実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

船江上社(伊勢市船江)

船江上社(ふなえかみのやしろ)は 延喜式内社 伊勢國 度會郡 川原淵神社(かはらふちの かみのやしろ)の旧跡地であったとする説を度会延賢〈享保3年(1718)『二十二社参詣記』著者の渡会延賢〉が唱え 以来これが通説となり 明治111878当社域内に外宮摂社 河原淵神社が遷座されてきました

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

船江上社(Funaekami no yashiro

通称名(Common name)

【鎮座地 (Location) 

三重県伊勢市船江1丁目10-140

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

本殿《主祭神》

澤姫神(さわひめのかみ)

西殿合祀神

〈箕曲氏社(船江町字天神濱)〉
天牟羅雲命(あめのむらくものみこと)

東殿《合祀神》

〈檜尻社(船江町檜尻)〉
川神(かわのかみ)
〈志賀井社(船江上社境内)〉
八幡大神(はちまんのおほかみ)〈宇佐神宮から勧請とも 不祥の一座とも〉
気長足姫命〈神功皇后〉・綿津見神(わたつみのかみ)〈小社二宇1882年合祀
川神・宇迦之御魂神・秋葉神・菅原道真公1922年合祀
菅原社(船江町字天路)〉
菅原道真公(すがわらのみちざねこう)

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【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

〈合祀 檜尻社(船江町檜尻)
・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

船江上社ふなえかみのやしろ

所 在  伊勢市船江一丁目十番地一四〇号

主祭神  澤姫神(さわひめのかみ)
     天牟羅雲(あまのむらくもの)命(西殿)・八幡大神(東殿)などを合祀

例 祭  九月十五日
特殊神事 三月一日神事

 当社地は、むかし、外宮摂社 河原淵神社の社地であったとされています。
 戦国時代、荒れるにまかせたその宮跡に、付近の住民が自分達の産土神をまつったようです。祭神は古来 八幡神など称していましたが、大正二年、その河原淵神社の祭神 澤姫神を当社の主祭神ときめました。

 なお、社名は、むかし船江の上下の二村あり、当社が上船江に位置し、この地の産土社であることをあらわしています。

 また神社の前の池は朧ヶ池といい、かつて宮川の分流がここを通って勢田川にそそいでいた名残です。
 どんな日照りでも、乾れることがないといわれています。

現地案内板より

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【由  (History)】

『神宮摂末社巡拝 下』に記される内容

【抜粋意訳】

船江上社(ふなえかみのやしろ)

金剛藪を出て少し行くと、八間道路の左手に見える大きな社叢が、船江(ふなえ)町の産土神である。村社 船江上社(ふなえかみのやしろ)である。
船江といふ名は宮川の流れが昔し、この邊りを流てゐた頃の船着揚であつたことを示すもので、同神社の前にるあ
朧ヶ池(おぼろがいけ)と呼ぶ細長い池は、當時の宮川の名残りを示してゐるものである。
御祭神は水の守り神として、澤姫神(さはひめのかみ)を御祭り申し上けてゐる。
境内社に箕曲氏社神(みのうぢのやしろ)あり。箕曲氏の祖神 天牟羅雲命をってゐる

【原文参照】

猿田彦神社講本部 [編]『神宮摂末社巡拝』下,猿田彦神社講本部,昭和18. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1033626

由緒

当社は古来、現在地に鎮座して、船江上社と称した。
明治12年の『神社明細帳』に「旧昔、船江に上下の2村あり、本社は上船江の産神たる故に上社と称す。土俗八幡宮とも称すれど、豊前宇佐の宮を勧請せる社にてはなく、長徳検録に載せられたる田社33前の内、法道社、又御竃木帳に宝答社と記されたる、外宮所攝の社の遺存なりと、古老の説なり。鎮祭始め年月は不詳。」とある。
しかし、度会延賢が、当社を下宮摂社 河原淵神社の原地であるという説を出して以来、これが通説となり、維新後、神宮による考證の上、明治11年12月、当社域内の今のに河原淵神社が移動された。
また当社の祭神は、古来、八幡神或は不詳とされてきたが、大正2年8月、其の河原淵神社の本地であることから、その祭神である澤姫神を以て、当社の祭神と決定するに至ったのである。
合祀神については、年月不詳であるが、新開御薗の辺に鎮座した志賀井社他2社(八幡大神、気長足姫命、神名不詳一座)、明治維新後、船江町北檜尼鎮座の檜後社(神名不詳一座)、明治9年9月に同町字流江鎮座の箕曲氏社(天牟羅雲命)、同41年3月25日に、同町字天路248鎮座の無格社菅原社(菅原道真公)、菅原社境内社の稲荷社(宇賀之魂と秋葉社火産靈神)の各社を合祀し、今日に至っている。
なお、現在、中央本殿、左に西殿、右に東殿があり、本殿に澤姫命、西殿に天牟羅雲命、東殿に菅公以下の諸神をお祀りしている。

