実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

平群神社(桑名市志知)〈『延喜式』平群神社〉

平群神社(へぐりじんじゃ)は 平群氏族の祖神 平群木兎宿禰(へぐりつくのすくね)祭神とする 延喜式内社 伊勢國 員辨郡 平群神社(へくりの かみのやしろ)です 背後の平群山は古代神奈備の遺跡で 境内奥には日本武尊の足洗池の跡と伝えられる平群があり 古代からの息吹を感ずる場所に鎮座します

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

平群神社(Heguri shrine

通称名(Common name)

【鎮座地 (Location) 

三重県桑名市大字 志知(しち)3693

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主祭神
 平群木兎宿禰(へぐりつくのすくね)

《相殿神》
 武内宿禰命(たけのうちのすくね)
 大己貴命(おほなむちのみこと)

合祀神
 天照大御神(あまてらすおほみかみ)
 須佐之男命(すさのをのみこと)
 大山津見命(おほやまつみのみこと)
 倭建命
(やまとたけるのみこと)明治431910櫛田神社合祀

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【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

・平群山自体が神であり 霊験あらかたな神社である と云う

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

平群神社

 延喜式内社。

 本社は大字志知の氏神(祭神は平群氏族の祖神、木菟宿禰)であり、合祀の祭神は木菟宿禰の父武内宿禰・大巳貴命・天照大神・素盞嗚命・大山津見命・倭建命である。

 この地は倭建命(日本武尊)御駐足の跡と伝えられており、境内には氏子などによって建てられた尊の御歌「いのちのまたけむ人はたたみこもへくりの山のくまかしか葉をうすにさせその子」を刻んだ石碑が、境内奥には倭建命の足洗池と伝えられる池があり、「平群池の白サギ」の伝説も残っている。また、背後の平群山は古代神奈備の遺跡である。

現地案内板より

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【由  (History)】

『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承

【抜粋意訳】

〇三重縣 伊勢國 員辨郡 久米村大字志知

郷社 平群(ヘグリノ)神社

祭神 平群木兎宿禰(ヘグリノツクノスクネ)

相殿 武内宿禰(タケシウチノスクネ)大已貴(オホナムチノ)

合祭 天照大御神(アマテラスオホミカミ)須佐之男(スサノヲノ)命 大山津見(オホヤマツミノ)命(四座)、

創建年代詳ならずと雖も、
神名帳考証に、「平群神社、今在志知村、平群木兎宿禰」と見え、
神名帳考証再考に云く、「志知村に此神社有、是は大和国平群郡に、平群坐紀氏神社といふありて、紀氏の本宗家の木兎(ツク)宿禰を祀る所なるを、大内記 味酒首(ウマサケノオビト)文雄といふ人、國の民間に在るが、是 紀氏の別支なれば、平群に在祖の社を此に建し也、」
日本紀 及び 古事記に、平群郡久宿禰者建内宿称の子とあり、又 日本紀仁徳紀には、「初天皇生日、木兎入于産殿、明旦 誉田天皇喚大臣武内宿禰語之曰、是何瑞也、大臣言、吉祥也、復當ニ咋日臣妻産時 鷦鷯入于産屋、是亦異焉、爰天皇曰、今朕之子與大臣之子同日共産、兼有瑞、是天之表焉、以為取其鳥名 各相易名子、為後葉之契也、則取鷦鷯名以名太子曰大鷦鷯皇子、取木兎名號ニ大臣之子曰木蒐宿禰、是平群臣之始組也」とあり、

によれば、延暦年中 木兎宿禰の後裔 大内記 味酒首文雄と云へる者 伊勢國に(りんらく)の際、村内山城といふに住し其祖 木兎宿禰 其姓紀氏の社を創立す、後遂に一村の氏神と斎ひ奉れりと、
三代録に云く、「味酒首文雄 味酒首文主 味酒首文宗等三人、並賜巨勢朝臣、先是 巨努朝臣河守奏言、文雄欵儞、先祖出自武内宿禰大臣也、大臣第五男 巨勢男韓宿禰、是巨勢朝臣之祖、第三男 平群木兎宿禰、即是文雄之祖也、木兎宿禰之後、賜昧酒臣姓、落被貫伊勢國、至于文雄祖宗、改臣賜首姓、〔中略〕是以改姓之望、朝夕刻思、但須順祖胤之流、賜平群之姓、而平群之字、謂是凡、巨勢之文、義理堪愛」

 神社覈録に、「平群は倍久里と訓べし、祭神 平群木兎宿禰、志知村の内山城に在す」とあり、
北勢古志に云く、「此神社は志知村の内 平群山といふに在りて云々、其名高く山内悉く白原にて、御前の池を平群池ともいふ也、さて祭神は平群木蒐宿禰也と云ふ、然るべし、さて此人のをしも爰にいつき祭れるよしは、三代録に云々文前に挙ぐといふこと見えたり、右の(りんらく)の間に祖神と祭れるもの也、
 本居氏の説に、伊勢 平群神社あるは、此氏人の彼國に落したりしほどに祀れる社にやあらん、と云へるが如し、さて此氏人の爰に住ける由にや、武内宿禰の子孫の氏々、此あたりによしある物彼是あり、上に云る星川をも考へ合すべし」と、
なほ、同書に云く、「平群山、則上に云へる平群神杜のます山なり、偖(さて)此山につきて論あり、そは日本武尊 東方十二道のあらぶる神、又まつろはぬ人ともを平げてり上り給へる時に、かの尾津崎より次々南の方へものし給ひて、遂に能煩野にてかむさりませる其時の御歌「伊能知能(イノチノ)、麻多祁牟比登波(マチケムヒトハ)、多多美許母(タタミコモ)幣具理能夜麻能(ヘクリノヤマノ)、久麻加志賀波遠(クマカシカハラ)、宇受爾佐勢(ウズニサセ)、曽能古(ソノコ)」と此者 思國歌(クニシヌビウタ)也とある、〔中略〕此御歌を古より爰の平群の事に語り傅へたるを、
本居氏 古事記伝には大和国平詳郡なる山なり、
和名鈔には平群郡平群郷もあり、
然るを或人云く、此 平群山は倭なるはあら
神名帳に伊勢 平群神社あるその地なり、社は今 志知村と云ふに在之と見え、
和訓栞にも、伊勢國員郡に平群神社 志知村にあり、是日本武尊 美濃より鈴鹿郡に赴き給ふ時の歌に「たゝみこも平群山」と読ませ給へるなるべし、其山樫の木多し、因て「くまかしが葉を」と續け給ふ思国歌也とあるをもて、大和の平群とするはあしゝ 満山皆白樫の木なり」と、是に由れば略本社の縁由を知るに足らん、

而して 祭神の神階は、文徳録に云く「仁寿元年月庚子、詔天下諸神不諭有位無位、叙正六位上、其後 土御門天皇 建仁元年月、天下諸神一統奉授位一階、又 亀山院天皇 弘長元年以下同文のこと諸社記に見えたれば、以て神階を知るべく、
 神領は「神鳳鈔に平群神田三町、或は古老云く、志知村地字足ケ坪といふ宮田あり、從前貢租を村社の供物に充つ、これ平群神田なり」とふるを見れば、社を志知郷の総社と称へ來りしこと決して偶然にあらす、

明治年村社に列せられ、同三十三十一月郷社に昇格す、
其後同四十一 村社 櫛田神社、無格社一、境内社一を本社に合祀す。

社殿は本殿、祭文殿、拝殿、祭具庫等あり、境内坪数三百六十七坪(官有地第一種)外に上地林三百二十四坪あり 明治三十七年境内編入許可せらる、此地は都て高く孤立して椎橿の古木及び老杉等鬱蒼として昼猶暗く、に神々しき社地たり。
物は神鏡十九面、幣串四本、立額一面、狛犬二個、槍身一本、太刀三ロ、脇差一ロ等あり。

特有祭事 祈年祭二月二日 合祀紀念祭四月十五日 昇格紀念祭四月十六日

【原文参照】

明治神社誌料編纂所 編『明治神社誌料 : 府県郷社』上,明治神社誌料編纂所,明治45. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1088244

明治神社誌料編纂所 編『明治神社誌料 : 府県郷社』上,明治神社誌料編纂所,明治45. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1088244

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

平群神社 中門 本殿

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平群神社 拝殿

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・〈境内社〉慰靈社《主》護国の英霊

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・神橋・三の鳥居

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・境内入り口・二の鳥居

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・定書き

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・参道入口・一の鳥居

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

・〈境内社〉水神社《主》罔象女神

平群池(へぐりいけ)

ようこそ平群沢〈へぐりさわ〉ため池公園へ

 平群池は、「志知(しち)の宮池」と地元では呼ばれており、その昔、日本武尊(やまとたけるのみこと)が戦往にあけくれ東往の帰路に着く際、志知平群の森に寄り、本池で足を洗って疲れをいやしたといわれています。この宮池での伝承は多く、神秘な水面にしっと耳をすませると、日本武尊がジャブジャブと足を洗う音、片目の魚がピチャとはねる音、突然、猟師の九左衛門がドブンと落ちた音などが聞こえて来そうで、今でもこの志知地区の民話として語り伝えられています。

 また現在、本池から流れ出る水は、土地改良が行われた水田へのかんがい用水として利用されております。

三重県 ふるさと環境整備 桑名市

現地案内板より

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・平群池にある「倭建命(やまとたけるのみこと)像」

平群池は 倭建命の足洗池と伝えられる池

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平群池 の伝説と倭建命(やまとたけるのみこと)像の由来

 「平群」の地名は大和の豪族「平群氏」が伊勢に移り支配したところから付いたと言われており、色々な伝説があります

 一番有名な伝説には「倭建命 (やまとたけるのみこと)」にちなんだものがあります。東征の帰路、ここへ立ち寄った倭建命が、大和の平群と同じ名前であるこの平群で、故郷をしのんで詠んだ「命のまたけむ人はたたみこも平群の山のくまがしが葉をうずにさせその子」が残されています。

 また、この時、怪我をしていた倭建命は平群池で足を洗ったと伝えられています。

現地案内板より

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桑名の伝説・昔話平群(へぐり)池

桑名市志知 平群

志知村には「ヤマトタケル」にちなんだ伝説があります。

ヤマトタケルは古事記に登場する伝説の英雄ですが、東征の帰り伊吹山で病となり、多度を通り、桑名の志知村 平群山にさしかかった時、同じ名前の故郷の平群を想い、歌を詠みました。

「いのちのまたけむ人はたたみこも、平群の山のくまがしが葉をうずに挿せその子」(命がこれからもある人は、平群の山に生えている、常緑樹である熊がしの葉を、髪に挿しなさい)。この歌の碑は、平群神社の境内にあります。

また、神社の裏の平群池でヤマトタケルが足を洗ったという伝説もあります。

この池に関して昔話が2話伝わっています。

片目の魚

平群池に住む片目の魚を採ると神罰が当たるといわれ、誰も近づきませんでした。

ところが、ある日、松右衛門という漁師がこっそりと網をかけ、大鯰(なまず)を生け捕りました。

籠に入れて帰ろうとすると、池の方から「松右衛門やーい、松右衛門やーい」と呼ぶ声がしました。

すると、籠の中の鯰が「おおーい、おおーい」と返事をしました。

漁師は驚いて鯰を池へ放り込んで逃げ帰りました。

しかし、漁師は病気になって死んでしまいました。

九左衛門と白鷺

昔、志知に猟師の九左衛門という人がいました。

ある日、平群池のほとりで白鷺を撃とうとしていたところ、足を滑らせて池に落ちてしまいました。岸にはい上がろうと泳いでいると、ふんどしの中にモロコがいっぱい入り、ふところには鯉が飛び込んできました。

シメシメと思った九左衛門は、池から上がろうと木の根をつかみました。

ところが、木の根と思ったのは、兎の後ろ足でした。

突然足を捕まれた兎は、驚いて逃げようとして前足で土を掻きました。

その土の中から山芋がたくさん取れました。

白鷺を撃ち損ねた九左衛門は、池に落ちたことによってモロコ・鯉・兎・山芋を手に入れました。

「災い転じて福となった」と、初めは喜んだ九左衛門でしたが、あまりの幸運に気持ちが悪くなり、以後殺生をするのはやめました。

桑名市役所HPより
https://www.city.kuwana.lg.jp/brand/bunka/rekishibunkazai/24-11220-234-410.html

・櫛田神社(桑名市島田)

明治四二年(1909)一二月八日平群神社に合祀 後 昭和二七年(1952)一二月 平群神社から分祀して現在に至る

延喜式内社 伊勢國 朝明郡 櫛田神社(くしたの かみのやしろ)

・櫛田神社(桑名市島田)

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています

〇『六国史(りっこくし)』
  奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称

〇『延喜式(えんぎしき)』
  平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)

〇『風土記(ふどき)』
 『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています

1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉

現存するものは全て写本

『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態

『日本三代實録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承

味酒首文雄らが「巨勢朝臣」の姓を賜った経緯を詳しく記した部分です

味酒首文雄らは 武内宿禰の子孫で本来は平群系 一時「味酒臣」として伊勢に配され その後「首」となり京に戻る 「味酒首」という姓は不吉だとして 改姓を強く希望 平群よりも高貴で響きの良い「巨勢」を選択 朝廷も同族性を認め 巨勢朝臣に改姓が認められた と記されています

【抜粋意訳】

卷五 貞觀三年(八六一)九月廿六日丁酉

〈貞観三年(861年)九月二十六日条〉

九月二十六日(丁酉の日)。

左京人で大内記の従七位上 味酒首文雄、山城少目の従八位下 味酒首文主、文章生(大学の学生)で位階のない 味酒首文宗の三人に、巨勢朝臣の姓が与えられた。

もとより、左京権亮従五位下 巨勢朝臣河守らが次のように奏言していた。

文雄らの言い分によれば、彼らの先祖は武内宿禰大臣にさかのぼる。
宿禰の第五子 巨勢男韓宿禰は巨勢朝臣の祖であり、第三子 平群木兎宿禰は文雄らの祖である。

木兎宿禰の後裔はかつて味酒臣の姓を賜り、伊勢国に編入された。
その後、文雄の祖先の代に「臣」姓が「首」に改められ、左京の戸籍に入れられた。これらのことは文書記録に明らかである。

しかし、文雄は次のように訴えた。
 「我が家は八支族の一系統にすぎず、孤立して栄達の道から遠ざかってきた。

しかも「酒」という字は、本来は礼儀を成すのに用いられる尊いものであるが、同時に酒に溺れる過ちを招くものであり、慎むべき戒めが深い。
それゆえ「味酒」を姓とし、さらに「首」という字を添えることは、決して吉祥とはいえない。まして「酒の首(おびと)」ではなおさらである。

このため、日夜「改姓したい」と切実に願ってきた。家が衰えた悲しみを、兄弟一同深く嘆いている。
どうか明るい御代のご慈恩により、我らを巨勢氏の華やかな一門に加えていただきたい。清らかな流れで鱗を洗い、高い木の枝に翼を収める鳥のように、身を安んじたい。

本来ならば 祖流に従って平群姓を賜るのが筋だが、「平群」という字は凡俗的で呼び習わしとしてふさわしくない。
一方、「巨勢」という名は義理も整い、響きも美しく、兄弟が一体となるのにふさわしい。
したがって、決して他姓と混同することもなく、離合を論じる必要もない。」

これを受けて、河守らは系譜を調べたところ、確かに巨勢氏と同じ宗族であることが分かり、彼らの嘆きはもっともであり、受け入れるのが妥当と考えた。

そこで、特別に巨勢朝臣の姓を賜ることとし、沈淪していた一族の心を慰めることとなった。

朝廷はこれを許した。

・図説すると・

武内宿禰

├── 第三子:平群木兎宿禰 ──→ 味酒臣 → 味酒首
│                                 (文雄らの祖)

└── 第五子:巨勢男韓宿禰 ──→ 巨勢朝臣

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫 https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブス『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫 https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=画像利用

『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数
「3132座

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢 253座(大18座・小235座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)員辨郡 10座(並小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 平群神社
[ふ り が な ](へくりの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Hekuri no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】This is the point that Otaku conveys.

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

古代豪族「平群氏(へぐりうじ)」については

 平群氏(へぐりうじ)は
 大和国平群郡 平群郷(現在の奈良県生駒郡平群町)を本拠地とした古代豪族で

『日本書紀』には 履中天皇の御代に国事を執った「平群木菟宿禰(へぐりの つくのすくね)」は 武内宿禰の子で 平群氏およびその同族の祖とされ 

平群木菟宿禰(へぐりの つくのすくね)の子 平群真鳥(へぐりの まとり)は 葛城氏没落後に 雄略朝以降の4朝〈雄略朝・清寧朝・顕宗朝・仁賢朝〉の大臣(おおおみ)を歴任して 一族は興隆を極めました

詳しくは下記の記事を参照

「古代豪族「平群氏」の興亡と信仰 ― 古代大和王権における平群氏の歴史と式内社」

【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

三歧鉄道北勢線 星川駅から南下して約3.1km
三歧鉄道三歧線 曉学園前駅から北上して約3.1lm

両駅からの中間点辺り どちらの駅からも 車での所要時間は7~8分程度

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平群沢ため池公園の北隣にあります

参道入口の鳥居を抜けます

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平群神社(桑名市志知)に参着

社頭の鳥居に一礼をしてから くぐり抜けて境内へと進みます

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続いて 石橋の神橋を渡り 二の鳥居をくぐり抜けると境内の中央にでます

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ここから石段を上がって

拝殿にすすみます

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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拝殿の脇からの石段もあり 石段の上には〈境内社〉慰靈社が祀られています

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 こちらから土塀越しに拝殿の奥に中門と本殿を見ることが出来ます 

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社殿に一礼をして 拝殿前の石段を下ります

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境内降りて南側にも鳥居があり こちらからは 平群池や〈境内社〉水神社に行けます

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神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 平群神社について 所在は゛志知村の内山城に在す、゛〈現 平群神社(桑名市志知)〉と記しています

【抜粋意訳】

平群神社

平群は倍久里と訓べし

○祭神 平群木兎宿禰、考証、俚諺

○志知村の内山城に在す、俚諺、

○神鳳抄云、平群神田三町、

〇三代録、貞観二十六日丁酉、左京人大内記從七位上 味酒首文雄〔中略〕等三人、並賜巨勢朝臣、先是左京亮從五位下巨勢朝臣河守等奏言、文雄欵儞、先祖出自武内宿禰大臣也、大臣第五男 巨勢男韓宿禰、是巨勢朝臣之祖、第三男 平群木兎宿禰、即是文雄之祖也、木兎宿禰之後、賜昧酒臣姓、落被貫伊勢國、至于文雄祖宗、改臣賜首姓、貫左京圖牒、云々、

 北勢古志に、此神社は志知村の内 平群山といふに在りて云々、其名高く山内悉く白原にて、御前の池を平群池ともいふ也、さて祭神は平群木蒐宿禰也と云ふ、然るべし、さて此人のをしも爰にいつき祭れるよしは、三代録に云々文前に挙ぐといふこと見えたり、右の(りんらく)の間に祖神と祭れるもの也、
 本居氏の説に、伊勢 平群神社あるは、此氏人の彼國に落したりしほどに祀れる社にやあらん、と云へるが如し、さて此氏人の爰に住ける由にや、武内宿禰の子孫の氏々、此あたりによしある物彼是あり、上に云る星川をも考へ合すべしと云り、

類社
大和國 平群郡 平群神社の條見合すべし

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 平群神社について 所在は゛ 志知村平群山にあり、平群大明神と云ふ、゛〈現 平群神社(桑名市志知)〉と記しています

【抜粋意訳】

平群(ヘクリノ)神社、

 志知村平群山にあり、平群大明神と云ふ、〔神名帳考証、勢陽雑記、伊勢國圖式内社検録、〕
〔〇按 検録云 此社の後は、一小山にて陵に似たり、廻りに池ありたるが、今は唯 南東の麓にのみ存して、平群池といふと云り、

盖 平群味酒臣の祖 平群木兎宿禰を祭る、〔三代

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第10,11巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815495

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 平群神社について 所在は゛志知村平郡山 (員辨郡久米村大字志知 現在 郷社)゛〈現 平群神社(桑名市志知)〉と記しています

【抜粋意訳】

平群神社

祭神 平群木兎宿禰 稱平群大明神

 今按 三代實錄 貞觀三年九月廿六日丁酉 左京人大內記從中七位上 味酒首文味酒首文雄〔中略〕等三人、並賜巨勢朝臣 先是云々 文雄欵儞 先祖出自武内宿禰大臣也<大臣第五男 巨勢男韓宿禰、是巨勢朝臣之祖、第三男 平群木兎宿禰、即是文雄之祖也、木兎宿禰之後、賜昧酒臣姓、落被貫伊勢國、云々、とある 巨勢氏の族人の祭れる神なること著し

祭日 八月十六日
社格 村社

所在 志知村平郡山 (員辨郡久米村大字志知 現在 郷社)

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019

平群神社(桑名市志知) (hai)」(90度のお辞儀)

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伊勢国 式内社 253座(大18座・小235座)についてに戻る

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伊勢國 式内社 253座(大18座・小235座)について

伊勢国(いせのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 伊勢国の 253座(大18座・小235座)の神社のことです 伊勢国(いせのくに)の式内社 253座は 一つの国としては 日本全国で最多数です

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世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」のクライテリア(iii)として「古代から今日に至るまで山岳信仰の伝統を鼓舞し続けてきた 頂上への登拝と山麓の霊地への巡礼を通じて 巡礼者はそこを居処とする神仏の霊能を我が身に吹き込むことを願った」と記されます

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出雲國(izumo no kuni)は「神の國」であり 『出雲國風土記〈733年編纂〉』の各郡の条には「〇〇郡 神社」として 神祇官の所在する社〈官社〉と神祇官の不在の社を合計399社について 神社名の記載があります 『出雲國風土記 神名帳』の役割を果たしていて 当時の出雲國の神社の所在を伝えています

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大国主神(おほくにぬしのかみ)が 坐(ましま)す 古代出雲の神代の舞台へ行ってみたい 降積った時を振り払うように 神話をリアルに感じたい そんな私たちの願いは ”時の架け橋” があれば 叶うでしょう 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台は 現在の神社などに埋もれています それでは ご一緒に 神話を掘り起こしましょう

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出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷に於いて 出雲国造が 新たにその任に就いた時や 遷都など国家の慶事にあたって 朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

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出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉として 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

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宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

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行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

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對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています