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白沙八幡神社(壱岐市石田町筒城仲触)

白沙八幡神社(はくさはちまんじんじゃ)は 本来の式内社 石田郡 海神社(大)だとされています 社記に延暦6年(787)神殿を辰(東南東)向き建立あり 八幡勧請以前は 管城社と呼ばれ 壱岐国大七社の一社で 例祭時には国主参拝の神社として特別扱いされていたが 延寶の調〈延宝四年(1676)平戸藩の国学者 橘三喜の式内社調査〉の際  ”八幡宮” の称号であった為 査定となった とあります

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

白沙八幡神社(Hakusa Hachiman shrine)

 [通称名(Common name)]

【鎮座地 (Location) 

長崎県壱岐市石田町筒城仲触1012

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主祭神
中 応神天皇 仲姫命 仁徳天皇
左 仲哀天皇 神功皇后
右 玉依姫命 武内大臣

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【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity)

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

醍醐天皇延喜5年(905)12月26日勅宣、同月28日は御神体をこの国に渡し奉らるる時、神号を授け奉られしと云ふ。」とも。「一に云う、桓武天皇延暦年中鎮座とも。」と古書に記され

【由  (History)】

白沙八幡神社 由緒畧記

鎮座地 長崎県壱岐市石田町筒城仲触1012(華川山)

社 号 白沙八幡神社(旧称 管城社・筒城八幡宮)

祭 神
中 応神天皇 仲姫命 仁徳天皇
左 仲哀天皇 神功皇后
右 玉依姫命 武内大臣

由緒沿革
 御鎮座の年代は詳らかではないが、「当社は、醍醐天皇延喜5年(905)12月26日勅宣、同月28日は御神体をこの国に渡し奉らるる時、神号を授け奉られしと云ふ。」とも。「一に云う、桓武天皇延暦年中鎮座とも。」と古書に記され古来島人の尊崇を集めた古社で、今も壱岐國七社の一つとして、「七社参り」と称する島内外からの参拝者が多い。
旧藩時代 例祭に国主の名代の参詣(直参とも)があり、幣帛が供進され、代々の藩主の尊崇も厚く、社領・鳥居・宝物等の献納も度々おこなわれている。古く鎌倉時代惣検校見参料や給田記録からも、社運隆盛検校らの権力の大きさも多大なものであったことが推察できる。

 当社は本来、延喜式神名帳に「石田郡 海神社[大]」と所載の神社で、延宝四年の査定の時、「八幡宮」の称号になっていたため「海神社」は別所に査定したものと論考されている。なお、習合時代の名残をとどめる「懸仏」一体は参集殿に、江戸期まで神輿殿に安座されていた「彌勒仏」は近くの山根堂に祀られている。(氏子数二百余戸)
明治九年十二月四日 村社に加列
昭和七年八月十七日 郷社に昇格

十一月十五日 (還御の後 大神楽を奉奏する。)

左 稲荷社
右 乙魂社 乙宮社

社叢 ・・・・
絵馬天井・・・
一の鳥居・・・
二の鳥居・・・
韓櫃石・・・・

現地案内より

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壱岐白沙八幡社叢

『社叢』とは神社の森のことをいう。
白沙八幡神社は壱岐の南東海岸に位置する筒城浜の背後にある旧郷社である。この神社の社殿背後の緩やかな斜面に社叢があり、『鎮守の森』として守られてきた。以前から立ち入ることさえ許されない、『禁足の地』であり、枯木、枯枝を持ち出すことも憚られた。
社叢の奥に行くにつれ標高が高くなり、地形は険しくなる。林床には転石が多い。

 この社叢はシイの木が多い壱岐唯一の暖帯樹林で、他にクロマツ・ヤブニッケイ・タブノキ・イスノキ・ホルトノキ・クスノキ・イヌマキ・ヤブツバキ・シュロなど20種近くの高木が林冠(森林の中で最も上層にあるもの)を形成している。また林の中はハクサンボク・ヒサカキ・イヌガシ・ネズミモチ・クチナシなどの低木が繁茂している。
またノシラシ・ツワブキ・アマクサシダ・オニヤブソテツなどの草本類を見ることができる。全体的
に老大木が多く、この樹林が安定相に移行してかなりの年代を経たことを意味する。この社叢の中には島内の10指に数えられる老大木の樹種も多く『壱岐の植物』(品川鉄魔1983)によるとイチョウ(目通り枠囲4.24m、樹高20m)・シイ(目通り枠囲2.0m、樹高15m)、モチノキ(目通り枠囲2.0m、樹高0.65m)、カカツガユ(目通り枠囲0.65m、樹高15m)などがある。(1975年5月15日調査時)
 壱岐の島はかつて照葉樹林に覆われていたと考えられているが、開発等により、その生城はかなり挟まったと思われる。このような中において、原型をよく遺しているこの社叢は後世に残していくべき貴重なものであることから指定されるに至ったものである。

 白沙八幡神社:鎮座年代は不明であるが、社記には延暦6(787)年に神殿が辰(東南東)の方向に向き建立されたことが記載されている。八幡勧請以前は『管城社』と呼ばれていた。壱岐国大七社の一社として昔から人々の崇敬を集め、例祭時には国主参拝の神社として特別扱いされていた。明治時代になり廃藩以後村社となったが、昭和7年郷社に格上げされた。今でも壱岐島七社の一つとして崇拝されている。祭神は応神天皇・仲哀天皇・神功皇后・仁徳天皇・中媛命・玉依姫命・武内大臣である。拝殿内には『韓櫃石』と呼ばれる巨石があり、これを取り除こうとすると赤い血水が流れるという言い伝えがある。例祭日は11月15日でこの神幸式を行い壱岐神楽(国指定重要無形民俗文化財を奉奏する。

平成18年3月 長崎県教育委員会 壱岐市教育委員会

境内案内板より

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【境内社 (Other deities within the precincts)】

韓櫃石(からひついし〈拝殿内の幣下辺りの床 石の上部あり〉

韓櫃石(俗に「拝み石」とも)
拝殿内にあり、形状が唐似ているところからこう呼ばれている昔から人はこれを敬って上がることはない。言い伝えによれば、昔、拝殿を建て替えようとして、この石を取り除こうとしたところ、石から血水のようなものが流れ出したので、人々が恐れて取りやめたという。以後現在に至る。〈境内案内より〉

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絵馬天井〈拝殿の天井〉

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三十六歌仙奉納絵馬〈拝殿内〉

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稲荷社石祠〈社殿向かって右〉
乙魂社石祠・乙宮社石祠〈社殿向かって左〉

【境外社 (Related shrines outside the precincts)】

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承

京畿七道諸神 総数267社の神々に神階の奉授が記されています

【抜粋意訳】

 貞觀元年(八五九)正月廿七日甲申〉の条

廿七日甲申
京畿七道諸神 進 階及新叙 惣二百六十七社
奉授
 淡路國无品勳八等伊佐奈岐命一品

・・・・
・・・・
・・・・

壹岐嶋 從五位下 海神 住吉神 兵主神 月讀神 に 從五位上
對馬嶋 從五位下 和多都美神 高御魂神 住吉神 に 從五位上

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブス『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=画像利用

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

※ 社説に 当社は本来、延喜式神名帳に「石田郡 海神社[大]」と所載の神社で、延宝四年の査定の時、「八幡宮」の称号になっていたため「海神社」は別所に査定したものと論考されている。

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)壱岐島 24座(大7座・小17座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)石田郡 12座(大3座・小9座)

[名神大 大 小] 式内大社

[旧 神社 名称 ] 海神社(大)
[ふ り が な ]あまの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Ama no kamino yashiro)

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

式内社 海神社(大)(あまの かみのやしろ)の論社について

・海神社(壱岐市石田町筒城西触)

一緒に読む
海神社(壱岐市石田町筒城西触)

海神社(かいじんじゃ)は 延寶の調〈延宝四年(1676)平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉で式内社 海神社と比定されました しかし それ以前は 筒城村の海浜の海神(カイジン)山と称する所に上海神 下海神と云い伝えて 社もなく定めた祭りも無く 古来より”けいじん”と云われていたとされます

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・白沙八幡神社(壱岐市石田町筒城仲触)

一緒に読む
白沙八幡神社(壱岐市石田町筒城仲触)

白沙八幡神社(はくさはちまんじんじゃ)は 本来の式内社 石田郡 海神社(大)だとされています 社記に延暦6年(787)神殿を辰(東南東)向きに建立とあり 八幡勧請以前は ”管城社” と呼ばれ 壱岐国大七社の一社で 例祭時には国主参拝の神社として特別扱いされていたが 延寶の調〈延宝四年(1676)平戸藩の国学者 橘三喜の式内社調査〉の際  ”八幡宮” の称号であった為 誤査定となった とあります

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゛神の坐ます島 壱岐゛で崇敬されている 壱岐七社について

壱岐の人々には お正月に初詣に豊作大漁家内安全健康長寿を祈願して七社巡りをする習慣があります
参拝の順番は 家に近い神社を起点に時計回りに回るのがいいとされているそうです

壱岐七社は いづれも 延宝四年(1676)延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉以前は 延喜式内社の大社と考えられていた由緒ある神社で 旧平戸藩の藩主が特別に崇敬をした七つの神社です

1.白沙八幡宮

 延喜式内社 海神社(大)論社
・白沙八幡神社(壱岐市石田町筒城仲触)

一緒に読む
白沙八幡神社(壱岐市石田町筒城仲触)

白沙八幡神社(はくさはちまんじんじゃ)は 本来の式内社 石田郡 海神社(大)だとされています 社記に延暦6年(787)神殿を辰(東南東)向きに建立とあり 八幡勧請以前は ”管城社” と呼ばれ 壱岐国大七社の一社で 例祭時には国主参拝の神社として特別扱いされていたが 延寶の調〈延宝四年(1676)平戸藩の国学者 橘三喜の式内社調査〉の際  ”八幡宮” の称号であった為 誤査定となった とあります

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2.興神社

〈延喜式内社 天手長男神社(名神大)論社
・興神社(壱岐市芦辺町)

一緒に読む
興神社(壱岐市芦辺町)〈壱岐国一之宮〉(元印鑰宮)

興神社(ko shrine)は 壱岐国が王制の時代であった頃の 一支国(壱岐国)の王都の跡「原の辻遺跡」のすぐ傍に鎮座します 官庫の鑰(かぎ)や国府政所の印かんを納める所として「印鑰大明神」の社号で呼ばれ 格式高い由緒を伝えます 里人の通称名は「一の宮」です 現在では 本来の式内名神大社「天手長男神社」で「壱岐国一之宮」は当社「興神社」とする説が有力です

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3.住吉神社

〈延喜式内社 住吉神社(名神大)論社
・住吉神社(壱岐市芦辺町住吉東触)

一緒に読む
住吉神社(壱岐市芦辺町住吉東触)

住吉神社(すみよしじんじゃ)は 社伝によれば 神功皇后が住吉神の護神により三韓を征伐し 凱旋の時〈郷ノ浦に上陸 足形を石面に残した時〉住吉三神を祀られたと云う 後に 住吉神の神託により「波の音の聞こえぬ地」をお選びになり 現在地に遷座したと云う 式内社 住吉神社(名神大)(すみよしの かみのやしろ)で 住吉神社 発祥の地と伝えています

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4.本宮八幡宮

〈延喜式内社 兵主神社(名神大)論社
・本宮八幡神社(壱岐市勝本町本宮西触)

一緒に読む
本宮八幡神社(壱岐市勝本町本宮西触)

本宮八幡神社(ほんぐうはちまんじんじゃ)は 社縁起に兵主神社であり八幡宮と称すとあり 聖母縁起に 本宮八幡宮は 中住吉大明神 左誉田尊 右息長帯姫尊を祭る 神功皇后 三韓退治の時 住吉大明神の出現ありて神力を添へ給ふ故 当社住吉大明神を兵主神社と称す也とあり 式内社 兵主神社であると有力視されています

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5.箱崎八幡宮

〈延喜式内社 月讀神社(名神大)論社
・箱崎八幡神社(壱岐市芦辺町箱崎釘ノ尾触)

一緒に読む
箱崎八幡神社(壱岐市芦辺町箱崎釘ノ尾触)

箱崎八幡神社(はこざきはちまんじんじゃ)は 相殿に天月神命と高皇産霊神が祀られます 式内社・月讀神社(名神大)・高御祖神社の両社は 同じ所に鎮座したと伝わり 当社がそれとされます 故に祭神 天月神命(あめのつきかみのみこと)は『日本書紀』顕宗天皇三年の段に記される壱岐の「月神」〈高皇産霊命を祀れと憑依神勅をした〉であると伝わります

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6.國片主神社

〈延喜式内社 天手長比売神社(名神大)論社
・國片主神社(壱岐市芦辺町)

一緒に読む
國片主神社(壱岐市芦辺町)

國片主神社(くにかたぬしじんじゃ)は 古来 唐土から石舟に乗り来た唐田天神を祀り 国分天神と呼ばれ 式内社 天手長比賣神社に比定されます 又 延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉では 証拠は何処にもありませんでしたが 式内社 國主片神社に比定されました 国分天神の呼び名は 天満宮との混同により国分天満宮となりました

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7.聖母宮

〈延喜式内社 中津神社(貞・名神大)論社
・聖母宮(壱岐市勝本町)

一緒に読む
聖母宮(壱岐市勝本町勝本浦)

聖母宮(しょうもぐう)は 神功皇后〈仲哀天皇9年(200)10月〉が壱岐に着き 順風を待たれたこの地を「風本・かざもと」と名付けられ三韓へ出兵された 三韓からの帰路再び立ち寄られ〈同12月〉出兵の勝利を祝い「勝本・かつもと」と改められたと社伝にあります 壹岐郡の二つの式内社〈・中津神社(名神大)・手長比賣神社〉の論社となっています

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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

壱岐空港の東側の海岸にある岬「唐船城跡この岬が唐船をひっくり返した形に似ている〉があると聞き “唐船”とは 江戸時代長崎に来航した中国船の通称 日本で造った中国式の船の呼称でもあります ちょっと寄り道

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神社は東南東を向いていますが その先には筒城浜があり 見事な白砂濱です
神社名の「白沙」の由来「八幡より渡御された」海岸です

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壱岐空港側の高台から 筒城浜を見下ろすと白い鳥居が山裾建てられているのがわかります

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壱岐空港から北上1.4km 車4分程度

筒城浜から 神社へ向かうと社頭には大きな白い鳥居が建っています

白沙八幡神社(壱岐市石田町筒城仲触)に参着

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続いて 二の鳥居が建ちます

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一礼をして鳥居をくぐり参道を進みます

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小川に架かる神橋を越えると すぐに手水舎があり 振り返ると 大きな一の鳥居の中に 二の鳥居がすっぽりと納まっているように見えて面白かった

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目の前の石段を上がれば すぐ拝殿です

拝殿にすすみます

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拝殿の扁額には 七柱御祭神記されています
向かって左手には 境内社の乙魂社石祠・乙宮社石祠が並び祀られます

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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拝殿の奥には 幣殿 本殿が鎮座します
向かって右には 見ざる、言わざる、聞かざる三猿(さんざる)が置かれていますが 何故置かれているのかは 不明〈壱岐には野猿は居ないと聞いていました〉
その更に右手に稲荷社石祠が祀られています

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社殿に一礼をして 参道を戻ります

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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承

式内社 海神社の所在について 筒城村〈現 海神社(壱岐市石田町筒城西触)〉と記しています

【抜粋意訳】

海(アマノ)神社 大

三代実録 貞觀元年(八五九)正月廿七日甲申〉の条 奉授 壹岐嶋 從五位下 海神 住吉神 兵主神 月讀神 に 從五位上

畧志 筒城村にあり 所祭 豊玉彦神

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用

『壱岐名勝図誌』〈文久元年(1861)に完成〉に記される伝承

巻之六 巻之八 壱岐筒城 従 山崎浦 之部 白沙八幡神社(壱岐市石田町筒城仲触)は 延寶の調〈延宝四年(1676)平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉では 式内社から外されたが 本来の式内社 海神社である と記しています

【抜粋意訳】

壱岐名勝図誌 巻之八 壱岐筒城 従 山崎浦 之部

白沙八幡神社

在 内山 村中の産神なり 例祭八月十六日 十月十五日 両度

祭神 七座 応神天皇 神功皇后 仲哀天皇 玉依比賣 大鷦鷯武内大臣

正 殿 (辰向)
祝詞屋・・・
拝 殿・・・
御饌殿・・・
御輿舎
稲荷祠 石祠
・・・
・・・

唐櫃石韓櫃石(からひついし 拝殿内にあり 図次に出す
・・・・
中昔 拝殿造営の時 此の石を除かんとせしは 石より血氣流れ出たり 故人恐れて止たりと

抑当社は 醍醐天皇 延喜五年十二月二十六日 勅宣四月二十八日 神体を此国に渡し奉るる時 神号を奉授かれしと云々 一云 桓武天皇 延暦年中 鎮座とも
〇古老伝云 昔城列の八幡より渡御給ひし時 逆風で此浦の濱に御舩かかりし給事 七日故に其の所を神瀬といふ 水主は夕部つ浦人なり かくて陸に上がりましまし濱辺の清水にて御手を洗給ふ 故其の水を名付けて御手洗といふ
諸神の問て曰 大神は何時 渡御給ひしやと咎給ひし 夕べ渡りしと 故其の所を夕部といふなり 其れより長岳と云 岡の上に登り給ひて村地の風景を見て・・・・
・・・・・

〇神社考云 筒城邑の海浜の海神山と称せり所に上海神 下海神と云い傳へて社もなく祭るこちも無りしを 古来より海神と称しは是 式内の海神社なりとせり 然れども上下と称すれと両所はなく一所なり 其の海神山の東数町隔たりて 海浜の山中に宗社八幡宮あり 古今当国の大七社と国民称せる其の一社なり 神名帳に海神社大とあり 大は其の国の大社なり 然るに今の海神山は大社有し地ともいえず 上下の海神の称号を傳るは八幡宮は上海神にして 元は海神を祭るに後に八幡を合祭て 後に祭る所の八幡を以後 社号とせるならむ(其の元 上海神の地に祭りしを後 海浜の北に奉迁 今の所に祭り 故に二所を上海神 下海神と称し来りむ)
所祭神 中は誉田尊 仲姫命 左は仲哀尊 息長足姫尊 大鷦鷯尊 右は武内宿祢 玉依姫命なりといへり
是 実説なるや 毎年八月十六日定祭神幸 神遷し左三座光の三の御輿 御灯迁し奉る 中二座二の御輿は神主迁したる 右二座一の御輿は宮司迁しなる光の神輿 中の神輿を一の神輿と云へに 濱の神輿を一の輿といへるは由緒ならん
武内宿祢 玉依姫命の神輿を一の神輿と称せり則は 是則 当社の御本主ならむ

玉依姫は 海神の御子なり然る時は海神社にて拠なる 披 三喜 海神社を豊玉彦命之と何も可なれと 又 其の国其の所の由緒に依て取 祭神各別なり 神名式筑前國糟屋郡志加海神社三座は 底津少童命 中津少童命 表津少童命なり
・・・
・・・
・・・

【原文参照】

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 海神社の所在について 筒城村〈現 海神社(壱岐市石田町筒城西触)〉と記しています

【抜粋意訳】

海神社 大

海は 阿麻と古語あり
〇祭神 豊玉彦命歟
〇筒城村に在す

類社
播磨国 明石郡 海神社の條 見合うべし

神位
三代実録 貞觀元年(八五九)正月廿七日甲申〉の条 奉授 壹岐嶋 從五位下 海神 住吉神 兵主神 月讀神 に 從五位上

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 海神社の所在について 筒城村〈現 白沙八幡神社(壱岐市石田町筒城仲触)〉と記しています

【抜粋意訳】

海神社

今 筒城村 海神山の東海浜に在り 八幡宮といふ
盖 海上 豊玉彦命を祀る
清和天皇 貞觀元年(八五九)正月廿七日甲申〉の条 奉授 壹岐嶋 從五位下 海神 住吉神 兵主神 月讀神 に 從五位上

醍醐天皇 延喜の制 大社に列る
凡毎年十一月四日祭を行ふ

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神祇志料』著者 栗田寛 著 出版者 温故堂 出版年月日 明治9[1876]https://dl.ndl.go.jp/pid/815490

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 海神社の所在について 延寶の調〈延宝四年(1676)平戸藩の国学者 橘三喜の式内社調査〉で 筒城村〈現 海神社(壱岐市石田町筒城西触)〉とされたが それ以前から 筒城村の宗社八幡宮〈現 白沙八幡神社(壱岐市石田町筒城仲触)〉が式内社とされていて 海神も祀られているので 本来の式内社であると断言しています

【抜粋意訳】

海神社

祭神 豊玉彦命

今按〈今考えるに〉
神社考に 今 八幡宮と称する 八幡宮海神にして元は海神を祭れるを後に八幡を合祭れる歟
其の八幡の祭神 中 誉田尊 仲姫尊 左に足仲彦尊 氣長足姫尊 大鷦鷯尊 右に武内宿祢 玉依姫なり
毎年八月十六日 例祭神幸 神移し 左三座先三の輿に移し奉る 中二座二輿に移し奉る 右二座一輿に移し奉るが 二番跡の神輿を一輿と称せる
是則 当社の御本主ならば玉依姫は海神の御子なり 然則 海神社にも據ありとみえ
旧説に祭神 豊玉姫命とあるを 延寶の調〈延宝四年(1676)平戸藩の国学者 橘三喜の式内社調査〉に豊玉彦命を祭ると云るは如何あらん海神とありとて必ずしも豊玉彦命とみ定むべきにあらず 旧説 玉依姫とも豊玉姫共云る如く姫神とあるに従ふ方穏ならん 姑附て考に備ふ

神位
清和天皇 貞觀元年(八五九)正月廿七日甲申〉の条 奉授 壹岐嶋 從五位下 海神 住吉神 兵主神 月讀神 に 從五位上

祭日 十一月四日
社格 (無社格)

所在 筒城村(石田郡石田村大字筒城)
今按〈今考えるに〉
神社考に 筒城村の海浜の海神(カイジン)山と称する所に上海神 下海神と云伝へて社もなく定と祭る事も無くして 古来よりけいじんと云 式内海神社なりとて 延寶の調〈延宝四年(1676)平戸藩の国学者 橘三喜の式内社調査〉に定めたけど 其の海神山の東海浜の山中に村の宗廣八幡宮あり 古今 当国の大七社と称する内の一社なり 式の海ノ神社大とあり 大は其の國の大社なり 海神山は大社ありし地とは見えず
上下の海神の称号を伝しは八幡宮海神にして 元は海神を祭れるに後に八幡を合祭れる歟とみえ
式社沿革考に 旧記悉く筒城邑とあり然るに海神社はあまの訓にして けいじん山の所名 據なきが如し然れば村の宗社八幡宮 往昔より御崇敬七社の一なれば小縁の社にあらず 又 延宝以前は式内の社と称せり かかれば海神社は八幡宮歟と云る據あり従ふべし

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155

国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155

『壱岐国神社誌』(Ikinokuni jinjashi)〈昭和16年(1941)〉』に記される伝承

白沙八幡神社(壱岐市石田町筒城仲触)は 古来 壱岐七社の一つとされ崇敬されてきた神社で 式内社 海神社である
延寶の調〈延宝四年(1676)平戸藩の国学者 橘三喜の式内社調査〉では 誤って 筒城村〈現 海神社(壱岐市石田町筒城西触)〉が 式内社 海神社とされた と記しています

【抜粋意訳】

郷社 白沙八幡神社

(旧號 筒城八幡宮)

鎭座地 石田村筒城字白沙濱
 神 応神天皇、神功皇后、仲哀天皇、仲姫之命、仁徳天皇、玉依姫命、武内大臣

例祭日 十一月十五日 神幸式、大神樂奉奏
境内地 4552

〔由緒沿革〕
社記ニ曰、当社ハ六国史所載ノ社ニシテ 桓武天皇 延暦年卯日、豊前國宇佐郡ヨリ 異賊降伏国家擁護ノ神トシテ 八幡大神ニ勧請セラレタリ 依ツテ 大神殿ハ辰ノ方向ニ建立セルモノナリ。
 又曰 醍醐天皇 延喜年乙丑十二二十六日勅宣 同月二十八 御神体ヲ此ノ國ニ渡シ奉ル。
 又壱岐名勝図誌ニ曰、古老傳云 昔城列ノ八幡ヨリ渡リ給ヒシ時、逆風ニテ此所ノ海濱ニ御船ガゝリシ給フ事七日、故ニ其所ヲ神瀬ト云フ、水主ハタ部ノ浦人ナリ、カクシテ陸ニ上リマシテ 濱邊ノ清水ニテ御手ヲ洗ヒ給フ、故ニ 其ノ水ヲ名附テ御手洗ト云フ(又京水トモ云フ) 其所ニ人アリテ諸神ニ向ヒテ曰、大神ハ何時渡ラセ給ヒシヤト、答へ給ハク、夕部渡リシト、故ニ 其所ヲ タ部ト云ヘリ、其ヨリ長岳ト云フ丘ノ上ニ登リ給ヒテ 村内ノ景色ヲ見ソナハシテ、曰、東ニ清水アリ 南ニ逢來アリ 西ニ和泉アリ 北ニ福小路アリ ツツキ徳満崎ニ宝珠アル村ナリト讃メ給ヒシト、
其ノ時 神功皇后ハ 石田境ノ海濱ニ着給ヒ陸ニ上リマシゝ時 髪ヲ落シ給フ、故ニ 其ノ瀬ヲ髪瀬ト云フ、今カモ瀬ト云フハ転語ナリ。又 錦ノ御衣ヲ干シ給フ仍テ 其所ヲ名附テ 錦濱ト云フ、此ノ時 大神内山(現在社地)ニ降リ到リマシテ 底津磐根ニ宮柱太敷立テ鎭座セラレタリト伝フ。
 当社ハ 壱岐国大七社ノ一トシテ 古來國民ノ崇敬スル所、例祭ニハ國主直参ノ社ニシテ 崇敬特別ナリシモ 廃藩以後 一列ノ村社トナレリ。


一、明治十二日、改メテ村社加列。
一、大正十二二十八日、神饌幣帛料供進指定神社トナル。
一、昭和十七日、郷社ニ列セラル。
一、同 九十六日、神饌幣帛料供進指定神社トナル。

 当社拝殿内ニ縁由アル石アリ、長サ四尺三寸二分 横二尺八寸一分 高サ二尺三寸六分、板敷上 現所 高サ九寸五分、韓櫃石ノ名称アリ、古ヨリ拝殿改築ニ際シ 人々敬懼シテ除ク事能ハザル也。
〔壱岐名勝圃誌〕ニ曰、昔 当社ニ 神輿七基アリ、内一基ハ 那賀野郷村ヨリ出役ス、或時大降雨アリテ那賀野郷ヨリ輿丁來ラザルヲ以テ六輿ハ霧間ヲ待チテ神幸アリシモ 一輿ノミハ 神遷シヲナシタルマゝ御輿殿ニ置キシヲ筒城ノ人怒リテ那賀野郷ニ御輿ヲ昇ギ行キテ之ヲ放棄ス 今ノ中野郷ナル流八幡宮ハ此ノ神輿ヲ奉齋セルナリ。
 今ハ三輿ノミニシテ 一ノ輿三ノ輿ハ 宮司御灯氏 神遷シヲナシ 二ノ輿ハ神主平田氏 神遷シヲナシ奉ルト云フ。

「壱岐国続風土記所載〕
一、正大宮司名 久布呂家舗
一、神 主 名 彦左衛門家舗
一、御 燈 名 近兵衛家舗
一、所 司 名 惣左衛門家舗
一、チャウガク名 月清家舗
一、一ノ輿ハ  夕部浦昇
一、二ノ輿ハ  筒城村昇
一、三ノ輿ハ  池田村昇
一、幡持御前預 平田家舗ヨリ出役
一、鉾 持   西間村安寂院より出仕

一、例祭十六日、國主名代トシテ 壱岐城代参向、奉幣ノ儀アリテ 神輿三基浜ノ離官ニ神幸アリ、当社ノ祭礼ハ 国中ノ諸社ト異リ 神輿三基各数十人ノ輿丁アリテ離宮迄競ヒ走ルナリ。着御直チニ之等輿丁ハ汀ニ馳行キテ潮井ヲ取リ 手洗ヒ 口漱ギナドスル様 甚賑カナリ。現今ニテモ 共ノ慣例ヲ存ス。
一、元亀年間 平戸城主 松浦氏ノ領國トナリシヨリ 神社造営毎ニ国主ヨリ白銀七枚寄進セラル。
一、当時 祭米 公方神楽米=六升六合、國主神楽米=九斗、村中年中御供米=壱石四斗七升。
一、境内石鳥居ノ銘ニ曰、元和年辛酉月吉日
大檀那松浦豊後守源信実立之
奉行氏田五兵術 同権左衛門

一、壱岐神社考ニ曰、「当八幡宮ハ 延喜式内七社海社社ニシ後ニ八幡宮トナレルモノナリ」
一、壱岐名勝図誌ニ曰、「当社ノ神幸ニ神遷ノ時 一ノ輿ニ祭神ノ一ナル玉依姫命ヲ遷シ奉リ 離宮ニテモ 一ノ輿ヲ中央ニ据奉ル 社例ニ依リテ考フルニ 此ノ祭守ハ 海神ナルヲ以テ 当社鎮坐ノ当初ニ於テハ 式内ノ海神社トシテ鎮坐アラセラレシモノナラン。
一、延喜式神明帳ニ曰、壱岐島石田郡海神社大トアリ。以上ノ社記及旧記ヲ綜合スルニ 当社鎮座ハ 延喜式神名帳登録ノ 海神社 即大社ニシテ 後年八幡大神合祀ニ依リ 単ニ八幡官ト通称シ 当初ノ海神号ヲ失却ジタルモノナルベシ。
古來 壱岐島民ノ償行ニ也 社参りト称シ 当社其ノ一ニ加ヘラルゝハソノ通例タルヲ失ハズ、七社トハ 延喜式 所謂二十四社ノ内大七社小十七社ト記載スル所ナリ、故ニ 室町幕府ノ末葉ヨリ 江戸幕府ノ時代ニ及ビテ 領主國主ノ崇紋セル神社ニシテ 社殿造営毎ニ白七枚ヲ献納シ 神領二石ヲ奉献セラル等其ノ証拠ナリトス。
今ヤ式内ノ海神社ハ 当村内ニ別鎮座アリト雖モ 右ハ 延宝年橘三喜ガ国命ヲ奉ジテ 式内社ノ調査ヲナスニ際シ 如上ノ沿革アルヲ察知セズ 新ニ海神社ヲ勧請ナシ之ヲ式内社ト定メタルモノナリ、然レ共 八幡神杜ノ祭神ニ 海神ナル玉依姫命ヲ奉祀スルハ 是以テ 八幡神社ガ本來ノ式内海社タル事ヲ証スルモノト謂フベキナリ、現今ニ於テモ 尚七社参詣ト称シ 壱岐國民ノ殊ニ崇敬深甚ノ社ナリ。

古來 当社ノ幸ニ 那賀野螂村及池田村薬師丸ヨリ 駕興丁出仕シ 西間村安寂院ヨリ出役スト記録セラル、之ゾ即チ 神威八紘ニ輝キ 壱岐全島民ガ如何ニ当社ニ対シ崇敬ノ念厚カリシカヲ物語ルモノナリ。

【原文参照】

『壱岐国神社誌』国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1035221出版昭和16年(1941)著者 長崎県神職会壱岐支会 編 出版者 長崎県神職会壱岐支会

『壱岐国神社誌』国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1035221出版昭和16年(1941)著者 長崎県神職会壱岐支会 編 出版者 長崎県神職会壱岐支会

白沙八幡神社(壱岐市石田町筒城仲触)に (hai)」(90度のお辞儀)

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