実践和學 Cultural Japan heritage

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平群神社(生駒郡平群町西宮)〈『延喜式』平群神社五座〔並大月次新嘗〕〉

平群神社(へぐりじんじゃ)は 『興福寺官務牒疏(1441年)』に「平群大明神」と記載以来 延喜式内社 大和國 平群郡 平群神社 五座〔並大月次新嘗〕(へくりの かみのやしろ いつくら)の論社とされ 五座については 平群木菟宿禰の裔に平群臣・佐和良臣・馬御樴連・韓海部首・味酒首等があり この祖神を祀ったとする説があります

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

平群神社(Heguri shrine

通称名(Common name)

俗に「西の宮」と云う

近世は「春日大明神」と呼ばれていた〔延宝7年(1679)「検地帳」・天保3年(1832)「西之宮村報告書」〕

【鎮座地 (Location) 

奈良県生駒郡平群町西宮1-3-617

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》大山祇神(おほやまつみのかみ)

※平群朝臣の祖 を祀るものであろうとの説あり

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

由緒記

 鎮座地 生駒郡平群町西宮六一七

 本社御祭神 大山祇神

 境内社御祭神 天照大神

 由緒
 御祭神 大山祇神は山野を司る神で、平群氏の祖 武内宿弥が 神功皇后と共に朝鮮へ出兵の際、戦勝を祈願し この地に祀ったと伝う。

 のち五穀豊穣と、武運長久、家内安全の守護神として 信仰をあつめ 今日に至る。

 延喜式神名帳に「平群神社五座(並大、月並、新嘗)」とあり神宮寺としても龍華山西宮密寺があった古い社格の神社である。

 秋季大祭 十月十五日

延喜式内社 平群神社

現地案内板より

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【由  (History)】

『奈良県史』第五巻 神社、奈良縣史編纂委員会編集 平成元年(1989)に記される内容

【抜粋意訳】

平群神社 五座並大月次 新嘗

 西宮集落の北端に鎮座する神社で、式内大社にあてられている。
 祭神について明治の「明細帳」や昭和の「宗教法人法登記」には大山祇神と記している。嘉吉元年(一四四一)の「興福寺官務牒疏」には平群氏の租神で、供僧二人 神人六人とあるが、『延喜式』神名帳に祭神五座とあることについて、池田源太氏は『平群町史』に、最初は一座か二座であったのを平群氏氏人の尊信からかなり時代の下がった時、その祖神または関係神を添加したのではないかと考えられている。

 延宝七年(一六七九)の「検地帳」や天保三年(一八三二)の「西之宮村報告書」からみると、近世は春日大明神と呼ばれていたことになる。

 境内右側の社務所の位置に、元 西宮密寺と称する神宮寺があったが、明治の神仏分離で廃絶した。「竜花山西宮密寺」の扁額「正徳元年露月廿八日西宮密寺住持元始如記」と不動明王・両界曼荼羅・十三仏画像は今、付近の来迎寺(融通念仏宗)に保管されている。

【原文】『奈良県史』第五巻 神社、奈良縣史編纂委員会編集 平成元年(1989)

『奈良県史』第五巻 神社、奈良縣史編纂委員会編集 平成元年(1989)

『大和志料』中巻,昭和19年に記される内容

【抜粋意訳】

平群神社

 平群村大字西宮ニアリ、俗ニ西宮ト稱ス。
延喜式ニ「平群神社五坐並大月次新嘗」ト見ユ。
今村社タリ。祭神詳ナラズ。

 明細帳ニハ大山祇神」トアリ。

【原文参照】

奈良県教育会 編『大和志料』中巻,養徳社,昭和19. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1143230

『神道大辞典 : 3巻』第三卷,1941年に記される内容

【抜粋意訳】

ヘグリジンシャ 平群神社

奈良縣生駒郡平群村大字西宮に鎭座。

村社。大山祇神を祀る。

延喜の制、大社に列し祈年•月次•新嘗の案上官幣に預かった名社。

祭神は今一柱なるも、神名帳に五座とあり、平群木菟宿禰の裔に平群臣•佐和良臣•馬御樴連•韓海部首•味酒首等あれば、蓋しこれ等の祖神を祀ったものであらうとする説もある。

例祭日、十月二十四日。

【原文参照】

平凡社 編『神道大辞典 : 3巻』第三卷,平凡社,1941. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1913359

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

平群神社 本殿

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・〈本殿の横 境内社〉天照大神

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平群神社 割拝殿

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・鳥居・社号標

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・〈境内向かって右側〉社務所

現在の社務所の位置には 元々は「西宮密寺と称する神宮寺」のあった場所で 明治の神仏分離で廃絶し その後 寺小屋として使われていたが 現在は社務所に建て替えられています

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

・西宮古墳(生駒郡平群町西宮)

築造時期は 古墳時代終末期(7世紀中葉~後半頃)と推定され
平群谷では代表的な終末期古墳 被葬者は明らかでない

一説に 古墳の規模・内容〈江戸時代の『大和名所記』・『和漢三才図会』に北岡墓は平群川(現在の竜田川)西側に所在する旨が記されることや 築造時期 墳丘規模 石室規模が根拠とされ〉から 厩戸皇子(聖徳太子)の子 山背大兄王(やましろのおおえのおう)の墓とする説が挙げられています

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平群神社の西170m程 平群中央公園の園内 徒歩3分程度

県指定 史跡 西宮古墳(にしのみやこふん)

 昭和三十一年八月七日指定

 この古墳は、廿日山(はつかやま)丘陵の南端に築かれた三弾築成の方形墳である。墳丘は一辺約三六mの正方形で墳丘高は正面で七・二m以上あり、本来の高さは約八mと思われる。墳丘斜面は約三五度の勾配で、墳丘全体と東側周溝底には貼石が施されている。

 墳丘の東西と北側は大形状に大きく掘削され周溝をめぐらせている。横穴式石室は南に開口し、玄室は墳丘中央部に位置する。
石室は切石を用いた精美なもので平群町越木塚で産出する石材によって築かれ、石室床面は墳丘二段目のテラス面に合わせている。
石室の全長は約一四mで玄室の長さ約三・六m、幅・高さが約一・八mである。

 石室内部に収められた刳抜式(くりぬきしき)の家形石棺は棺蓋が失われ棺身のみであるが兵庫県産の竜山石(たつやまいし)で製作されたものである。石棺の長さは二二四cm、幅一一五cm、高さ七六cmである。石室前方の墓道より須恵器の杯蓋・高坏片が出土している。七世紀の中頃から後半の築造と考えられ、平群谷を代表する終末期の古墳として重要である。

平成十一年十一月 奈良県教育委員会

現地案内板より

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています

〇『六国史(りっこくし)』
  奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称

〇『延喜式(えんぎしき)』
  平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)

〇『風土記(ふどき)』
 『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています

1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉

現存するものは全て写本

『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態

『延喜式Engishiki)』巻1 四時祭上 六月祭十二月准 月次

月次祭つきなみのまつり)『広辞苑』(1983)
「古代から毎年陰暦六月・十二月の十一日に神祇官で行われた年中行事。伊勢神宮を初め〇四座の祭神に幣帛を奉り、天皇の福祉と国家の静謐とを祈請した」

大社の神304座に幣帛を奉り 場所は198ヶ所と記しています

【抜粋意訳】

月次祭つきなみのまつり

奉(たてまつる)幣(みてぐら)を案上に 三百四座 並大社 一百九十八所

座別に絁五尺、五色の薄絁各一尺、倭文一尺、木綿二両、麻五両、倭文纏刀形(まきかたなかた)、絁の纏刀形、布の纏刀形各一口、四座置一束、八座置一束、弓一張、靫(ゆき)一口、楯一枚、槍鋒(ほこのさき)一竿、鹿角一隻、鍬一口、庸布一丈四尺、酒四升、鰒、堅魚各五両、腊二升、海藻、滑海藻、雑の海菜各六両、堅塩一升、酒坩(かめ)一口、裹葉薦五尺、祝詞(のとこと)座料短畳一枚、

前一百六座
座別絁五尺、五色薄絁各一尺、倭文一尺、木綿二両、麻五両、四座置一束、八座置一束、楯一枚、槍鋒一口、裹葉薦五尺、
 右所祭之神、並同祈年、其太神宮(かむのみや)、度会宮(わたらひのみや)、高御魂神(たかむすひのかみ)、大宮女神(おほみやめのかみ)には各加ふ馬一疋、〈但太神宮、度会宮各加籠(おもつを)頭料庸布一段、〉
前祭五日、充忌部九人、木工一人を、令造供神調度を、〈其監造并潔衣食料、各准祈年、〉祭畢即中臣の官一人率て宮主及卜部等を、向て宮内省に、卜の定供奉神今食に之小斎人(みのひと)を、
供神今食料
 紵一丈二尺、〈御巾料、〉絹二丈二尺、〈篩(ふるい)の料、〉絲四両、〈縫篩等料、〉布三端一丈、〈膳部巾料、〉曝布一丈二尺、〈覆水甕料、〉細布三丈二尺、〈戸座襅(へさたまき)并褠料、〉木綿一斤五両、〈結ふ御食(みけ)料、〉刻柄(きさたるつか)の刀子二枚、長刀子十枚、短刀子十枚、筥六合、麁(あら)筥二合、明櫃三合、御飯、粥料米各二斗、粟二斗、陶瓼(すえのさかけ)[如硯瓶以上作之]瓶【瓦+并】(かめ)各五口、都婆波、匜(はふさ)、酒垂各四口、洗盤、短女杯(さらけ)各六口、高盤廿口、多志良加[似尼瓶]四口、陶鉢八口、叩盆四口、臼二口、土片椀(もひ)廿口、水椀八口、筥代盤(しろのさら)八口、手洗二口、盤八口、土の手湯盆(ほん)[似叩戸采女洗]二口、盆(ほとき)四口、堝十口、火爐二口、案(つくえ)十脚、切机二脚、槌二枚、砧二枚、槲四俵、匏廿柄、蚡鰭(えひのはた)槽[供御手水所]二隻、油三升、橡の帛三丈、〈戸の座服の料、冬絁一疋、綿六屯、履一両、〉
右供御の雑物は、各付内膳主水等の司に、神祇官の官人率神部等を、夕暁(よひあかつき)両般参入内裏に、供奉其の事に、所供雑物、祭訖て即給中臣忌部宮主等に、一同し大甞会の例に、

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

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『延喜式Engishiki)』巻2 四時祭下 新嘗祭

嘗祭(にいなめのまつり)は
「新」は新穀を「嘗」はお召し上がりいただくを意味する 収穫された新穀を神に奉り その恵みに感謝し 国家安泰 国民の繁栄を祈る祭り

式内大社の神304座で 月次祭(つきなみのまつり)に准じて行われ 春には祈年祭で豊作を祈り 秋には新嘗祭で収穫に感謝する

【抜粋意訳】

新嘗祭(にいなめのまつり)

奉(たてまつる)幣(みてぐら)を案上に 神三百四座 並 大社 一百九十八所

座別に 絹5尺 五色の薄絹 各1尺 倭文1尺 木綿2両 麻5両四座置1束 八座(やくら)置1束 盾(たて)1枚 槍鉾(やりほこ)1竿
社別に庸布1丈4尺 裏葉薦(つつむはこも)5尺

前一百六座
座別に 幣物准社の法に伹 除く 庸布を
右中 卯の日に於いて この官(つかさ)の斎院に官人 行事を諸司不に供奉る
伹 頒幣 及 造 供神物を料度 中臣祝詞(なかとみののりと)は 准に月次祭(つきなみのまつり)に

【原文参照】

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『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)大和國 286座(第128座(な月次新嘗・就中31座預り相詳細)・小158座(波官幣))

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)平群郡 20座(大12座・小8座)

[名神大 大 小] 式内

[旧 神社 名称 ] 平群神社五座〔並大月次新嘗
[ふ り が な ]へくりの かみのやしろ いつくら
[Old Shrine name]Kusanaki no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】This is the point that Otaku conveys.

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

古代豪族「平群氏(へぐりうじ)」については

 平群氏(へぐりうじ)は
 大和国平群郡 平群郷(現在の奈良県生駒郡平群町)を本拠地とした古代豪族で

『日本書紀』には 履中天皇の御代に国事を執った「平群木菟宿禰(へぐりの つくのすくね)」は 武内宿禰の子で 平群氏およびその同族の祖とされ 

平群木菟宿禰(へぐりの つくのすくね)の子 平群真鳥(へぐりの まとり)は 葛城氏没落後に 雄略朝以降の4朝〈雄略朝・清寧朝・顕宗朝・仁賢朝〉の大臣(おおおみ)を歴任して 一族は興隆を極めました

詳しくは下記の記事を参照

「古代豪族「平群氏」の興亡と信仰 ― 古代大和王権における平群氏の歴史と式内社」

【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

近鉄生駒線 平群駅から線路に沿うように南下しながら 下垣内橋で竜田川を渡りさらに南下 駅から約1km 徒歩での所要時間15~17分程度

竜田川を渡り南下して 西宮の集落に入ると 右〈坂上〉に平群神社と西宮古墳の案内があります

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すぐに玉垣があり 石燈籠が立っていて 神倉のような建物があり その脇に階段があり 境内へと繋がっているようですが ロープがこちらからは張られていて立ち入り禁止の様です

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そのまま道路なりに進むと 南側に廻り込んでいて 社頭になります

平群神社(生駒郡平群町西宮)に参着

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境内に進むと正面に手水舎があり 南を向いて 笠木が設けられている神明鳥居が立ち 城の石垣ような壇が築かれていて その上に社殿が祀られています

拝殿にすすみます

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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拝殿の奥には 本殿が祀られています

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拝殿には 昔の神社の風景写真が掲げられています

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一礼をして振り返ると ここは高台なので 近鉄生駒線が長閑に走る光景が見えました

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石段を境内へと下ります

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社頭から南方向へ続いている道です

狭いので徒歩での参拝をお勧めします

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神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 平群神社五座並大月次新嘗〕について 所在は゛在所詳ならず゛不明と記していますが ゛或曰 西宮村西宮是也、゛〈あるいは 現 平群神社(生駒郡平群町西宮)〉とも記しています

【抜粋意訳】

平群神社五座並大月次新嘗

平群は前に同じ

○祭神 平群朝臣祖歟

○在所詳ならず、或曰 西宮村西宮是也、大和志、名所圖繪〕

〇姓氏録、〔左京皇別上石川朝臣、孝元天皇皇子 彦太忍信命之後也、また紀朝臣、石川朝臣同祖、建内宿禰男紀角宿禰之後也、
姓氏録、〔右京皇別上平群朝臣、石川朝臣同祖、武内宿禰男平群都久宿禰之後也、また平群文室朝臣、同都久宿禰之後也、また紀朝臣同祖、屋主忍雄建猪心命之後也、

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 平群神社五座並大月次新嘗〕について 所在は゛ 平群平群谷西宮村にあり、と記しています

祭神の五座について 検証しています

【抜粋意訳】

平群神社五座、

 平群平群谷西宮村にあり、〔大和志 名所圖繪〕

 平群朝臣の氏神也、〔參攷古事記、日本書紀、姓氏録、〕
〔〇按 古事記、姓氏錄、三代實錄、平群木免宿禰の裔を擧て、平群臣、佐和良臣、馬御樴連、平群文室朝臣、韓海部首、額田首、味酒首 、凡七氏あるか内、平群文室姓は、平群に文室を複ねたるにて、平群より出たる姓と聞に、額田首は、母の姓なりと云へは、此二氏を除きて、即五氏なり、依りて思ふに、五座は即五氏の別れたる祖を各一人つつ祭れるにはあらし歟、姑く附て考に備ふ

醍醐天皇 延喜の制、並に大社に列り、祈年月次新嘗の案上官幣に預る、〔延喜式〕

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第8,9巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815494

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 平群神社五座並大月次新嘗〕について 所在は゛西宮村 ( 生駒郡平群村大字西宮)゛と記していますが
一說には一分村なる伊古麻都比古神社の五社なりとも云れ゛〈あるいは 現 往馬坐伊古麻都比古神社(生駒市壱分町)〉もあるが 平群を考えると該当しないであろう

しかし 両説とも゛猶よく考へて後に定むべき也゛と締めています

【抜粋意訳】

平群神社五座 並大月次新嘗

祭神

 今按 本社祭神 山祇神と云へども信がたし

されば平群神社とは 古來平群の地にに因緣ある神を祭れる事著きが上に 古事記 建内タケシウチノ宿禰の子を擧て
 八多ノ八代(ヤタノヤシロ)宿禰
 許勢ノ小柄(コセノコカラ)宿禰
 蘇我ノ石河(ソガノイシカハ)ノ宿禰
 平群ノ都久(ヘクリノツク)ノ宿禰
 木角(キノツヌ)ノ宿禰
 葛木ノ長江曾都毘古若子(カツラギノナガエソツビコワクゴ)宿禰 
〔女子の名をば 今はぶけり〕とみえ

日本紀〔景行巻〕に
 屋主忍男武雄心(ヤヌシオシヲタケヲココロ)ノ命 云々娶テ 紀ノ直(キノアタイ)ノ遠祖 菟道彦(ウヂヒコ)之女 影媛(カゲヒメ)ニ生ニ武内ノ宿禰とあるを合せて考るに 紀氏神社には紀氏の遠祖 屋主忍男武雄心命を祭ると云傳へたれば この平群神社は平群氏に由緣ある人々を合せ祭れるにやあらん 其は建内宿禰 八代宿禰 小柄宿禰 都久宿禰 長江曾都毘古〔この四人は何れも大和によしありて聞ゆ〕なるべく思はるれど 今決めがたければ姑く記して後考を俟つ

祭日 九月三日
社格 村社

所在 西宮村 ( 生駒郡平群村大字西宮)

 今按 本社所在 大和志に不詳 或曰 西宮村とあり  一說には一分村なる伊古麻都比古神社の五社なりとも云れど 已にいこまと云ふ時は平群神社と云こと疑はしければ取がたし 故今 志の或說と奈良縣注進に從て之を記すと雖も猶よく考へて後に定むべき也

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019

平群神社(生駒郡平群町西宮) (hai)」(90度のお辞儀)

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大和国 式内社 286座(大128座(並月次新嘗 就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)について に戻る

一緒に読む
大和國 286座(大128座(並月次新嘗就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)

大和国(やまとのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 大和國の286座(大128座(並月次新嘗 就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)の神社のことです

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