実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

久が原西部八幡神社(大田区久が原)

久が原西部八幡神社(くがはらにしのはちまんじんじゃ)は  社記には 天平神護元年(765)豊前の宇佐八幡宮より御分霊を勧請 武蔵野の南端 久が原台地一番の高所に奉斎されたと伝えられ 久が原が二分される時 六郷領 久が原村の鎮守とされた 延喜式内社 武蔵国 荏原郡 薭田神社(ひえたの かみのやしろ)の論社でもあります

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

八幡神社(Hachiman shrine)

通称名(Common name)

久が原西部八幡神社(くがはらにしのはちまんさま

【鎮座地 (Location) 

東京都大田区久が原四丁目二番四号

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》誉田別命(ほんだわけのみこと)〈応神天皇〉

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity)

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

神護元年九月(七六五年)豊前の国 宇佐八幡宮の御分霊を勧請

【由  (History)】

社殿御造營紀念

八幡神社(久が原西部八幡神社)

鎮座地 大田区久が原四丁目二番四号
境内地 二、六四一・三三平方米

御祭神 譽田別之大神

例祭日 九月十五日

由 緒
 神護元年九月(七六五年)豊前の国 宇佐八幡宮の御分霊を勧請 武蔵の南端 久が原台地(弥生時代の集落地)の住民の鎮守として、尊崇せられ、徳川入国以来 久我原は二分され、当社は六郷領鎮守となり 明治六年(一八七三)村社に指定された。旧社殿(銅萱葺権現造)五二、八九平方米は、文化七年七月約百七十年(一八一〇)前の御造営にして、長年月を経しにより 、諸所に朽損の箇所多く 今度氏子の奉賛により 新しく社殿が御造営され 且つ篤志家の奉納により 手水舎をはじめ境内工作物 殿内調度備品等一切が完備した。 「社殿は地鎮祭 昭和五十二年十一月二日、上棟祭 昭和五十三年七月二十八日、正遷座祭 昭和 五十四年九月十三日にそれぞれ斉行した 九月十四日より十六日迄竣工奉祝祭例大祭が執 行され 奉祝稚児行列、御神輿の渡御 奉納演舞、演芸等 神賑が盛大に行われた。」

社 殿
 昭和五十四年九月吉日御造営、銅板葺、鉄筋コンクリート八幡造一一一、四八平方米

社務所
 昭和三十一年九月新築、木造瓦葺平家、一九一、八平方米

神楽殿
 昭和四十一年九月建設、五八、三二平方米。瓦葺鉄筋コンクリート造り

御輿殿
 昭和三十六年九月建設、瓦葺、木造モルタル造り、二六、四五平方米 御神輿、大、弐基、小、壱基、山車、弐台

末 社
 稲荷神社 祭神 宇迦之魂大神 相殿 東照宮(徳川家康公)社殿 明治十二年九月御造営  銅板葺権現流れ造り(元八幡神社本殿)

氏子区域
 大田区久が原一丁目―四丁目、北嶺町の一部

現地記念石碑より

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神社の境内 (Precincts of the shrine)】

稲荷神社《主》宇迦之御魂命,《配》徳川家康

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見事な彫刻の稲荷神社殿

稲荷神社の社殿は 八幡神社の旧本殿文化七年(1810)造営が遷されたもの

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

徳川入国以来 久我原は二分された時 馬込領鎮守となった久が原東部八幡神社

・久が原東部八幡神社(大田区久が原)

一緒に読む
久が原東部 八幡神社(大田区久が原)

久が原東部八幡神社(くがはらとうぶ はちまんじんじゃ)は 社記に天平神護元年(765)豊前 宇佐八幡宮より御分霊を勧請し 武蔵野の南端 久が原台地一番の高所に奉斎と伝えられ 江戸時代に 久が原が二分される時 馬込領 久が原村の鎮守とされ崇敬を受けてきました 延喜式内社 武蔵国 荏原郡 薭田神社(ひえたの かみのやしろ)の論社でもあります

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承

官社に列した 蒲田(カマタノ)が 薭田神社だとされています

【抜粋意訳】

 貞觀六年(八六四)八月十四日戊辰〉の条

○十四日戊辰
 

美作國 從四位下 仲山(チウサンノ)大神

武藏國 從五位下 蒲田(カマタノ)を 官社

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=画像利用

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)武蔵国 44座(大2座・小42座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)荏原郡 2座(並小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 薭田神社
[ふ り が な ]ひえたの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Hieta no kamino yashiro)

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

延喜式内社 武蔵国 荏原郡 薭田神社(ひえたの かみのやしろ)の論社について

・薭田神社(大田区蒲田)

一緒に読む
薭田神社(大田区蒲田)

薭田神社(ひえだじんじゃ)は 社伝によると和銅2年(709)僧行基が天照・八幡・春日の三体神を造り本社に安置し その後 弘安5年(1282)この三体は日蓮によって開眼されたと伝わっています 『延喜式神名帳927 AD.』所載 武蔵国 荏原郡 薭田神社(ひえたの かみのやしろ)の論社とされています

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・御田八幡神社(港区三田)

一緒に読む
御田八幡神社(港区三田)

御田八幡神社(みたはちまんじんじゃ)は 社伝によれば 和銅二年(709)東国鎮護の神として 白金三田 界隈に鎮祀 その後 1011年〈三田八幡宮 古跡石碑〉に遷座し 寛永五年(1628)現在地に鎮座したとあり 古くは稗田神社とも云われたと伝わり 延喜式内社 武蔵国 荏原郡 薭田神社(ひえたの かみのやしろ)の論社となっています

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・三田八幡宮 古跡石碑(港区三田)

一緒に読む
三田八幡宮 古跡石碑(港区三田)

三田八幡宮 古跡石碑(みたはちまんじんじゃ こせき)は 御田八幡神社の旧鎮座地です 社伝によれば 和銅二年(709)東国鎮護の神として 白金三田 界隈に鎮祀 その後 1011年 窪三田に遷座〈三田八幡宮 古跡石碑〉 寛永五年(1628)現在地〈御田八幡神社(港区三田)〉に鎮座したとあります

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・六郷神社(大田区東六郷)

一緒に読む
六郷神社(大田区東六郷)

六郷神社(ろくごうじんじゃ)は 源頼朝公・徳川家康公も崇敬した神社で 古くから 延喜式内社 武蔵国 荏原郡 薭田神社(ひえたの かみのやしろ)の論社とする説があります しかし社伝には 天喜五年(1057)源頼義・義家が武運長久を祈願し勝利を収めて創建したとあり 当社も式内社を主張していません

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・鵜ノ木八幡神社(大田区南久が原)

一緒に読む
鵜ノ木八幡神社(大田区南久が原)

鵜ノ木八幡神社(うのきはちまんじんじゃ)は 社伝に 延徳元年(1489)天明伊賀守光信の子 五郎右衛門光虎が 下野国〈栃木県〉より当地に移った際に 一族の守護神として八幡大神をおまつりした とあるが 延喜式内社 武蔵国 荏原郡 薭田神社(ひえたの かみのやしろ)の論社ともなっています

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・久が原東部八幡神社(大田区久が原)

一緒に読む
久が原東部 八幡神社(大田区久が原)

久が原東部八幡神社(くがはらとうぶ はちまんじんじゃ)は 社記に天平神護元年(765)豊前 宇佐八幡宮より御分霊を勧請し 武蔵野の南端 久が原台地一番の高所に奉斎と伝えられ 江戸時代に 久が原が二分される時 馬込領 久が原村の鎮守とされ崇敬を受けてきました 延喜式内社 武蔵国 荏原郡 薭田神社(ひえたの かみのやしろ)の論社でもあります

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・久が原西部八幡神社(大田区久が原) 

一緒に読む
久が原西部八幡神社(大田区久が原)

久が原西部八幡神社(くがはらにしのはちまんじんじゃ)は  社記には 天平神護元年(765)豊前の宇佐八幡宮より御分霊を勧請 武蔵野の南端 久が原台地一番の高所に奉斎されたと伝えられ 久が原が二分される時 六郷領 久が原村の鎮守とされた 延喜式内社 武蔵国 荏原郡 薭田神社(ひえたの かみのやしろ)の論社でもあります

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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

久が原東部八幡神社(大田区久が原)から北西へ約350m 徒歩4分程度

鎮座地の久が原は 呑川(のみかわ)の右岸に形成された台地で 石器時代縄文・弥生遺跡が点在しています 町名は「空閑(くが)地」or「久しい野原(永遠野原)」など由来と云われます 大田区でも・田園調布山王と並ぶ高級住宅地です

境内には 久が原西部八幡児童公園があり 社殿境内は東向き

久が原西部八幡神社(大田区久が原)に参着

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社号標には 久が原西部 八幡神社 と刻字があります

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石段を上がり 扁額に 八幡神社とある鳥居に一礼をして 境内へと進みます

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鳥居の先にも 僅かに石段があり 上がりきると 右手に手水舎 正面に社殿が建ちます

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拝殿にすすみます

賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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社殿は 文化七年(1810)造営の旧社殿が老朽化につき 昭和五十四年(1979)に再建された コンクリート造の社殿ですが 朱色も鮮やかな立派なものです

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かつての本殿は 現在の本殿の向かって右 境内社 稲荷神社の社殿となっています

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境内を出て 北に進むと50m程で 久が原出世観音 の入口があります
とても落ち着いたお堂です

東京・築地にある高級料亭「新喜楽」の初代女将伊藤きんさん という花柳界出身の女性が お堂を建立したとされます

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神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『新編武蔵風土記稿(Shimpen Musashi fudokiko)』文政13年(1830)完成 に記される伝承

久ヶ原村は 徳川氏が入国してから 東側の馬込領西側の六郷領二分され 各々に八幡神社分かれました

【抜粋意訳】

巻之三十九 荏原郡 巻之六 六郷領 久ヶ原村

久ヶ原村は 郡の中ほどにあり 正保 及 元禄年中 改定の國圖共に村名の字をしるせり 今の字かきかへしは 何の頃よりにや定かならず 又 同じ圖をみるに 其の頃すでに馬込領  六郷二村分ち記したれど 古は一村なりしなと土人の傳へあり もとより地形も接したればさもありしならん 当村は六郷領なり・・・・・・

八幡社

除地六畝二八歩 村の中央にあり
本社二間四方 拝殿二間に二間半 前に鳥居あり 両柱の間一丈 村の鎮守
祭礼 九月十四日十五日両日なり 社地の外八幡免とて畑二段八歩
小名南台にあり 安詳寺持
稲荷社 本社に向ひて右にあり

巻之三十九 荏原郡 巻之七 馬込領 久ヶ原村

久ヶ原村は 六郷久ヶ原村にせし如く そのあひ接したれば 昔は一村なりしにやとおもはる されど正保の頃 改定の國圖及び 其の頃田園簿には はや各村別に記せり
土人の傳へに 古は当村を今里村と号せしといへり もし然らんには一旦故ありて六郷領の久ヶ原村とあわせて一村とせしならん されど領名の異なるはもとより別村なれば 古は属する所の郷庄ともに同じからず 後の世は その郷庄の唱へも 失ひしかと・・・・・

本光寺
除地五段六畝二十二歩 小名家村にあり 法華宗池上本門寺末 法壽山と號す 開山十乗院日能上人慶長十四年二月十四日寂す 本堂六間半に九間半 本尊三寶祖師を安ず 門内東に向ふ 門内に石階十一級あり
子安七面堂 本堂の北の方にあり 九尺四面 この七面は傳教大師の作にして 身延山に安置する所の像と同體なりといふ 前に鳥居をたつ 又その前に石階二十一級あり

八幡社

七面堂の南の方山上にあり 二間に三間 身體は長七寸許の木像甲冑を帯して坐せる状なり 村の鎮守なり 勧請の年代を傳へず 社前に石の鳥居及石階七級あり

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『新編武蔵風土記稿』 著者:間宮士信[数量]265巻80冊[書誌事項]活版 ,明治17年 , 内務省地理局[旧蔵者]太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002820&ID=M2017051812110439332&TYPE=&NO=

国立公文書館デジタルアーカイブス『新編武蔵風土記稿』 著者:間宮士信[数量]265巻80冊[書誌事項]活版 ,明治17年 , 内務省地理局[旧蔵者]太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002820&ID=M2017051812110439332&TYPE=&NO=

国立公文書館デジタルアーカイブス『新編武蔵風土記稿』 著者:間宮士信[数量]265巻80冊[書誌事項]活版 ,明治17年 , 内務省地理局[旧蔵者]太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002820&ID=M2017051812110439332&TYPE=&NO=

国立公文書館デジタルアーカイブス『新編武蔵風土記稿』 著者:間宮士信[数量]265巻80冊[書誌事項]活版 ,明治17年 , 内務省地理局[旧蔵者]太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002820&ID=M2017051812110439332&TYPE=&NO=

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 薭田神社の所在について 蒲田村〈現 薭田神社(大田区蒲田)〉として 他に江戸三田小山 薭田八幡宮〈現 御田八幡神社(港区三田)〉との説も挙げています

【抜粋意訳】

薭田神社

薭田は 比恵多と訓べし、

祭神詳ならず
蒲田村に在す

又云、江戸三田小山 薭田八幡宮

〇惣國風土記七十七残岟云、蒲田郷云々、薭田神社、圭田六十二束、所祭園韓神、少彦名命也、依 雄略天皇十一年之勅、而始行 神體有 神家巫戸 祈病災莫不験、祈田毛莫不寶」
又同一本云、御田郷云々 稗田八幡、圭田五十八束三字田、所祭応神天皇也、武内宿禰、葛木襲津彦等也、和銅2年己酉8月15日、始行神礼、有神戸巫戸等」

按るに、当社は蒲田神社にして、三田なる薭田八幡宮は、別社なるべきか、考ふべし、

官社
貞觀六年(八六四)八月十四日戊辰〉、詔以武藏國 從五位下 蒲田(カマタノ)を 官社

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 薭田神社の名称について 薭は蒲の誤りと記して 蒲田(カマタノ)神社としています
所在については 蒲田村の東大森村〈現 薭田神社(大田区蒲田)〉と記しています

【抜粋意訳】

蒲田(カマタノ)神社

〇按本書、蒲を薭に作る「恐らくは、誤れり、今 三代実録、倭名鈔に據て之を訂す、」

今 蒲田村の東大森村にあり、
清和天皇 貞觀六年(八六四)八月十四日戊辰〉、詔以武藏國 從五位下 蒲田(カマタノ)を 官社に 三代実録

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神祇志料』https://dl.ndl.go.jp/pid/815490著者 栗田寛 著 出版者 温故堂 出版年月日 明治9[1876]

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 薭田神社の所在について 北蒲田村〈現 薭田神社(大田区蒲田)〉として 薭田は蒲田の訛であろうと推論しています

【抜粋意訳】

薭田神社

祭神
今按〈今考えるに〉
社伝 祭神 経津主命 武内宿禰 應神天皇 荒木田襲津彦とあるは 惣國風土記 荏原郡 薭田八幡云々 所祭 應神天皇也 武内宿禰 荒木田襲津彦等也とみえたるに據れるものなれば信じがたし 此祭神も八幡と云よりの説なるべく 荒木田は葛木の誤なるべし 又按 薭田 諸本にヒエタとありされど 惣國風土記に蒲田郡 蒲田神社とみえ 和名鈔に蒲田郷あり 三代実録に蒲田神と記し 今所在の地名も蒲田村なるを思ふに 薭田は蒲田の訛なること著し 姑附て後考に備ふ

官社
貞觀六年(八六四)八月十四日戊辰〉、詔以武藏國 從五位下 蒲田(カマタノ)を 官社

祭日 一月八月 十五日
社格 郷社
所在 北蒲田村(荏原郡蒲田村大字北蒲田)

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155

久が原西部八幡神社(大田区久が原)に (hai)」(90度のお辞儀)

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武蔵国 式内社 44座(大2座・小42座)について に戻る       

一緒に読む
武蔵國 式内社 44座(大2座・小42座)について

武蔵国(むさしのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 武蔵国には 44座(大2座・小42座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています

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  • B!

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行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

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對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています