檜原神社(ひばらじんじゃ)は 第十代 崇神天皇の御代 それまで皇居で祀られていた「天照大御神(あまてらすおほみかみ)」を 皇女 豊鍬入姫命に託し ここ檜原の地(倭笠縫邑)に遷し お祀りした〈元伊勢〉とされます 式内社 大和国 城上郡 巻向坐若御魂神社(大 月次相嘗新嘗)の論社でもあります
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
檜原神社(Hibara shrine)
[通称名(Common name)]
・元伊勢(もといせ)
【鎮座地 (Location) 】
奈良県桜井市三輪1422
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》天照大神若御魂神(あまてらすおほかみの わかみたまのかみ)
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)
伊弉冊尊(いざなみのみこと)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
・国土安泰など
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
・ 大神神社 摂社
【創 建 (Beginning of history)】
大神神社 摂社 檜原神社(ひばらじんじゃ)
御祭神
天照大神若御魂神(あまてらすおほかみの わかみたまのかみ)
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)
伊弉冊尊(いざなみのみこと)(御由緒)
第十代崇神天皇の御代、それまで皇居で祀られていた「天照大御神(あまてらすおほみかみ)」を 皇女 豊鍬入姫命に託し ここ檜原の地(倭笠縫邑)に遷し お祀りしたのが始まりです
その後、大神様は第十一代 垂仁天皇 二十五年に永久の宮居を求め各地を巡幸され、最後に伊勢の五十鈴川の上流に御鎮まり、これが伊勢の神宮(内宮)の創祀と云われる
現地立札より
【由 緒 (History)】
(元伊勢)桧原神社(ひばらじんじゃ)と
豊鍬入姫宮(とよすきいりひめのみや)の御由緒大神神社の摂社「桧原神社」は、天照大御神を、末社の「豊鍬入姫宮」(向かって左の建物)は崇神天皇の皇女、豊鍬入姫命をお祀りしています。
第十代 崇神天皇の御代まで、皇祖である天照大御神は宮中にて「同床共殿(どうしょうきょうでん)」にお祀りされていました。同天皇の六年初めて皇女、豊鍬入姫命(初代の斎王)に託され宮中を離れ、この「倭笠縫邑(やまとかさぬいむら)」に「磯城神籬(しきひもろぎ)」を立ててお祀りされました。その神蹟は実にこの桧原の地であり、大御神の伊勢御遷幸の後もその御蹟を尊崇し、桧原神社として大御神を引続きお祀りしてきました。
そのことより、この地を今に「元伊勢」と呼んでいます。桧原神社はまた日原社とも称し、古来 社頭の規模などは本社である大神神社に同じく、三ツ鳥居を有していることが室町時代以来の古図に明らかであります。
萬葉集には「三輪の桧原」とうたわれ山の辺の道の歌枕となり、西につづく桧原台地は大和国中を一望できる景勝の地であり、麓の茅原・芝には「笠縫」の古称が残っています。
また「茅原(ちはら)」は、日本書紀 崇神天皇 七年条の「神浅茅原(かむあさぢはら)」の地とされています。更に西方の箸中には、豊鍬入姫命の御陵と伝える「ホケノ山古墳(内行花文鏡出土・社蔵)」があります。
大神神社現地案内板より
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・豊鍬入姫宮(とよすきいりひめのみや)
《主》豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)
大神神社 末社 豊鍬入姫宮(とよすきいりひめのみや)
御祭神 豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)
(御由緒)
御祭神は第十代崇神天皇の皇女であります
皇女は「天照大御神(あまてらすおほみかみ)」をこの「倭笠縫邑(やまとかさぬいむら)」にお遷しし、初代の御杖代(みづえしろ)(斎王)として奉仕されたその威徳(いとく)を尊び奉り、昭和六十一年十一月五日に創祀されたものであります
斎王とは天皇にかわって大神様にお仕えになる方で、その伝統は脈々と受け継がれ、現代に於いても皇室関係の方がご奉仕されています
現地の立札より
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
檜原神社は 大和国一之宮の大神神社の摂社になります
・大神神社(桜井市三輪)
大神神社(おおみわじんじゃ)は 『記紀神話』に創建に関わる伝承が記されており 『延喜式』には名神大社と所載される 大和国一之宮です 古来から本殿は設けず 拝殿の奥にある三ッ鳥居を通し 三輪山〈御神体〉に祈りを捧げる原初の神祀りで 我が国最古の神社と呼ばれています 神社の社殿が成立する以前の祭祀の姿を今に伝えています
大神神社(桜井市三輪)〈三輪山を〈御神体〉とする大和國一之宮〉
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式(Engishiki)』巻1 四時祭上 六月祭十二月准 月次祭
月次祭(つきなみのまつり)『広辞苑』(1983)
「古代から毎年陰暦六月・十二月の十一日に神祇官で行われた年中行事。伊勢神宮を初め三〇四座の祭神に幣帛を奉り、天皇の福祉と国家の静謐とを祈請した」
大社の神304座に幣帛を奉り 場所は198ヶ所と記しています
月次祭(つきなみのまつり)
奉(たてまつる)幣(みてぐら)を案上に 神三百四座 並 大社 一百九十八所
坐別に絹5尺 五色の薄絹 各1尺 倭文1尺 木綿2両 麻5両・・・・云々
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻2 四時祭下 相嘗祭神七十一座
巻向社(まきもくのやしろ)一座
絹(キヌ)2疋 絲(イト)1絇1両3分 調布3端4尺 唐布1端1丈4尺
木綿13両 鮑10両 海藻8斤 堅魚2斤10両 腊(きたい)〈干し肉〉4斤海藻2斤十両 塩1斤 筥1合 瓼(サラケ)缶(モタイ) 水瓫(ホトギ)山都婆波 小都婆波 筥瓶酒垂匜等呂須伎高盤片盤 短女杯筥杯小杯陶曰各2口 酒稲50束 神統
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)大和国 286座(大128座(並月次新嘗・就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣))
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)城上郡 35座(大15座・小20座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 巻向坐若御魂神社(大 月次相嘗新嘗)
[ふ り が な ](まきむくにます わかみたまの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Makimukunimasu Wakamitama no kamino yashiro)
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻2 四時祭下 新嘗祭
新嘗祭(にいなめのまつり)は
「新」は新穀を「嘗」はお召し上がりいただくを意味する 収穫された新穀を神に奉り その恵みに感謝し 国家安泰 国民の繁栄を祈る祭り
大社の神304座で 月次祭(つきなみのまつり)に准じて行われる
春には祈年祭で豊作を祈り 秋には新嘗祭で収穫に感謝する
新嘗祭(にいなめのまつり)
奉(たてまつる)幣(みてぐら)を案上に 神三百四座 並 大社 一百九十八所
坐別に絹5尺 五色の薄絹 各1尺 倭文1尺 木綿2両 麻5両・・・・云々
中臣祝詞(なかとみののりと)は 准に月次祭(つきなみのまつり)に
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
三ツ鳥居(三輪鳥居)について
山の辺の道沿い〈桜井市三輪〉に鎮座する
大神神社(おほみわじんじゃ)と摂社 檜原神社(ひばらじんじゃ)は 三ツ鳥居(三輪鳥居)を通し 直接に御神体の三輪山に祈る古代からの信仰の形態が残されています そのため 本殿を有していません
檜原神社(ひばらじんじゃ)は 本殿と拝殿もありませんので 三ツ鳥居が良くわかります
大神神社(おほみわじんじゃ)は 拝殿の東 拝殿と禁足地(神体山のうち特に神聖な場所)とを区切る地点に三ツ鳥居があるので 社務所で拝観を申し込むか 正式参拝時に運良く拝殿での参拝になれば 見ることができます
大神神社(おほみわじんじゃ)の由緒書きにある 三ツ鳥居の説明は次のようにあります
三ツ鳥居(国の重要文化財)
明神鳥居三基を組合わせた独特の形式は、古来一社の神秘とされています拝殿の東、拝殿と禁足地(神体山のうち特に神聖な場所)とを区切る地点、即ち拝殿の奥正面に建っているのが三ツ鳥居であります。この鳥居は三輪鳥居とも呼ばれ古来当社の特色の一つとされ、又 一社の神秘とまで称せられた程 神聖視されて来たものでありまして、3箇の明神型鳥居を一体に組合わせた形式であります。恐らくは中古以来出来上った形式であろうと云われておりますが、現在の鳥居は正面高さ3.6米(1丈2尺)、左右高さ2.6米(8尺7寸)で、昭和33年11月に改修されており、昭和28年に重要文化財に指定されました。
檜原神社 平窯跡について
檜原神社平窯跡
この檜原の地は第十代崇神天皇の御代 皇女豊鍬入姫命が皇祖 天照大御神を始めて斎き祀った「倭笠縫邑(やまとかさぬいむら)」で、天照大御神が伊勢へご鎮座の後も、元伊勢の神蹟として尊崇し、大御神を引続きお祀りいたして来た所である。
そしてこの聖地よりはそれを証明するかの如く、弥生時代から今日に至る長き歳月に亘って、遍く各時代の遺物が出土しており、今回検出された窯跡もこの一部と考えられ、現在まで連綿として祭祀が斉行されていることが窺われる。現地案内より
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
大神神社(桜井市)より 山の辺の道を北へ約1.4km 徒歩20分程度
檜原神社の社頭の注連縄柱の真横前に出ます
西にある箸墓古墳(大市墓)からは 東へ約1.4km 徒歩20分程度
檜原神社の社頭 正面へと出ます
檜原神社(桜井市三輪)に参着
境内に社殿は無く 神籬(ひもろぎ)の前に 三ツ鳥居があり その手前に拝所として 玉垣が廻されています
玉垣内には 境内社の豊鍬入姫宮(とよすきいりひめのみや)が祀られています
拝所にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
一礼をして 参道を戻ります
桧原台地は 大和国中を一望にする景勝の地であり
注連縄柱 越しに見えるのは 二上山〈大阪府との境にあり 三輪山から昇った太陽が沈む二上山とされます〉
万葉の「ふたかみやま」として古代史の舞台ともなっています 雄岳の頂上には 謀反の罪で命を落とした悲劇の皇子・大津皇子が祀られています
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『古事記(Kojiki)〈和銅5年(712)編纂〉』 に記される伝承
式内社 巻向坐若御魂神社の御祭神は 和久産巣日神(わくむすびのかみ)とされ その誕生について 記しています
【抜粋意訳】
上巻 神代 伊邪那美命 御石隠(みいはがくり)の段
次にお生みになった神の名は 鳥之石楠船神(とりの いはくすふねのかみ)
亦の名は 天鳥船(あめのとりふね)と申す
次に 大宜都比売神(おほげつひめのかみ)
次に 火之夜芸速男神(ひのやぎはやをのかみ)をお生みになった
亦の名は 火之炫毘古神(ひのかがびこのかみ)と申す
亦の名は 火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)と申すこの御子〈火之迦具土神〉を産んだことで 〈伊邪那美神は〉ミホト〈女陰〉を焼けどして御病気になりました
その 嘔吐(たぐりに)から 生まれたのが
金山毘古神(かなやまびこのかみ)
次に 金山毘売神(かなやまびめのかみ)
次に 糞(くそ)から 生まれたのが
波邇夜須毘古神(はにやすひこのかみ)
次に 波邇夜須毘売神(はらやすびめのかみ)
次に 尿(ゆまり)から 生まれたのが
弥都波能売神(みつはめのかみ)
次に 和久産巣日神(わくむすびのかみ)
この神〈和久産巣日神〉の御子を 富宇気毘売神(とようけびめのかみ)と申す
故 伊邪那美神は 火神(ひのかみ)を産んだことで 神避(かむさり)坐(まし)ましぬ〈お隱かくれになりました〉天鳥船(あめのとりふね)から富宇気毘売神(とようけびめのかみ)まで合わせて八神です
凡(す)べて 伊邪那岐 伊邪那美の二柱の神が 共に生める島は 35島
神は 35柱の神これは 伊邪那美神が まだお隱れになる以前にお生みになられたのです
ただ オノゴロ嶋はお生みになっていません
また 水蛭子(ひるこ)と淡嶋(あほしま)は 子の数(かず)に入れず
【原文参照】
『古事記(Kojiki)〈和銅5年(712)編纂〉』 に記される伝承
檜原神社(桜井市三輪)の創建について 記しています
第10代 崇神天皇の条に「妹 豊鉏比売命(とよすきひめのみこと)は 伊勢大神之宮(いせのおほかみのみや)を拝祭(いつきまつり)たまいき」と それまで皇居で祀られていた「天照大御神(あまてらすおほみかみ)」を 皇女 豊鍬入姫命に託し ここ檜原の地(倭笠縫邑)に遷し お祀りした事が記されています
【抜粋意訳】
崇神天皇 后妃と皇子女の段
御真木入日子印恵命(みまきいりびこいにえのみこと)〈崇神天皇〉は 師木水垣宮(しきのみづがきのみや)に坐(ましまし)て 天下を治められた
この天皇は 木国造(きのくにのみやつこ)名は 荒河刀弁(あらかはとべ)の女(むすめ)遠津年魚目目微比売(とほつのあゆめ めくはしひめ)を娶り生んだ御子は
豊木入日子命(とよきいりびこのみこと)
次に 豊鉏入日売命(とよすきいれびめのみこと)の二柱又 尾張連(おわりのむらじ)の祖(おや)
意富阿麻比売(おほあまひめ)を娶り 生んだ御子は
大入杵命(おほいりきのみこと)
次に 八坂之入日子命(やさかのいりびこのみこと)
次に 沼名木之入日売命(ぬなきのいりびめのみこと)
次に 十市之入日売命(とをいちのいりびめのみこと)の四柱又 大毘古命(おほびこのみこと)〈第8代 孝元天皇の皇子〉の女(むすめ)御真津比売命(みまつひめのみこと)を娶り生んだ御子は
伊玖米入日子伊沙知命(いくめりびこいさちのみこと)
次に 伊耶能真若命(いざのまわかのみこと)
次に 国片比売命(くにかたひめのみこと)
次に 千千都久和比売命(ちぢつくやまとひめのみこと)
次に 伊賀比売命(いがひめのみこと)
次に 倭日子命(やまとひこのみこと)の六柱この天皇〈すめらみこと〉の御子は あわせて十二柱
男王(ひこみこ)七柱 女王(ひめみこ)五柱
このうち 伊久米伊理毘古伊佐知命(いくめいりびこいさちのみこと)〈第11代 垂仁天皇〉が 天下を治めた豊木入日子命(とよきいりびこのみこと)は
上毛野君(かみつけぬのきみ)・下毛野君(しもつけぬのきみ)等の祖(おや)なり妹(いも)豊鉏比売命(とよすきひめのみこと)は 伊勢大神之宮(いせのおほかみのみや)を拝祭(いつきまつり)たまいき
次に 大入杵命(おほいりきのみこと)は 能登臣(のとのおみ)の祖(おや)なり
次に 倭日子命(やまとひこのみこと)この王(みこ)の時に 始めて 陵(みはか)に人垣(ひとがき)を立てた
【原文参照】
『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』に記される伝承
式内社 巻向坐若御魂神社の御祭神は 和久産巣日神(わくむすびのかみ)とされ その誕生について 記しています
【抜粋意訳】
巻第一 神代上 第五段 一書(二)
ある書によると……
日と月とが既に生まれたあと 蛭児(ひるこ)を生まれた この子は 三歳になっても足で立つことができなかった
初めは 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊奘冉尊(いざなみのみこと)が 柱を回られたときに 女神が先に喜びの言葉を言われた それが陰陽の道理に違っていた それために蛭児(ひるこ)が生まれた次に生まれたのは素戔嗚尊(すさのをのみこと)
この神は 性が悪く 泣いたり怒ったりすることを常に好んだ
国の民が多く死に 青山を枯山と為した
その父母は 勅(みことのり)をいわれた
「もし お前がこの国を治めたら きっと損ない傷(やぶる)ことが多いだろう だから 遠い根之国(ねのくに)を治めなさい」
次に 生まれたのは 鳥磐櫲樟橡船(とりのいはくすふね)
この船に 蛭子(ひるこ)を乗せて流し放ち棄てました次に 生まれたのは 火神(ほのかみ)軻遇突智(かぐつち)
この時に 伊奘冉尊(いざなみのみこと)は 火傷をして神避(かむさり)坐(まし)ましぬ〈お隱かくれになりました〉その神避(かむさり)坐(まし)ましぬ間に 生まれたのは 土神(つちのかみ)の埴山姫(はにやまひめ)及び 水神(みつのかみ)罔象女(みづはのめ)
軻遇突智(かぐつち)が 埴山姫(はにやまひめ)を娶り 稚産霊(わくむすび)が生まれた
この神〈稚産霊〉の 頭の上に 蚕と桑が生じた
臍(ほぞ)〈へそ〉の中に 五穀(いつくさのたなつも)が生じた罔象を 美都波(みつは)と云う
【原文参照】
『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』に記される伝承
檜原神社(桜井市三輪)の創建について 記しています
第10代 崇神天皇の御代に 国民の大半が死亡する疫病が流行り 天皇は 皇居の中に並べて祀っておられた二柱の神を畏れ多いと単独に祀られた
天照大神(あまてらすおほみかみ)は 豐鍬入姫命(すよすきいりひめのみこと)に託(つ)けて 倭の笠縫邑(かさぬいむら)に祀り 倭大國魂神(やまとのおほくにたまのかみ)は 渟名城入姫(ぬなきいりひめ)に託(つ)けて祀った
【抜粋意訳】
崇神天皇 五年 疫病 大物主大神を祀る の段
〇崇神天皇 五年
国内に疫病が多く 民(おほみたから)の大半が死亡するほどであった
〇崇神天皇 六年
百姓の流離し 或いは背く者もあり その勢いは 徳を以て治めようとしても難しかった
そこで朝まで一日晩中 神祇〈天津神・国津神〉にお祈りをした
これより先に 天照大神(あまてらすおほみかみ)倭大國魂(やまとのおほくにたま)の二柱の神を 天皇が住む宮殿の中に並べて祀っておられた
すると その神の勢いは 畏れおおく 共に住むのは不安であった
そこで 天照大神を豐鍬入姫命(すよすきいりひめのみこと)に託(つ)けて 倭の笠縫邑(かさぬいむら)に祀りました
そして 磯堅城(しかたき)に神籬(ひもろき)を立てた
神籬は 比莽呂岐(ヒモロキ)と云う日本大國魂神(やまとおほくにたまのかみ)は 渟名城入姫(ぬなきいりひめ)に託(つ)けて祀りました
しかし 渟名城入姫は 髪が抜け落ち体が瘦せて 祀ることも出来なかった
【原文参照】
『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
神位の奉授が記されています
【抜粋意訳】
清和天皇 貞観元年正月二十七日甲申 の条
京畿七道の諸神に進階を及び新叙惣て 267社なり 奉る授に
・・・・
・・・・大和國 従五位下 巻向若御魂神に 並びに 従五位上
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 巻向坐若御魂神社の所在について”三輪山北巻向 檜原に在す”と記しています
【抜粋意訳】
巻向坐若御魂神社 大 月次新嘗
巻向は 末岐牟久、
若御魂は 和加美牟須毘と訓べし
○祭神明か也
〇三輪山北巻向 檜原に在す、(大和志、同名所図会)、
○日本紀神代巻上、一書云、軻遇突智 娶 埴山媛 生 稚産霊、
○同紀、纏向珠城宮、(垂仁天皇)、纏向日代宮、(景行天皇)
○式廿一、(玄蕃)凡新羅客入朝者、給神酒、其醸酒料稲、大和國纒向社、三十束、送住道社、(全文大和國葛上郡鴨神社の條見合すべし)
神位
三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授大和國從五位下巻向若御魂神從五位上、
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 巻向坐若御魂神社の所在は 三輪村字檜原と伝わるが この地に祀られている檜原神社の御祭神は 天照大御神であるので 若御魂神社とするのは 今一度 一考が必要と記しています
【意訳】
巻向坐若御魂(まきむくにます つくみむすびの)神社(大 月次相嘗新嘗)
祭神 稚産霊命
今按〈今考えるに〉
古事記 伊弉冉尊(いざなみのみこと)の御石隠の條に 次に 尿(ゆまり)から 生まれたのが 弥都波能売神(みつはめのかみ)次に 和久産巣日神(わくむすびのかみ)この神〈和久産巣日神〉の御子を 富宇気毘売神(とようけびめのかみ)と申す 云々とある 和久産巣日神は
書記一書に とあるは異なる伝えなれども 豊宇氣昆賣神の御親なると合せて思えば 既に土と水との神たち成坐て次に穀物の成るべき産霊の神なりと古事記伝に云るが如し神位
清和天皇 貞観元年正月二十七日甲申 奉る授に大和國 従五位下 巻向若御魂神に従五位上祭日 一月十五日 七月二十八日
所在
今按〈今考えるに〉
大和志に 巻向坐若御魂神社 在 三輪山北巻向檜原とみえ
奈良縣注進状にも 三輪村字檜原と云れば この地と決めて可なるに似たれど
一説に こは檜原神社にて 大神神社の摂社 即 垂仁天皇の朝に天照大御神を斎祭りし所なれば 若御魂神社と云は 謬なりと云り 故 今さだめては云がたし
【原文参照】
『大和志料(Yamato shiryo)』〈大正3年(1914)〉に記される伝承
御祭神について 天照若御魂神に諾冉二神を配祀す と記しています
【抜粋意訳】
檜原(ヒバラ)神社
本社より北八丁許にあり、祭神は越氏三輪社記に「檜原 天照大神若御魂神〇同氏 享保記録には天照若御魂神に作る是なり 伊弉諾尊、伊弉冉尊、大賀茂氏神主」と見え、天照若御魂神に諾冉二神を配祀す、創始詳ならず、
旧蹟幽考には 豊受大神の暫時 鎮座し給へる旧蹟と云い、
土人は 倭磯城笠縫邑(やまとのしきのかさぬいむら)と称し、豊鋤入姫、天照大神の御為に神籬を立てし処なりと伝ふるも記録の徴すべきなし、
但し、三輪神社獨案内には「日原社 慶長年中に天照大神 この所に御鎮座有し所なり荒木田神主奉レ迎シ之ヲ」とありて 創祀を慶長年中に係るも、当社は平等寺蔵 三輪山古圓を案ずるに 慶長の創始にあらず、荒木田氏の勧請せし天照大神は 当社の末社なりしを、本末相謬り斯く伝えしものなるべく、将た天照大神を境内に勧請せしは この地 古の笠縫邑なりと云える伝説に本づけるならん。・・・云々
【原文参照】
檜原神社(桜井市三輪)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
大神神社(桜井市三輪)の・境内社・境外社 の記事を見る
〈三輪山を〈御神体〉とする大和國一之宮〉゛大神神社(おほみわじんじゃ)゛奈良県桜井市三輪に鎮座は 日本で最も古い神社の一つで 摂社(せっしゃ)・末社(まっしゃ)の数も非常に多く 本社域と参道の南北に分けて表示して 分かりやすいように記載しています 各々の記事をクリックすると 各神社の詳細が確認できます
大神神社(桜井市三輪)摂社(せっしゃ)・末社(まっしゃ)・別宮(べつぐう)巡り
大和国 式内社 286座(大128座(並月次新嘗 就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)について に戻る
大和国(やまとのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 大和國の286座(大128座(並月次新嘗 就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)の神社のことです
大和国 286座(大128座(並月次新嘗就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)