実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

薭田神社(大田区蒲田)

薭田神社(ひえだじんじゃ)は 社伝によると和銅2年(709)僧行基が天照・八幡・春日の三体神を造り本社に安置し その後 弘安5年(1282)この三体は日蓮によって開眼された伝わっています 延喜式神名帳927 AD.所載 武蔵国 荏原郡 薭田神社(ひえたの かみのやしろ)の論社とされています

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

薭田神社(Hieda shrine)

通称名(Common name)

【鎮座地 (Location) 

東京都大田区蒲田3-2-10

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》誉田別命(ほんだわけのみこと)
   天照大御神(あまてらすおみかみ)
   武内宿禰命(たけのうちのすくねのみこと)
   荒木田襲津彦命(あらきだそつひこのみこと)
   春日大神(かすがのおおかみ)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity)

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

大田区文化財

薭田(ひえだ)神社

式内社(しきないしゃ)と呼ばれる古い格式をもつ神社である、平安時代(十世紀)に編纂(へんさん)された『延喜式(えんぎしき)』の神明帳(しんめいちょう)に記載され、また『三代実録(さんだいじつろく)』に貞観六年(864)「武蔵国従五位下蒲田神を以て並びに官社に列す」とあるのが、この神社であろうといわれる。
 社伝によれば、和銅二年(709)僧行基が天照、八幡、春日の三神体を刻んで安置し、鎌倉時代(十三世紀後半)に日蓮が村民の請いをいれて開眼(かいげん)したと伝えられる。江戸時代(十七〜十九世紀後半)には隣接の栄林寺が別当であったが、明治初年(十九世紀後半)の神仏分離により独立し、旧社格は郷社に定められた。

昭和四十九年二月二日 大田区教育委員会

大田区文化財

薭田神社(ひえだじんじゃ)の石鳥居(いしとりい)

大田区文化財
稗田神社の石鳥居
花崗岩製、明神型鳥居、高さ310cm、柱間314cm、笠木は、全体にゆるやかな反りをもって、柱とのつりあいもよく、安定した姿を見せる、柱背面の銘文から、寛政12年(1800)、北蒲田村の氏子により寄進されたことがわかる、区内の鳥居ては古いものの一つであり、貴重である、
また一方の銘文には「蒲田井郷稗田神社」と刻まれる、蒲田井は「ほたい」と読むといい、稗田神社は蒲田神社と呼はれたと伝えられる蒲の古字といわれる稗の字か当てられたことから、「ひえた」の発音に変化したと考えられる、
昭和49年2月2日指定
大田区教育委員会

現地案内板より

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【由  (History)】

由緒

延喜式神明帳に、武蔵国荏原郡薭田神社と記載された、いわゆる延喜式内社である。
和銅二年 僧行基がこの地に足を留め、天照大神、応神天皇、春日大神三柱の御神体を刻みて納め奉ると伝えられる。斎場としての歴史は更にさかのぼり、第十一代 垂仁天皇御宇 神地神戸を定め給いて 天神地祇を崇敬し給いし霊地とも伝えられ、この地に集落ができると共に成立した蒲田創草の古社である。

の字は蒲の古字と言われ、田神社はむかし蒲田神社とよばれたと伝えられている。大田区指定の文化財となっている大鳥居に、蒲田井郷 田神社とあり、南蒲田1丁目鎮座の北野神社々標にも蒲田井府北野神社とあって、蒲田井(ホタイ)と読むと伝えられていること、又 三代実録には清和天皇貞観六年(864)8月14日戊辰 詔以武蔵国従五位下蒲田神列官社と記載されていること、その他の事情を考察するに、ホ-蒲-・のあて字がつかわれ、・田(ホタ)をヒエタと発音するようになったものと思われる。

永禄の頃、行方弾正 代々六郷の地頭として本社の傍らに住し、本社を崇敬して経営につとめたので当時は壮観を極めた。天正18年、弾正直清は北条氏に味方して豊臣秀吉と戦ったが敗れ、その家も滅びてしまったので、本社の神器・宝物・記録等を散逸し、社殿は荒廃した。
しかし村民氏子の微力によって修繕管理され、氏神様として村民の信仰を集めつつ今日の姿となった。
明治5年10月郷社に定められる。
昭和20年4月15日戦災の為全焼する。
昭和29年御社殿復興遷座祭を執行する。
昭和54年御社殿復興25周年記念事業として社務所を新築した。

※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

〈社殿向かって右に3社並んで境内社〉

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向かって右から

三十番神社《主》三十柱の神
稲荷神社《主》宇迦之御魂大神

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薬祖神社《主》少彦名命

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・狛犬〈昭和三十四年(1959)奉納

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天祖神社山野神社合祀・手水舎

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・境内の社叢〈住宅街に古木の大樹あり〉

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・鳥居・参道

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・社頭の社号標・鳥居

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承

官社に列した 蒲田(カマタノ)が 薭田神社だとされています

【抜粋意訳】

 貞觀六年(八六四)八月十四日戊辰〉の条

○十四日戊辰
 

美作國 從四位下 仲山(チウサンノ)大神

武藏國 從五位下 蒲田(カマタノ)を 官社

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=画像利用

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)武蔵国 44座(大2座・小42座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)荏原郡 2座(並小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 薭田神社
[ふ り が な ]ひえたの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Hieta no kamino yashiro)

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

延喜式内社 武蔵国 荏原郡 薭田神社(ひえたの かみのやしろ)の論社について

・薭田神社(大田区蒲田)

一緒に読む
薭田神社(大田区蒲田)

薭田神社(ひえだじんじゃ)は 社伝によると和銅2年(709)僧行基が天照・八幡・春日の三体神を造り本社に安置し その後 弘安5年(1282)この三体は日蓮によって開眼されたと伝わっています 『延喜式神名帳927 AD.』所載 武蔵国 荏原郡 薭田神社(ひえたの かみのやしろ)の論社とされています

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・御田八幡神社(港区三田)

一緒に読む
御田八幡神社(港区三田)

御田八幡神社(みたはちまんじんじゃ)は 社伝によれば 和銅二年(709)東国鎮護の神として 白金三田 界隈に鎮祀 その後 1011年〈三田八幡宮 古跡石碑〉に遷座し 寛永五年(1628)現在地に鎮座したとあり 古くは稗田神社とも云われたと伝わり 延喜式内社 武蔵国 荏原郡 薭田神社(ひえたの かみのやしろ)の論社となっています

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・三田八幡宮 古跡石碑(港区三田)

一緒に読む
三田八幡宮 古跡石碑(港区三田)

三田八幡宮 古跡石碑(みたはちまんじんじゃ こせき)は 御田八幡神社の旧鎮座地です 社伝によれば 和銅二年(709)東国鎮護の神として 白金三田 界隈に鎮祀 その後 1011年 窪三田に遷座〈三田八幡宮 古跡石碑〉 寛永五年(1628)現在地〈御田八幡神社(港区三田)〉に鎮座したとあります

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・六郷神社(大田区東六郷)

一緒に読む
六郷神社(大田区東六郷)

六郷神社(ろくごうじんじゃ)は 源頼朝公・徳川家康公も崇敬した神社で 古くから 延喜式内社 武蔵国 荏原郡 薭田神社(ひえたの かみのやしろ)の論社とする説があります しかし社伝には 天喜五年(1057)源頼義・義家が武運長久を祈願し勝利を収めて創建したとあり 当社も式内社を主張していません

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・鵜ノ木八幡神社(大田区南久が原)

一緒に読む
鵜ノ木八幡神社(大田区南久が原)

鵜ノ木八幡神社(うのきはちまんじんじゃ)は 社伝に 延徳元年(1489)天明伊賀守光信の子 五郎右衛門光虎が 下野国〈栃木県〉より当地に移った際に 一族の守護神として八幡大神をおまつりした とあるが 延喜式内社 武蔵国 荏原郡 薭田神社(ひえたの かみのやしろ)の論社ともなっています

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・久が原東部八幡神社(大田区久が原)

一緒に読む
久が原東部 八幡神社(大田区久が原)

久が原東部八幡神社(くがはらとうぶ はちまんじんじゃ)は 社記に天平神護元年(765)豊前 宇佐八幡宮より御分霊を勧請し 武蔵野の南端 久が原台地一番の高所に奉斎と伝えられ 江戸時代に 久が原が二分される時 馬込領 久が原村の鎮守とされ崇敬を受けてきました 延喜式内社 武蔵国 荏原郡 薭田神社(ひえたの かみのやしろ)の論社でもあります

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・久が原西部八幡神社(大田区久が原) 

一緒に読む
久が原西部八幡神社(大田区久が原)

久が原西部八幡神社(くがはらにしのはちまんじんじゃ)は  社記には 天平神護元年(765)豊前の宇佐八幡宮より御分霊を勧請 武蔵野の南端 久が原台地一番の高所に奉斎されたと伝えられ 久が原が二分される時 六郷領 久が原村の鎮守とされた 延喜式内社 武蔵国 荏原郡 薭田神社(ひえたの かみのやしろ)の論社でもあります

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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

京急蒲田駅から北へ 呑川を渡り約450m 徒歩7分程度

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住宅街の中に鳥居が見えてきました

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社頭の社号標には 延喜式内 薭田神社と刻字

薭田神社(大田区蒲田)に参着

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一礼をして 鳥居をくぐります 鳥居扁額には 薭田神社とあります

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参道を進みます

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参道の右手に手水舎があり 清めます

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拝殿にすすみます

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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拝殿の奥には幣殿 本殿が鎮座します
社殿は 平成十二年(2000)に竣工した鉄筋コンクリート造の立派な造りです

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境内社にお詣りをして 参道を戻ります

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神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『新編武蔵風土記稿(Shimpen Musashi fudokiko)』文政13年(1830)完成 に記される伝承

薭田神社(大田区蒲田)について 『延喜式神名帳』荏原郡 薭田神社は 後世に所在が不明確になっていて 論社は四社あり 旧荏原郡内の神社にはそれに見合う大社はなく 当社の社前の地が古くから「神戸」と呼ばれ また近くには神戸橋という橋もあり この地名はのちに八幡社が勧請されてからの地名とは思われないので 当社が薭田神社であろうと考えた別当榮林寺の僧が 神祇管領の吉田家に当社を薭田神社とする旨の申請をし その許可を得た と記しています

【抜粋意訳】

巻之三十九 荏原郡 巻之三 六郷領 北蒲田村

八幡社

除地二段一畝十歩 海道より西の方にあり
当社は 延喜式神名帳に載せたる薭田の神社なりといふ それも古記録の徴とすべきことあるにもあらず 又古くより 人の口碑に傳へたりといふにもあらず 近き頃 住せる別当寺の僧おもへり
神名帳に 当郡 薭田神社のことを載せたれど 後世たえて沙汰なし 兼て郡中を捜索するに それと覚しき大社もなし しかるに此社の前の地を古へより神戸と唱へ 神戸橋などいへる橋もあり 是は全く後の世にたてし八幡の社につきてともおもはれず いかさま往古より神社のありし地なるへし よりておもふに当社この薭田神社なるべけれとて 頓て神祇管領吉田家へ其ことを告て判を請しに 吉田家にてもさもこそあらめとて薭田の号を許されしとぞ
是は 武蔵風土記に薭田八幡の社をのせて神戸巫戸などあるよし見ゆれば かく云にや それより此社を古への神社なりと云
されど  郡内三田町八幡社 八幡塚村八幡社 及ひ 鶴の木村名主五郎左衛門が宅地にある祠等 皆古の薭田神社なりといへり
かくまちまちにしてことに明證もあらざれば いづれをそれともさだめがたし 今は吉田家の判もあれば しばらく当社なもを されど云へきにやそれも千百年の後のことなれば いかにとも今より定めかたかるへし
抑薭田神社のことは 延喜式神名帳に 武蔵国荏原郡 薭田社とありて 小社のよしを注せり
 武蔵風土記に 薭田八幡 圭田五十八束三字田 所祭応神天皇也 式内宿禰荒木田襲津彦等也 和銅二年己酉八月十五日始行神体 有神戸巫戸等と見えたり
然るに 今当社の祭神は 天照太神 八幡 春日の三座なり
いづれも木像にて その彫刻は はなはだ古質なり
太神は鉾を逆に杖つきて巌の上に立たまふ容なり
八幡は左の御手に弓をとりたまひ 右の御手にて御はかせの柄に手をかけたまへる立像なり 二体ともに長二尺七八寸 試に佛師をして観せしめしに 刀痕はなはだあらし とかくに鎌倉将軍家の時代より以上のものならんといへりしとぞ
春日の像は 新宿分村の時 わかちて彼村の鎮守とせりとぞ。
この社傳によれば 彼「風土記」にいへる祭神とおなしからざれば それも疑なきにあらず
本社一間に一間半 拝殿二間半に二間 数歩をへだてて石鳥居をたつ 両柱の間二間 社地一叢の木立しげりて寂莫たり 側に小池あり 溝を設けて社地を廻らす 祭礼は年々正月十五日 神楽を奏して祭る 当社古は神主金子某と云もの社内をあづかりしに故あって寛文の頃より栄林寺の持となれり
寶物 叟仮面一枚 龍頭一箇 鉾一本 右いづれも古物なれり

末社
稲荷社 本社より左の方にあり 棟札に天和3年正月9日とあり わずかなる祠なり
稲荷社 おなじならびにあり
妙正明神社 同じならびにあり 祭神詳ならず
稲荷社三ヶ所 いづれも小祠にて前の三祠とむかひてたてり

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『新編武蔵風土記稿』 著者:間宮士信[数量]265巻80冊[書誌事項]活版 ,明治17年 , 内務省地理局[旧蔵者]太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002820&ID=M2017051812110439332&TYPE=&NO=

国立公文書館デジタルアーカイブス『新編武蔵風土記稿』 著者:間宮士信[数量]265巻80冊[書誌事項]活版 ,明治17年 , 内務省地理局[旧蔵者]太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002820&ID=M2017051812110439332&TYPE=&NO=

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 薭田神社の所在について 蒲田村〈現 薭田神社(大田区蒲田)〉として 他に江戸三田小山 薭田八幡宮〈現 御田八幡神社(港区三田)〉との説も挙げています

【抜粋意訳】

薭田神社

薭田は 比恵多と訓べし、

祭神詳ならず
蒲田村に在す

又云、江戸三田小山 薭田八幡宮

〇惣國風土記七十七残岟云、蒲田郷云々、薭田神社、圭田六十二束、所祭園韓神、少彦名命也、依 雄略天皇十一年之勅、而始行 神體有 神家巫戸 祈病災莫不験、祈田毛莫不寶」
又同一本云、御田郷云々 稗田八幡、圭田五十八束三字田、所祭応神天皇也、武内宿禰、葛木襲津彦等也、和銅2年己酉8月15日、始行神礼、有神戸巫戸等」

按るに、当社は蒲田神社にして、三田なる薭田八幡宮は、別社なるべきか、考ふべし、

官社
貞觀六年(八六四)八月十四日戊辰〉、詔以武藏國 從五位下 蒲田(カマタノ)を 官社

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 薭田神社の名称について 薭は蒲の誤りと記して 蒲田(カマタノ)神社としています
所在については 蒲田村の東大森村〈現 薭田神社(大田区蒲田)〉と記しています

【抜粋意訳】

蒲田(カマタノ)神社

〇按本書、蒲を薭に作る「恐らくは、誤れり、今 三代実録、倭名鈔に據て之を訂す、」

今 蒲田村の東大森村にあり、
清和天皇 貞觀六年(八六四)八月十四日戊辰〉、詔以武藏國 從五位下 蒲田(カマタノ)を 官社に 三代実録

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神祇志料』https://dl.ndl.go.jp/pid/815490著者 栗田寛 著 出版者 温故堂 出版年月日 明治9[1876]

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 薭田神社の所在について 北蒲田村〈現 薭田神社(大田区蒲田)〉として 薭田は蒲田の訛であろうと推論しています

【抜粋意訳】

薭田神社

祭神
今按〈今考えるに〉
社伝 祭神 経津主命 武内宿禰 應神天皇 荒木田襲津彦とあるは 惣國風土記 荏原郡 薭田八幡云々 所祭 應神天皇也 武内宿禰 荒木田襲津彦等也とみえたるに據れるものなれば信じがたし 此祭神も八幡と云よりの説なるべく 荒木田は葛木の誤なるべし 又按 薭田 諸本にヒエタとありされど 惣國風土記に蒲田郡 蒲田神社とみえ 和名鈔に蒲田郷あり 三代実録に蒲田神と記し 今所在の地名も蒲田村なるを思ふに 薭田は蒲田の訛なること著し 姑附て後考に備ふ

官社
貞觀六年(八六四)八月十四日戊辰〉、詔以武藏國 從五位下 蒲田(カマタノ)を 官社

祭日 一月八月 十五日
社格 郷社
所在 北蒲田村(荏原郡蒲田村大字北蒲田)

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155

『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承

薭田神社(大田区蒲田)について 式内社の薭田神社とする説や 四社ある論社の一つとする説などを載せています

【抜粋意訳】

〇東京府 武蔵國 荏原郡 蒲田(カマタ)村

郷社 稗田(ヒエダノ)神社

祭神 (オウジン)天皇

創立年代詳ならす、然れども武藏國式内四十四座の中、小社に荏原郡稗田神社あり、清和天皇貞観十四日詔して武藏國從五位下蒲田神を以て官社に列す。

神祇志料に、蒲田(カマタ)の神社(按本書、蒲を稗に作る、恐くは誤れり今三代実録、倭名鈔に拠て之を訂す)今蒲田村の東大森村にあり(神名帳考証上代、四神地名録、武蔵国図」)とあり、

神社覈録には「稗田神社、祭神詳ならず、蒲田村に在す」と見ゆ、
又「惣國風土記七十七残欠云、蒲田郷、云々、稗田神社、圭田六十二束、所祭園韓神、少彦名命也、依雄略天皇11年之勅、而始行神礼、有神家巫戸、祈病災莫不験、祈田毛莫不實、」

又同一本に云、「稗田八幡、圭田五十八束三字田、所祭応神天皇也、武内宿禰、葛木襲津彦等也、和銅2年己酉8月15日、始行神礼、有神戸巫戸等」とあり、其の古社なることを知るべし、

然るに社記に拠れば、延喜式神名帳なる稗田神社は何時の頃にか所在明かならざりしに、当社の前の地を神戸と称へ、又神戸橋などいへる橋もあり、式内社は正しく当社なるべしとて吉田家の判を請ひ、遂に稗田の號を許されし由なり、
新編武蔵風土記稿にも前の六郷神社の條に云へるが如く、式内稗田神社と称する者四社ありて其何れとも定め難しとなせり尚同書に「当社の祭神は天照大神、八幡、春日の三座なり、何れも木像にして其の彫刻甚だ古質なり、太神は鉾を逆に杖つきて巌の上に立ち給ふ容也、八幡は左の御手に弓を執り給ひ右の御手にて御佩刀の柄に手をかけ給へる立像なり、二躯共に長二尺七八寸、試に佛師をして観せしめしに刀痕甚あらし、とかくに鎌倉將軍家の時代より以上のものならんと云り云々」、とあり、其古社たることを知るべし、

又本社は式内の社にあらとの説あれども未だ遽に決し難し、境内地860余坪(官有地第一種)あり、本殿、拝殿を具備せり、土俗蒲田八幡と呼ぷ。

境内神社 稲荷神社

【原文参照】

国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用

国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用

薭田神社(大田区蒲田)に (hai)」(90度のお辞儀)

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武蔵国 式内社 44座(大2座・小42座)について に戻る       

一緒に読む
武蔵国 式内社 44座(大2座・小42座)について

武蔵国(むさしのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 武蔵国の 44座(大2座・小42座)の神社です

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大国主神(おほくにぬしのかみ)が 坐(ましま)す 古代出雲の神代の舞台へ行ってみたい 降積った時を振り払うように 神話をリアルに感じたい そんな私たちの願いは ”時の架け橋” があれば 叶うでしょう 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台は 現在の神社などに埋もれています それでは ご一緒に 神話を掘り起こしましょう

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出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷で 出雲国造が その任に就いた時や遷都など国家の慶事にあたって朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

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出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉としていて 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

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宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

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行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

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對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています