能生白山神社(のうはくさんじんじゃ)は 白山信仰の開祖 泰澄大師(682-767)が 能生白山神社に仏像を安置布教し 社号を白山権現に改めたと伝えられています 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の越後国 頸城郡 奴奈川神社(ぬなかはの かみのやしろ)の論社です
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
白山神社(Hakusan shrine)
[通称名(Common name)]
能生白山神社(のうはくさんじんじゃ)
【鎮座地 (Location) 】
新潟県糸魚川市大字能生7239
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》奴奈川姫命(ぬなかわひめのみこと)
伊佐奈岐命(いざなぎのみこと)
大己貴命(おほあなむちのみこと)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
・家内安全・子孫繁栄
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
能生白山神社
古代 奴奈川族の首長、奴奈川姫を祀って産土神社としたのが始まり と云われており、かつては権現岳にありました。
社伝によれば 第十代崇神天皇10年11月初午の日に始まったとされ、醍醐天皇の命よって作られ927年に完成した「延喜式」に記載されている奴奈川神社にあたるともいわれています。
白山信仰を開いたと云われる 泰澄大師(682-767)が 奈良時代に加賀白山などを基地として両部習合を行った際、能生白山神社に仏像を安置し、白山信仰を布教し、社号を白山権現に改められたと伝えられています。
本殿は 明応年間(1492-1501)に火災で焼失しましたが、永正12年(1515)能登守護畠山義元寄進により再興されました。
その建築様式は、三間社流造の前面に一間の向拝を付けたもので 室町時代の特色を示しており、国の重要文化財にも指定されています。
江戸時代、元禄2年(1689)7月11日奥の細道の際に松尾芭蕉が髄行僧曾良とともに能生に宿泊しましたが、この際に当社の「汐路の鐘」を詠んだ句があり、境内にその句碑が建っています。公式HPより
【由 緒 (History)】
奴奈川姫(ぬなかわひめ)の伝承地を巡る旅
能生白山神社(のうはくさんじんじゃ)
古い歴史と数多くの文化財を持つ能生の白山神社。
裏山の社叢(しゃそう)は「能生ヒメハルゼミの発生地」として国の天然記念物に指定されており、歴史と自然豊かな地です。白山神社には奴奈川姫も祀られており、家内安全や子孫繁栄にご利益があるとのこと。
場所:糸魚川市能生7238番地
お車…北陸自動車道「能生IC」から5分
電車…えちごトキめき鉄道「能生駅」から徒歩20分糸魚川市観光協会より
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・秋葉神社《主》軻遇都知命
入口上に掲げられている社号額「秋葉神社」は五智居多神社社司・渡邊芹渓(巌)氏の書により成っています。
白山神社の記録の中に、「明治27年、居多神社社司・渡邊熈氏 春季大祭祭主に招かれる」とあり、当時、白山神社と居多神社の間に交流があったと考えられています。
平成20年に行った秋神社再建事業に伴い修復しました。
現地案内板より
秋葉神社は 江戸時代は 薬師如来を祀り「薬師堂」と称呼されていた 明治維新の廃仏毀釈により 薬師如来は光明院に遷され 新しく神殿が設けられ 火難の守り神を祀る秋葉神社として信仰される
(天保十三年(1842) 明治三十年などに再建記録 平成二十年四月再建)
天上版雲竜図
はがせ船図絵馬 明和三年(1766)(複製写真)
国指定重要文化財 日本で唯一の「はがせ船図絵馬」
「はがせ船」は 北前船発達以前のにあたるものとされます 新潟県 旧能生町一帯は 江戸時代以来 多くの者が廻船業を営み 能生白山神社は 古くから海上信仰が厚かった
・八坂神社《主》素盞嗚命〈本殿の御垣内の境内社か?〉
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
・厳島神社《主》市杵島姫命(弁才天)〈弁天岩に鎮座〉
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)北陸道 352座…大14(うち預月次新嘗1)・小338
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)越後国 56座(大1座・小55座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)頸城郡 13座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 奴奈川神社
[ふ り が な ](ぬなかはの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Nunakaha no kamino yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
国の天然記念物 ヒメハルゼミ(姫春蟬)の生息地とされる神社
飛翔能力が短く 生活圏を広げようとしない性格に加え 生息条件が限られた貴重なセミ
裏山の社叢(通称:尾山)に棲息する「姫春蝉」〈国の天然記念物に指定〉
白山神社の裏山は 神社の境内地 権現山or尾山(御山)と言われます 能生ヒメハルゼミ発生地(1942年(昭和17年)10月14日)天然記念物(国指定)です
同じように 国の天然記念物 ヒメハルゼミ(姫春蟬)の生息地とされる神社
・花長下神社(揖斐川町谷汲名礼)
花長下神社(はなながしもじんじゃ)は 『延喜式神名帳(927年編纂)』美濃國大野郡に所載の式内社です 御祭神「赤衾伊農意保須美比古佐和氣能命(あかぶすまいのおおすみひこさわけのみこと)」は『出雲国風土記』に登場する神とされ 同地区には 御祭神が夫婦神同士 祭礼が交互に行われるなど密接な関連の式内社 花長上神社も坐まします
花長下神社(揖斐川町谷汲名礼)
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)所載
越後国 頸城郡 奴奈川神社(ぬなかはの かみのやしろ)の論社は三つ
・天津神社・奴奈川神社(糸魚川市一の宮)
天津神社(あまつじんじゃ)・奴奈川神社(ぬなかわじんじゃ)は ・天神を祀る「天津神社」・国津神を祀る「奴奈川神社」が すぐ横に並んで祀られています 鎮座している土地は 富山県との境に位置する新潟県最西端の糸魚川市です 縄文期よりのヒスイの産地として名高い地です 翡翠は古代は「玉」とされて大変貴重な神器でありました 「奴奈川神社」では ヒスイの神「奴奈川姫命(nunakawa hime no mikoto)」を祀ります
天津神社・奴奈川神社(糸魚川市一の宮)
・白山神社(糸魚川市能生)
能生白山神社(のうはくさんじんじゃ)は 白山信仰の開祖 泰澄大師(682-767)が 能生白山神社に仏像を安置布教し 社号を白山権現に改めたと伝えられています 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の越後国 頸城郡 奴奈川神社(ぬなかはの かみのやしろ)の論社です
白山神社(糸魚川市能生)
・奴奈川神社(糸魚川市田伏)
奴奈川神社(ぬながわじんじゃ)は 社伝では 第13代 成務天皇の御代 市入命が越後国の国造となり当地に来て 奴奈川姫命の子 建沼河男命の裔 長比売命を娶り 奴奈川姫命の社を建て 神田神戸を寄附したと伝わります『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の越後国 頸城郡 奴奈川神社(ぬなかはの かみのやしろ)の論社です
奴奈川神社(糸魚川市田伏)
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
えちごトキめき鉄道 日本海ひすいライン 能生駅から能生漁港方面〈北東へ〉約2km程 車5分程度
一の鳥居と社号標に白山神社と刻字
白山神社(糸魚川市能生)に参着
一礼をして 一の鳥居をくぐり 参道を進むと正面に手水舎があり 清めます
手水舎の横には 白山神社の文化財 が記されています
ここで 参道は大きく右へ折れていて 石段の上に二の鳥居が建ちます
二の鳥居をくぐると 社殿の建つ境内地に入ります
右手に 境内社 秋葉神社
正面に御旅所 左手に拝殿が建ちます
拝殿の屋根は 茅葺き
白山神社の裏山は 神社の境内地 権現山or尾山(御山)と言われます
拝殿にすすみます
拝殿の入口庇の下に掲げられた扁額は「白山神社」
拝所の扁額は「白山社」
拝殿の鏡の上 扁額は 徳川15代将軍 徳川慶喜の書
拝殿の脇を入り 尾山の麓に鎮座する本殿へと向かいます
すると 尾山の麓から 干ばつのときにも枯れない 蛇の口の水が 竜の口から湧き出しています
本殿の手前には 拝所が設けられていて
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
境内は 明るく庭園のように整備されています
社殿に一礼をして 参道を戻ります
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『古事記(Kojiki)〈和銅5年(712)編纂〉』 に記される伝承
八千矛神〈大国主神〉が 高志国(こしのくに)に 美しく賢い女性〈沼河比売(ぬなかはひめ)〉が居ると聞き 結婚しようと通いました そして 求婚し 結ばれるシーンが 優雅な恋歌〈妻問い〉によって描かれます
これは 当時 祭祀〈政治(まつりごと)〉を司る上で「玉(ぎょく・たま)」は 大変に貴重なもので 材料は 上質の翡翠(ヒスイ)原石であった 産出地の高志国〈王女 沼河比売〉は 重要な拠点とされていた これを 出雲〈八千矛神〉の勢力下へ併合する為に 婚姻関係を迫った時の 両国の駆け引きの様子が 〈王と王女の〉優雅な恋歌によって描かれたものとされます
【抜粋意訳】
八千矛神(やちほこのかみ)妻問い の段
この 八千矛神(やちほこのかみ)
高志国(こしのくに)沼河比売(ぬなかはひめ)と結婚しようと行かれた時沼河比売(ぬなかはひめ)の家に着き 歌を詠まれた
八千矛神(やちほこのかみ)のみことは 八島国(やしまのくに)で 好ましい妻を娶れず ついに 遠い遠い越国(こしのくに)に 賢い女が居ると聞き
美しい女性が居ると聞き 結婚しようと通いました
太刀緒(たちのお)も いまだ解かず 羽織ものも いまだ解きかねて
少女の寝ている家戸を揺さぶると 山のヌエ鳥が鳴き 野の雉(きじ)が鳴き 庭先でニワトリが鳴く 腹の立つ 鳴き声だ あの鳥どもを打ち 静かにしてくれる
下におります走り使をする者の 事の語り伝えは かようでございます
すると 沼河比売(ぬなかはひめ)は 戸を開けず中から歌いました
八千矛神(やちほこのかみ)のみこと
しおれた草のような女ですから 浦渚の水鳥のように 夫を慕います
今こそ わたしの鳥 でも後には あなたを慕う水鳥のようになりましょう
命ながく 生かし遊ばせ
下におります走り使をする者の 事の語り伝えは かようでございます山に太陽が隠れたら 暗い夜になるでしょう
朝日のように にこやかな顔で来られて
コウゾの網のような白い腕 泡雪のように若い胸を そっと叩き 手をとりかわし 玉のような手を枕にし 足を伸ばしてお休みなさいませ
ですから あまり わびしく されないでください
八千矛神(やちほこのかみ)のみこと
事の語り伝えは かようでございますそれで その夜は 会われず 翌夜 お会いになりました
【原文参照】
能生奴奈川祭り について
能生奴奈川祭り
神秘の出会いを再現
8月11日(土)、能生商店街周辺で開催。大国主命が出雲国から船団をしたて、この地で奴奈川姫に求婚。そして、めでたく結ばれる二人。この古事記の物語を再現した祭りです。
糸魚川市総務部 総務課 広報統計
糸魚川市役所 公式HPより
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
奴奈川神社の論社として 一宮村の天津神社域内 奴奈川神社としています
【意訳】
奴奈川神社
奴奈川は 奴奈加波と読むべし 和名鈔 沼川
〇祭神 奴奈川彦命 奴奈川姫命 黒姫命 三座 号 柳形神
〇沼川庄一宮村に在す〇古事記 神代段
〈古事記の八千矛神(やちほこのかみ)妻問いの段が記されます〉
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 奴奈川神社の論社として 三つ挙げていて 天津神社域内 奴奈川神社を比定しています
①天津神社域内 奴奈川神社
➁田伏村 奴奈川神社
➂能生町 白山神社
【意訳】
奴奈川神社
祭神 沼川比賣命
今按〈今考えるに〉越後風土記節解によるに 祭神 地津神 奴奈川彦命 女奴奈川姫命 母黒髪媛命 三座とあれど
古事記に八千矛神 高志國の沼河比賣に娶ませる故事によりて 沼河比賣を祭るに附て その父母の神二座を合せ祭れるものなるべし附て後考をまつ社格 村社
所在 一宮村 天津神社域内(西頸城郡糸魚川村 大字一之宮 郷社 天津神社境内)今按〈今考えるに〉同郡 田伏村の社なりと云説ありて 縁起また延暦二十三年の鏡銘 延長三年の棟札あれど何れも後人の偽作 とるに足らず
一説に 能生町 白山神社とも云へど その社 山の巌石 いと神さびたり 能生驛の能生河は即 奴乃川の訛りならんなど云のみにて証なし
唯 糸魚川驛 鎮守 一宮村 天津社の域内 柳田神を地主神と称す この神は越後風土記節解に在 高志峰 亦 黒姫山 地津神 奴奈川彦命 女奴奈川姫命 母黒髪媛命 三座祭号 柳形神 元暦二年秋山崎有遷座 云々とあり 土人の説に黒姫山絶頂に黒媛山社に遷し その後 柳田と云に遷し その後 今地に遷せり 今も山崎に旧址あり 沼川の池あり 世俗集て沼川社と云もの証とすべし 故に今之に従ふ
【原文参照】
白山神社 蛇の口の水(はくさんじんじゃ じゃのくちのみず)について
本殿前の龍頭より流れて出る水は 尾山の岩間から湧き出る清水で 四季を通じ水量の変化がないとされます
伝説によれば
かつて信州の戸隠神社ご普請の折り 宮大工が流した鉋屑(かんなくず)が ここ〈白山神社の蛇の口〉から流れ出て来た 人々は この水の源は戸隠山であろう 戸隠山は大蛇の口に違いないと話し合ったと伝わり又
この水の湧く裏山〈権現山〉を「尾山」と呼ぶのは 能生白山神社は 大蛇の尾〈信州戸隠神社に鎮座 九頭龍社の龍の尾〉に当たるので 「尾山」と呼ばれるようになったと伝えられている更に
信州戸隠が 竜の頭〈戸隠神社〉
妙高関山が 竜の腹〈関山神社〉
当地能生が 竜の尾〈白山神社〉であると言われています
梵鐘 汐路の鐘 について
白山権現の別当能生山泰平寺の鐘で明応8(1499)年に石川県穴水町で造られた。約三分の二の高さで、上下に割れている
江戸時代 元禄2年(1689)7月11日奥の細道 松尾芭蕉が 髄行した僧 曾良とともに能生に宿泊したとされ 芭蕉は この鐘について「人が手を触れずとも 潮の満くるのに共鳴し 鐘の音が自然に出ている」と話を聞き 見てはいないが この「汐路の鐘」の句を残したとされます「曙や霧にうつまく鐘の声」
境内にはその句碑が建っています
越後能生社 汐路の名鐘
むかしより能生にふしきの名鐘有。これを汐路の鐘といへり。いつの代より出来たる事をしらす。鐘の銘ありしかと幾代の汐風に吹くされて見へさりしを、常陸坊の追銘とかや。此鐘汐の満来らんとて、人さはらすして響こと一里四面。さる故に此浦は海士の児まても自然と汐の満干を知り侍りしに、明応の頃焼亡せり。されともその残銅をもつて今の鐘能登国中居浦鋳物師某鋳返しけるとそ。猶鐘につきたる古歌なとありしといへとも、誰ありてこれを知る人なし。
芭蕉 曙や霧にうつまくかねの聲
白山神社(糸魚川市能生)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
”時の架け橋” 大国主神(おほくにぬしのかみ)
『古事記』に登場する神話の舞台 の記事を見る
大国主神(おほくにぬしのかみ)が 坐(ましま)す 古代出雲の神代の舞台へ行ってみたい 降積った時を振り払うように 神話をリアルに感じたい そんな私たちの願いは ”時の架け橋” があれば 叶うでしょう 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台は 現在の神社などに埋もれています それでは ご一緒に 神話を掘り起こしましょう
”時の架け橋” 大国主神(おほくにぬしのかみ)『古事記』に登場する神話の舞台
越後国 式内社 56座(大1座・小55座)について に戻る
越後国(えちごのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 越後国には 56座(大1座・小55座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
越後國(えちごのくに)の 式内社 56座(大1座・小55座)について