※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照項目あり

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

・社殿

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・河原淵神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉

一緒に読む
河原淵神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉

河原淵神社(かわらぶちじんじゃ) 〈豊受大神宮(外宮)摂社〉は 延喜式内社 伊勢國 度會郡 川原淵神社(かはらふちの かみのやしろ)に比定される古社です 中世に社地が湮滅し 寛文三年(1663)船江町檜尻(ひのきじり)の檜尻社の境内に再興されました この檜尻社が 式内社 川原大社(かはらの おほやしろ)の論社になっています 明治十一年(1878)現社地に遷座しました

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・招福楠

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招福楠

 この御神木は樹齢約七百年、樹高三十米余り周囲九.五米で招福楠として町民の信仰の甘象として知られている。

寛文三年 (一六六三年 )摂社 河原渕神社再興の時 官許を受けて神木とした。
神皇正応紀(北畠親房)を発表した延元四年(一三三九年)頃に伊勢信仰の隆盛により聖域を流れる川のほとりに植樹したものであろうと推定される。
船江上社

案内板より

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・朧ヶ池(おぼろがいけ)

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おぼろヶ池の龍とは

 古来より、雲を起こし雨を降らせ水に潜って天に昇っていく、
この地の大切な神とされてきました。現在でも龍を神とする根強い信仰が各地にあり、農作物に天からの恵みの雨を降らせてくれる龍神様として祀られています。

 当社境内に龍姫命としてお祀りしており「龍形九似」として扱われてきました。「龍形九似」とは龍の各体の部位が九つの動物に似ていると言うことからきています。

頭-駝に似る 角-鹿に似る 眼-鬼に似る 耳-牛に似る

項-蛇に似る 腹-鮫に似る 爪-鷹に似る 掌-虎に似る
平成二十四年十二月吉日

現地案内板より

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・龍姫命

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・吉王稲荷神社《主》宇加之魂神,祭神不詳二座

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・秋葉神社

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・大山祇神

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・菅公御袖石

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・大石神

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・浅間神社

・橿原神宮遥拝所

・御祓所

神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式Engishiki)』巻4神祇四 伊勢太神宮

「巻四 神祇四 伊勢太神宮」には 伊勢大神宮式が述べられています
この式は 伊勢大神宮および豊受大神宮に関する諸規定を集めたもので 伊勢大神宮に属する三箇神郡 (度会・多気・飯野郡)に関する規定含まれ 年中の儀式とその祭料が記されています

゛神宮の諸社が 祈年 神嘗祭並預゛と記されます

【抜粋意訳】

伊勢太神宮

太神宮三座。【在度會郡宇治鄉五十鈴河上。】
天照太神一座
相殿神二座
禰宜一人,從七位官。大內人四人,物忌九人。【童男一人,童女八人。】父九人,小內人九人。

荒祭宮一座。【太神荒魂,去太神宮北二十四丈。】
內人二人,物忌、父各一人。
右二宮,祈年、月次、神嘗、神衣等祭供之。

伊佐奈岐宮二座。【去太神宮北三里。】
伊弉諾尊一座
伊弉冊尊一座

月讀宮二座。【去太神宮北三里。】
月夜見命一座
荒魂命一座

瀧原宮一座。【太神遙宮。在伊勢與志摩境山中。去太神宮西九十餘里。】

瀧原並宮一座。【太神遙宮。在瀧原宮地內。】

伊雜宮一座。【太神遙宮。在志摩國答志郡。去太神宮南八十三里。】
右諸別宮,祈年、月次、神嘗等祭供之,就中瀧原並宮。伊雜宮不預月次,其宮別各內人二人。【其一人用八位已上,并蔭子孫。】物忌、父各一人,但月讀宮加御巫、內人一人。

度會宮四座。【在度會郡沼木鄉山田原,去太神宮西七里。】
豐受太神一座
相殿神三座
禰宜一人,【從八位官。】大內人四人,物忌六人,父六人,小內人八人。

多賀宮一座。【豐受太神荒魂,去神宮南六十丈。】
內人二人,物忌、父各一人。
右二宮,祈年、月次、神嘗等祭供之。
凡二所太神宮禰宜、大小內人、物忌,諸別宮內人、物忌等,並任度會郡人。【但伊雜宮內人二人、物忌、父等,任志摩國神戶人。】

諸社卌座

太神宮所攝廿四座
朝熊社 園相社 鴨社 田乃家社 蚊野社 湯田社 大土御祖社 國津御祖社 朽羅社 伊佐奈彌社 津長社 大水社
久具都比賣社 奈良波良社 榛原社 御船社 坂手國生社 狹田國生社 多岐原社 川原社 大國玉比賣社 江神社 神前社 粟皇子社

度會宮所攝十六座
月夜見社 草名伎社 大間國生社 度會國御神社 度會大國玉比賣社 田上大水社 志等美社 大川內社 清野井庭社 高河原社 河原大社 河原淵社 山末社 宇須乃野社 小俣社 御食社

右諸社,並預祈年、神嘗祭

以下略

【原文参照】
国立公文書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1273518/1/70

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢国 253座(大18座・小235座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)度會郡 58座(大14座・小34座)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 川原淵神社
[ふ り が な ]かはらふちの かみのやしろ
[Old Shrine name]Kaharafuchi no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

延喜式内社 伊勢國 度會郡 川原淵神社(貞)(かはらふちの かみのやしろ)の旧跡地について

『神宮要綱〈昭和3年1928)〉』に記される内容

川原淵神社〈豊受大神宮(宮)摂社の旧鎮座地について
三つの説を紹介しています

①寛文三年再興檜木尻の社川原淵神社〈豊受大神宮(宮)摂社〉の現社地
今本社に接して村社 船江上社あり船江上社(伊勢市船江)
神社町大字小木(コギ)の曾禰社曽禰社(伊勢市小木)を合祀箕曲神社(伊勢市小木町)

【抜粋意訳】

攝社末社所管社 河原淵神社

鎭座地 宇治山田市大字船江町

殿舎
正  殿 神明造、板葺、南面・・・壹宇
玉垣御門 猿頭門、扉付・・・壹間
玉  垣 連子板打・・・壹重
鳥  居 神明造・・・壹其
右神宮司廰造替

河原淵(カハラブチ)神社は 延喜大神宮式及び神名式にも見えたり。神名祕書及び社記に、祭神 澤姫(サハヒメ)神 箕曲郷勾村 河原社の南字鹽坪の向に坐せりとなす。
中世以來社地湮滅して明かならず。
寬文三年 大中臣精長 之を宇治山田市の北部檜尻の地に再興したるも、固より正確なる根據ありてのことにあらず。
而も其の地 河涯にあり、洪水の患あるを以て、明治十一年十二月之を現地に移し奉る。
今本社に接して村社 船江上社あり、前に潴水あり、朧ケ池(オボロガイケ)と云ふ。依て両宮攝社参詣記には、本社の位置を此の處に擬す。
二宮管社沿革考には之を排して、神社町大字小木(コギ)の曾禰社を以て本社の舊跡と爲せり。

【原文参照】

神宮司庁 編『神宮要綱』,神宮司庁,昭和3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1189814

神宮司庁 編『神宮要綱』,神宮司庁,昭和3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1189814

延喜式内社 伊勢國 度會郡 川原淵神社(貞)(かはらふちの かみのやしろ)の論社について

・河原淵神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉

一緒に読む
河原淵神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉

河原淵神社(かわらぶちじんじゃ) 〈豊受大神宮(外宮)摂社〉は 延喜式内社 伊勢國 度會郡 川原淵神社(かはらふちの かみのやしろ)に比定される古社です 中世に社地が湮滅し 寛文三年(1663)船江町檜尻(ひのきじり)の檜尻社の境内に再興されました この檜尻社が 式内社 川原大社(かはらの おほやしろ)の論社になっています 明治十一年(1878)現社地に遷座しました

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・船江上社(伊勢市船江)
〈河原淵神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉の旧社地〉

一緒に読む
船江上社(伊勢市船江)

船江上社(ふなえかみのやしろ)は 延喜式内社 伊勢國 度會郡 川原淵神社(かはらふちの かみのやしろ)の旧跡地であったとする説を度会延賢〈享保3年(1718)『二十二社参詣記』著者の渡会延賢〉が唱え 以来これが通説となり 明治11年(1878)当社域内に外宮摂社 河原淵神社が遷座されてきました

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・箕曲神社(伊勢市小木町)
〈式内社・川原淵神社の旧地に在った曽禰社(伊勢市小木)を合祀〉

一緒に読む
箕曲神社(伊勢市小木町)

箕曲神社(みのわじんじゃ)は 明治39年 3社を合祀〈小木社・曽祢社・今田社〉明治41~42年〈大口神社・日和神社・馬瀬神社〉を移遷合祀 新たな神社名を箕曲神社と称したものです 昭和時代に大口神社・日和神社の2社は旧鎮座地に分祀遷座しました 合祀の曽祢社は 延喜式内社 伊勢國 度會郡 川原淵神社(かはらふちの かみのやしろ)の論社となっています

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現在の大津神社〈豊受大神宮(宮)末社〉は 仮の鎮座地で 旧鎮座地の候補地については諸説があります

現在の大津神社(おおつじんじゃ)は 明治六年(1873)現在地〈外宮宮域内〉に新たに社殿を設け再興されました
その際 旧鎮座地を搜索しましたが ゛雖も猶明かならざるを以て そのままゝ今日に至れり゛とあり 旧鎮座地は 不明のまま 現在に至っています

・大津神社〈豊受大神宮(外宮)末社〉《主》葦原神(あしはらのかみ)

一緒に読む
大津神社〈豊受大神宮(外宮)末社〉

大津神社(おおつじんじゃ)〈豊受大神宮(外宮)末社〉は 明治六年(1873)現在地〈外宮宮域内〉に新たに社殿を設け再興されました その際 旧鎮座地を搜索しましたが ゛雖も猶明かならざるを以て そのままゝ今日に至れり゛とあり 旧鎮座地は不明のまま 現在に至っています

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『神宮要綱〈昭和3年1928)〉』にある 大津神社旧鎮座地の候補地

長徳檢錄に所謂大水社は、蓋し本社なるべし。社地滅して明かなら
一説 神社町(かみやしろまち)大字竹鼻にあり或は同町阿竹(アタケ)の箕曲氏社(ミノウヂヤシロ)を以て之に擬す。共に明據無し。゛とあり

長徳檢錄に所謂大水社の説は 大水神社(伊勢市御薗町長屋)か?

大水神社(伊勢市御薗町長屋)

神社町大字竹鼻の説は 大口神社(伊勢市竹ケ鼻町)か?

大口神社は〈式内社の論社 川原大神社の旧鎮座に祀られていた祠(水饗社)を合祀〉 式内社 川原大社(かはらの おほやしろ)の論社です

・大口神社(伊勢市竹ケ鼻町)

一緒に読む
大口神社(伊勢市竹ケ鼻町)

大口神社(おおくちじんじゃ)は 明応7年(1498)大地震の津波のために流出した式内社〈往古 水郷の守り神として 勾村字 三津社に河原大社・水饗社・河原饗社という三社の水神あり〉この内 水饗社を竹ヶ鼻に遷座させた小祠の後継神社です 延喜式内社 伊勢國 度會郡 川原大社(かはらの おほやしろ)の論社とされます

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神社町阿竹(アタケ)の箕曲氏社(ミノウヂヤシロ)の説は
箕曲氏社を合祀した船江上社 ? 曽祢社を合祀した箕曲神社(伊勢市小木町)か?

・船江上社(伊勢市船江)
〈河原淵神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉の旧社地〉箕曲氏社を合祀

一緒に読む
船江上社(伊勢市船江)

船江上社(ふなえかみのやしろ)は 延喜式内社 伊勢國 度會郡 川原淵神社(かはらふちの かみのやしろ)の旧跡地であったとする説を度会延賢〈享保3年(1718)『二十二社参詣記』著者の渡会延賢〉が唱え 以来これが通説となり 明治11年(1878)当社域内に外宮摂社 河原淵神社が遷座されてきました

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・箕曲神社(伊勢市小木町)
箕曲神社は 〈式内社・川原淵神社の旧地に在った曽禰社(伊勢市小木)を合祀式内社 川原淵神社(貞)(かはらふちの かみのやしろ)の論社です

一緒に読む
箕曲神社(伊勢市小木町)

箕曲神社(みのわじんじゃ)は 明治39年 3社を合祀〈小木社・曽祢社・今田社〉明治41~42年〈大口神社・日和神社・馬瀬神社〉を移遷合祀 新たな神社名を箕曲神社と称したものです 昭和時代に大口神社・日和神社の2社は旧鎮座地に分祀遷座しました 合祀の曽祢社は 延喜式内社 伊勢國 度會郡 川原淵神社(かはらふちの かみのやしろ)の論社となっています

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『大神宮叢書 前篇1932年』にある 大津神社の旧鎮座地の候補地

今按に、大津といふは舟の泊る所をいへば、海邊なることしし。是によりて考ふるに、今の神社 一色村などをいにしへ大津村とはいはざりしか。
此里は大湊の南方にて、舟のはつべう海邊なるを、神といふ名古く見えざれば疑はし。神社といふは此神社の域なる故な。上いへる水戸御食都神社は神名秘書、大口村に在今の神社村なりとれど、其條に論ふ如く、水の字神社村に似しから。今の湊地に叶ひ、神社村は大津と云に似つかはしれば、くさぐさ云試むるなり。又大口村と云も大津の誤なるか゛とあります

水戸御食都神社大口村大口村と云も大津の誤なるかの説は 御食神社(伊勢市神社港)か?

御食神社は 式内社 御食神社(みけの かみのやしろ)の論社です

・御食神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉

一緒に読む
御食神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉

御食神社(みけじんじゃ) 〈豊受大神宮(外宮)摂社〉は 『倭姫命世紀』には 倭姫命が皇大神宮御遷幸の時 鷲取老翁(わしとりのをきな)が清水を奉り その功績を賞し 水饗社(みけのやしろ)を定めたと起源を傳えている 中世に廃絶しますが 寛文3年(1663)現社地で再興されました 延喜式内社 伊勢國 度會郡 御食神社(みけの かみのやしろ)とされます

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候補地に挙げられている
※神社町(かみやしろまち)は 三重県度会郡にあった町 現在の伊勢市北部域 旧神領で町の中心地・神社港(かみやしろこう)は宇治・山田の外港として発達していました

【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

JR参宮線 近鉄 伊勢市駅から県道201号経由で北上 約1.1km 車5分程度

船江上社(伊勢市船江)に参着

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一礼をして鳥居をくぐると 左手〈南側〉は 龍神の居す池と云われる゛おぼろヶ池゛があり この淵に沿って 南向きに社域があります

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一番手前〈東側〉が
・河原淵神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉

一緒に読む
河原淵神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉

河原淵神社(かわらぶちじんじゃ) 〈豊受大神宮(外宮)摂社〉は 延喜式内社 伊勢國 度會郡 川原淵神社(かはらふちの かみのやしろ)に比定される古社です 中世に社地が湮滅し 寛文三年(1663)船江町檜尻(ひのきじり)の檜尻社の境内に再興されました この檜尻社が 式内社 川原大社(かはらの おほやしろ)の論社になっています 明治十一年(1878)現社地に遷座しました

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その奥〈西側〉には 船江上社 その奥に吉王稲荷神社が祀られています

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手水舎は 船江上社と吉王稲荷神社の間の゛おぼろヶ池゛淵の参道に在ります

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拝殿にすすみます

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社殿は 南向き 奥には本殿 東殿 西殿の三殿が祀られています

賽銭を納め お祈りをしま
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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社殿に一礼をして 振り返ると゛おぼろヶ池゛の淵となっていて
河原淵神社の旧跡地であると云われるのがわかります

船江といふ名は 宮川の流れが昔し、この邊りを流てゐた頃の船着揚であつたことを示すもので、同神社の前にるあ朧ヶ池(おぼろがいけ)と呼ぶ細長い池は、當時の宮川の名残りを示してゐるものである

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神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 川原淵神社について 所在は今俗云 に在す〈現 河原淵神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉〉と記しています

【抜粋意訳】

川原淵神社

川原は前に同じ、淵は不知と訓べし、

○祭神 澤女神、神名秘書

〇箕輪郷勾村川原社南塩坪向 今俗云 に在す、神名略記

〇式四、伊勢大神宮 度會宮所摂十六座の第十二に載す、

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 川原淵神社について 所在は箕曲郷勾村 川原大社の南檜尻にあり〈現 河原淵神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉〉と記しています

【抜粋意訳】

川原淵(カハラノフチノ)神社

今 箕曲郷勾村 川原大社の南檜尻にあり、神祇本源、神名秘書、神境紀談、神名略記、

醍醐天皇 延喜の制、祈年神嘗祭に預る、延喜式

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第1巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815490

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 川原淵神社について 所在は船江町檜尻〈現 河原淵神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉〉と記しています

その旧跡については 小木村地方にある曾禰社〈現 曾禰社を合祀した箕曲神社(伊勢市小木町)〉と記しています

【抜粋意訳】

川原淵神社

祭神
祭日 六月九月十二月並十八日

社格 外宮所攝十五所之一 (外宮摂社)

所在 三重縣箕曲郷船江町檜尻 (宇治山田市大字船江町 )

今按るに檢録に今の地は元檜尻社と稲する小祠の在たる域内へ造立 りたるな り舊社は小木村地方にある曾禰社ならむ 其社の西北の川を淵川といふと云へり

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,大正14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/971155

船江上社(伊勢市船江) (hai)」(90度のお辞儀)

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お伊勢さん125社について

一緒に読む
お伊勢さん125社について〈神宮は正式名称 伊勢神宮125社の総称〉

゛伊勢神宮〈お伊勢さん〉゛ その正式名称は 二文字゛神宮゛(かみのみや or じんぐう)で 125のお社の総称とされます〈内訳は゛正宮〈内宮・外宮〉2所・別宮(わけみや)14社・摂社(せっしゃ)109社・末社(まっしゃ)24社・所管社(しょかんしゃ)34社・別宮所管社8社゛〉

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一緒に読む
伊勢國 式内社 253座(大18座・小235座)について

伊勢国(いせのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 伊勢国の 253座(大18座・小235座)の神社のことです 伊勢国(いせのくに)の式内社 253座は 一つの国としては 日本全国で最多数です

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世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」のクライテリア(iii)として「古代から今日に至るまで山岳信仰の伝統を鼓舞し続けてきた 頂上への登拝と山麓の霊地への巡礼を通じて 巡礼者はそこを居処とする神仏の霊能を我が身に吹き込むことを願った」と記されます

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出雲國(izumo no kuni)は「神の國」であり 『出雲國風土記〈733年編纂〉』の各郡の条には「〇〇郡 神社」として 神祇官の所在する社〈官社〉と神祇官の不在の社を合計399社について 神社名の記載があります 『出雲國風土記 神名帳』の役割を果たしていて 当時の出雲國の神社の所在を伝えています

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大国主神(おほくにぬしのかみ)が 坐(ましま)す 古代出雲の神代の舞台へ行ってみたい 降積った時を振り払うように 神話をリアルに感じたい そんな私たちの願いは ”時の架け橋” があれば 叶うでしょう 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台は 現在の神社などに埋もれています それでは ご一緒に 神話を掘り起こしましょう

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出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷に於いて 出雲国造が 新たにその任に就いた時や 遷都など国家の慶事にあたって 朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

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出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉として 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

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宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

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行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

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對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています