郡 氷鉋斗賣神社〈氷銫斗賣神社〉(ひかなとめの かみのやしろ)の論社でもあります
更級斗女神社(長野市川中島町大字御厨)〈斗女郷の冨部氏の氏神として創建〉
〈参考論社〉・氷鉋諏訪神社(長野市稲里町下氷鉋)
氷鉋諏訪神社(ひがのすわじんしゃ)は 下氷鉋に鎮座する諏訪神社です 鎮座地の氷鉋村は かつて一つでしたが 上中下の三村に分れ各々氏神を祀ったとあり 上中の両村は 共に諏方社と称し 下氷鉋村は 氷銫斗賣神社or諏方社と称したとあり 式内社 氷鉋斗賣神社〈氷銫斗賣神社〉(ひかなとめの かみのやしろ)に関係があるのでしょう
氷鉋諏訪神社(長野市稲里町大字下氷鉋字入村)
〈参考論社〉・川中島斗賣神社(長野市川中島町上氷鉋)
川中嶋斗賣神社(かわなかじまとめじんじゃ)は 上氷鉋に鎮座した諏訪明神社です 鎮座地の氷鉋村は かつて一つでしたが 上中下の三村に分れ各々氏神を祀ったとあり 上中の両村は 共に諏方社と称し 下氷鉋村は 氷銫斗賣神社と称したとあります 式内社 氷鉋斗賣神社〈氷銫斗賣神社〉(ひかなとめの かみのやしろ)の分祀と考えられます
川中島斗賣神社(長野市川中島町大字上氷鉋)〈元 上氷鉋村の諏訪明神社〉
〈参考論社〉・氷鉋神社(長野市稲里町中央)
氷鉋神社(ひがのじんじゃ)は 中氷鉋に鎮座した諏訪社です 鎮座地の氷鉋村は かつて一つでしたが 上中下の三村に分れ各々氏神を祀ったとあり 上中の両村は 共に諏方社と称し 下氷鉋村は 氷銫斗賣神社と称したとあります 式内社 氷鉋斗賣神社〈氷銫斗賣神社〉(ひかなとめの かみのやしろ)の分祀と考えられます
氷鉋神社(長野市稲里町中央)〈式内社 氷鉋斗賣神社〈氷銫斗賣神社〉の分祀〉
延喜式内社 信濃國 埴科郡 玉依比賣命神社(たまよりひめのみこと かみのやしろ)
阿曇氏の女・神武天皇の御母である玉依比賣命が 祀られています
・玉依比賣命神社(長野市松代町東条)
玉依比賣命神社(たまよりひめのみことじんじゃ)は 勧請は 上世で年曆悠遠 その時代を詳かには出来ないが 社記及び地方古記録 村老等の旧聞によれば゛崇神天皇の御宇 科野國造の祖、武五百建命の創祭せし所なりと云ふ゛太古に阿曇氏が祀った 延喜式内社 信濃國 埴科郡 玉依比賣命神社(たまよりひめのみこと かみのやしろ)です
玉依比賣命神社(長野市松代町東条字内田)〈阿曇氏が祀った延喜式内社〉
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR信越本線 川中島駅から県道380号経由で東へ約3km 車8分程度
県道380号の下氷鉋の交差点で右折〈南へ〉
田の中に参道と境内 社殿が見えてきました
氷鉋諏訪神社(長野市稲里町下氷鉋)に参着
社頭には 松が生えていて 石神と庚申があり
その奥に両部鳥居が建ち 趣のある社頭です
木製の両部鳥居の扁額には゛氷鉋諏訪神社゛と記されています
一礼をして鳥居をくぐり 参道を進みます
正面には拝殿があります
境内の向かって右手には 境内社の祠が祀られています
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
奉納されている絵馬に描かれている草花は まるで炎の形かと想える 葉が描かれていますが 色は水色なので 炎ではありませんが 妖艶ではあります
社殿に一礼をして 参道を戻ります
【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 氷鉇斗賣神社について 所在は゛下氷鉇村に在す゛〈現 氷鉋斗賣神社(長野市稲里町大字下氷鉋)・氷鉋諏訪神社(長野市稲里町下氷鉋)〉と記しています
【抜粋意訳】
氷鉇斗賣神社
氷鉇は 比加奈と訓べし、」斗賣は假字也、
和名鈔、〔郷名部〕氷鉇、〔假字の如し〕〇祭神
〇下氷鉇村に在す
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 氷鉇斗賣神社について 所在は゛今 下氷鉇村にあり、゛〈現 氷鉋斗賣神社(長野市稲里町大字下氷鉋)・氷鉋諏訪神社(長野市稲里町下氷鉋)〉と記しています
【抜粋意訳】
氷鉇斗賣(ヒカナトメノ)神社
今 下氷鉇村にあり、〔神社覈録、長野縣神社調、〕
〔〇按 信濃國圖、信濃地名考、氷鉇戸部二村 並に相隣れり、又按 近世まで十七箇村の民本社を敬祭る、其七村を氷鉇郷と云ひ、十村を斗女郷と云とあるも、又由縁あり、〕盖 安曇連の祖 綿津見神の子 宇都志日金析命 及 健御名方命 八坂斗賣命を合祀る、〔参酌古事記、新撰姓氏録、延喜式、本社傳説、〕〔〇按 隣郡安曇郡に穂高神社あり、綿津見神の子に 宇都志日金析命あるを思ふに、氷鉇斗賣神、疑らくは此神の妹 或は妃神にやあらむ、姑く附て考に備ふ、〕
凡 毎年四月九月二十五日祭を行ふ、〔長野縣神社調、〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 氷銫斗賣(ヒカナトメノ)神社について 所在は゛下氷銫村に氷銫斗賣神社 同郡 上氷銫村に諏訪社ありて 何れも式社なりと云り゛〈現 氷鉋斗賣神社(長野市稲里町大字下氷鉋)と川中島斗賣神社(長野市川中島町上氷鉋)〉があり 両社ともに式内社と伝えている
さらに 氷銫村は 上中下の三村に分れて それぞれに氏神として祀られているとして ゛中氷銫村の諏訪社゛〈現 氷鉋神社(長野市稲里町中央)〉についても記し
゛上下両村の内 何れとも決定し難し・・・なほ實地に就て熟く訂正すべし゛とあり 尚 実地検証をして 熟慮する必要があると記しています
【抜粋意訳】
氷銫斗賣(ヒカナトメノ)神社
祭神 宇都志日金拆(ウツシヒカナサクノ)命
祭神 四月九月二十五日
社格 郷社所在
今按 式社考 按に當郡 下氷銫村に氷銫斗賣神社 同郡 上氷銫村に諏訪社ありて 何れも式社なりと云り
両社由緒上申の趣によるに 元來 氷銫村は上中下の三村に分れ各氏神あり上中の両村は 俱に諏方社と稱し 下氷銫村は獨り氷銫斗賣神社と稱す
此三社の内に就て 下氷銫村は近隣に於ても 氷銫村の本杜なる由を傳へ 他の二社は單に諏訪社の號を襲號するを以て 確証とするに足らすと思へりしを
上氷銫村諏訪社の上申によるに 下氷銫村も諏訪社と稱し もとは上氷銫村より移し祭れるものと云ひ 又 國人菅春風の考證にも上下両村の内 何れとも決定し難しと云れば 縣の注進少しく違へり なほ實地に就て熟く訂正すべし
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
氷鉋斗賣神社(長野市稲里町大字下氷鉋)について 式内社 氷鉋斗賣神社であると記しています
【抜粋意訳】
〇長野縣 信濃國 更級郡稻里村大字下氷鉋字田中島
郷社 氷鉋斗賣(ヒカナトメノ)神社
祭神 宇都志日金拆(ウツシヒカナサクノ)命
健御名方(タケミナカタノ)命
八坂刀賣(ヤサカトメノ)命創立の年代を詳にせず、今稻里村の内 舊下氷鉋村北組の産土神たり、延喜式更級郡 氷鉋斗賣神社とある是なり、
神名帳考証、「氷鉋斗賣(ヒカナトメノ)神社、大氣都姫乎、天日影姫命、倭名抄・氷鉋〔比加奈〕能登國 天日陰比咩神社、阿羅斯等、配神 豊宇気姫、
神社覈録、氷鉇斗賣神社 氷鉇は 比加奈と訓べし、」斗賣は假字也、〔中略〕下氷鉇村に在す
神祇志料、氷鉇斗賣(ヒカナトメノ)神社 今 下氷鉇村にあり、〔神社覈録、長野縣神社調、〕〔〇按 信濃國圖、信濃地名考、氷鉇戸部二村 並に相隣れり、又按 近世まで十七箇村の民本社を敬祭る、其七村を氷鉇郷と云ひ、十村を斗女郷と云とあるも、又由縁あり、〕盖 安曇連の祖 綿津見神の子 宇都志日金析命 及 健御名方命 八坂斗賣命を合祀る、〔参酌古事記、新撰姓氏録、延喜式、本社傳説、〕〔〇按 隣郡安曇郡に穂高神社あり、綿津見神の子に 宇都志日金析命あるを思ふに、氷鉇斗賣神、疑らくは此神の妹 或は妃神にやあらむ、姑く附て考に備ふ、〕凡 毎年四月九月二十五日祭を行ふ、」と、
大日本史〔神祇史〕載する所 亦 大要斯の如し、而して地名 氷鉋の稱 亦 神名に起るか、
信濃地名考、「氷鉋郷比加奈の義未考、或人云、古事記に安曇連等者 其(ソレ)綿津見(ワタツミノ)神之子 宇都志日金拆(ウツシヒカナサクノ)命之子孫(ウミノコ)也、
姓氏錄 安曇連 于都斯奈賀(ウツシナカノ)命之後也云云、氷鉋斗女神 號 爰に出る欺」と、尚考ふべし
永祿年間 甲越戰爭の時 兵火に罹り、降て又 寛保二年犀千曲二川の洪水を蒙りしかば、傳來の書類 神實等亦之が為めに 失われ、創立以來の事實を知るに由なきに至れり、
寛延三年神社改めの時 社名を書出す、明治六年四月郷社に列す。社殿は本殿•拜殿•祝詞殿•神庫、鳥居等を具備し、境内地五百三十一坪 (官有地第一種 )あり。
境内神社
稻荷社 大神社 天神社 津島社 秋葉社 八幡社 猿田彦社 三峯社
【原文参照】
氷鉋諏訪神社(長野市稲里町下氷鉋)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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信濃国(しなののくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 信濃国(しなののくに)には 48座(大7座・小41座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
信濃國 式内社 48座(大7座・小41座)について