八幡神社(はちまんじんじゃ)は 古代の豪族 和気公と江沼臣春日部の先祖が居住し 各々の祖神・白山比咩神・蟹淵ノ神・水無谷の風ノ神などを祀ったのが始まりと伝 天平勝宝元年(749)興福寺領となり 後 八幡神を勧請 明治40年に7社を合祀 その一つに式内社 能美郡 滓上神社の論社 滓谷神社があります 境内には 家立(やだ)ちの大事業を行った 杉本庄兵衛の徳をたたえ 鍋谷の祖霊(それい)として祀(まつ)られています
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
八幡神社(Hachiman Shrine)
【通称名(Common name)】
鍋谷八幡神社(なべたにはちまんじんじゃ)
【鎮座地 (Location) 】
石川県能美市鍋谷町ツ72
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》応神天皇(おうじんてんのう)
神功皇后(じんぐうこうごう)
比咩大神(ひめおほかみ)
《配》菊理媛尊(くくりひめのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社を合祀
〈滓谷神社(式内社 滓上神社の論社)を明治40年に合併〉
【創 建 (Beginning of history)】
八幡神社由緒
当社は 古代この地に居住した豪族 和気公江沼臣春日部の先祖が それぞれの祖神と土地の神霊 白山比咩神、蟹淵ノ神、水無谷の風ノ神など を斎き祀り、ノタ谷、ソンバイ谷などに聚落を結ぶ。
景行天皇その皇子を和氣に封ず 仁徳天皇 素都乃奈美留命 道ノ君祖 を加宣国造に、反正天皇 志波勝足尼 竹内宿禰四世ノ孫、江沼国造に補し給ふ。殊に春日部の氏人 鍋谷に住し祖神を祀る。
これ當神社の濫觴なり。鍋谷周辺の高塚古墳 国造山 は この地の豪族の墳墓なり。天平勝寶元年(749)、大和国 興福寺々領 和氣鍋谷など となる。
寿永二年(1183)平家凋落するや その餘黨当邑に遁世す 日吉社を氏神とす。乾元年(1302)鎌倉幕府南禅寺を得橋郷 鍋谷など 地頭職を寄進す 延鎮寺並仁王堂は禅利なり。
其の後 武家の覇をとなふるや八幡神を勧請し社号を八幡と改める。
天正三年(1575)織田信長、一向衆徒を鍋谷城に撃つ。氏家兵焚に罹る。天保十三年(1842)家立を始め安政三年(1856)九月全部転居す。
安政四年 家立神として肝煎庄兵衛の生祠を建立す 祖霊社。
明治四十年(1907)六月無社格 八幡社 総て七社合祀す。
昭和二十七年四月 宮崎安彰議
寄進 吉田外儀社殿に掲げられた案内板より
八幡神社 由緒
上記と同文
平成六年九月吉日
社頭の石碑文より
【由 緒 (History)】
由緒
創立年月不詳。石清水古文書に鍋谷村とあり、御料田に八幡社を勧請した。古代この地の豪族和気公、春日部白昇祖が祀った白山社、平安時代鎮座していた滓谷神社(式内滓上神社とも言う)外四社を明治40年に合併。当区花野にて能楽を奉納。遠近の参拝絶えなかった。明治39年神饌幣帛料供進神社に指定。
石川県神社庁HPより
https://www.ishikawa-jinjacho.or.jp/shrine/j0580/
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
滓谷神社(式内社 滓上神社の論社)を明治40年に合併
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)北陸道 352座…大14(うち預月次新嘗1)・小338
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)加賀国 42座(並小)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)能美郡 8座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 滓上神社
[ふ り が な ](かすかみの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Kasukami no kamino yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
延喜式内社 加賀国 能美郡 滓上神社(かすかみの かみのやしろ)の論社
・滓上神社(小松市中海町)
滓上神社(かすかみじんじゃ)は 社伝に「垂仁天皇の皇子五十日帶彦命が越の国に下向あり、越前を圣て当地に幾星霜駐留あらせられ」とあり もと現在地の北方200mの平地に在ったが 明治十七年(1884)の大洪水で被害を受け 明治二十二年(1888)ここ森山の高台に遷座しました 発祥の地は ここから東南へ2km程の゛奥の宮゛とされ 延喜式内社 加賀国 能美郡 滓上神社(かすかみの かみのやしろ)の論社です
滓上神社(小松市中海町)
・八幡神社(能美市鍋谷町)
〈八幡神社に合祀の滓谷神社〉
八幡神社(はちまんじんじゃ)は 古代の豪族 和気公と江沼臣春日部の先祖が居住し 各々の祖神・白山比咩神・蟹淵ノ神・水無谷の風ノ神などを祀ったのが始まりと伝 天平勝宝元年(749)興福寺領となり 後 八幡神を勧請 明治40年に7社を合祀 その一つに式内社 能美郡 滓上神社の論社 滓谷神社があります 境内には 家立(やだ)ちの大事業を行った 杉本庄兵衛の徳をたたえ 鍋谷の祖霊(それい)として祀(まつ)られています
八幡神社(能美市鍋谷町)
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
北陸鉄道石川線 鶴来駅から 県道55号経由で南西方向へ約12.4km 車20分程度
県道297号と交差する辺りに寺畠町があり 八幡神社(能美市寺畠町)が鎮座します
こちらの由緒については
八幡神社(能美市寺畠町)《主》応神天皇 神功皇后 比咩大神
由緒
創立年月不詳。石清水八幡宮の御料田があったので八幡大神を勧請。八幡社と称したと伝えられる。のち虚空蔵山城主が城下町である当社を崇敬せられたと伝えている。境内には杉の大木多い。
石川県神社庁HPより
https://www.ishikawa-jinjacho.or.jp/shrine/j0582/
県道297号の道路脇に 鍋谷の寺畠について 案内板がありました
鍋谷(なべたに)
鍋谷ものがたり
天明の昔に大旱魃(かんばつ)が続き、和気村の人たちが鍋谷へ雨乞に来ました。その時 大蟹(がん)が現れ、驚きの余り足を傷つけてしまいました。すると一天かき曇り雷鳴の中より「若(も)し鍋谷七村なければ和気三ヶ村押し流す」と大声が響いてきました。人々はこれは淵神であると信じて、今に「蟹淵(がんぶち)」と伝えています。
←てらばたけ
能美市(NOMI CITY)
案内板より
県道297号を東へ進むと バス停゛鍋谷八幡神社゛があります
ちょうどバス停に向かって 社頭があります
八幡神社(能美市鍋谷町)に参着
参道の石段には鳥居が二連 石段の向きも鳥居ごとに方向が変化しているので 重層が増しています
鳥居の扁額には゛八幡神社゛ 一礼をしてくぐり 石段を上がります
参道の石段には 手水舎があり 清めます
中段に 踊り場のような平地境内があり 左手には境内社や石祠が祀られています
左手の鳥居をくぐり 石段を上がります
石段を上がると 大きな石灯籠があり 又石段が続いています
境内社としては 立派な造りです
石段の手前には゛ばんぶち石゛が置かれています
゛ばんぶち石゛とは 力石の事のようです
祀られている境内社の前には 注連縄柱の如く 杉の大木が生えています
社殿は ガラスの覆屋に保護されています
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
すぐ脇に゛庄兵衛翁之碑゛が祀られています
鍋谷(なべたに)杉本庄兵衛翁碑(すぎもとしょうべいおうひ)
江戸時代,鍋谷の村では、草高(くさだか)(課税対象面積を米穀の収穫高で表そ多いものの、山地が多く、水田が少なかったので、他のどこの村々よりも税金が重く,特に度重なる飢饉(ききん)の折などは、食べるものがまったくなくなり、多くの農民が苦しみました。そこで、肝煎(きもい)りをしてい杉本庄兵衛の発案のもと、家立(やだ)ちの大事業が行われました。山の日影や山間(やまあい)の真ん中に建てられていた鍋谷の家々を日当だりの良い山の南斜面に移し、耕地の確保をするというものでした。この作業は並大抵のものではなく、夜明けとともに家立人夫に出て、日暮れとともに家に入り,ハレの紋日(もんび)以外は一日も休むことがなかったと言われています。天保1 3年(1842年)から安政3年(1856年)までの15年の長きに渡って行われだおかげで山間の森と竹薮(たけやぶ)におおわれた村にも、広々とした田地が開けて、秋には黄金色(こがねいろ)の稲穗(いなほ)がなびくようになりました。
一方、庄兵衛は、財政の困窮にくじけずこの大事業を無し終え、慶応2年(1866年)63才で亡くなりました。かって、不平をこぼした人々も長い間の苦労も忘れて、庄兵衛の徳をたたえ、鍋谷の祖霊(それい)として祀(まつ)られました。
能美市教育委員会現地案内板より
もしかすると 境内由緒書にある「安政四年家立神として肝煎庄兵衛の生祠を建立する」とあるので 脇の境内社は この祖霊社だろうか
庄兵衛翁に一礼をして下がります
本社の参道に戻り 二の鳥居をくぐり 石段を上がります
拝殿の手前には 神馬像と めずらしい立派な九重の石塔
拝殿にすすみます
ガラスの覆屋の扉を開くと 拝殿の扁額には゛八幡神社゛
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿はガラス製の覆屋で保護されています
社殿に一礼をして 参道石段を下がります
神社の前を通る県道297号の山側には
鍋谷(なべたに)杉本庄兵衛翁碑(すぎもとしょうべいおうひ)の家立(やだ)ちの大事業で移転した 村が見えています
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 滓上神社について 社号のみ 読みとして加須加美(かすかみ)と記しています
【抜粋意訳】
滓上神社
滓上は 加須加美と讀り
祭神
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 滓上神社について 社号のみ 読みとして(カスカミノ)と記しています
【抜粋意訳】
滓上(カスカミノ)神社
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 滓上神社について 社号のみ記し 中村の社〈現 滓上神社(小松市中海町)〉とする言い伝えがあるが 決め手がない と記しています
【抜粋意訳】
滓上神社
祭神
祭日
社格
所在今按〈今考えるに〉
注進状に中村の社を従来 本社なる由 云傳ふれど 舊記 棟札等もなく 古き社號帳にも載らず社地のさま狭少にて式社の體にあらずと云へば決めがたし
【原文参照】
八幡神社(能美市鍋谷町)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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加賀国(かがのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 加賀国には 42座(並小)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
加賀國(かがのくに)の 式内社 42座(並小)について