服織神社(はとりじんじゃ)は 江戸時代には 八幡社あるいは神明の社と称され近郷の崇敬を集めていた 社伝には 延喜式内社で 元は神明の社と称し また服織神社と申し伝へて来たと伝わります 式内社 伊勢國 奄芸郡 服織神社(はとりの かみのやしろ)の論社となっています
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
服織神社(Hatori shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
三重県鈴鹿市御薗町 2019
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》栲機千千姫命(たくはたちぢひめのみこと)
〈明治40年(1907)氏子区域内の無格社日吉神社以下11社
明治43年(1910)八柱神社 他1社合祀〉
《合》息長帯姫命,天児屋根命,国狭槌之命,木花開耶姫命,武御名方命,須佐之男命,大山祇命,大己貴命,伊弉冉命,速玉男命,事解男命,五男三女神,誉田別命,菅原道真,武内宿禰,
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・参拝者の皆様の願い事全般
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
創建年代不詳
【由 緒 (History)】
由緒
当社の創祀については詳かにし難いが、江戸時代には八幡社あるいは神明の社と称され近郷の崇敬を集めていた。
社伝及び昭和二七年(一九五二)神社明細帳の由緒欄には、本社が延喜式内社で、元は神明の社と称し、また服織神社と申し伝へて来たので、旧和歌山藩において神社調査が行われた際、その旨を上申したところ、その後調査されて式内社服部神社の社号を用いるに至ったとされており、さらに「古記ニ曰ク」として大永八年(一五二八)の記文を掲げ「明治八年一二月元教部省二於テ、本社式内ノ社二御確定二相成候旨御達有之候、其他来歴不詳」と述べられている。
明治四〇年、氏子区域内の無格社日吉神社以下一一社、同四十三年には八柱神社他一社合祀している。皇學館大学現代日本社会学部神社検索システム研究会と三重県神社庁教化ホームページ委員会HPより
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・山神
山神さまについて(神告)
この山神さまは女性の神さまです。当地に於いて毎年12月始め新嘗祭という行事があります。
昔から子供を守る神さまとして親しまれています
この山神さまにまつわるご利益新たかな話として20年前、この山神さまよりお告げがあり、ある お婆さんがメリカで孫の事業成功を祈り一心に祈願しておりましたところ、その願いが成就され大成功を納めております。又、学業に於いても受験祈願で大学及び大学院に合格するなどいろいろと心願成就されております。他にも身体健全 学力向上、子授け等々、諸願成就の神さまです。
将来の子供の育成を願い親子そろって是非お参り下さい。
平成十一年十二月出現現地立札より
・境内社
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢国 253座(大18座・小235座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)奄藝郡 13座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ]服織神社
[ふ り が な ](はとりの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Hatori no kamino yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
「服織(はとり)」とは
服織(はとり)とは 機織(はたおり)の変化した語で 機(はた)を織ること および それを生業とする人を指します
又 服部(はとりべ)は 大化の改新以前に機織の技術をもって朝廷に仕えた品部です
機織部(はたおりべ)が転訛したもので のちに「部(べ)」の音がとれ「促音」が入り「はっとり」とも発音されるようになりました
服部(はとりべ)について゛服部天神宮゛の記事を参照してください
・服部天神宮(豊中市服部元町)
服部天神宮は 服部(ハトリ)と云う地名の通り 秦氏(ハタウジ)が集団で居住し 社伝によれば かつて服部連(ハトリノムラジ)の本拠とした場所に医薬の神「少彦名命」を祀る祠があった〈これが服部天神宮の前身〉その後 延喜元年(901)菅原道真公が 大宰府への左遷途中で 持病の脚気に襲われて身動きが取れなくなったが 一心にその平癒を祈願されたところ脚気はたちどころに治った伝承地になります ゆえに「足の神様」として有名です
服部天神宮(豊中市服部元町)
『延喜式神名帳(927 AD.)』所載社の内゛服織神(はとりのかみ)゛を祀る三ヶ所の神社について
①延喜式内社 伊勢國 奄芸郡 服織神社(はとりの かみのやしろ)の論社 三社について
『延喜式神名帳』奄芸郡「服織神社」の論社は 付近一帯が 古代には 服部(はとり)郷であったので 諸説が生れたと云われる
・服織神社(鈴鹿市御薗町)
服織神社(はとりじんじゃ)は 江戸時代には 八幡社あるいは神明の社と称され近郷の崇敬を集めていた 社伝には 延喜式内社で 元は神明の社と称し また服織神社と申し伝へて来たと伝わります 式内社 伊勢國 奄芸郡 服織神社(はとりの かみのやしろ)の論社となっています
服織神社(鈴鹿市御薗町)
・服織神社(河芸町久知野)
服織神社(はとりじんじゃ)は 往古は当地の南西 社宮地というところにあり、当地方 服部郷の信奉の社であったと云い 式内社の当時は「羽織社」と称えていたことが石碑にみえ 付近に衣手谷(きぬてだに)服反田(はだんだ)社宮神(しゃぐじん)などの地名が残っており その信仰は今の社にも受け継がれ「扇神」「扇さん」「オオギリさん」と慕われています
服織神社(河芸町久知野)
・酒井神社(鈴鹿市郡山町)
〈酒井神社に合祀 服織神社 境内に 服織神社御旧跡あり〉
※江戸時代の諸書には 郡山村 酒井神社境内の服織神社を称えるものが多かった
酒井神社(さかいじんじゃ)は 社伝は天智天皇10年(671)の創祀という 又 稻生三社大明神に日参していた信任長者と云う人に神託があり 郡山に稻生新宮を造立しました これが郡山大明神と伝わる 延喜式内社 伊勢國 奄芸郡 酒井神社(さかゐの かみのやしろ)の論社です その他に 境内には゛服織神社御旧跡〈延喜式内社 伊勢國 奄藝郡 服織神社の旧跡とも〉゛があります
酒井神社(鈴鹿市郡山町)
②延喜式内社 遠江國 長上郡 服織神社(はとりの かみのやしろ)
・服織神社(浜松市東区豊町)
服織神社(はたおりじんじゃ)は 古くは 天竜川沿いのこの辺には〈織物に関係した職人が集団〉服部(はとりべ)が住んでいたと伝わる 元明天皇の和銅元年(708)出雲国から 神様をお迎えして造られたのが創建と伝わる 延喜式内社 遠江國 長上郡 服織神社(はとりの かみのやしろ)とされます
服織神社(浜松市東区豊町)
③延喜式内社 遠江國 蓁原郡 服織田神社(はとりたの かみのやしろ)
・服織田神社(牧之原市静波)
服織田神社(はとりだじんじゃ)は 社伝には゛景行天皇の七年に勧請された゛とあり 鎮座地は 往古は服織田村と言われたが柏原町と改められたと宝暦八年の検地帳に記載されています 『延喜式神名帳(927 AD.)』所載の式内社 遠江國 蓁原郡 服織田神社(はとりたの かみのやしろ)の論社です
服織田神社(牧之原市静波)
・白羽神社(御前崎市白羽)
白羽神社(しろわじんじゃ)は 社伝によれば゛旧社地は 御前崎市御前崎(厩崎)字本社に安閑天皇元年(531)11月鎮座 仁明天皇 承和元年(834)3月神様のお諭しにより宮処を廻り相応の処を定め 承和四年(837)2月現地に遷座した゛とあります 延喜式内社 遠江國 蓁原郡 服織田神社(はとりたの かみのやしろ)の論社です
白羽神社(御前崎市白羽)
・駒形神社(御前崎市御前崎)
駒形神社(こまがたじんじゃ)は 延喜式に載る白羽官牧の地と伝えられ 社伝には゛往古沖で遭難した九十頭の馬の内一頭が岸にたどりついた地とされる 残りの馬は沖の御前岩(駒形岩)と化したと云う 白羽神社の元宮とされる゛とあります 延喜式内社 遠江國 蓁原郡 服織田神社(はとりたの かみのやしろ)の論社です
駒形神社(御前崎市御前崎)
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
伊勢鉄道 徳田駅から 県道54号を西へ約3.8km 車10分程度
神社の北東4.7km程には 鈴鹿サーキットがあります
畠の中の細い道を走行していたら いきなり社頭に出てしまいました
一の鳥居は南100m程先にあるようです
服織神社(鈴鹿市御薗町)に参着
社号標には゛正一位 正八幡宮゛と刻字があり 服織神社の文字はありません
ただ江戸時代には 八幡社あるいは神明の社と称され近郷の崇敬を集めていたと伝わっているとのことでしたので ここであろうと
拝殿にすすみます
拝殿内の扁額には゛延喜式内 服織神社゛と記されています
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
七五三宮参りのポスターにも゛服織神社゛とあり 間違いなく式内社の論社であったと一安心です
拝殿の奥には 石垣があり 高い壇に本殿が祀られています
拝殿の向かって右には 山神が祀られています
鳥居の横の建物は御園集会所と名札がありました
社殿に一礼をして 境内を出ます
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 服織神社について
所在は郡山村に在す〈現 酒井神社(鈴鹿市郡山町)に合祀 服織神社 境内に 服織神社御旧跡あり〉と記しています
【抜粋意訳】
服織神社
服織は八止利と訓べし、和名鈔、郷名部、服織、假字上の如し
○祭神 織姫、俚諺
○郡山村に在す、同上
○日本紀、雄略天皇十四年正月丙寅朔戊寅、身狭村主 青等共、呉國使、將呉所献手末才伎漢織呉織及衣縫兄媛弟媛等、泊於住吉津、中略 漢織、呉織、衣縫、是飛鳥衣縫部、伊勢衣縫之先也、類社
大和國 城下郡 服部神社の條見合すべし
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 服織神社について
所在は御園村八幡山にあり〈現 服織神社(鈴鹿市御薗町)〉と記しています
【抜粋意訳】
服織(ハトリノ)神社
今 御園村八幡山にあり、舊村内一宮森 舊名 波止利森 にありしを、後 今地に遷す、本社所蔵 大永八年記文、三重縣神社調、
栲幡千々姫命を祭る、大永八年記文 凡毎年八月十五日祭を行ふ、三重縣神社調、
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 服織神社について 所在は三ヶ所あると詳細を記しています
①其一は 御園村にあり〈現 服織神社(鈴鹿市御薗町)〉
゛式社たらむ事を願ふは盲味の造意論するに及はす゛
②其一は 久知野村にあり〈現 服織神社(河芸町久知野)〉
゛是亦 式社には判定しがたし゛
③其一は 郡山村にあり郡山神社の境内の西にある祠を云ふ
〈現 酒井神社(鈴鹿市郡山町)に合祀 服織神社 境内に 服織神社御旧跡あり〉
゛本社服織に確證なし未定とす゛
三ヶ所の何れも 証拠に確証がなく 決めがたいと記しています
【抜粋意訳】
服織神社
祭日
社格
所在
今按この社所在の村三所あり其一は御園村にありて 本村日吉神社修覆の時 古書一通を得たり 其文に波止里(ハトリノ)神社 千々姫ノ命 服部ノ御園神明田米三石麻五斤両太神宮御衣献之森・東西二百間余有之盜人殺人ヲ,故産神八幡宮古席え移ス神明ヲ也道、自西十間木森残志餘は切拂ヒ畠に成すー之宮之森は日吉八王子之命也、大永八戊子年正月清成山春性寺樂藏主書 北川平七ドノへとあるを以て證とすれと紙墨新くして大永のものに非す 其社頭を檢るに從古在來れる八幡社正中にあり 其左に神明の小祠あるを本社服織に塡つる也 殿内の棟札を一覧するに永仁三年三月田三所 寄進の記あり剝落して讀むベからねど仁王講田 毎月十五日云云 放生會田云云など見ゆれば 八幡社の記文なる事著也 延寶五年に其古札の写札あり端書の所を削て服部神社と改書し紀州大納言樣より社頭 波止里神明に寄附の八字を加筆し 又爲 服部禅社修覆令寄附候畢の十二字をも挽入す 又 永和四年十一月の札に伊勢國清成名八幡宮爲一新改め永録七年十二月の札に奉再興勢州安藝郡御園清成村八幡古廟事とある八幡の上へ入墨して服織と改め 元和八年の札に八幡大菩薩とある上へ入墨して服織大菩薩に易へたるなと拙劣の所爲 一目撃して真偽を辨せらるるを固執して 式社たらむ事を願ふは盲味の造意論するに及はす
其一は 久知野村にありと云て 社殿もなきを新地に急に造立し 明治七年十月廃社地へ記杭を建むとして地を堀しに土中より表に式内 羽織社 大日孁貴 裏に服部郷久知野と彫れる石を堀得たりと云ふを證とすれと 其字體 新しくて百年にも満たさるへき程のものなり 又舊くより別当福德寺に在りたりと云ふ神像は 所謂 両實童子の佛師作の彩色形なり 俗に天照大神の御影と 謂ふを以て 石に大日孁貴と彫れるに符合すべく 巧める狡意の所作なり 又煽畷扇神等を以て 本社の拜所とすれど 扇は奄藝の音便読にて 奄藝郡奄藝郷の考証には 備ふべし服織社に開係する事に非ず 是亦 式社には判定しがたし
其一は 郡山村にあり郡山神社の境内の西にある祠を云ふ さるは其四五町郷南に 羽止利跡と云 貮畝步斗りの舊址あり 其所より遷せリと云ふ 傍を衣織谷と云ふあり 又 郡山 中瀬古 秋永の三村を染野三郷と字するも服部に由あり 又 社蔵の文書に一栗眞莊内 郡山大明神 羽止里神社 於ニ 右二社 者夫役用途事以ニ別儀可被閣候恐々謹言九月十五日氏光「花押」豊川法橋殿とあるを稱とすれど 今在る文書は後人書換へて本書を隠埋せしかとも 享保に写したる本書の文には 栗眞庄内土御前稲生大明神 郡山大明神於三社者夫役用途事以別儀可被閣候とあれば 羽止理神社の證文とはなし難し 又 羽止利跡といふ地も里俗は富士権現と呼へは 垢離かきて富士を遥拝せし遺跡なり 又 衣織谷の字あり 衣手山の古歌ありなど證すれど 都て服織に附會せるのみ慥なる事なし 又 染野三郷の字をも證とすれど 假字書にシメノとあり されは標野(シメノ)の假借にて本社の證には備ふへからす 況や郡山大明神の西宮は稲生神社の勧請にて 西宮地主姫神たる事 瞭然たれは 本社服織に確證なし未定とす
其余 考診に福徳村案内記に白子服得天王久居藩明細帳に鈴鹿郡安知本村等にも配せれど 何れも明徴ある事なし 猶他に覓むべきにや
【原文参照】
服織神社(鈴鹿市御薗町)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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伊勢国(いせのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 伊勢国の 253座(大18座・小235座)の神社のことです 伊勢国(いせのくに)の式内社 253座は 一つの国としては 日本全国で最多数です
伊勢國 式内社 253座(大18座・小235座)について